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  恋なのか 作者:
理想と現実~女の場合~
「さ、入って入って」

 鈴木に促され、1歩足を踏み入れた芯谷商事女性社員憬れの“聖地”営業部の第一印象は、汚い、だった。
 そして何故か、臭い。
 香水とは全くかけ離れた臭いに思わず、足を踏み入れるのを躊躇してしまいそうになった。

 遥は、仕事である経理課の紙束と営業部の紙束を鼻の上まで持ち上げた。
 臭いは全く変わらないが、気分の問題だ。

 鈴木とか云うごく一般的な名前でも非平凡な容姿をした営業部の男性社員は、遥のそんな行動に少し戸惑った笑みを浮かべる。

「あのさ、ほら。営業部って期待するかもしれないけど、ウチの会社ってここは主に男所帯だから」
 言い訳を聞き流し、足元に落ちている水着姿の雑誌(営業で使うかは疑問)やコーヒーの空き缶をなるべく避け、窓際に鎮座した何故かカバーをしたままのコピー機に近づく。

 時計は10:45

 宝の持ち腐れ。その言葉がよぎった。
 埃の被った最新機器のコピー機は明らかに1度も使用されておらず、かけられたカバーには触れると触れたままの指の跡が残る。
 かなり厚く埃が積もっているようだった。

「皆、営業先でコピーなんかはとるからさ。使えるからね、俺は使ったこと無いけど」

 ビニールに包まれたままの説明書を遥に手渡しながら悪戯っぽくウインクをしてのけた鈴木を見て、ドラマにでも出てきそうな人だなと遥は表情には出さないものの少し感心していた。

 だがその感心も仕事の量になりを潜め、遥は埃がたくさん積もっていたことを忘れてコピー機のカバーを思いっきりひるがえした。

 視界が、白く、濁る。

「ケホ、ケホ、ケホ!」

 あっ、と思った時には一気に埃を吸い込んだ後だった。
 咽喉に付いた埃が咳を促し、鼻に付いた埃がくしゃみと鼻水を誘引する。

 だらしがない部署だと、自らの失敗を省みず立腹していたら鈴木から素材がよさそうな濃紺と濃グレーのストライプのハンカチを手渡された。
 どうやら鼻と口をこれで押さえろ、ということらしい。

「クェホ! ハ、ハクシュン!」

 自分のハンカチの方が気楽でいいのに、と一瞬思ったが厚意を無下にすることもできず口に当てると何やらうっすらと香水の香りがした。
 女の人に慣れていそうな人だと、ぼんやり思う。

 そしてそんな遥を尻目に鈴木は窓に近づくと、行動の意味に気付き止めようとした遥の手よりも先に窓を大きく開けた。
 こんなに書類が多い部屋ではこの行為はご法度だと、彼は考えもしなかったらしい。

 案の定風に乗って飛び散るのは、営業部各机に乗っていた書類の数々。

 意外にも間抜けな人であると、いま正に遥に認定された鈴木は飛び散る書類を見、慌てて窓を閉める。
 コピーするための書類は、しっかり掴んでいたお陰で風の猛威に怯むことなく遥の手の中だ。
 
 営業部は例外にもれずエリート集団だと聞く。
 恋愛や男性関係には疎い遥だが、多分この人(鈴木)も恐らくは注目されている社員なのだろう。だが、鈴木にも全く興味がない遥にはそれ以上何の探究心も湧かなかった。

「コピーはしておきますので、そちらは仕事をどうぞ」

 まずは落ちた書類よりも仕事だと気持ちを入れ替え、先ほど仕事があると鈴木が言っていたことを思い出し遥は鈴木に促すと、コピー機の説明書に視線を落とした。

 良かった。
 庶務課のコピー機と同じ会社の最新版なので、うろ覚えでも即戦力になりそうだった。

 遥はコピーをしながらも、少し離れた所で難しい顔をしてパソコンに向かう鈴木をチラと顧みた。
 セットしてある柔らかそうな髪の毛に片手を掻きいれ悩んでいる姿は、確かに女好きされそうではある。
 営業は顔が命だと、よく庶務に仕事を持ちこむ女性社員が声高く叫んでいたが、顔が命で仕事をやって行けるのならこの最新機器であるコピー機を宝の持ち腐れなどにはせずに、せめてコピー機が命の庶務課にくれてもいいじゃないか。
 予算の関係上無理だと分かっていても、少しそれが腹立だしかった。

 鈴木を観察していたのは最初のうちだけで、コピーを続けるにつれ観察する気はすっかり失せ遥の頭の中は使用不能となった庶務の旧式コピー機の修理依頼の電話番号がエンドレスで廻っていた。

 数か月に1度、使用不能になるコピー機を騙し騙し使ってきた。そろそろ寿命が近いのだろうが、直して使うしかない。
 予算の問題上新しいコピー機を会社に購入してもらうには、決算後の3ヶ月後を待たなくてはいけないから。

