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たった一つの煌めく星

作者:ナツ
 ナル・ノリムスは、イュス族の娘として生を受けた。
 自然と共に生きるイュス族は、大陸の東を流れる河のほとりで、9つの部族と共に平和に暮らしていた。だがそれも西に大きな帝国が興るまでの話だ。

 他の部族は帝国の侵攻に飲みこまれてしまったが、ナル・ノリムスの父親が長を務めるイュス族は未だ独立を保っている。

 河の傍の森林に逃げ込んだイュス族は、ぬかるむ大地に足を取られる帝国軍人を木の上から攻撃し、殺さない程度に痛めつけた後、森の外へ放り出した。
 森を焼いて炙りだそうにも、急な通り雨や湿気のせいで上手くいかない。
 戦いが長引けば長引くほど、帝国軍は消耗していく。一方、イュス族は深い森を自由自在に駆け回り、なかなか姿を見せない。

 長の指導の元、イュス族は決して帝国人を殺さなかった。
 1人でも殺してしまえば、帝国軍は復讐に燃え、数の力で圧し潰してくるだろう。

 帝国側はしぶといイュス族に根負けし、ちっぽけな河の民の存在をひとまず棚上げすることにした。
 目障りではあるが、どうしても滅ぼさなければいけない程の敵でもない。
 平らげるべき土地はまだまだ残っていた為、帝国はイュス族の存続を許すことにした。

 イュス族側から国境を踏み越えないこと。
 領地を訪れた帝国人は手厚く歓迎すること。
 年に一度、王の誕生日には献上品を差し出すこと。

 決して平等とはいえない取り決めを経て、イュス族は滅亡の危機を免れた。

 ナル・ノムリスは、和平の証として帝国に預けられた。
 帝国はイュス族の姫を、客人として扱うことにした。素直に従えば、決して粗略には扱わないと諸外国に示す目的もあった。

 ナル・ノムリスはたった7つで家族から引き離された。
 同伴者とは帝都の外で別れる。蛮族の姫は、荷物を細い肩に背負い直し、案内の兵士の後に1人続いた。

 宮殿の者は皆、ナル・ノムリスの哀れな姿を予想していた。怯え、震えながらやって来るに違いないと。

 ところが宮殿に姿を現した蛮族の娘は、まっすぐに背筋を伸ばし、一切の気遅れを見せなかった。
 滑らかな褐色の肌。濃く長い睫に縁どられた切れ長の瞳。
 夜空を閉じ込めたような瞳の下に刷いた魔除けの朱も凛々しい娘の美しさに、人々は息を呑んだ。

 荒々しく原始的な魅力に満ちた蛮族の娘は、半裸同然の恰好をしていた。
 鮮やかな刺繍が施された胸当てと、腰履きの下衣。複雑な模様が彫られた腕輪に首輪、そして羽のついた髪飾り。
 見ようによっては華やかだが、王の住まう宮殿にはふさわしくない。

「姫。どうぞこちらでお召替えを」

 世話係の女の申し出を、ナル・ノムリスは軽く首を振って断った。

「これは父が用意した我が部族の正式な装束です。衣の色と飾りにはそれぞれ意味がございます。尊敬、従属、親愛。イュス族の敬意をどうかお納め下さいませ」

 7つとは思えないしっかりとした口上に、居合わせた帝国人はぽっかり口を開けた。

 ナル・ノムリスは形ばかりの短い謁見を済ませ、宮殿の一番はじにある離れに押し込められた。
 それで十分なもてなしになると、王は考えたからだ。ナル・ノムリスは一切の感情を表に出さず、粛々と新たな住まいを受け入れた。


