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  恋なのか 作者:
思わぬ提案~男の場合~
 PM8:00。

 鈴木は強張った首をゆっくりと回し椅子に仰け反ると、背筋を伸ばした。
 
 その動きはまるで猫にも似ていて、猫のように自由気ままに生きたのならさぞかし仕事人間の自分は毎日が退屈だろう、なんておかしなことを考える。疲れているようだ。

 数日前コピーに追われ庶務課に血相を変えて飛び込む羽目になった突破口の全く見えないプロジェクトは、早い内に気持ちを切り替えられたおかげか、その凝り固まった概念を覆すことができた。
 あからさまな軽視の姿勢を崩さなかった取引先とも、書類の出来や予算、こちらの収益全て互いに納得の行く状態にまで持っていくことができたのは、殊更一杯の緑茶のお陰だ。
 やっと、というべきかとてつもなく長く感じたこの取引先とのプロジェクトも、成長の糧となるんだろうと心から思えた。
 プロジェクトが全て終了した暁には、これから恐らくは続くだろう営業課の人間としての自分の業績を評価する指標になって欲しい。それ程に成果は出たと、自信がある。

 長時間PCの画面を見続けたせいで目の奥に突き刺す痛みを感じ、鈴木はこれ以上書類を推考するのを諦め、椅子の背もたれに無造作に掛けたスーツのジャケットを手に取った。

 冬の寒空を駅まで歩かなくてはいけないことを考えて、鈴木は体を震わせると窓の外を見遣る。
 雪が降っているわけでもないのに、空は完全な闇ではなく微かに灰色がかって見えた。

 その視線の片隅に、窓際のコピー機がぽつりと見えた。
 カバーをかけられている新型のコピー機は、ただの機械だ。今まで使ったことも無かった時には、何も考えずに見過ごしていたものも、利用者がいるというだけで無機質だったコピー機が存在感を増した気がした。

 遥に、避けられている。

 休憩室で遥に感じた違和感も、次の日コピーに現れる庶務課の女性社員が春日のみであることで確信を持った。

 間違った、と思った。
 あの時、行く手を遮らなければ良かったのか。
 
 けれど、今更引く気はなかった。
 自分を全く知って貰うことなく、このまま終わらせる気はない。女性に苦労した経験が余り無かった鈴木の中に、妙な焦りが生まれる。

 押せば、引く。引けば、去る。じゃあ、どうしたらいい。
 営業で培ったどんなテクニックも、遥には通用しなそうな気がしていた。

 鈴木にしては珍しく小さく舌打ちをすると、紺色のコートを羽織り他に誰も残っていなかった営業課のドアを閉め鍵をかける。庶務課に誰か残っているのではという一縷の望みも、すっかり灯りの落ちた暗いドア向こうを見て断たれたと知った。

 一階に下りていたエレベーターが七階まで上がってくる間に、秘書課の桜坂との約束も破棄しなくてはと考える。
 万が一を想定して、彼女らの怒りの矛先が有らぬ場へと向かないように慎重に構える。八方美人だった今までの自分の性癖が、こんなにも煩わしく感じたのは正直初めてだった。

 乗ったエレベーターの箱は少し埃っぽく、鈴木は正面にある鏡を見て自分のやつれ具合に思わず噴き出す。人工的な蛍光灯の下だからと言い訳も考えるが、何のこと無い疲れているだけだった。
 こんな自分では、間違っても女性は振り返りはしないだろう、と思う。

 ブザーで一階に着いたことに気づき、ため息をつき一歩玄関ロビーに出る。
 これから寒風吹き荒ぶ外に出ると思うと気が重く、コートの内ポケットからタクシーチケットの感触を探る。
 
 ふと前を見て、鈴木は自分の目を疑った。

 遥がぎこちないとはいえ、警備員室の前で微笑んでいる。
 警備員の大きな笑い声がロビーに響く、遥が何か話しながら警備室の小窓に手を掛けた。

 疲れているせいで、感情のセーブが効かない。

 今まで関わった覚えもないのに何故か日頃警備員に敵意を向けられていた鈴木だったが、鈴木は寧ろ仕事の面において几帳面な男であると評価している。
 比較的街路樹の多い道路に面した会社には落ち葉などが玄関ロビーに入り込む事が多いのだが、清掃は警備の範疇ではないのに彼が担当の時のロビーには落ち葉などを見かける事はまず無かった。

 しかし、そんな些細な感情は吹き飛んだ。

「警備員さん、御苦労様です」

 通常、目上から使うべき台詞をわざと使ったのは少し当てつけもあった。
 気づかれると男らしくないと思われそうだったが、警備員に理解されようとも理解できなかったとしても構わなかった。

 遥の体が飛び上がる。

 そうか、ここまでか。そう思い知らされた。
 もう無理だろうか、ぎしりと奥歯の擦れる音が頭に響く。

「片岡さんも、お疲れ様」
「……はい、鈴木主任もお疲れ様です」

 助かったというべきか、彼女は自分のそんな狭量さに気付かなかったようで振り返り警戒しつつも素直に返してきた。
 瞳に怯えた色は微かに見えるものの、心配そうに鈴木を覗き込む遥の表情を見て鈴木はそんなはずはないのに期待する自分に気づく。

 「お疲れ様……です」

 どうやら意味に気付いたようで、警備員は形式通りの挨拶を不機嫌そうに鈴木に返した。その不機嫌そうな表情にもかかわらず遥の手前挨拶をしなくてはいけない、ということか。
 自尊心はあるようだ。胸の奥に熱い何かが焦げる。

 譲るものか、そう思った。

「あの、失礼します」
「片岡さん」

 遠慮がちにこの場から逃げようとした遥の進路を阻むように鈴木は立ち、少し硬い声で遥を呼んだ。
 怖がらせるかもしれない、一瞬思ったが立ち止る遥を見てそんな意識も吹っ飛んだ。

「はい、何でしょうか」
「俺も今、帰りなんだ。夜道は危ないから、途中まで一緒に帰ろう」

 遥が返事を返す少し長い沈黙の間、鈴木は警備員を無表情で見つめていた。

 小さく頷いた遥に、疲れて最悪の状態でも褒めてやりたいくらい爽やかなほほ笑みを浮かべることができた。
 この場で、遥をかっ去られることだけは、どうしても我慢できなかった。

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