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彼方から彼方の空へ

作者: 上谷七人


挿絵(By みてみん)

ILLUSTRATION◆一色恋



 オマエを天国へ連れて行こう。

 ――あの人形は、確かにそう言った。

 私は当然、嘘だと思った。


    ●


 またやられた。

 昼休み。学食に行っている隙をつかれた。

 [Access error #2475 --- error code 630 ]チャイルドベース56に正常なアクセスができませんでした。速やかに担任の教員または機材課に端末の提出を行って下さい。――自席の端末をスリープ状態から立ち上げた瞬間、まるで覚えのないエラー画面がルーナに襲いかかった。精神的な気絶から復帰するのに三秒。開きっぱなしだった口とエラー画面を閉じて、何事もなかったように着席する。

 こんないやがらせも、もう何度めか。

 ルーナは嫌悪感に目を閉じて深く息をはく。

何が嫌って、こんなことをされても憤ることもなく、どころか当たり前のことだと受け入れてしまっている自分が嫌なのだ。どうしようもなく、慣れきってしまっている。

 ――下層民根性、ついてるなあ。

 上層民と下層民。生まれた瞬間に身分が決まる社会。身体にICや接続器を埋め込むときに遺伝子情報も記録されるため、マザーベースにクラッキングでもしない限り、身分を偽ることもできない。もちろん身分の偽装は重罪だ。カエルの子は一生カエルでいるしかない。

 おっと。

 ――よくない。よくないよ。

 ルーナは沈んでいた気持ちを奮い立たせる。そう、決めつけるのはよくない。下から上にのぼることは決して不可能なことではない。ようするに、勘違いを正せばいい。実は優秀な血統であることを証明すればいい。

 例えばそう、上層民しか行けないようなレベルの高い学園へ行き、その中でも優秀であり続ければ――下層民などではなく、優れた上層民と認めるしかあるまい。

 ――負けるもんか。

 目尻に力をこめて、ルーナは端末を操作しはじめる。いじけたこともある。泣きそうになったこともある。それでも、これまで受けた数々のいやがらせに屈したことは一度もない。

 ルーナの指がキーボードを叩き始めると、すさまじい速度でウィンドウが浮かんでは消えていく。ないとは思うが、まずはデータの破壊を目的とした攻性プログラムを検索することにした。――クリア。まあ当然か。端末は学園の支給物だ。それを破壊しようものなら、いやがらせどころか事件になってしまう。ようするに恥をかかせたいのだろう。総合成績首位の生徒が端末を使い物にならなくして学園に泣きついた――明日には、そんな噂が流れるだろう。

 ルーナは一通りの操作を終えて、キーから手を離す。

 予想はしていたが、「外」からではどうしようもなさそうな症状だ。学園のデータを総括しているチャイルドベースにアクセスができないということは、接続の経由ポイントにアクセス拒否をされているか、自分のIDだけをブロックする防壁プログラムを通信経路のどこかに置かれた可能性が高い。どちらにしても、かなりの技術を必要するクラッキングだ。これをやった奴はよほど自分の技術に自信があるのだろう。

 だが。電戦――電脳情報戦略は、ルーナがもっとも得意とする科目だ。

 ルーナは慌てる様子もなく、首にある人工皮膚押し込んで接続器を露出させ、そこに端末に備えられているサイバーケーブルを差し込む。

「んっ……」

 神経接続はいまだに慣れることができない。身体の内側に走る電気は、ここには存在しない誰かの痛みを、自分がかわりに受けているような感覚がする。

 ルーナは向こう側に入る前に、端末に表示された時計をちらりと見た。

 次の講義まで、残り十分。

目を閉じる。急いでいるのでログインに必要なコードは手動入力しないで、長期記憶のログを辿って参照入力で済ませてしまう。この方法ばかりを使っていると記憶の再構成が行われないため、そのうちコードを完全に忘却してしまうことがある。

 誰もが幼いうちに教えられる、電脳世界へ潜る際の注意事項だ。

 意識のすべてが、こちらからあちらへ流れていく。

 それは、自分の中からもう一人の自分が生まれるような現象。すべてのヒトの脳を一カ所に集めた仮想世界は、現実と何一つ変わらない。

 意識が現実から完全に切り離される瞬間、「外側の自分」がこう思った。

 ――残り十分。ぎりぎり、間に合いそうかな?


 ログイン承認。アカウント名『ルーナ・アレデュリア』の接続を確立。

 貴方のパルス信号に幸あらんことを。

 〝Hello World〟


    ●


 私にも友人ぐらいはいる。

「わあ……ルーナちゃんの人体構造機能論の実技の成績、ダントツですね」

 下校の道すがら、小型端末で人の成績を勝手に見て喜んでいる彼女は、私の数少ない友達だ。

「それ、生体研究の授業なのに、実技だとすごいハードな体力テストさせられましたよ」

「そうなんですよ! わたしのクラスでもやったんですけど、もうきつくてきつくて。――あ、でもでも、棄権はしなかったんですよ」

 いや、胸を張って言うことではないと思う。

「そもそもですね! バーチャルワールドが恒常的に確立されたこの時代に、フィジカルスポーツなんて必要ないと思うんです!」

 この物言いはまた何かに影響されたのだろう。彼女は何にでもすぐ影響される子なのだ。

「それは違いますよ」

「え?」

「身体でも電子体でも、それを動かすのは私たちの脳ですからね。リアルで運動ができなければ、やっぱりネットでも運動ができないんです」

 このあたりの仕組みはかなりややっこしく、中等部の学生が学ぶような内容ではない。だから実は、私もよく知らなかったりする。

「むむ、そう言われてみれば――わたし、昨日『向こう』で転びました」

「――一昨日も、私の目の前で転んでいた記憶がありますけど」

 変わった子である。

 まあ、学園の嫌われ者であるルーナ・アレデュリアとこうして並んで歩いている時点で、まともではないのだろう。それに、彼女は私とは違う意味で、学園の中では浮いた存在だ。

 簡単に言ってしまえば、高名な政治家の娘。上層民ばかりの学園の中でも、最上層民と言っていいほどの立場にありそして――学園屈指の落ちこぼれ。

 でも彼女はとてもいい子だ。下層民の私を軽蔑することはないし、仲が良くなったきっかけも彼女のほうから私に接触してきたからだ。彼女がいなければ、間違いなく私は学園で孤立していただろう。「彼女に出会わなかった私」というものを、私はあまり想像したくはない。

 けれども、もう一人の私はそうは思っていない。

 ――うん、私たちの関係は歪だね。

 それは違うと思う。私と彼女はそれなりに長い付き合いだし、喧嘩もしたことがないし、

 ――なるほどなるほど。付き合いが長いほど友情は厚いってわけか。笑っちゃうね。それで説明した気になっているわけだ。喧嘩をしたことがない? 本音を言ったことがないの間違いでしょ。これでもわからないなら、はっきり言ってあげようか。あなたはね、彼女を見て安心しているんだよ。絶対的地位であるはずの上層民よりも、下層民がトップに立つことで「お前らは私より下だ」って見下してるわけ。さぞ気分がいいだろうね、最上層民のくせに落ちこぼれの彼女を側に置いておくっていうのはさ。でも彼女も同じことを思っているんじゃないのかな。どんなに優秀な成績をとっても、地べたを這うしかないあなたを見て笑っているのかも。

