異変の始まり
婚約破棄事件の翌日、夜。
宰相は肩を回しながら王城の廊下を歩いていた。
普段は国王と二人で処理するような事案も国王不在の今は宰相一人の肩にかかっている。国王代理はゴードン王子であるが、王子は17歳になった今もイマイチ執務にやる気を出さず、もっぱらローズという男爵令嬢に夢中であった。
(まあ、17歳といえばお盛んな時期だもんな。今はまだ若いから仕方がないか)
宰相は自分にそう言い聞かせて、疲れた体を引きずる。連日執務室に詰めていたので家に帰るのは久しぶりだった。
と、そこで宰相は驚くような光景を目にした。
「ご、ゴードン王子!? 何をなさっているのですか」
ゴードンは自室にローズを連れ込もうとしていた。
ゴードンがローズに浮気していることは周知の事実であるが、王族の男としては普通のことであるため誰も特にとがめたりはしなかった。
が、ローズをゴードンの自室へあげるとなれば話は別である。なんせ婚約者のアルシア・ノックスでさえも泊まったことはない。にもかかわらずローズにゴードンの部屋へ泊まることを認めてしまえば、それはすなわち侯爵令嬢のアルシアをないがしろにしたことになる。
浮気は許されても、王城で未来の王妃を軽んじることはあってはならない。
しかしゴードンはローズを抱きしめてドヤ顔をした。
「むろんローズを私の部屋に泊めるんだ。可哀想に、連日の虐めにローズはおびえきっているんだ」
ローズは確かに怯えた顔をしていたが、ボロボロな宰相を見ると無礼にもフンと鼻を鳴らした。
宰相は目を点にした。
「連日の虐め……?」
「なんだ宰相、聞いていないのか? 怠惰だな。アルシアが学校でローズをイビリ倒したのだ。おまけに最後は殺そうとまでした」
「え、ええっ!? どういうことですか!」
宰相はパッカリと口を開けた。手に持っていた書類がばさばさと床に落ちるが気にもならない。
ゴードンは憎々しげな顔になった。
「あの悪女め、ローズの美しさに嫉妬をして水をかけたり泥を浴びせかけたりしたんだ。しまいにはローズを階段から突き落とした。幸いながらローズは無事だったがな。きっと神の加護があるんだ」
「ローズ嬢はアルシア嬢がそれをするのを見たんですか?」
「そうよ、私を疑うわけ? 未来の王妃に無礼なんじゃない、宰相のくせに」
「未来の王妃!?」
ふんぞりかえって偉そうに言うローズに宰相は顎が外れそうになった。
未来の王妃はアルシアである。ローズはゴードンの愛人になる可能性はあれど妻になることはありえない。
が、ゴードンは嬉しそうにローズの頭にキスを落とした。
「そうだぞ宰相。王妃には敬意を払ってもらおうか」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 未来の王妃はアルシア嬢であって――」
「アルシアなんて王妃にふさわしくないわ! あんな嫌な醜い女」
「その通りだ。だから昨日の昼、私はアルシアと婚約破棄をした。そして代わりにローズが私の婚約者となった」
宰相は泡を吹いてブッ倒れそうになった。
王子の婚約は国王の許可の元で厳格な要式に従ってなされるものであって、「腐ったパンを捨てました」というような軽いノリで破棄できるものではない。
「な、なん――いったいどうやって」
「どうやってもこうやってもあるか。私は王子で国王代理だぞ、できないことはない。それにアルシアの罪の証拠もあるというのに婚約者にしておくわけにもいかんだろう」
「証拠?」
「よく見なさい、鈍い宰相さん。これよ!」
ローズは首からさげている首飾りをドレスからひっぱり出して宰相に見せた。
一粒の大きなエメラルドがついたそれは精緻でエキゾチックな金細工が施してあり、珍しくも魅力的な一品に仕上がっていた。
「これはノックス侯爵家に代々伝わる幸福の首飾りでな。ローズが突き落とされた階段に落ちていたんだ」
「まさか、罪の証拠ってそれだけですか?」
「それだけってなによ! 私が見たって言ってるでしょ!」
「宰相、敬意を払えと言っただろう。首にするぞ」
「……なんでその首飾りをローズ嬢が持っているんですか?」
「俺が慰謝料代わりに没収した。当然の権利だ。この聖女のようなローズにふさわしい品じゃないか」
宰相は驚愕しすぎたせいかかえって冷静になった。じっくりとローズを眺めるとローズはその瞳に意地悪そうな満足げな色を浮かべている。
(そうか、この娘)
落ち着いた宰相はすばやく思考をめぐらせた。
アルシアは人を害するような性格ではないし、そもそも家宝をうっかりどこかへ忘れたりはしない。第一、首飾りを落としたということは鎖がどこか壊れているということだが、ローズの持つそれに壊れた形跡はない。
