と、ある警備員の愚痴
山崎の勤務する芯谷商事は証券・不動産・経営等多数の子会社を束ねる大企業だ。
17階建ての巨大な本社ビルには、建設事業課・総務課・設計課・企画課・営業課他いくつもの部署がありビル内部だけで数千人の社員が日々勤務している。
ここ3カ月の山崎の警備員としての持ち場は“芯谷商事”だった。
防犯上長く勤務することのない持ち回りの会社の中でもこの勤務先は特に不愉快な先だ、と山崎は思う。
終業のメロディーが流れるのがPM5:30。
流れ始めたとほぼ同時、いい加減疲れ切った自分(通り過ぎる社員を観察するのに)の前を、うんざりする程キツイ香水をつけて着飾った女性社員が歩き去る。
手には例外なくブランド物のバッグ・時計、髪は巻毛。
山崎と視線が合っても挨拶は勿論、会釈も無し。
華やかな女性社員は薄汚れた紺の警備員服の山崎には興味も関心も持つことなく、決まって毎日空気扱いされている。
山崎は警備員室(玄関ロビー横にある2畳ほどの小部屋)に戻ると、煙草に火をつける。
本来は厳禁とされている行為をよりにも寄って人の行き来が多い時間帯を見計らってするのかは、山崎にも理由がよくわからなかった。
ただ1番苛々するのが決まってこの時間であり、その元凶が過ぎるまで黙って待っていることができないのだ。
大体、あんな凶器みたいな爪を持つ女性社員が山ほどいて警備も糞もないだろう。
マニキュアでコーティングされた爪で自分よりも戦えると思うし、あの香水の匂い(香りではなく)は十分武器に匹敵する、と山崎は心の中で毒づいた。
総大理石のロビー横に位置しながらも外界とは違う古い壁紙の警備員室天井を見上げ、長く細い煙を吐き出す。
華やかなロビーと、汚れた貧乏くさい警備員室。
すぐ近くにはあるけれど相容れない。
芯谷商事が次の持ち場に決まった時は、大会社のOLと知り合えるやも、と浮かれ騒いだ山崎だった。
が、この会社にはエリートが華々しく闊歩し、山崎と恋愛対象として振り返る女性社員はいなかった。
PM7:30。
嫌な空気だ。
山崎はまた煙草に手を伸ばしかけて、止まる。
玄関中央、真ん中のエレベーターから一層華やかな面々が出てくるからだ。
大理石風の灰皿(自ら購入)を床に叩きつけてしまいそうになるのをかろうじて抑え、じっと嵐が過ぎ去るのを待つ。
濃紺によく見るとストライプが入っている細身のスーツを着こなした営業課の男は、男である山崎から見ても腹が立つほどに様になっている。
色素の薄い髪を軽く後ろに撫でつけ、女好きされる甘いマスクに少しかすれた低い声。
女好きだが仕事は有能、学歴・知識もある――と、ことごとく隙がなさ過ぎて嫌味な奴だ。
鈴木 正。
山崎が勝っているのは、名前の画数だけに違いない。
その鈴木を中心として、必ずといっていいほど2~3人の女性社員がついてくる。
1人は秘書課の神埼 ひなの。
芯谷商事の参謀とも呼ばれる神埼専務の娘で、長い睫毛に長い巻毛。
日本人離れした西洋人形のような容姿を持ってはいるものの、仕事は全くと言っていいほど出来ないらしい。
芯谷商事にいるのも婿探しに来てるだけらしい、と帰り際に秘書課の女性社員が愚痴っているところを山崎はよく見かけていた。
と、いうことは鈴木 正は専務の後ろ盾すら手に入れてるに違いない。
ますますもって苛々とし、靴先を椅子にぶつける。
もう1人は桜坂 綾子。
神埼 ひなのが秘書課のかすみ草(本人は引き立て役ではないと強く否定)なら、桜坂 綾子は秘書課の薔薇だ。