 嫌。

 ――嫌? ああ、なるほど。わかってるよ。私はあなただからね。

 なにが一番嫌って、

 それは、

 彼女が向けてくる善意を、どろどろの悪意で投げ返す自分が許せないんだ。


「――ルーナちゃん? 受信音鳴りっぱなしですけど、」

 暴走状態にあった心理的な回路が、単調な機械音と彼女の声で正常値に戻った。

「――あ、はい。ごめんなさい。ちょっと。ぼーっとしてました」

 なんとかそう返したものの、気分は最悪だった。心臓の音を肌で感じる。端から見ても顔色が悪いのではないかと不安になる。

 深呼吸のつもりで頭上を見上げると、いつも通り、なにひとつ変わることのない真っ黒な雲がそこにある。不意に、遠方から低い落雷の音。毎日決まった時間に行われる定期測定。何度やっても飛べない空を、知ろうとする努力。

「あの、ルーナちゃん、大丈夫ですか?」

 見ると、隣にいる彼女はずいぶん心配そうな顔をしていた。

 今度は笑って返せた。はい、とルーナはうなずいて、携帯端末を取り出してARFを目の前に展開させる。視線だけでメールソフトをポイントし起動させると、新着メールが一件きているという通達が画面中央に表示される。こんな時間にくるメールに、心当たりはなかった。

「どんなメールでした?」

 ずいぶんと明るい声色。彼女は気配りのできるいい子だ。

「ええと――あ。パ……父様からです」

「お父様ですか。たしか、学者様でしたよね」

「そうです。――なにやら、私に急用があるみたいです」

 用件は一切書かれておらず、工業区の第八研究棟にすぐ来て欲しいとだけ書かれていた。わざわざ下校の時間に合わせてメールをよこすあたり、本当に急を要するらしい。

「急用ですか。ではすぐに向かってあげて下さい」

「――ごめんなさい。なんだか気を遣わせてばっかりですね」

 本心だった。彼女はその言葉に一瞬だけ意外そうな顔をして、それからすぐに笑い、そしてほんの少しだけ胸を張って、ちょっとだけ自慢げに、

「そうですね。わたしはこれから、ルーナちゃんに教えてもらったサイバーカフェに遊びに行くことにしましょう」

 思いもよらない言葉に、ルーナは呆気にとられてしまう。

 それを見た彼女はおかしそうに笑って、

「わたしの自室にある端末はフィルタリングだらけで、サイバーカフェから接続すればいろんなことができるようになる――これもルーナちゃんが教えてくれたことです。私は今日めいっぱい遊んで、そして明日のルーナちゃんに『昨日はとても面白かった』って、お話しします。ですから、明日も一緒に帰りましょう」

 真っ直ぐな笑顔を向けてくる彼女を見て、ルーナは思った。

 彼女が友達で、本当によかった。

「――わかりました。その話、楽しみにしてます」

 無意識に浮かんだルーナの表情は、目の前の友達と同じものだった。

「はい。それではまた明日」

「また明日」


    ●


 いい子にしていれば、ずっと欲しがってたぬいぐるみを買ってあげよう。


 それは、はじめてのやくそくだった。

 パパはいつもいそがしくて、わたしはおるすばんばかり。泣いてばかりのわたしに、パパはいい子にしていればごほうびをくれると、やくそくしてくれた。

 わたしは泣くのをがまんしたし、きたなかったへたのかたづけもした。たまごをやいてお手つだいもしたし、かっていたペットのせわもちゃんとした。

 そうしたら、パパはほんとうにぬいぐるみをかってきてくれた。ねっとのせかいにももっていける、みんなかってもらっていたぬいぐるみ。すごくうれしかった。

 いい子にしていれば、パパにほめてもらえる。

 だからわたしは、これからもいい子でいよう。


    ●


 そういえば、パパに会うのは久しぶりだ。

 そう思った途端に気持ちがおさえられなくなって、気づけば駅から第八研究棟まで走っていた。父親の職場なので、第八研究棟だけはよく知っていた。一階にある無人のエントランス、職員を呼び出すためのチャイムの前までいくと身体の力が一気に抜けて、膝に手がついた。少しだけ休憩。ルーナはその場で乱れた呼吸を整えようとする。研究棟の中は空調がきいていて、汗で濡れたブラウスと肌の隙間に、温度差のある風が這い込んでくる。それが妙に心地良い。

 さすがに急いで走りすぎたせいか、なかなか落ち着いてくれない息切れに軽い苛立ちを感じていると、ふと突き当たりに見えるエレベーターの蛍光パネルが動いていることに気づいた。降りてきている、と思う間もなくエレベーターのドアが開いた。

「ルーナ!」

 線の細い、いかにも科学者といった風体の男が出てきて駆け足で近づいてきた。言うまでもなく、ルーナの父である。

 久しぶりの親子の再会は、抱擁による挨拶。身体を離して父親と向き合うルーナの表情は、学園の中では決して見せることのない、晴れやかな笑顔だった。

「――パパ、ちゃんと眠ってる?」

「はは、いきなり容赦ないなルーナは。大丈夫だよ、最低限の栄養はとっている」

 そう答えたあとにルーナ父は思い出したように、慌てて上着のポケットの中をまさぐりながらいつもより早い口ぶりで、

「そうだ。いきなりですまないが、これから第一研究棟にいってくれないかな。このIDを使って地下にある専用の高速エレベーターでいけば、すぐに着くはずだから」

 ルーナ父が取り出したのはゲスト用のIDカードだった。傷ひとつないそのカードは、滅多に使われることのないものだと見て取れる。反射的に受け取りはしたものの、ルーナには状況がまったく見えてこない。困惑のあまり開いた口がふさがらず、慌てながら、

「え、っと。ど、どういうこと? 第一棟って、私たちは入っちゃいけないんじゃないの?」

 徹底した階級制度はもちろん科学者たちにもある。第一研究棟は最先端の技術者が集う場所だ。今では人々の生活に欠かせないネットワークシステムの中枢もここにある。ルーナは以前父がこう言っていたことを覚えている。第一棟の中だけ文明レベルが一段上をいっている、と。他の研究棟は第一棟の研究の検証と証明をしているだけだ、とも。

「すまない。僕は本当に何も聞かされてないんだ。とにかくルーナを第一棟に連れてこいと上に言われてしまってね。そんなに時間はかからないらしいし、悪い話ではないということだから安心していっておいで」