 経理課の依頼分と営業部の分のコピーを終わらせる30分強、殆どの時間をコピー機のことばかり考え続けた遥は、有効な答えを導けないまま仕事を終えた。
 それぞれの内容をチェックし、経理分と営業分の混ざり込みがないのを確認すると、グレーの制服ベストの脇ポケットに入っているクリップでまとめる。
 そして、先ほどから全く動きの無いまま渋い表情でPC画面を見つめる鈴木の右後ろに立った。

「コピー、出来ましたのでここに置いておきます」

 苛々した様子で1度マウスをパットに軽く叩きつけた鈴木が、突然の遥の声に驚き顔を上げた。

「あ……ありがとう。助かったよ」
 
 ぎこちない笑みがわざとらしかった。
 大体、苛ついた時の仕事はろくな結果にならないのだ、と遥は思う。思いながらもどうしても放っておくこともできず、そのまま身を翻し給湯室に向かった。
 庶務課と営業部の丁度間にある給湯室には、確か緑茶がストックしてあるはずだった。
 仕事面ではコピーぐらいしか手伝うことはできないが、何もできない以上お茶くみも庶務の管轄かもしれない。

 言い訳かもしれないけど。

 後30分後にやってくる昼食時間の為に自分の分のほうじ茶も小さなマイポットに入れ、桐のお盆に来客用の湯呑を乗せて営業部へと戻った。
 片手で盆を震えながら持ち、お茶を溢さないように静かにドアを開けると、

「畜生……」

 低くかすれた声の短い呟きが、誰もいない部署に響いた。
 聞こえない振りをして、ここの部署の中ではまだ綺麗な方に入る(でも十分に汚い)机に湯呑を置くと、鈴木の視線がぶつかるのを感じた。

 いちいち感謝の気持ちをこれぐらいのことで聞かせられるのもこそばゆいので、廊下に出るまでの足元に散らばった書類を拾いながら歩く。 
 考えていたよりも書類は結構な量吹き飛ばされていて、中途半端に拾い上げるわけにもいかず結局全てを探して拾いまわる羽目になった。

 机の下に仕舞いこまれている様々なごみ。
 営業部の社員に憧れている女性社員に、包み隠さず教えてやりたいと思いながら。

「どこから飛んできたのかは分からないので、ここに纏めて置いておきます」

 遥がほのかに臭う机の下から顔を出して鈴木を見やると、鈴木はPCから目を離し折角入れたお茶にも口を付けること無く何やら物言いたげな表情で遥を見つめていた。
 冷える前にお茶は飲んでほしいのにとぼんやり思いながら、集めた数十枚の紙を一番ドア側にある机の何も乗っていないところに置いた。

 念のため、薄汚れたテープカッターを重しのつもりで上に乗せる。

 これで、鈴木がどんなうっかりさんでも大丈夫だろう。
 自分を納得させるように小さく遥は頷くと、今度こそ本当に仕事を終了しドアノブに手をかけた。

 背後で、立ち上がった音がした。

「俺は鈴木 正。あのさ、名前聞いていいかな?」
 タダシという文字は“正式”のタダシなのだろうか。
 遥はよく聞くことのある名前だけに余りにも容姿とギャップのありすぎる彼を、足元からずっと上の髪の毛まで舐めるようについ見詰めた。

 やっぱりドラマか漫画にいそう、それが遥の精一杯の感想だ。

「片岡……は、遥です」

 下の名前を言うべきか躊躇した。
 数メートル離れた場所に立ったままの鈴木に笑みで促されたような気がしたのもあるけれど、フルネームで自己紹介をされた以上フルネームで返すべきだと思い返した。

 ネームプレートの規則がないこの会社では、社員の記憶力がコミュニケーションの基本だ。

 先ほどまで確か急ぎの仕事で結構切羽詰まった表情をしていた営業社員は、重要で急ぎなはずの仕事からすっかり目を離し自己紹介が終わった今もまだ机脇に立ったままでいる。

 仕事はいいのだろうか、遥の心配をよそに彼はまだ口を開いた。

「今日は本当にありがとう。お礼に今度は食事にでも」
「結構です」

 今度は躊躇なく、あっさりと切り返す。
 コピーのみの仕事で、ここまで恩に切られては少し迷惑だったというのもある。
 これを甘受したら経理部の女性社員には何度食事を奢ってもらうことになるのか、庶務は出来るだけ陰で出来ることのみをやっている課でありたかった。

 鈴木の反応を待たず、ドアを開ける。

 先ほどよりはざわめきが多く聞こえる気がする廊下に出、ドアを閉めてから遥は首を傾げる。
 よほどコピーが嬉しかったのか、それとも感激性なんだろうか。

 手首の長年愛用している腕時計を見ると12:00

 遥は予定時間を少し回ったものの経理部に書類を届ける為とそのまま社員食堂で昼食を取るために、エレベーターで次々に戻ってくる営業部のきらびやかな男性社員をかき分け、足早に用意したほうじ茶の入ったポットを持って行くためにまず給湯室に向かう。

 やるべき仕事を終えた清々しさで満足した笑みを、ほんの少しだけ口元に浮かべながら。
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