勤務中はストイックに纏めた髪を、アフターになるとしなやかに後ろに流す大人の女だ。
厚めの唇にはグロスが光る。
高いヒールのパンプスを履く桜坂に並んでも、見劣りしない鈴木の身長は180センチ強か。
山崎は、右手に触れた空の煙草ケースを握りつぶした。
ことごとく逆鱗に触れる男だ。
鈴木と桜坂は入社当時からの付き合いらしく「交際中」や「大人の付き合い」など様々な噂が飛び交っていたが、専務の娘が最近になって鈴木にべったりなのを見ると、どうやらまだ鈴木は誰とも“正式に”付き合っていないようだった。
いや、全員と“不正式に”つきあっているのか。
いつも閉じられているドア以外に、警備員室とロビーを隔てる小窓から鈴木が顔を出した。
「あ、警備員さん。お疲れ様です」
聞こえない振りをし、山崎は背を向ける。
山崎が無視したことは大した気にもかけない風で、返事を待たず鈴木は玄関に去った。
「あの警備員さん……なんか怖いー」
神崎が鈴木の右腕に腕をからませて頬を膨らませる。
「ひなのちゃん、警備員さんも仕事中だからね」
苦笑した鈴木が、子供のように神崎に言い聞かせるのが聞こえた。
「でもでも! 鈴木さんがせっかく声かけたのに、無視なんて……鈴木さんがかわいそう!」
では自分は毎日何千回挨拶したらいいのだ、と山崎は腹の中で毒づく。
鈴木は苦笑して、神埼の頭を軽く撫でると柔らかそうな頬をつまんだ。
「さ、帰宅帰宅。俺、明日早いんだよね。ひなのちゃんがモーニングコールしてくれたらすぐ起きられるんだけどな」
「もー、鈴木さんったら甘えん坊!」
「鈴木さん? 今日は私と軽く飲みに行く約束じゃなかったかしら?」
「ああっ! えー…っと悪いな、今度じゃダメかな? 桜坂」
「……いいわ。今度、奢りでね」
「! ちょっと! 桜坂さんばっかりずるい」
3人が玄関ロビーの回転扉向こうに消えるのを待って、山崎は床に灰皿を置き踵を思いっきり叩きつける。
床に叩きつけなかったのはせめてもの音の配慮だったが、安物の灰皿は振り下ろした踵の下であっさりと粉々に砕けた。
山崎は怒り収まらずいまだ震える拳を机に叩きつけ、壁に貼られる勤務表を睨みつけた。
勤務表は山崎がまだ3ヵ月、この持ち場を離れることがないと物語っている。
大袈裟にため息をつき、新しい煙草に手を伸ばそうとして止めた。
山崎は時計を見る。PM8:00。
例外なくこの時間には、エレベーターの中に1人の姿があった。
白いコートに長いストレートの黒髪、彼女はこのビルの中で毎日欠かさず挨拶をしてくれる(鈴木は別)貴重な存在だ。
少し感情に乏しい表情のままで、警備員室の中をゆっくりと覗き込んでくる。
「警備員さん、今日もお疲れ様です」
「お疲れ様です! 気をつけて帰ってくださいね!」
「……はい。ありがとうございます」
いつもの少しの会話。
ただそれだけで山崎の苛々は薄れて行くのが自覚できた。
彼女は天使だと、山崎は思う。
いつもはそのまま小窓越しに彼女が口もとのわずかな筋肉の収縮(笑っているとまではいえない)を見せ、長い髪を揺らし回転扉に消えて行くのを見送るのが山崎の日課だった。
のだが、その日は少し違った。
黒く大きな瞳が床の残骸をとらえる。
形の整った眉が、わずかに、歪んだ。
「灰皿、割れちゃったんですか?」
山崎は慌てて靴で残骸を集め、机下に押し入れる。
「あ! ああ! これですね! 今片付けようと思ったところなんですよ、あははは!」
高く耳障りな音が警備員室に響き、乾ききった笑いを浮かべた山崎をいぶかしげに見つめていた彼女の前で、近くにあった箒と琺瑯のちりとりを慌て持つ。