「――私一人でいくの?」

 それは、心の中で思っていたことが漏れてしまったかのような呟きだった。

「もちろん。僕はくるなと念を押されてしまったしね。まあ、第八の研究員が例え見学でも、第一にいけるわけはないんだけど」

 一体何が気に食わなかったのか。ルーナは途端にそっぽを向いてしまう。頬を膨らませるその姿は、誰がどうみてもいじけた子供そのものである。

 実際のところ、ルーナの態度に意味はない。下層民が上からの指示を無視するなんて到底できるわけがないからだ。父――そしてルーナ自身も、それはよく知っているし、知っていた。それでも反抗して見せたルーナは、父にはどう映ったか。

「――いつもすまないと思っているよ。ルーナは僕を困らせたことなんて一度もないのに、僕はルーナを困らせてばかりだね」

 ルーナはそういう言い方は卑怯だと思った。なんだかもやもやする。嬉しくもあったし悲しくもあったしそれ以外の何かもあった。腹の中にある感情すべてをかき混ぜられた気分。

 長い沈黙の後、ルーナは自分よりも頭ひとつは高い父を見上げて、

「その専用エレベーターまでの道、わからないんだから教えてね」

「――ああ、もちろんだよ」

 たったそれだけの会話と、ほっとしている父親の顔を見ただけで、正体不明の感情のほとんどはどこかへ消えてしまった。それでもまだ、混濁とした何かの残りカスが腹の中をつついてくる。一瞬だけ、くすぐったさを我慢するように顔が引きつった。

 自分よりも前を歩く、細くても大きい父の背中を見る。さっきのことで怒ってはいないだろうかと思うと、不安でため息がでる。

 ――子供なんだな、私は。

 だって、自分のことなのに、自分のことがよくわからないのだ。


    ●


 専用のエレベーターというやつはやたら地下深くにあって、辿り着くまでに厳重なセキュリティ認証が必要な扉を四つも通る必要があった。案内をしてくれた父とはとっくに別れており、見知らぬ場所にたいするストレスを押し殺して、機械音声のガイドの案内にしたがってエレベーターを操作する。

 行き先を第一棟に確定するのに躊躇した。

 お腹に力を込めてボタンを押す。

 静かな横揺れを感じたのは最初だけで、あとは本当に動いているのかわからないほどの静寂。不安になってモニターを見ると、詳細な現在地と走行速度が表示されていた。かなり速く動いている。この分ではすぐに到着するだろう。

 敷設されている金属製の椅子に座ると、思わず身体の力が溶けた。誰も見てないしいいか。

 ――私に用事って、なんなんだろ。

 虚脱感に身を任せながら、ぼんやりとそんなことを考える。

 疑問にたいする答えは、いくら考えても出てくることはなかった。どんな内容であれ、第一棟の研究者が一学生を呼び出すことなんてあるのだろうか? それこそ地上と雲の上ぐらい違う世界の話だ。

 無意識に、今日何度目かもわからないため息が出た。

 もう考えるのはよそう。あと数分もすればわかることだ。

 世の中わからないことだらけだ――そんな結論を出して、ルーナは目を閉じる。

 このまま眠りたかったが、身体の奥底にある緊張が、眠らせてくれそうになかった。

 そんなルーナの気持ちなど知ったものかとばかりに、エレベーターは一分の狂いもなく目的地へ向かっていく。

 帰り遅くならないといいな――ルーナは今、そんなことを考えている。


 到着を知らせるアナウンスが静寂を破る。

 気を休める暇もなく、あっという間に第一棟に着いてしまった。エレベーターから出てみれば、第八棟とそう変わらない地下風景。扉はひとつしかなかったので迷わずそちらへいくと、IC認証を求められた。またかとうんざりする――というのは甘い認識だったと、すぐに後悔することになる。網膜スキャン、血液検査、殺菌処理、免疫処理、注射剤投与、さらには機密保持の誓約手続きを何度もさせられ、身も心もぼろぼろになってルーナは最後の扉をくぐり、広間らしき場所に出た。父親には絶対に見せられない顔をしている。

「お、きたね。君がルーナ・アレデュリア君――で間違いないかな」

 突然真横から声をかけられて、驚いた拍子に曲がっていた背筋がまっすぐになる。見ると、白衣の女がベンチに座っていた。化粧もせず髪もぼさぼさという女性にあるまじき野暮ったさは周囲にたいする無関心さのあらわれに違いなく、どこを見てもよれよれの服装は一体どれほど使い古せばそうなるのか。目を逸らすことなくルーナを見つめ、片手に缶コーヒーを揺らしながらにたにたと笑う姿は、顔面の小皺の数に反してずいぶんと子供っぽく見える。

「――そう、ですけど」

「ふふ、そんな固くならないでくれたまえよ。ここ数年は助手としかまともに会話してなくてねえ。他人との会話の仕方とか、いまいち覚えていないんだ」

 変な人だな、とルーナは思った。上層民が上下関係を気にしない態度を取るのは珍しい。それに、今の言い方は「身分など気にするな」と言っているようにも聞こえた。

「……えっと、父様に言われてここにきたんですけど、」

 白衣の女は感心するような息を漏らして、

「なるほど。不相応に冷静で警戒心が強いね、資料通りだ。どれだけの苦難を歩めば、中等生の段階でそれほどの人格を形成できるのか。まったく、感嘆の念を禁じ得ないよ」

 突然すぎて言葉が出てこない。

「ん? ああ、すまない。回答になっていなかったね。そう、君をここに呼びつけたのは私だよ。ついでに自己紹介もしておこうか。レベッカ・パスカネート、肩書きは色々あるけど、今この場ではLS計画の主任をやっている――と言うのがもっとも適切だろうね。よろしく」

 白衣の女――レベッカはベンチから立ち上がってルーナの前に手を差し出す。

「――よろしくお願いします」

 ルーナが握手に応じると、レベッカは意味ありげに笑い、それからうんうんと頷く。

「いやあ、しかしここの検査は面倒だったろう? だが、次にくるときは遺伝子鑑定だけで済むから安心したまえ。あの七面倒な検査は機密漏洩のためらしいが、経費の無駄としか言いようがないな。例えばそう、今では誰もが知っている、マザーベースがここ第一棟にあるという情報。これは本来極秘のはずだったんだよ。居場所が知れたら物理的に破壊される危険が出てしまうから、というのが理由だったと思うが――まあ、今は秘密が漏れたおかげでAN爆弾でも突破できないような場所に隔離されているんだがね。私としては、そちらのほうがよっぽど安全だと思うよ。――っと、失礼」

 何かの通信が入ったのだろう、レベッカの視線が中空に固定されている。ALFウィンドウは網膜に映像を投影するので本人以外からはただぼうっとしてるようにしか見えないのだ。ルーナはそんな様子を見ながら、目の前の女性はやたら口が軽い人だと思う。下層民に機密がどうのと話してもいいのだろうか? そういえばパパも聞いてもいないのに長話をはじめるんだよなあ、などと失礼なことを考えはじめる。

