挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
夏空うさぎが見つめる丘にて 作者:オニオン@秋音
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

5/12

熱中症には十分注意しましょう。

 ――カラン。
 ふいに透明で涼やかな音が鳴る。風鈴にしてはずいぶん腰が重いなぁと思った。牧之の家に来てから一度も鳴っていなかったハズだ。わずかに顔をあげると麦茶の入ったコップが見えた。どうやら中にある氷の音だったようだ。
 汗ばんだコップを掴み、一口。深呼吸したくなるほどの香ばしさとほんのり感じる甘み。心地よい冷たさと共に全身へと沁みていく。知らずのうちに喉が渇いていたんだ。もう一口飲んでコップを戻したところで、ほかの二人のお茶が全く減っていないことに気付く。

「名古ちゃん、お茶飲まないと……」

 熱中症になっちゃうよと言うつもりだった。けれど言葉は途切れ、それと同時に息を呑んでいた。
 私の隣に名画があった。重たい木の柱を背にし、本を読む名古ちゃん。そこだけ空間が違う。湿っぽい暑さもべたつく汗もない。時間さえ止まってしまったようだ。名古ちゃんの目が、指先が、髪の一本一本に至るまで美しさの為の精密な計算がなされている。すごく、きれい。声をかけるのを躊躇う。このままずっと名古ちゃんを見ていたい。傍らにいたい。あと少しだけ、もう少しだけ、このまま名古ちゃんを留めていたい。
 急速に膨らむ感情は、名古ちゃんのまばたき一つで弾け飛んだ。
 パチンッと、音まで聞こえた気がした。視線に気付いた名古ちゃんが私をまっすぐ見つめて首を傾げる。どうしたの? と言いたげに。私はどこか後ろめたさを感じながら上擦った声で答える。

「えっと、お茶。遠慮しないで飲んでね」

 名古ちゃんは小さく頷いた。それから、右手の人差し指を自身の唇にあてる。
 静かに? 不思議に思いながらも頷き返す。さらに名古ちゃんの視線を追って机の向かい側を見た。そこには牧之が肘をついて考えこむように寝ていた。口をわずかに開け、安らかな寝息が出入りしている。真面目に勉強しているのかと思えばこれだ。
 さて、どうやって叩き起こして説教してやろうかと考えを巡らせると、視界の端で名古ちゃんが動いた。
 本を置き、私のすぐ傍までやってくるとコップに手を伸ばす。麦茶を一息に飲み干して、氷だけ残ったコップを揺らす。カラランと音が鳴るが、もちろんそれくらいじゃ牧之は起きない。
 名古ちゃんが唇を結んだまま、にこっりと口角を持ち上げる。私は懐かしさと血の気が引くような恐ろしさを感じた。だって、私は知っている。この表情の名古はとんでもなくいたずらっ子なのだから。

 氷を一粒手に取って、猫のように音もなく牧之の背後に回り込む。Tシャツの襟もとを引っ張り、すばやく背中へ氷を落とした。

「ひゅおわああああ!?」

 飛び起きた牧之がごろごろと畳を転がり、机の脚に脛を思い切りぶつけた。衝撃で牧之と私の麦茶が波を打つ。こぼれないでよかった。

「っ――――!!」

 声が出ないほど痛いのか、丸くなった牧之は動かない。そこへ名古ちゃんが手当という名の追い打ちとして、新たな氷を患部に押し当てる。牧之の低いうめき声が机の下にこだまする。

「名古、やりすぎ! 牧之は寝ているのが悪い」

 止めに入った私の言葉に、名古ちゃんはハッと顔を上げた。私の顔を見て、すぐにいつも通りの口調ではーいと返事をした。

 騒動を終えて、牧之もようやく勉強に集中し始めた。
 私も余計なことを考えず数学の宿題に取り組む。時折麦茶を飲んで手を休め、忍ぶように名古ちゃんを見た。相変わらず別空間の美しさを纏わせながら本を読んでいる。詩集は一ページの文字数が少ないようだけど、ページを捲る音はほとんどしない。ゆっくりゆっくり読んでいる。彼女には文字以外に何が見えているのだろうか。
 私には分からない世界がその手中に収まっている気がして、羨ましくもあり、寂しくもある。同じ本を読めば少しでも分かるのかな。いや、無理か。毎晩同じ夜空を見ている牧之とだって感じるものが違う。理解したくてもできない。私たちはそれぞれがそれぞれの人間だから。

 もし、何でも手に入るとしたら私はフィルターみたいなものが欲しい。牧之の耳とか目とか五感が分かって、心で感じたものまで分かったら、ちゃんと牧之の隣に立てる気がする。理解して、感動を分かち合ってどこまでも進んでいけると思う。そんな未来を手に入れる為のフィルター。そう、欲しいのはその為の手段であって結果そのものじゃない。
 結果は同じでも過程が違えば価値が異なると思う。例えば牧之と結婚するにしたって、それまで何回デートしたとか、ケンカしたとかすごく大事だもん。