ガラスのぶつかる不快な高音。
彼女が見ていると思えば思うほど山崎の手は震え、上手くちりとりに破片を集めるとこが出来なかった。
毎日挨拶は交わすとはいえ長く会話はしたことがなかった上に、実は少し憧れていたのもあった。
それは。
彼女といつか知り合える、というシチュエーションに。
まさかこんな早く、こんないきなりきっかけが来るとは山崎は予想だにしていなかった。
ゆえに、手が震える。
ガラスの破片がちりとりを外れ、転がる。
高音。
ちりとりがプラスチック製じゃなかったのを、こんなに悔やんだことがあっただろうか。
あまりのふがいなさにかなり不器用な男だと思われてしまったのではないかと肩を落とした時、ドアが開いた。
そんな気がした。
白い手が大きな破片を集めて行く。
机の上にはベージュのスエードバッグ。
立って箒を持つ山崎の足元には、白いコートの。
「あ! あ! お、俺がやります! 危ないです!」
「大きな破片は先に手で集めたほうが良いと思います。ごみ箱、どこですか」
「あ、ここです!」
大きな灰皿の破片がごみ箱に投げ入れられる。
「……燃えないゴミと分けなくちゃいけないんだった」
考え込んだ彼女がごみ箱に手を入れようとするのを、山崎は慌てて遮った。
確かあの中には昨夜交代の同僚である警備員が捨てた(らしい)風俗のチラシが入っていた(さっきいいだけ見てた)はずだ。
「おおおお! 俺が! 俺がやります、から!」
「そうですか」
想像していたよりもあっさりと彼女は手を引っ込め、山崎はほっと胸を撫で下ろした。
箒とちりとりで素早く残りの破片を集めると、机の中にあるコンビニの袋に入れる。
「あとで、掃除機もかけた方がいいですよ」
無表情のまま白いコートの埃を両手で払うと、彼女は立ちあがって頬を収縮させた。
山崎の心臓が早鐘を打つ。
想像(妄想)よりも彼女の身長は低く、山崎の視界にはうつむきがちの彼女の視線を真っ向から捉えることができなかった。
白い肌、首に巻かれた薄いサーモンピンクのマフラー。
「じゃあ」
短く言って出て行く彼女の腕を、必至の思いで山崎は掴んだ。
もう山崎の頭の中には、誰に見られてもおかしくない警備員室の中であることは抜けきっている。
「あ! あの!」
「はい」
全く動揺もせず、彼女は足を止める。
彼女に表情を与えられる男は一体どんな奴なんだろう、と山崎はいるともしれない“彼女の彼氏”に少し嫉妬した。
言葉が、出ない。
こんなに緊張することがあるなんて、山崎は必死の思いで言葉を探す。
「今日は、ありがとうございました。……で、あの」
無理だとは知りつつも、沈黙から理解してほしかった。せめて名前だけでも知りたかった。
でも山崎は腕を掴んで礼を言うだけでで今日の全ての労力を使い果たし、口ごもったまま沈黙は続いた。
手を離すしかなかった、これではただの不審者(不審な警備員)だ。
「7階、庶務課の片岡 遥です」
心臓が、跳ね上がる。
端的に必要事項のみ告げると、片岡は振り返ることなく警備員室を出て行った。
残されたのは、状況が理解できなかった山崎のみ。
読まれたのだろうか、心を。
あり得ない妄想をしながら、山崎は腕を掴んだ形のまま宙を浮く自分の手を見つめる。
片岡 遥。
「切ない……」
あれだけ長く感じた残り3カ月が、物凄く短く感じてしまっていることを山崎は今知った。

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