「待たせたね。どうやら準備ができたようだ、案内するからついてきたまえ」

 言うだけ言ってさっさと歩きだすレベッカを、ルーナは慌てて追いかける。しばらく無言でいたが、さっきからいろんな疑問が頭の中で浮かび続けていて、いい加減破裂しそうになっていた。ついには我慢できなくなり、

「――あの、レベッカ様は、」

「様はやめてくれ、そこまで下から見られるのは苦手でね。呼び捨て――は君には抵抗あるか。そうだな、せめて博士と付けて呼んでくれ。学位なら敬称にもなるだろう」

 有無を言わさぬ雰囲気があった。本気でいやがっているのが伝わってくる。

「――わかりました。えっと、レベッカ博士は、どうして私をここに呼んだんですか?」

 ふと、意識の断片が景色に違和感を感じた。横目であたりを見ると、先ほどまで歩いていた場所より妙に照明が明るいことに気づく。今通っているのは、最近増設したエリアだろうか。

「なるほど、もっともな疑問だ。だがその答えを目的地に辿り着くまでに口頭で説明しきるには困難を極めるね。それに、今から行く場所に到着すればおのずとわかることでもあるんだ。しかしそうだな、代わりと言ってはなんだが関連性のある話題を提供しようか。ルーナ君、まず『黒雲』について、君が知っている限りのことを私に聞かせてくれ」

「こ、黒雲ですか? え。あ、と、その、」

 まさかこちらが答える側になるとは思ってもいなかった。教科書にも載っていることなので簡単なはずなのに、緊張しっぱなしの頭はまともに働いてくれず、何度も口ごもる。

「黒雲、は、世界中の空を覆う黒い雲、のことです。高度約10km地点に存在し、地表からおよそ300m上空に、物質が存在すると、落雷が起こりその物質を破壊します。えっと、この『落雷』というのは便宜上の表現で、実際は放電現象ではなく分子分解光と言われている、未だ解明できていない現象です。別名『神の光』とも言われています」

「すばらしい、まるで教科書のような解説だね」

 あはは、と苦笑するだけのルーナだが、内心は結構自慢げだったりする。

 不意に、進んでいたレベッカの足が止まる。扉の前に立ち止まり、壁に設置してあるスリットにいつの間にか取り出した真っ黒なIDカードを滑らせる。あっさりと扉が開くと、その先は下へと降りる階段があった。レベッカは何も言わずに階段を降り始め、ルーナはその後を追う。扉から先は真っ白な部屋で、思わず細目になってしまうほど明るかった。どういう構造なのか、壁の一点を見ていると距離感がわからなくなる。

「原始的ですまないね、私も歩くのは好きじゃないんだが――この先は少しデリケートでね、電力を使った装置は極力控えたいんだ」

 そうなんですか、と空返事気味に答えるルーナ。

 真っ白な空間というのは、なんだか落ち着かない。

「さて、では話の続きをしようか。ルーナ君、雲のさらに上には、何がある?」

 ルーナはまた口ごもる。今度は緊張からではなく、あまりに現実感のない問いだったからだ。カエルが空を見上げても空の広さなど想像できないように、空を飛べない人もまた世界を覆う黒い雲の先を見通すことなどできはしないのだ。

 だからルーナは、先ほどと同じ、教科書通りの答えを持ち出した。

「神の国、天国があります」

 果たしてレベッカはにやりと笑い、

「――そう、その通りだ」

 突然、先ほどのレベッカの言葉が記憶の中で再生しはじめた。

 ――いやあ、しかしここの検査は面倒だったろう?

 なぜ急にそんなことを思い出したのかはルーナ自身もよくわからない。しいて言うなら記憶にあるレベッカは、目の前のレベッカと同じ笑みを浮かべているから、だろうか。

 ――だが、次にくるときは遺伝子鑑定だけで済むから安心したまえ。

 次にくるとき。確かにそう言った。

 改めて思う、自分は何故ここに呼ばれたのだろう、と。

「大昔のヒトは、空の上を目指していたそうだ。だが黒雲に阻まれて神の国へ行くことは叶わない。その挑戦は長い年月を重ねるも、どうやっても天上へいくことは出来ず、結局は諦めてしまうわけだが――ヒトの欲というのはそう潔いものではなくてね。『天国』という理想郷を求める欲は、そのままコンピューターの進化と脳髄の解明に置き換えられた。その結果生まれたのが、今や誰もが享受している仮想世界というわけだ」

 レベッカの声が、まるで壁越しで聞いているかのように遠い。一度火の付いた想像力は止まることがなかった。なぜ博士が私の案内をしているのだろう、なぜ天国の話なんてしてるんだろう、なぜ階段で降りているのだろう、――そう、それだ。今の今までなんで気づかなかったのか。そもそも、第一棟にくるために「地下深くにあるエレベーター」を使ってきたのだ。それなのに私は今、階段を降りている。どれほど深い場所にいるのか見当もつかないが、通学に利用している地下鉄よりも、はるかに深いところにいることは間違いない。

 ルーナは思わずにはいられない。

 ここは、異常な空間だ。

「だがね、ルーナ君、」

 名前を呼ばれたことで、意識が一気に現実に引き戻された。いつの間にか階段を降りきっていて、目の前には見たこともないような巨大で無機質な扉があった。見上げなければ扉ということにすらわからなかった。こんなに大きな扉になにを通し、なにを遮断すると言うのだろう。

 ルーナの驚きをよそに、レベッカはコンソールを操作しながら喋り続ける。

「仮想空間が確立されたことで、ヒトは充足したのかと言えばそれは違う。人類が作り上げた理想郷は、今もさまざまなソフトやツールによって拡張され続けているのがその証拠さ。ヒトの欲はなくならない。『こうありたい』と願う心こそが、仮想世界を作り上げたのだからね。現実を模倣し理想は生まれ、理想を目指し現実は更新されるのさ。――私だ、さっさと開門の承認をしてくれよ。――それは大丈夫だと説明しただろう? いい加減にしてくれないと、君をこのプロジェクトから外すことになるが――」

 ゆっくりと、巨大な扉が開いていく。レベッカは振り返り、ルーナと向き合い、

「待たせたね。この先にあるのが、人類の新たな『目標』さ」

「目標」

 すでに脳がキャパシティを越えていて、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた部屋から弾き出されたかのように、口から単語だけが吐き出る。

「そう、仮想現実を完成させた我々人類は再び、本当の理想郷――天国を目指す」

 一瞬だけ、呼吸を忘れた。

「そしてルーナ・アレデュリア君。君には、その手伝いをして欲しいんだ」

 そのときのルーナは混乱しすぎて、頭がいかれてしまったのだと思う。レベッカの言葉に対して、思わず笑ってしまいそうになった。

 だって、おかしいのだ。

 天上を目指すというくせに、こんなに奈落のような地下深くにいることが、ルーナにはおかしくて仕方ない。


    ●


 異形のモノが、そこにあった。


 巨大な扉の先にはドーム状の真っ白な空間があり、その中心部に巨大な物体があった。

 逆さ吊りの巨人。第一印象はそんなふうに思った。

 灰色の肌、頭だけ見ても自分より大きい、手足は金属の拘束具に縛られている、全体的に見れば人のようなカタチをしているが胸から腹までが開いていて中から無数のコードのようなものが飛び出ている。誰がどうみてもヒトではない。

