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  恋なのか 作者:
三文芝居
 触れた熱に理性を失った。

 時折逃げる唇を追って、重なってしまうんではないかと錯覚するほど深く口づける。舌で唇を抉じ開け、柔らかい舌に絡ませると撫でた細い腰が弓なりに反った。
 
 漏れる息は飽くまで官能的で、胸を押し退けようとする手首を掴んで座席に押しつける。
 嫌なら押しのけろと言ったのは自分なのに、触れる前から止める気は元より毛頭からなかった。
 恐る恐る絡む舌に夢中になり、より深く何度目かの口づけを唇に落とすと、いっそこのまま抱いてしまおうかと体が命令する。酩酊近い彼女を抱くのは犯罪になるはずなのに、あるはずの常識が彼女の息継ぎする度に漏れるもどかしい吐息で簡単に吹っ飛んだ。
 可能な限りの全てに触れたい、熱を追う腕は一層その強さを増す。

 長く艶やかな髪は指の間を滑り、唇の間を扇情的な水音を立てて唾液が行き来する。
 箍が外される寸前で、腕の中の彼女はしゃくりあげた。

「優しくしないで」

 やっと手に入れたと思っていた心と体は、またこの手の中を擦り抜け背を向ける。手に入れられなかった狂おしい熱に、理性が焼き切れる。
 
 これは恋なのか、ただの執着なのか。
 
 もう俺にもわからない。

「鈴木さん?」

 突然聞こえた女の声に、物思いに耽り書類を開いたままだった鈴木は顔を上げる。

 PM3:30。気付くと、営業課も出先から戻ってきた社員で多少うるさく活気づき、ひっきりなしになる電話と椅子をつき合わせてする簡易的な会議の姿もあり、鈴木はどれだけの時間を無駄にしたのかとため息をついた。
 愛用のボールペンを持ったまま十数分、動くことなく書類と対峙していた鈴木の右横から、同期で秘書課の桜坂が顔を出した。艶然とほほ笑み、伸ばす細い腕からは嗅ぎ慣れたいつもの香水の匂いがする。
 懐かしい、そう思ってしまうのが馬鹿らしい。いつも通りに仕事上の顔で人好きされると皆が言う笑みを鈴木は敢えて作り、下から桜坂を覗き込んだ。

「何?」

 笑顔は強張っていないだろうか。鈴木は心持ち睫毛を伏せて唇端を上げる。
 秘書課の薔薇、そう評される同期はその心ここに非ずといった様子の鈴木を面白くなさそうに見遣り少し憤慨した。

「どうしたの? ボーっとして、らしくないわ」
「らしくない、かな。ちょっと取引先と難しい商談中でね」

 よくもまあ、これだけの嘘がスラスラ出てくるものだと鈴木は心の中で自分を嘲笑う。
 プロジェクトや商談は決算を前に落ち着きを取り戻し、今日の鈴木は蜂屋や木坂のバックアップに追われていた。担当者の名前が書かれたファイルを組立ての甘い嘘がばれる前に閉じ、鈴木は桜坂を休憩室に誘うと、近くにいた木坂にファイルを手渡し営業課を出た。

 休憩室はいつも煙草とコーヒーの匂いで満ち溢れている。

 遥や春日が毎日休憩室の掃除をするようになって、煙草を吸う前に空いた灰皿を探す手間が減ったと最近の蜂屋は機嫌がいい。
 今日の午後の掃除はまだ終わっていないようで、散乱した灰皿と撒き散る灰に鈴木は頭を掻くと使用済みの灰皿を一番手前のテーブルに纏め、かろうじて残った一つの灰皿を手に取った。

「で? 何?」

 ワイシャツの胸ポケットから煙草の箱を出すと一本咥え、ライターで火を付ける。自動販売機でコーヒーを買い桜坂に手渡すと、鈴木はそのまま自販機に背を預け腕を組んで向き直った。
 仕事の出来る人間は男であろうとも女であろうとも嫌いじゃない。桜坂は秘書課の中でもその点においては優秀で、鈴木も一目置いている。
 桜坂は憤慨する自分を全く意に介さない鈴木の様子を見て、近くにあった椅子に腰かける。

「ウチの困った部下が、変な噂流してるみたいで気になったの」
「噂? 現実派の桜坂が珍しい、それぐらいで出動?」
「専務の娘。神埼、いるでしょう?」
「ああ、ひなのちゃんね」

 鈴木は秘書課にいる神埼専務の一人娘のプロフィールを、脳裏に思い浮かべる。営業畑の特権か、それとも持って生まれた天性の技なのか。殊更対人間であれば記憶力で困ったことは無かった。
 少し気の強い西洋人形に似た容姿。
 我儘だが甘え上手で女としては悪くない。
 我ながら節操がない、と鈴木はふかした煙草を一度灰皿に置き嗤笑する。

「で? 彼女が何か?」
「鈴木さん、最近庶務課の女性社員に夢中だって?」
「俺が?」

 まるで三文芝居だ。鈴木は恍けて見せると失笑する。
 
「ええ、あなたが。神崎が最近部署の女性社員を吊るし回ってるみたいで、あなた変なのに手を出さないでくれる? 迷惑よ」

 吊るし回ってる、鈴木の知っている部署の中ではそんな噂が出回っている話は聞いていなかった。遥に手を出すと決めてから慎重に動いていたからかもしれないが、女性社員の中での暗黙の了解なのか。コーヒーを飲む桜坂の秘書にしては赤過ぎる口紅が、紙コップに移り鈴木は眩しそうに目を細めた。

 休憩室の外は薄曇りだ、まだ冬は明けず風は冷たそうに見える。

「随分だな、誰も出した覚えはない」
「その誰かれ構わず手を出すの止めないと、痛い目見るわよ」

 もう見ているよ。失笑した顔を見られないように、灰皿を持って休憩室と営業課側の通路を阻む間仕切り側に背を向けた。

「俺は自分から出した覚えはないけどね」

 1人を除いて。忘れかけた熱が戻る前に話を終わらそうと、鈴木は桜坂を見つめて長めに煙草の煙をふかす。

「話はそれだけ?」
「神崎にきちんと話を付けて貰えないかしら? 食事に+α、いい目見たんだったら尻ぬぐい位やりなさいよね」
「……了解」

 叱られるのは何年振りだろうか、姉のようなその言い草に鈴木は煙草を指に挟んだまま両手を上げ降参の素振りを見せた。
 コーヒーの紙コップをごみ箱に入れ、桜坂が休憩室を出る。鈴木が背を向けた間仕切りの向こう側で、ヒールの音高く歩き去る音が一度途切れまた歩き出す。

「今日はまっすぐ帰ろうと思ってたんだけどな」

 誰か適当にフリーの男性社員を見繕って、上手く出来ないものか鈴木は模索してみるとあまりの面倒さにすぐ嫌気が差した。
 素直に謝るかした方が気楽で早いか、と結論付け営業課に戻る廊下の端。

 休憩室の間仕切り横に置かれた灰皿清掃用のバケツにまで、鈴木が気付くことはなかった。
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