今、この状況で一番得をしているのはローズだ。体よく王子の婚約者を追い出し、自分が婚約者に収まり、あまつさえ侯爵家の家宝を手に入れた、とも考えられる。
この不遜な態度といい、ローズは疑わしい。
(今日はもう遅い、ノックス侯爵夫妻のところへは明日一番に会いに行こう。その後は学園長だな。今は――まずは学園の警備兵に話を聞くか)
学園は王城に隣接して立っている。学園内での犯罪についてはそこの警備兵が把握しているはずだ。
(ここでゴードン王子に反対しても言うことは聞くまい。首飾りも預かりたいところだけど、とりあえずは言う通りにして――)
宰相が黙りこくったのを見ていい気になったのか、ゴードンとローズはいちゃつき始めた。
「ゴードン様ぁ、早く中に入りましょう?」
「おお、ローズ! まったくアルシアめ、ますます憎くなってくるな」
「ホント怖かったの……真っ黒な男の人が私を睨んでくるの」
「そんな夢を見るなんて可哀想に。今日は私と熱い夜をすごそう、悪夢など入ってこられないように」
二人はキスしたり抱き合ったりしながらゴードンの部屋へ消えていく。
(ああ、今日も帰れそうにないな……あのバカ王子が!!)
仮にアルシアが犯人だったとしても、断罪や婚約破棄をするには正当な手続きを踏む必要があるというのに。
宰相は疲れた体にむち打って、隣の学園へと向かった。
***
闇が蠢く。黒い羽虫が密集するように凝縮したそれはゆるゆると瞼を持ち上げた。
山羊のような奇妙な緑の目が妖しく光った。口から覗く歯は狼のように鋭く、べろりと溢れた舌は蛇のように長い。
褐色の肌の男の形をとったそれはユラユラと揺らぎながらニイッと牙を剥き、熱い吐息を漏らした。
――あア、たったの4年がこれほど長いとは。餌を前にしながら手も出せず目を反らすこともできずなんと苦しい時間であったことか。だがそれも終わりだ、本来ならば喜ばしい、が、俺の女はどこにいる……マァいい、手はいくらでもある……なんと皮肉なことか、神の加護のただ中に悪魔の贄がいるとはなァ!!
そばにある寝台の上では、しどけない格好をした男女が眠ったまま苦しそうに呻いている。
褐色の男はうっそりと笑うと寝台の男の胸に手を突き刺した。褐色の男が手を体から抜くと、寝台の男の胸からは血の代わりにどろりと濁った何かがビチビチと蠢きながら這い出てくる。
褐色の男は粘液を滴らせるそれに齧り付く。牙を立てたとたんそれははじけ飛んで部屋中に散ったが、男は気にすることなく汁を啜る。
――あァ、美味い。ただの闇もただの光もこれほど善くはあるまい。汚れた神聖のなんと美しいことか。
捕食を続ける褐色の男の輪郭は徐々に明確になる。揺らいでいた体にまとう黒い布までもが確かな質感を帯びる。
それにともなって、寝台の男――ゴードン王子は髪を掻きむしり言葉にならないなにかを叫び始めた。
「――――っ! ――――――――ァあ!!!」
寝台の女、ローズは隣でゴードンが暴れ回っているにも関わらず魘されたままで目を覚まさない。
褐色の男が指先の尖った手を伸ばすと、ローズに掛かっていたエメラルドの首飾りがミシリと首に食い込んだ。
返せ 返せ
返せ
返せ返せ返せ返せ
どこだ
どこへやった
ただですむとおもうなよ……
ローズは目を極限まで見開いて喉を掻きむしった。体を反らして暴れ、四肢を痙攣させ、口から泡を吹く。
褐色の男は満足げに嘆息した。
***
窓の外が白み始めた。
宰相は疲れ切った部下を仮眠室へ送り出して、一人執務室で頭を抱えた。目の前には集めた証言書の束がある。
学園には上級貴族の子息令嬢が多く在籍しているため警備は厳重であちらこちらに兵が置かれている。ゆえに、頻繁に不審な事件が起きていたならば警備兵のうちの誰かは犯人を目撃しているはずである。
ところが、警備兵は誰もアルシアの不審な姿は見たことがないという。次期王妃のアルシアは兵士の中でも有名だったから見間違われた可能性は少ない。
むしろローズの方が影から何かを伺っていたり、こそこそと移動したりしている怪しい姿を目撃されていた。
(おまけにローズ嬢が水や泥を被った姿、階段で倒れている姿は目撃されているのに犯行の瞬間は誰も目撃していない、か……これはますます怪しいじゃないか)
宰相は机の上に突っ伏して今すぐ安らかな眠りにつきたい気分であった。が、これからノックス侯爵夫妻に会いに行かねばならない。
(ああー早く返ってこい陛下ァー……もう、あのバカ王子の製造者はアンタだろー! なんであんなアホに育てたんだよ! 第二王子は思慮深いのにさ!)