 気味が悪い。

「十四年前の大規模落雷事故――は知らないか。君がまだ生まれる前の話だったね。とにかく、十四年前に世間ではそう言われてるものが起こった。が、真実は違う。雷ではなく彼――私たちは『エリヤ』と呼んでいるモノが、雲の上から落ちてきたのだよ」

 ぞっとする話だった。こんなモノが落ちてきたなんて、ルーナは一度も聞いたことがない。

「――コレ、生きてるんですか?」

「難しい質問だねそれは。細胞で成り立ってはいるが、構造はどの生物にも当てはまらない。意識のようなものも確認しているが、それがどこから発生しているかは不明だ」

 つまり生きているかどうかすらわかっていないわけだ。ルーナはもう一度、エリヤと呼ばれるモノを見上げる。――やはり、生物というよりは怪物に見える。いや、人に管理されているその姿は、むしろ人形か。

「彼はある意味では端末装置とも言えるな。エリヤを介して、マザーベースすら比較にならない超巨大なネットワークに接続できることが確認されている。それがどんなものか、これもわかってはいないがね。しかし、エリヤが接続者を導く先は――」

 レベッカは人差し指を立てる。

「黒雲よりも上空。これは、間違いのないことだ」

 驚きも、こう続けざまに起こると慣れてしまう。冷静になっていく自分を自覚しながら、ルーナはこれまでの会話から考え得る答えを口にする。

「つまり、私がここに呼ばれたのは、コレに接続して電子的に空の上へ行くため、ですか?」

「いい洞察だね、その通りだ。――ところで君はさっきから、エリヤをコレ呼ばわりするが、第一印象はあまりよくないのかな?」

「あ、い、いえ。そんなことは――ただちょっと、人とは思えないというか、その、」

 図星を指されてつい嘘をついてしまう。こんなモノ、誰が見ても気持ち悪いと思う。

「ふむ、そのあたりは感性の違いかな。恥ずかしくも主観で物を言わせてもらえば、私にはどうみても彼は人間にしか見えないよ。――さて、君が賢いおかげで説明する手間は省けたかな。さっそくだが、彼に接続して欲しいのだが、」

「――どうして私なんですか?」

「ん?」

「あ。えっと、その、接続なんて誰でもできるのに、どうして私がここに呼ばれたのかが、よくわからなくて、」

 重罪人に対する刑罰のひとつとして「接続器の機能停止」というものがある。そういった例外を除けば、この世界に住むすべての人は、電脳の世界へ行くことができるのだ。

「誰でもではないよ。例えば、そうだな――君は父親が大好きだろう?」

 突然の不意打ちに、ルーナはものすごい間抜けな顔になる。

「は? え? え!?」

 レベッカは、手をばたばたさせながら動揺するルーナを意にも介さず、

「それと同じで、エリヤもルーナ君が大好きなのさ。――いや、実際のところ、好意なのかはわからないがね。意識のようなものがあると言っただろう? 意識とはつまり表現選択ができるということだ。エリヤは接続者を選ぶ。つまるところ、君は天使に選ばれた人なんだよ」

 選ばれた、と言われてもエリヤのことを知ったのは今日がはじめてなのに、一体いつどこで選ばれたというのか。そもそもこんな気味の悪い人形に好かれても、あまりいい気分ではない。

 ふと疑問。まだ少し顔を赤らめながら、ルーナはそれを口にする。

「――あの、私以外にはいるんですか。その、エリヤに選ばれた人って」

「――いることにはいるが、私は君以外はいないと思っているよ。エリヤはとくに君が『お気に入り』のようだし、数値的にも、他の候補と比べても飛び抜けていたからね。だから正式な接続者としては君がはじめてだし、もし私の研究を手伝ってもらえるなら、君は人類史上初の天国へ到達した人物になるだろうな」

 いまいち要領を得ない答えだが、レベッカ博士が自分をべた褒めしていることはわかった。

「それに、もちろんタダとは言わないよ。正式にこの研究――LS計画の研究生として君を迎え入れたい。エリヤに選ばれた君は、間違いなく優秀だからね」

 今度のは心を動かされた。第一棟の研究員。それは、下層民どころか上層民の中でも「選ばれた者」にしか与えられない地位だ。しかも博士直々の勧誘。世界有数の頭脳に認められた。

 まだ幼いルーナの自尊心を刺激するには、十分すぎるほどだった。

「――エリヤに接続って、どうやるんですか?」

「近づけばいいだけさ。それだけで彼の方から手を差し伸べてくれる。私は向こうにあるモニターから見させてもらうよ」

 レベッカが視線で部屋の一角を示す。そこにはいくつかの機材があり、一本一本が腕よりも太いケーブルが中心部まで伸びている。ルーナがわかりましたと返事をすると、レベッカは相変わらずの笑みを携えたまま、機材のほうへ歩いて行く。

 ルーナは、レベッカに聞こえないように深呼吸をしてから、エリヤのほうへ歩き出す。

 正直言ってかなり怖い。近づけば近づくほど、エリヤの巨大さがわかる。肌のどこを見ても傷ひとつなく、それがかえって人間味のなさを否応なく感じてしまう。近づくほどに歩みが遅くなっていることに、ルーナ自身は気づいていない。

 25メートルほど近づいたところで、エリヤに反応があった。上半身を構成する無数のコードの中から一本だけが、ルーナの目の前まで伸びてくる。先端部分を見ると、サイバーケーブルと同じコネクタだった。これを接続器に繋げろ、ということか。

 ルーナはもう一度エリヤの顔を見た。目はどこにもなく、口元はぴくりとも動かない。

 度胸を決めた。目の前のコードを手に取る。とくに暴れるようなこともなく、こうして触って見ると、本当にただのサイバーケーブルだった。恐怖を感じる前に、半ばやけくそ気味に首の接続器を露出させて、コネクタを接、


 意識が切断された。


 目覚めると、真っ白な空間に立っていた。同じ場所。接続に失敗したのかと思った。

 違った。入ってきた大きな扉がどこにもない、レベッカがいるはずの場所が機材ごと消失している、そしてなにより、エリヤが人間サイズに小さくなっていた。

 エリヤは逆さ吊りではなくなっていた。背を向けているが、人間なら間違いなく骨が折れている角度で首を後ろに倒して顔だけがこちらを向いている。手足の拘束具がはずれていて、鎧のようなものに覆われた長い腕二本と足一本で立っている。さっきよりも、ルーナとの距離がずいぶん近くなっている。

 ここは、現実じゃない。

 ログイン認証などなかった。接続した瞬間、強引に「あちら側」へ、すさまじい力で引っ張り込まれた。まずい料理を食べて、いつまでも味が口に残っているような嫌悪感がある。嘔吐しそうになるのを懸命に堪える。

 ルーナは気分を落ち着けるため、深く深く息を吐く。電子体でも現実と同じように振る舞わなければならない。仮想世界で呼吸することを忘れると、現実でも呼吸ができなくなるからだ。

 時間をかけて平常心を取り戻し、うつむかせていた顔をあげた。

 すると、目なんてないのに、「あ。目が合った」と思った。

 もしかしたら、意志の疎通ができるかもしれない。試しにこちらから喋りかけてみよう。ルーナがそう考えた途端、現実では動くことのなかったエリヤの口が大きく開いた。


 ――あ■■■。


 ――なんだろう?