 王の第3子であるラティフが離れに忍んできたのは、ナル・ノムリスが10になった頃だ。

 自分と同い年でありながら、「可愛げがないほどしっかりしている」と噂の姫が気になって堪らなくなったラティフは、好奇心で胸をふくらませながら境界の生垣によじ登った。

 登り切ったところで視界に飛び込んできたのは、木の棒を振り回しているしなやかな少女だった。
 ラティフは一瞬で全てを奪われた。
 蛮族の姫は生気に溢れ、キラキラと光を振りまきながら見えない獲物を狩り立てていた。
 くうを見据えた鋭い目つきに背筋がぞくりと震える。

 ナル・ノムリスは、人の気配に気づき鍛錬の手を止めた。
 小さな侵入者が、生垣にしがみついてこちらを見ている。真っ先に彼女が連想したのは、無鉄砲な子ウサギだった。

 金色の柔らかそうな髪。空よりも濃い青色の瞳。高い鼻梁に薄い唇。肌は透けるように白い。
 繊細に整った造作は、非常に洗練されている。
 世話役の女と甲冑姿の番人くらいしか周りにいない生活なので、ラティフのようにいかにも帝国らしい容姿の人間を見るのは随分久しぶりだった。

「あなたが、イュス族の姫?」

 金色の子ウサギは生垣からぴょこんと顔を覗かせたまま、尋ねてきた。
 彼の表情に侮蔑の色はなく、なぜか感嘆が浮かんでいる。

「はい、そうです」

 高価な生地の衣服から貴人の子だと分かる。
 ナル・ノムリスは居住まいを正し、丁寧に答えた。

 『お前はその小さな手に1000もの同胞の命を握るのだ。体で恭順を示し、心で誇りを守れ』
 そう父は言った。
 ナル・ノムリスが父の言いつけを忘れたことは一度もない。

 彼女は気を引き締め、瞳を輝かせる少年の前で屈んだ。

「お名前をお聞きしても許されるでしょうか、尊い方」
「僕は、ラティフ。王の子だ。3番目の」

 宮殿に出入りする貴族の子供だとばかり思っていたナル・ノムリスは驚いた。
 辺りを見回し、声を低める。

「王子殿下が来ていい場所ではありません。どうぞお戻りくださいませ」
「誰も気にしやしないよ。父上の寝所以外なら、どこへ行っても何も言われない。空気みたいなものなんだ」

 無邪気な声でラティフは告げた。
 そして、あっけにとられたナル・ノムリスの瞳を、まっすぐに見つめてくる。

「あなたは東の河の民なんだってね。僕、知りたいことが沢山あるよ。そのお化粧にはどんな意味があるの? 首飾りと腕輪には? 君は毎日何をして過ごしてるの?」

 立て続けに尋ねたあと、王子はしょんぼり眉をさげた。

「……一人ぼっちで、寂しくはない?」

 ナル・ノムリスが宮殿にきて3年が経つ。その間、彼女の心を気にした者は誰もいなかった。
 長らく縁のなかった喜びが、胸の中に湧き起る。

「寂しい、と言えば帰して下さいますか」

 自分と年の近そうな少年という気安さもあり、つい口を滑らせた。
 失言に気づいた彼女は慌てて平伏し「申し訳ございません。何不自由ない暮らしを、ただ有難く思っております」と言い直した。

 ラティフは軽々と生垣を乗り越え、ナル・ノムリスの前に飛び降りた。
 それから同じように両膝をつき、彼女の顔を覗きこんでくる。

「何の不自由もない暮らし? そんなわけないでしょう。つまらない質問しちゃってごめんね」

 乾ききった土に、思いがけず降ってきた恵みの雨。
 それがナル・ノムリスにとってのラティフだった。

 その日以来ラティフは、宣言通り頻繁に離宮へやってくるようになった。
 周りの者も別段咎めようとしない。
 不思議に思ってラティフに尋ねると「僕の母様は、帝国人ではないんだ。父様が奴隷商人から買い取ったんだって」とからりとした返事が返ってくる。