これまでゴードンを温かく見守っていた宰相も今となってはそんな気分になれない。
と、その時だった。
「きゃあああああっ!!」
つんざくような女性の悲鳴が王城に響き渡った。
宰相は反射的に執務室を飛び出した。
城の衛兵が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「宰相閣下、ゴードン殿下が!」
「どこにいる!」
「殿下の部屋です」
必死でゴードンの部屋にたどり着くと、部屋の入り口でメイドが尻餅をついて「あ、あ、あ……」と声にならない声をあげていた。
メイドを助け起こそうとしている衛兵も青ざめて部屋の中を呆然と見つめている。
「ゴードン殿下! ……っ!?」
部屋をのぞき込んだ宰相は絶句した。
床の上でゴードンとローズがしどけない姿でもつれ合っている。が、それは艶めいた光景からはほど遠かった。
ローズの顔は浮腫んで、獣のように呻き、首を絞められているかのように喉を掻きむしっている。よく見れば、あの首飾りがなぜか鎖のように首を締め付けている。血走った目はこぼれ落ちんばかりに限界まで開かれている。
首を掻きむしった痕から血が流れて夜着の襟元を真っ赤に染めていた。
一方のゴードンは必死でローズから首飾りを剥がそうとしていた。ゴードンの手も首飾りでこすれたのか傷まみれになって流血しており、その髪は毟られたかのように乱れていた。
「なっ……そこの衛兵、医者を呼びなさい!」
宰相がゴードンとローズに駆け寄るとなぜか首飾りがやや緩んだようだった。
ローズは腫れ上がった目から涙を流して大きく咳き込んだ。
「げえっ、ゴホッ……うっ……」
「ローズ! ローズ、大丈夫か! ……くっ、手がっ」
「ゴードン殿下、何があったんですか!」
「いきなり褐色の肌の男が現れて首飾りでローズを締めつけていったんだ! いったいなんなんだあいつは!」
宰相は部屋を見渡した。
ゴードンの部屋の窓は総て閉まっており、しっかり施錠されている。
「侵入者ですか! いったいどこからっ」
「ご、ゴードン様ぁ」
「ローズ、大丈夫か!」
「……ゴードン様ぁ! これ外れない! 怖い、外して!」
突然、発狂したかのようにローズは髪を振り乱してわめき始めた。ローズは首飾りを引っ張っているが絡まったようでなかなか外れない。
「いや、嫌、嫌あああああ! 来ないで、やめて、怖い怖いいい!! どうしろっていうのよおおお」
「ローズ落ち着け!」
ゴードンが首飾りを外すと、そのエメラルドが怪しい光を放ったように見えた。
宰相はぎょっとして首飾りに釘付けになった。
緑色の光が獣の目のように揺らめく。
背筋に一筋、汗が流れた。
(あの首飾りはもしかしていわくつきなんじゃないか?)
部屋の中は強盗でも入ったかのように荒れており、白いシーツは血まみれだった。
宰相は頭を振って、ようやくやってきた医者と近衛師団長を迎え入れた。
<紹介>
○宰相
若き有能官吏。老け顔の苦労性。
○褐色の肌の男
?