 エリヤはただ口を開けただけで、言葉も何も発していない。

 けど、今なにか、


 ――あ■し■――!!


『う、あ――』

 少しだけわかってきた。おそらくこれはエリヤの「声」だ。しかしそれは、人間が使うものとはまるで違う。言葉ではなく感情そのものを、脳に直接ぶつけられているような感覚。その体験ははっきりとした「痛み」があり、ルーナは思わず呻き声をあげる。

 ――こ、こいつ、

 ルーナの脳が、人間の感情の中でももっとも原始的な「恐怖」に反応した。それは、エリヤからあとずさるという逃避行動になって顕れた。

 それが引き金になった。

 エリヤの口が裂けて、次の瞬間、


 ――あいして。

 愛して。愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して!!


『――あ。あぁぁああああああぁぁぁあああぁあああああああああ!!』

 あまりの恐怖と苦痛に叫ぶしかなかった。

 脳に細い針がずぶずぶと埋まっていくような恐怖。それは声ではなく、どころか言葉ですらなかった。相手を顧みないあまりに一方的な願いはもはや呪いのようだ。心を折って、その折り目に「何か」を突き刺そうとしている。

 こんな。こんなの知らない。だってこれは、みんな、誰もが持ち得るもののはずなのに。

 ――アイシなさい。

『うるさい!』

 知らなかったし、思いもしなかった。

 ありのままの、剥き出しの「求愛」がこんなにもおぞましく許せないものだったなんて。

 ――オマエは、ワタシを愛さなくてはいけない。そうですね?

『か、勝手なことを、言うなぁ――っ』

 もう立ってもいられない。ルーナはその場に崩れるように倒れてうずくまる。涙と鼻水と涎がいっぺんに出てくる。生理的現象は現実よりも電子体のほうがずっと素直だ。目を閉じても耳を塞いでも口を閉ざしてもエリヤの「気持ち」が心を犯してくる。このままでは狂って死ぬと思う。誰か助けて――そんな願いも、呪いに塗り潰される。愛して欲しい。違う。そんなこと思っていない。自己否定。違うったら。

 こんな汚くて醜いものはもう嫌だ。

 やめて、

 やめてやめてやめて――

 どれぐらい経ったのかわからない。あるいは一瞬の出来事だったのかもしれない。うわごとのように拒絶の言葉を呟いていると、いつの間にか「痛み」が引いていた。

 鼻水をすすりながら、ルーナはエリヤを見やる。

 ――あいして。

 先ほどの激流のようなものとはずいぶんと違う、まるで叱られた子供のような「願い」に、ルーナはこちらの意思が通じたのだと悟った。顔を拭いながら、よろよろと立ち上がる。

「なんなのよ、あんた――」

 問いかけても、返ってくるのはルーナを求める感情だけ。生ぬるい臓物に抱きしめられているような痛みを感じて、頭を押さえる。

 ルーナは思う。こいつはやっぱり人形なのだ。呪いをふりまく人形だ。

 気持ちが悪い。心の底からそう思った。

 腹の中で真っ黒な炎が我が身を焦がしていた。それが一体なにで、どこから生まれているのかはわからなかったが、いずれにしてもよく燃え上がった。炎の熱さに耐えるかのように、ルーナは強く唇を噛む。

「ここから帰してよ」

 ――あいして。

 実のところ、さっきからずっとこの世界からログアウトしようとしているのだが、一向に反応がない。エリヤが生む仮想現実は根本的に仕組みが違うのだろう。一生この世界に閉じ込められる――死ぬよりも恐ろしいその想像が、生まれた瞬間に破裂して、目の前の人形にぶつけるだけの言葉になった。

 泣き叫んだ。

「帰して!!」

 瞬間、身体中に引力が働いた。ここに引き込まれたときと同じ、まるで魂をわしづかみにされているような閉塞感。

 現実に帰れると喜ぶ間もなく、ルーナの電子体はその場から消失した。

 ――あいして。

 最後までルーナを求め続けたエリヤに、ルーナの魂が答えた。

 ――愛して欲しいなら、いい子でいなきゃ。


 目が覚めた。

「大丈夫かい。ルーナ君」

 言葉と共に、目の前にハンカチが差し出されて、ルーナは意味もわからず受け取った。自分がうつぶせに倒れていて、顔が涙や鼻水や涎でひどいことになっているのに気づくのに時間がかかった。

 えっと、

 脳が混乱している。現実と仮想の境界が曖昧だ。こちらとあちらの景色が、細部を除けばまったく同じだったのが大きいのだろう。時間をかけて現象を整理し、事実を認識していく。

 ――そうか、私は、

 ぐちゃぐちゃになった顔を拭いながらルーナは立ち上がって、眼前の巨人を見上げる。

 ネットの世界とは違う、逆さ吊りに手足の拘束という、まるで囚人のようなエリヤの姿を見てルーナは薄く笑った。ざまあみろ。お前みたいな人形はずっとそうしているのがお似合いだ。置き去りにしたはずのもう一人の自分が心の隅に居座っている。どす黒いなにかを少しでも晴らすために、すべてエリヤのせいだと決めつける。だって、こいつは人形なんだから、どんなに当たり散らしてもいいのだ。

「ふむ、異常というほどの異常はなさそうだね。安心したよ」

「え。――あっ、その、」

 すぐ側にレベッカがいることを思い出して、ルーナの中にあった大火が急速に冷めていく。なぜだかものすごく恥ずかしい気持ちになった。

「えっと――はい、大丈夫です。問題ありません」

「ふふ、そうかい。なによりだよ」

 そういってレベッカは、心底嬉しそうに笑った。

「さて、それでは私の研究室にいって何があったかを記録したいところだが――その前に、君が研究を手伝ってくれるかどうかを確認しておきたい。ラボには部外者をいれてはいけないという規則があるからね」

 ルーナは少し考え、

「――断った場合はどうなるんでしょうか? その、私はもうエリヤのことを知ってしまいましたし」

「――君は本当に優秀だな」

 さっきから、というより現実に戻ってきてからだが、レベッカの様子が少しおかしい。笑っているのに笑うのを我慢しているような、くすぐられて吹き出すのを堪えているような顔。