 そこまで考えて、ふと我に返る。

 私……今、牧之と……結……。

 急に全身が熱くなってきて、麦茶を飲み干し、ついでに氷をボリボリ齧る。嘘だ。絶対におかしい。こんなわけの分からない数学をやってるから頭がオーバーヒートしたんだ! 国語! そう、漢字の書き取りをしよう。写経っていうか無心になれるっていうか、とりあえずなんかこう……落ち着けるから! あぁ、もう! なんでシャーペンの芯ってすぐ折れるんだろう!
 必死に漢字を書きなぐり雑念を振り払おうとする。それでも視界の端で動くものがあると意識せずとも追ってしまう。

 牧之がちょっとトイレと言って立ち上がり、ややあって新しい麦茶を手に帰ってきた。名古ちゃんがそれに手を伸ばす。それから何分経ったか分からないけれど再び牧之が立ち上がる。何か訊かれたので無意識のうちにうんっと返事をし、全力で右手を動かした。しばらくすると台所の方からボコボコと水の沸騰する音がして、むわっとした熱気がこちらまでやってくる。おかげで全然火照りが治まらない。
 名古ちゃんが机に本を置いて立ち上がる。二人が何かを喋っているようだけど気にしている余裕はない。だって、私、すごく馬鹿なこと考えてて、どんな顔して牧之を見ればいいか分かんないんだもん。
 一文字前に何の漢字を書いたかも思い出せないまま、ひたすらに突き進む。時間感覚も狂いはじめたところで牧之の声が降ってきた。

「できたぞー」
「え!? 何が!?」
「何って、昼メシだよ。ソーメンでいいかって訊いたじゃん」

 目の前に置かれる白い山。紛うことなきソーメンだ。隣に置かれたザルにはもうもうと湯気を上げるとうもろこしが三本。茹でたてだ。

「お昼の時間だよー。休んで休んで」

 名古ちゃんがめんつゆの入ったお椀を運んでくる。薬味として刻んだオクラとミョウガ、すりおろしたショウガが入っていた。
 柱に掛けてある時計を見れば名古ちゃんの言う通りで、私の手からシャーペンがぽろりと落ちる。

「あ……ごめん。手伝えなくて」
「それだけ集中してたんだろ。羨ましいくらいだ」

 牧之がいただきますも言わずにずるずるとソーメンを啜った。飛び散るめんつゆが机に被弾する。

「ちょっと! ノート汚れるじゃんか!」

 慌てて私と牧之が広げていた課題を机の下に避難させる。名古ちゃんも同じように本を置いてから手を合わせた。

「いただきまーす」
「いただきます」

 つるつると喉を滑るようにソーメンを食べ、お皿の端に盛られたプチトマトを頬張る。馴染みのある酸味と甘さは私に産地を教えてくれる。これ、私の家の畑のトマトだ。
 めんつゆに入っているオクラも私の家ので、ミョウガはたぶん牧之の家の裏庭で育てている奴。ショウガはスーパーので、とうもろこしは……どっちだろう? 見た目じゃどっちの家のか分からない。後のお楽しみだ。
 ソーメンを食べ終える頃にはとうもろこしもいくらか熱気が飛んで、手で触れるくらいになる。握りしめるとじんわりと熱くて、付着していたソーメンを一本握りつぶしていた。

「牧之、ソーメン茹でた後に同じ鍋でとうもろこし茹でたでしょ」
「オクラもね」
「ずぼら」
「エコだよ。エコ」

 まったく……。ティッシュで手に付いたソーメン拭ってからとうもろこしに齧りつく。ぷりっとした実が弾け、甘い汁が口いっぱいに広がった。これはまさしく私の方の畑産。味もそうなんだけど歯触りの違いで分かるのだ。伝わらない例えだけれど、ウィンナーっぽいのが私の家。エビっぽいのが牧之の家。

「全部おいしいねー」

 名古ちゃんはにこにこと食べてくれる。ソーメンも音を立てないし、とうもろこしもほぐして食べている。上品だ。牧之は猫舌ならぬ猫手なので、とうもろこしを団扇で仰いでいる。涼しいようで涼しくない風がこちらにくるのでやめてほしい。
 蝉のライブは今が最高潮と言わんばかりに鳴り響いてうるさいくらいだ。途中、台所の網戸にアブラゼミがはり付いてあまりにもうるさかったので、牧之が網戸越しに指で弾いて撃退した。私がやりたかったのに。

 食べ終わり、私は率先してお皿を洗う。作ってもらったんだし、それくらいはね。洗う鍋は一つしかなくて確かにすごく楽でエコだった。私の家でやったらおばあちゃんが呆れると思うので真似しないでおこう。
 片付けも終わり机を台拭きで拭いたら、再び勉強道具を広げる。午後の勉強は早めに切り上げる予定だ。一番暑い時間は涼むのが一番だもん。
 数学の難しい問題を、解答と照らし合わせながらにらめっこ。五問くらいじっくり解いて、私たちはそろって外に出た。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