 どうやら複雑な事情があるようだ。
 口を噤んだナル・ノムリスだが、ラティフはすらすらと続ける。

「僕を産んだあと、母様は宮殿を出る許しを得て、今は街で暮らしてる。新しい家族もいるみたいだ。僕も別に苛められているわけじゃないから、そんな顔しないで」

 どんな顔をしているのだろう。
 とっさに頬に手をやったナル・ノムリスを見て、ラティフは朗らかに笑った。

「それより、あなたの話が聞きたい。成人の儀を終えるまで、僕は外に出られないんだ。いい加減、この暮らしにもうんざりしてるんだよ」
「空気のような存在なのに、自由はないのですか?」

 どうしても気にかかり、問い返してしまう。
 ナル・ノムリスの疑問に、ラティフは答えず肩をすくめた。

 どうやら王子殿下は暇を持て余しているようだ。
 ナル・ノムリスが7つまでに教わった色んなことを、ラティフにも教えることにした。

 イュス族は名字を持たないこと。ナルもノムリスも両方名前であること。
 色にはそれぞれ特別な意味があること。星や風の読み方。生き物の狩り方、処理の方法。

 文化も風習も違う遠い国で出会った優しい少年は、誇り高い蛮族の話を、心底楽しそうに聞いてくれた。
 ナル・ノムリスは次第に王子の訪れを待ち遠しく思うようになった。

「いいなぁ。僕も行ってみたい。僕もいつか、あなたと同じ景色を見てみたい」

 お世辞でも愛想でもなく、彼は心からそう言っているのだとナル・ノムリスには分かった。


 5年の間、イュス族は帝国との取り決めを一度も破らなかった。
 森のすぐ外の平野でひっそりと慎ましい暮らしを続けていた。
 イュス族は脅威になりえないとようやく納得した帝国は、部族長の娘を故郷へ返すことにした。
 帝国で死なれるのは体面が悪かったので、適当なところで厄介払いしたかったというのもある。

 5年という年月をもってしても、ナル・ノムリスを帝国風に染め直すことは出来なかった。
 彼女は己を鍛えながら、来たるべき自由に備えていた。
 森に戻ったはいいものの、狩りが出来ないようではどうしようもない。
 ラティフがこっそり入手してくれた弓を引き、空の鳥を撃ち落す。
 落ちてきた鳥を毟って血抜きを施し、ラティフに捧げると、王子は嬉々として持ち帰り、焼き鳥にしてまた持ってきた。
 世話人の目を盗みながら2人でかぶりついた焼き鳥は、とても美味しかった。
 ラティフがあんまりガツガツ食べるので、ナル・ノムリスは笑ってしまった。

「殿下は、素朴な味付けがお好きなんですね。宮殿には美味しいものが沢山あるのに。……でも私も、何もつけずに焼いた鳥が一番好きです」

 ラティフはきょとんとし、それから照れくさそうに俯いた。


 人目から隠されてきた為、ナル・ノムリスの離国に興味を示す者は少なかった。
 その少ない見送りの中に、ラティフが混じっている。

 支度を済ませたナル・ノムリスは、宮殿にやってきた日と同じ衣装に身を包んでいた。
 5年分の成長に合わせて新調されたそれは、先日故郷から送られてきたばかりの品物だ。
 真っ平だった胸はささやかに脹らみ、腰にもくびれが出来ている。
 青い果実を思わせるナル・ノムリスの美しさに、ラティフは嘆息した。

「このままここにいてと頼んでも、聞いては貰えないんだよね」
「……恐れながら、それだけは承服しかねます」

 ナル・ノムリスは膝を折り、ラティフ王子の手を取った。
 彼の手の甲に軽く唇を落とし、帝国風の別れの挨拶を済ませる。

 頑なにイュス族の生活風習を変えようとしなかった娘の、精一杯の譲歩だ。
 ラティフはぐっと奥歯を食いしばり、別れの痛みに耐えた。
 そうだ、こんな場所にいつまでもいない方がいい。自分に言い聞かせ、涙を堪える。