「君の意思をねじ曲げてまで協力してもらうつもりはないから安心したまえ。ただし、記憶だけは消させてもらうよ。ここにくる前にいろんな検査をさせられただろう? あの中にはそういう処理も含まれていてね。少なくとも第一棟に到着してからの記憶は綺麗さっぱりなくなるだろうね」

「それは――」

 それはむしろ、ありがたいことだとルーナは思った。ここで起こったことなど、できることなら忘れ去ってしまいたい。

 でも、それじゃあ、

「手伝ってくれると言うなら、もちろんそれ相当の待遇はさせてもらうつもりだ。そうだね、学園生を続けたいというならそうしてもらっても構わない。こちらの出す条件は、定期的な接続実験に参加してくれることと、最終的にエリヤを通じて天上へアクセスしてもらうことの二つだ。それ以外は可能な限り、君の希望を聞き入れよう」

 レベッカのその言葉に引っかかりを覚えて、ルーナの思考が中断される。

「あの、私がさっき接続したのは天国じゃないんですか?」

「ああ。あれはあくまでエリヤという端末の中に入っただけだよ。まず中継点とも言えるエリヤの中へ入り、そこから彼が持つ独自の回線を使って天上へ向かう、というのが我々の計画だ。もちろん、じっくりと分析と精査を行ってからやるつもりだ」

 ルーナはなるほどと納得する。今の説明だけ聞くとエリヤは、人形というよりも巨大なコンピューターのようにも思えた。聞いておいてなんだが、先ほどの「エリヤの世界」は天国というより地獄のようだった。この人形は天国から落ちてきたらしいし、地獄という表現はあながち間違っていないようにも思う。

 心の中の疑問に決着をつけて、ルーナはもう一度考え始める。

 といっても、はじめから答えは出ていた。答えなんていうのは、問題が出現した瞬間に決まっているのだ。だからルーナが考えていたのは、その過程。自分が出す条件についてである。

「――レベッカ博士。今、私の希望を言ってみてもいいでしょうか?」

「もちろんだとも。それに、後から希望を追加してくれても構わないよ、無理なものは無理だと言うけどね」

 ルーナは頷いて、考えながら喋り出す。

「まず――学園には通学し続けたいです」

「学業は若さの特権だ。謳歌したほうがいいね」

「レベッカ博士の研究がうまくいって、私が高等部の卒業、あるいは学士課程に入ったら、私を一時的な研究生としてではなく正式な第一棟の研究員として雇って欲しいです」

「それはもちろん。むしろLS計画が成功した時点で、私は君を助手として誘うつもりさ」

「私が研究生になったことを、周囲に漏らさないで欲しいです。とくに父様には」

「極秘の計画だからね。もとよりそのつもりさ。君に支払うつもりの給与もバレないようにするよ。――ふふ、学生には大きすぎる額だから、遊びに使いすぎないようにね」

「――最後に、父様の学位審査をやり直して欲しいです。下層民とか、そういう差別のない公平な状態で」

「――君が希望すれば、待遇のいい研究室に転任させることもできるが?」

「いえ。公平で行ってくれるなら、それでいいです」

「なるほど、よくわかったよ。今挙げた四つの条件を飲もう。他にはあるかな?」

 あまりにあっさりとした承諾に、ルーナは目を丸くする。

「は、はい。今のところは、ないです」

「では、今から君はLS計画の研究生だ。私と共に天国を目指そうじゃないか」

 現実感のない台詞と一緒に差し出されて手を、ルーナは迷いなく握った。

 そう、迷ってはいけない。

 確かに、エリヤにはもう接続したくない。あんな痛くて怖い思いは二度とごめんだ。

 けど、その程度の恐怖に屈するのなら、私が今まで歩いてきた道のすべてが無意味になる。

 思い出す。幼い頃、同い年の上層民に遊び場を取られたことを。初等部でいい成績を取ったら、お前は下層民なんだから立場を弁えろと言われたことを。それがきっかけでクラスでいちばんえらい上層民に目をつけられていじめられたことを。電脳世界へ逃げられないよう、サイバーケーブルを隠されたことを。端末に洒落では済まないウィルスを仕掛けられたことを。消しても消しても出てくる辛辣なワード。現実でも囁かれる陰口。もちろんすべてが悪意に満ちていたわけではない。だけれど、いやむしろだからこそ納得がいない。いい点数を取ってパパに褒めてもらえるだけでよかったのに。ただ認められたいだけだったのに。それすらもままならない、息苦しく生きにくい私の世界。

 負けるもんか。

 いつものように、そう思う。

 ――それは一体、なんのために?

 腹の底から声が聞こえた気がした。

 今はまだ、その問いかけはルーナに届かない。


    ●


 失礼します。という言葉と同時に、研究室からルーナ・アレデュリアが出てきた。入れ替わりに入室する助手と目が合って、言葉なく互いに礼をしてすれ違う。

 ドアが閉まり、少しの間をおいて、

「いやあ! 実際に見てもいい子ですねえ、ルーナちゃん。しかもかなり可愛い!」

「――君は自分の少女趣味を暴露しにきたのか?」

「いやだな博士。冗談ですよ、冗談」

 助手とは思えないその態度に、レベッカ博士はため息を漏らす。ずいぶんと頭の軽そうな言動をしているが、LS計画で彼が受け持つ役割はかなり重要なものだ。

「――で、なに話してたんです? 白魔の間と違って、ここはモニターできませんからね」

「たいしたことは話してないさ。エリヤに接続したときの内容以外は、施設の仕組みとか次の予定とかを決めておいた。――く、ふふ、ふふふふふ」

 突然というより、もう我慢できないと言った具合で、レベッカ博士は笑い出す。

「――ま、気持ちはわかりますけどね。とんでもないですねあの子、はじめてエリヤに接続したのに短時間で意識を回復。そのあとすぐに『問題ありません』ってあれ、モニター見てる奴ら全員笑ってましたよ」

「私も我慢はしたのだけどね、歓喜のあまり笑ってしまったよ。彼女は最高の素材だな、おそらく今回でLS計画は大きく前進するだろう」

「そのまま『天国』のことが解明したり?」

「そこまでは楽観していないさ。それに、天国など存在しない」

 その言葉に、助手がわざとらしく周囲を窺うフリをする。そして道化っぽい口調で、

「ちょっと勘弁して下さいよ博士。誰かに聞かれたら脳みそ引っこ抜かれちゃいますって」

 レベッカ博士はまったく取り合わず、

「そもそも『天国』などという抽象的な表現で納得する者の思考が信じられないよ。学習過程で生命の営みに光エネルギーが必要と教わるはずなのに、その光が一体どこからくるのかと疑問に思わないのが不思議でならない」

「いやー、黒雲を観測する装置の製造は禁止されてますからね。それに、今の世はバーチャルワールドっていう娯楽に夢中ですし。そりゃあ空の上なんかよりも自分の脳みその中のほうが素敵なことがいっぱいに決まってますよ」

