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なかないで、ハニー。
作:梶原ちな



 

 泣いて、泣いて。
 またあした、頑張ろう。

 ココロの中で繰り返す。
 まるで、呪文のように。
 そうすれば寄りかかった背中が、わずかにうなずいてくれるのを知っていたから。




「いた」

 夕焼け色に染まった顔をみたら、また涙が出てきてしまった。
 これだから、彼に見つかるわけにはいかなかったのに。

 だれもいない特別教室の教卓の下。
 もぐりこめばすっぽりとおさまる、その感覚が昔からとてもすきだった。

 チョークの粉が散って、きらきらとひかる床。
 下の隙間から聞こえる部活動の声。
 冷たい鉄の板が三方からあたしを覆い隠して、見えるのは黒板ばかり。

 消し忘れてしまったらしい白線が、整然と並ぶ。
 曲がることなく、崩れることなく、整列する文字。
 そして、その横に並ぶイビツでみっともない白。

 だんだんと曲がっていく下手くそな字をバカにされたのは初めてじゃない。
 けれど教育実習に来て、生の声を聞いて、こんなに傷つくものだなんて思わなかった。

 授業計画と板書計画を書き散らしたノートには、嫌になるくらいの赤。
 理想と現実。計画通りになんていくわけがない。
 夢の先には、いばらが生い茂っていた。

 いつの日からか、小さな笑い声が気になってしかたなくなった。
 セキばらいに体がすくんだ。
 放課後、教卓の下で泣くようになった。

 そんなときだ。
 彼が現れるようになったのは。

「また泣いてんの。今日はうまく書けてるじゃん」

 教卓に隠れるあたしをのぞき込んだ彼は、受け持ちのクラスの生徒だった。
 印象はいたって普通。
 真面目でもなく、やんちゃでもなく。

 彼は放課後になるとあたしのもとへやってくる。
 教室じゃ、口も聞いてくれないのに。

「おせじなんて、いらない」

 毎度のことに慣れてしまって、彼に対して敬語も使わなくなった。
 泣いているのを見られるのも、もう何度目なのか。

 教室では緊張のあまり話すこともできないけれど、彼の前だと言葉が自然に口をついて出た。
 自分でも張りつめていた線がゆるんでいくのがわかる。

「おせじじゃねーって。ほんと、うまくなったよセンセイ」

 ほめられて、落ち込んでいた気持ちがほんの少し持ち上がる。
 彼がセンセイと呼んでくれるたび、傷つくためだけのいばらが離れていく。
 認められるというのは、やっぱり嬉しいものだ。
 ゲンキンな自分にあきれ返りつつも、頬が緩むのを抑えられない。

「……ありがと」

 彼はそのまま黒板の前に立って、そしてゆっくりと座る。
 あぐらをかいたその姿勢は、背筋が伸ばされていてとてもきれいだ。
 白いシャツは夕陽に染まり、頼りない肩は大きく見えた。

「よし、こい」

 そして、このお決まりのセリフ。

 教卓は三方囲われているけれど、黒板の方向だけはなにもない。
 彼はここで泣いているあたしを見たとき、黙って後ろ向きに座り、最後の壁になってくれた。

 泣いている姿を隠してくれようとするその行動がうれしくて。
 彼の背中にひたいを寄せたのは、完璧にあたしの甘えだった。

 センセイなのに。
 いいオトナなのに。

 だけど、本当にうれしくて。
 伝わる鼓動は、逆立った神経をしずめて涙を吸収していく。
 これが今では習慣になっていて、いけないと思う反面どうしてもやめられない自分がいた。

「も、うだめ。こんなのは、おしまい」

 もう、やめなくちゃいけない。
 あたしは教職者なのだから。
 生徒を導く立場にあるのに、導かれてしまっては元も子もない。
 彼の前で泣くのは今日で最後。

 頼りない、でも頼りにしてきたその背中を押し返した。
 まさか振り返った彼が、あたしの頭を引き寄せるなんて思わずに。

「ちょ、」
「こんなのって、なんだよ。俺は背中じゃなくて、こうやって泣いて欲しかった」

 力強い腕は、顔が押し付けられた胸は、火のように熱かった。
 あの鼓動は、もっと近距離で。
 今まで聞き取ることもなかった息づかいまでもが耳に残る。

「泣けよ。またあしたから頑張ればいい、そうだろ?」

 抱え込まれて。
 教卓と彼はあたしを隠して、涙に導く。

 情けないけれど。
 本当にどうしようもないけれど、泣き声がもれた。

 泣いて、泣いて。
 またあした、頑張る。
 そんないつもの強がりを彼は覚えていてくれたらしい。

 シャツに吸い取られた声と涙。
 顔が押し付けられた胸は、背中よりもたくましく思えた。




「泣くなら、俺の所。それ以外では泣くの禁止。特に教室」
「は?」

 頭上から降ってきた声に顔を上げれば、夕焼け色に染まった彼の顔。
 教卓の下の隙間からは、すでに夜があふれていた。






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