「殿下のことは忘れません。西の風に当たる時は、殿下のことを思いだします。約束します」
「……僕も忘れない。いつかきっと会いに行くから。その時は、僕をあなたの婿にしてくれる?」

 ナル・ノムリスは大きく目を見開き、数秒固まったのち、にこりと笑った。
 切れ長の瞳に煌めく夜空が色を深める。

「イュス族は自然と共に生きる河の民。殿下には耐えがたい暮らしかと存じます」

 ナル・ノムリスは微笑みながら窘めた。
 勇気を振り絞ってプロポーズしたのに、まさか覚悟を侮られるとは。
 ラティフ王子はむすりと眉根を寄せた。

「ここより耐え難い暮らしがあるとは思えないな。西の風が吹く度、思い出して、ナル・ノムリス。あなたは僕のもので、僕はあなたのものだ。約束するまで、帰さない」
「――分かりました」

 ナル・ノムリスは目の前の、恐れを知らない少年が好きだ。
 凝り固まってしまいそうな孤独と偏見を癒してくれたナル・ノムリスの恵みの雨。
 彼が自分を望むというのなら、喜んで差し出そう。

「私は18で長になります。その時、同時に婿取りも開かれるでしょう。どうぞ遅れずいらして下さい、殿下」

 蛮族の娘はそう言い置いて去っていった。


    ◇◇◇◇◇


 ナル・ノムリスが河のほとりの故郷へ戻ってきてから、6年が経つ。

 彼女は誰もが欲しがる強く美しい女へと成長した。
 野生馬に飛び乗り、弓を駆使して大きな獲物を仕留められるようになった。
 河も平原も、ナル・ノムリスは等しく狩場とし、鍛え上げた細腕を存分に振るった。
 かといって男のようでは決してなく、編み込まれた長い髪や見事な曲線を描く身体は、彼女が極上の女であることを示している。

 ナル・ノムリスが16で選んだ刺青は、ウサギと鳥。
 いずれ族長になるのだから、蛇や鰐がいいのではないか、と父らに助言されても、ナル・ノムリスは頷かなかった。

「ラティフを忘れない為の模様を刻みたいのです」
「……帝国の王子がこんな辺境に来るものか。口約束など忘れ、都で帝国の姫を娶るだろう」
「来なければ、諦めます。その時は、新たな夫の望む模様を彫りましょう」

 父は渋々引き下がり、ナル・ノムリスの腕と胸には立派なウサギと鳥が彫られた。
 もっと可愛いウサギが良かった。
 心の中でこぼしながら、刺青の痛みを喜びと共に受け入れた。これで、いつでもラティフを感じられる。

 言い寄ってくる男は多かったが、彼女は誰も傍に寄せつけず、初恋を胸に抱いたまま18を迎えた。
 成人の儀を済ませたナル・ノムリスが大きな岩の上に立つと、待ちかねたとばかりに歓声が湧き起こる。

「よく集まってくれた、誇り高きイュスの民よ。たった今、宣誓を立ててきた。これからは我が声に応え、我が導きに従え」

 羽や宝石の沢山ついた髪飾りのせいで、頭が重い。
 それでも凛と顔をあげ、彼女は集まった同胞に長として初めての挨拶をした。
 応、と怒号にも似た大きな返事が空気を震わす。

 静まるのを待って、大岩の下に陣取ったナル・ノムリスの父が、これからの段取りを説明し始めた。

 若者たちが勇ましく胸を張りながら、群れの前に出る。
 婿取りが始まるのだ。
 新しい族長に選んで貰おうと、それぞれが得意なことをアピールしていく。

 ナル・ノムリスは全く聞いていなかった。
 ひたすら目をこらし、群衆の中にラティフを探す。
 たとえイュス族の恰好をしていても、白い肌の男がいれば必ず目につく。
 だが幾度探しても、それらしき男は見つからない。

 ラティフは必ず来ると欠片も疑わなかったナル・ノムリスの心に、失望が押し寄せてくる。

 日にちを忘れてしまったのだろうか。
 それとも、気が変わった――?