 あんな真っ黒な空の上なんて、俺も行きたくないですし――そう言って助手は笑う。

「黒雲――人と神の境界、なんて馬鹿らしい話だ。あれは人にとって、障害としての機能しか持たない。あれは壁であり、あれは、」


「あれは、人工的に造られた兵器だ」


「――ま、大いに賛同しますがね。ほんとに聞かれちゃったら洒落になりませんし、この話はこのへんにしましょうよ」

「ふん、君は男のくせに臆病だな」

「いや、俺が臆病っていうより博士が――ああそういや、よかったですよ博士の身になにもなくて。ほんと、エリヤに殺されると思ってましたもん。扉を開けるときとか、モニターから目を離す奴とかいましたし」

 レベッカ博士の眉間の皺がムッと深くなる。

「それは何度も大丈夫だと言ったろう」

「いやいや、本来ならルーナちゃんみたいな適合者以外は近づいた瞬間頭の中めちゃくちゃにされるんですよ? エリヤに嫌われてるなら即死だし。しかも今日いきなり言い出したでしょ。適合者と一緒にいれば問題ないって。なんなんですかあれ」

「前例があるんだよ。ケース1のとき、彼女の友人が同伴したことがあってね。あのときもエリヤはなにもしなかった」

 沈黙。一瞬、助手の目が点になった。

「ちょ、聞いてないですよそんな話」

「あれ。そうだったかな? まあたいしたことではなかったからな」

 レベッカ博士の言う、たいしたことないは「研究材料としての価値がない」という意味であり、おそらくその場にいた当事者たちにとっては、人生を左右するような事件だったのだろう。助手は心の中で深く同情した。

「――ああ、それもあった。博士、なんかケース1のこと隠してませんでした? ルーナちゃんは二番目の適合者のはずなのに、はじめてみたいなこと言ってましたよね」

 そこでレベッカ博士の笑みが、深みを増した。

「あれはとっさに思いついたものなんだが、我ながらいい判断だと思ってるよ。ルーナ君はとても自尊心が強いからね。優秀さや彼女にしかできないことだと思わせることで、やる気を出してくれると考えた」

 助手は愛想笑いでそれを返す。どん引きである。しかもこの博士の場合、悪気があってやっているわけではないので、なおのことタチが悪い。

 まあ、もし自分が案内役をやっていて、同じ質問をされたら同じように答えるだろう。

 なぜなら――


「それに、気分が悪いだろう? 自分の前任者であるケース1は、精神を汚染されすぎて植物人間になっている、なんて言われたらさ」


    ●


 月日は流れ、ルーナの学園でのクラスがひとつ上がった頃。ついにLS計画はフェイズ2へと移行することになる。

 つまり、ルーナが試験的に天上へとアクセスする日がきた、ということである。

 この日まで、いろいろなことがあった。

 クラスがかわって、唯一といってもいい友達と一緒のクラスになれたとか。

 ちょっかいを出すのも飽きてきたのか、最近の学園生活は割と平和だとか。

 引っ越しをして、学園からも研究室からも近くなって楽だとか。

 パパが第八研究棟から第四研究棟に栄転したとか。

 もちろんいいことばかりではなかったが、改めて振り返るといいことしか思い浮かばないぐらいには、今のルーナの気持ちは幸せに満たされていた。

『準備はいいかな、ルーナ君』

 レシーバーから、レベッカ博士の声が聞こえてきた。

「はい。いつでもいけます」

 ヘッドギアのセーフティ機能を解除して、お尻の位置を調整してリニアシートにしっかりと座る。変わったと言えばこれもそうだろう。エリヤとの接続は直接ではなく、この筐体のコックピットを介してするようになった。

『――何度も説明したが、今から君が接続するアクセスポイントは、本当になにもわかっていない。おそらく通信はできなくなるだろう。ログアウトは君の自由意思でできるはずだが、万が一ということを考えて強制切断機能も備えてある。だがそれは――』

「脳にダメージがかかる可能性があるからできる限り使わないで欲しい、ですよね。わかってます。帰れなくても冷静に対処します。あ、でも、もし帰れなくなったら学園に休学届をお願いしますね」

 レシーバーから、フッと笑う音がした。

『わかった。それでは接続を開始する』

「お願いします」

 網膜に見慣れたメッセージが流れる。


 接続コマンドを確認。五秒後に接続処理を開始します――。エイジスによるリアルタイム保護を実行中――クリア。接続先の検疫を実行中――クリア。接続を確立します。

 〝Hello Heaven〟



 そうして私は、仮想現実の「自室」に降り立つ。

 この世界の私は、今ではマザーベースが生むネットワークよりも自由に動ける存在だ。

 ホームポイントに専用の部屋を構築して自分好みの内装にカスタマイズしたし、研究の一環としてゲームセンターなんかも造ってみたりした。やりたい放題である。

 アクセスコードを入力する。扉が出現し開けるとそこは、見飽きるほどに見た真っ白な空間。

 ここだけは、いくら変えようと思っても変えられなかった。

 おそらくこの場所がエリヤの「核」なのだろうと思う。

『さて』

 呟いたのは、自分に言い聞かせるためだ。歩を進める。中央には顔だけをこちら向けて三足で立つ、灰色の呪い人形がいる。

『――相変わらず気持ち悪いなあ』

 最近では、こいつに近づくたびにそんな言葉を飛ばすようになった。内心の恐怖を悟られたくないからというのは、十分に自覚している。エリヤは私の言うことなら大抵のことは聞くが、それでも隙あらば私に気に入られようと、呪いを吐き出してくる。

 手を伸ばせば触れる距離まで近づいて、一度深呼吸。電子体は内心の緊張を正確に読み取って、冷や汗という現象を処理することで、現在の私の状態を表現する。余計なことしないで欲しい。

 意を決して、エリヤの大きな腕の一本に両手を置く。

『――お願い。私を空の上へ連れて行って』

 身体を掴まれる感覚。直後、真下から爆発が起こったような衝撃を確かに感じた。

 景色が一変した。

 一瞬だけ、側にエリヤがいることすら忘れた。本当に空を飛んでいるようだった。風圧すら感じる。下を見れば荒廃した土地と、密集した建物群が見える。

 この景色は、私たちの世界そのものだと思う。

 そして天上には黒い雲。肉眼でもわかるほど近い。もうとっくに射程内にはいっているのに、神の裁きが落ちてくる気配はない。架空の肉体は上昇し続ける。地上が遠くなっていくのに謎の寂しさがあった。もうすぐ黒い雲の中へ入る。恐怖で思わず目を閉じてしまう。何秒経っても電子体はなにも感じない。当たり前だ。それでもやっぱり怖くて、心の中で五秒かぞえてから、おそるおそる目を開ける。そこには見たこともない、


 青い空が――



挿絵(By みてみん)

ILLUSTRATION◆一色恋




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