 『あなたは僕のもので、僕はあなたのものだ』

 確かにラティフは、そう言ったのに。
 落胆を顔に出すまいと、ぐっと拳を握りしめる。

 握りしめた瞬間、ナル・ノムリスは人の気配を感じ、勢いよく背後を振り向いた。
 これほど接近されるまで気づかなかったとは。
 重い髪飾りのせいでよろけそうになりながら、己の未熟さに腹を立てる。

「おっと!」

 記憶よりも低く、それでも確かに懐かしい声がすぐ上から降ってきた。

「この色と石、長にだけ許された髪飾りだ。そうだろう?」

 素早く振り仰ぐと、そこには18になったラティフが立っていた。

 袖なしの上着を素肌に羽織り、ゆったりした下衣を革紐で締めている。
 イュス族の装束に身を包んだラティフに、ナル・ノムリスは思わず見惚れた。
 惜しげもなく晒された腹筋は見事に浮き上がっていて、細く薄かったあの頃の体とは全く違う。

「ちゃんと覚えていたのに、褒めてくれないの、ナル・ノムリス」

 未だ混乱中の彼女に、ラティフは微笑みかけた。

 背が高くなった。あの頃は、肩が並んでいたのに。
 髪が短くなった。あの頃は、一つに結えるほど長かったのに。
 男らしくなった。あの頃は、愛らしかったのに。

 ナル・ノムリスは唇を引き結び、自分を支えた人の胸をぽかり、とひとつ叩いた。
 美しく端正な顔立ちは健在だが、もう子ウサギとは呼べなくなった男の胸を、続けてもう一つ叩く。

「……遅いっ!」
「遅くない。ちゃんと間に合ったよ」

 そうかもしれないが、現れないではないかと怖かった。
 ナル・ノムリスが何かに怯えたのは、これが初めてだ。
 どんな時も必死に守ってきた矜持が揺るがされたのだ、殴ってもいい気がする。
 抗議しようと口を開きかけ、ナル・ノムリスは固まった。

 強い執着が、ラティフの美しい瞳を昏く翳らせている。
 こんな瞳をする人ではなかった。彼はどこまでも無邪気で、明るかった。
 離れている間、一体何があったのだろう。
 改めて見てみれば、供の1人も連れていない。

 ラティフはぐい、とナル・ノムリスの腕を引き、自分の元に引き寄せた。
 軽く身を屈め、耳元で囁いてくる。

「もしかして、来ないと疑ったの、僕の奥さん。僕が間に合わないと。約束を忘れたと、疑ったの?」

 違う、と言いたいのに、唇が動かない。
 獰猛な鰐を前にした時より、命の危険を感じた。

「この日の為に生きてきたのに、あっさり僕を諦めて、あいつらの中から夫を選ぶ手はずだったのかな」

 そうだ、と頷けば、大岩の下で固唾を呑んで成り行きを見守っている若者らが狩られてしまいそうだ。
 夫の嫉妬で貴重な男手を失うわけにはいかない。

 ナル・ノムリスは掴まれていた腕を振りほどいた。
 振りほどかれたラティフの顔に、悲しみがよぎる。
 彼女は改めて手を伸ばし、彼の顎を掴んだ。
 ぐい、と引き寄せ、驚きに目を見開くラティフに宣言する。

「もちろん信じていたとも。私はおまえのものだからな。もっと早く来て欲しかっただけだ」

 丁寧な言葉遣いは、ナル・ノムリスを守る殻だった。
 離宮にいた頃、敬語はやめて、とどれだけラティフに請われても、頷くことは出来なかった。

 だが、ここは帝国ではない。イュス族が暮らす平原の、大きな岩の上だ。
 お互いを隔てる壁は消え去り、ようやく対等に話せるようになったのだ。

 ナル・ノムリスの砕けた口調で、ラティフの機嫌は一気に直った。

「……うん、ごめん。一瞬でも不安にさせてごめんね。この服を仕立てるのに手間取っちゃって」

 得意げな顔で自分の上着を摘まんでみせる。

「どうかな? 似合ってる?」
「ああ、誰よりも」

 ナル・ノムリスは即答し、今度こそ夫の首に飛びついた。
 しっかりした腕が彼女の腰に回され、軽々と抱きとめられる。

「もう王子じゃないけど、婿に貰ってくれる?」

 ラティフが小声で尋ねてきた。
 ナル・ノムリスは頷き、しがみつく手に力を込めた。

「私が好きになったのは、帝国の王子じゃない。ラティフだから、嫁になると約束した。お前はもう私のものだ。……今更逃げられると思うなよ」


 初めて会った時のような鋭い目つきで念をおされ、ラティフは再び全てを奪われた。

 何度も何度も夢に描いたその人が、想像以上に美しく成長し、こうして自分を待っていてくれた。
 たとえようもない喜びに胸が塞がれる。

 帝国の第3王子は流行り病で亡くなった、ということになっている。
 食事に毒を混ぜるくらいでは殺せないと悟った兄が刺客を放ったのだが、ラティフはそれを返り討ちにし、顔を焼いて自分の服を着せた。
 所詮は背格好が似ているだけの別人。兄はラティフが逃げたとすぐに分かっただろうが、それ以上の追っ手は来なかった。
 下町に潜伏し、ラティフ王子の葬儀を遠目に見送る。
 涙も怒りも湧いてこない。ようやく逃げられた。ただひたすらに安堵した。
 街に降りた母は、本当はどうなったのだろう。新しい家族を持って幸せに暮らしているという話は嘘ではないかと疑っている。

 兄の予定では、ラティフももっと早くに退場する予定だった。
 それもいいか、と半ば諦めていたのに、ラティフは彼女に出会ってしまった。
 ナル・ノムリスの傍にいたい一心で、食べ物に気をつけるようになった。夜、寝室で眠るのを止めた。


 帝国を出た後、ラティフはイュス族の暮らす土地をまっすぐに目指すのは避けた。
 見張りがつけられていないと確信が持てるまで、ナル・ノムリスには会えない。
 ようやく平穏を手に入れたイュス族を巻き込むのは、流石に憚られる。

 髪を切り、訛りを変え、傭兵の真似事をしながら各地を転々とし、1年かけてようやく辿り着いた。
 間に合って良かった。
 間に合わなければ、ナル・ノムリスの夫を殺すことになっただろう。
 彼女は同族殺しを決して許さないはずだ。
 自分を愛さない唯一の人を前に、壊れない自信はなかった。
 全てが終わる前に、辿りつけて良かったとしみじみ思う。


 その夜、ナル・ノムリスはウサギと鳥の刺青の話を夫に聞かせた。

「ええ~、僕がウサギ?」
「ああ。子ウサギみたいだった。色が真っ白で。……そういえば、今はそうでもないな」
「日に焼けたのかもね。鳥はなんだろう」
「ほら、私が弓で落としたやつだ」
「焼き鳥か!」

 思い出話が次から次へと湧いてくる。
 離れていた間の話を、ラティフはしたがらなかったので、ナル・ノムリスも深くは尋ねなかった。
 見えないところが傷つき弱っている生き物は、そっとしておくのが一番だ。
 暖かく優しい回想に浸り、それから再び抱き合う。
 ラティフはようやく手に入れた幸せを、朝まで離さなかった。

 ラティフがイュス族の暮らしに馴染んでいくのを、ナル・ノムリスは愛情深く見守った。

 初めての狩りにも付き添ったし、どこへ行くにも一緒だった。
 周囲の皆は、ナル・ノムリスの過保護ぶりと嫉妬深さをからかったが、彼女が本当に守っているのは同胞なのだと、ラティフだけが知っている。

 


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