ドクターズファミリー ケース3
<栗原翔太君の場合>
ボクのお父さんは、泌尿器科の医者をしている。お母さんも小児科の医者をしていた。ボクを産むまでは。
小学3年の頃、ボクは作文で、将来医者になって世の中の困っている人を助けたい、と書いた。その頃は、本当にそう思っていた。いや、少し違う。そう思っていると思っていた。
最近、それはウソだと思うようになってきた。将来医者になるのかと思うと、ボクは憂鬱になる。医者って、ボクの中では、「楽しくない」職業だ。お父さんがボクに「医者って言うのはな、……」と言い出すと、ボクは逃げ出したくなる。作文だって、お父さんが期待しているって思ったから書いたんだ。ボクはずっといい子だった。
お母さんは、ボクに医者になれとは言わない。
「翔太の好きにすればいい」と言う。
でも、ボクは知っている。お母さんもまた、ボクに医者になってほしいんだ。
去年の正月、ばあちゃんちへ行った時、知子おばちゃんは、ボクに言った。
「翔太、大きくなったらお父さんとお母さんみたいなお医者さんになるんでしょ?」
いつからかな。こういう言葉が何となくイヤになってきたのは。
今年の正月は、塾の中学受験合宿があったから、ばあちゃんちに行かなかった。受験勉強は好きじゃなかったけど、ばあちゃんちに行くよりいいかなって思ったさ。親戚が集まると、必ずボクの話が一回は出るんだ。何かね、居心地悪いんだ。
そうそう、去年の正月の話だったね。知子おばちゃんが、ボクに将来の話をした時、お母さんは、言ったんだよ。
「医者になりたくても、偏差値がね。ね、翔太」
こういうのさ、「翔太の好きにすればいい」って言う言葉と矛盾してるでしょ? お母さんのこういう所、ボクいやなんだよ。だったら、お父さんのように「医者になれ」ってはっきり言われる方が、まだマシだよ。
ボクが医者という職業が何となく嫌いになったのは、小学5年の時に同級生からからかわれたことが原因の一つになってると思う。
「泌尿器科ってさ、チンチンいじるんだろ?オマエの父ちゃんって、スケベだあ」タクヤもトモヒロも股を広げて体を左右に動かしながら、ゲラゲラ笑った。
せめて、お父さんが「外科」とかだったら、もう少し格好よかったのに。
お父さんは、手術がうまい……らしい。時々透析シャントの話を聞く。腎臓が悪くなるとおしっこが作れなくなるから、透析をして、老廃物を出すんだって。ボクは、シャント術という手術をするのは格好いいと思う。だから、タクヤとトモヒロに
「泌尿器科はシャント術をするんだよ。」と言ったら、二人はキョトンとした。
トモヒロが
「シャント術って何だあ。」と聞くと、
タクヤはまたゲラゲラ笑い出して、
「ばっかだなあ、お前。シャント術は、チンチンが『しゃんと』するように手術をするんだよ。」とバカなことを言った。
ボクの透析の話は全然聞こうとしないで、
「何だあ、それ〜」
「翔太の父ちゃん、やっぱりすけべだあ」
とうとう、二人で手を叩いて踊りだした。
もっといやな事があった。
ツヨシが言ったんだ。
「医者ってさ、本当は金儲けのことばっかり考えてるんだよ。父ちゃんがそう言ってた。医者は信用ならんって。」
ボクのお父さんが毎日どんな生活をしているか、何にも知らないくせに、いい加減なこと言うな。ボクは、お父さんの悪口を言われているみたいで、悲しかった。
お父さんは、いつも仕事が忙しい。小学校の6年間で、一度も運動会に来てくれたことがない。授業参観だってそうだ。
お母さんから、「お父さんは患者さんの命を救う仕事をしているんだからね。運動会はお母さんが行くから」と言われていたから、「運動会に来てほしい」なんて言ったことがなかったけど、トモヒロの所なんか、毎年必ず、お父さんが派手なシャツ着てきてビデオを撮ってるんだ。やっぱり、いいなって思ったさ。うちは、お母さん一人か、お母さんとばあちゃんの二人だった。
日曜日だって、お父さんに遊んでもらったことって、ほとんどないんだ。遊園地に行ったことが一回、あとは、飛行機のプラモデルを一緒に作ったことが一回。家にいるときは、お父さんは、大体ぐうぐう寝ている。
夏休みの感想文は、いつも、じいちゃんと遊んだこととか、お母さんと花火を見に行ったことばっかりで、お父さんのことが書けない。友達は、お父さんと魚釣りに行った、とか、キャンプをした、とか書いてくる。ああ、そういえば、アミちゃんとこは、お父さんがいないから、淋しいのはボクだけじゃないんだけど。
6年生の頃、一度だけお父さんに聞いたことがある。
「お父さん、医者ってさ、やってて楽しい?」
お父さんは答えた。
「そうだな、医者だけじゃなくてどんな仕事でもそうだろうが、いつでも楽しいってわけじゃないさ。だけどな、99回苦しい思いや悲しい思いをしたら、次には、とっても嬉しいことが待っている。だからな、その99回を逃げずに乗り越えることが大切なんだ。医者の楽しみはその繰り返しでやってくる」
何だか、わかったようなわからないような答えだった。
「とっても嬉しいことって?」
ボクの素朴な疑問だった。
「病気で苦しんでる患者さんが、元気になって退院していくことさ。患者さんが嬉しそうに『ありがとうございました』って言ってくれるんだよ」
何か、期待はずれの答えだった。
「それが、とっても嬉しいことなの?」
「そりゃあ、嬉しいさ。その言葉のために仕事してるようなもんだ。男はな、仕事に命をかけなくちゃならん。そうすると、ご褒美が待ってる」
うーん。やっぱりよくわからん。
お父さんがいつも忙しいのを知ってるから、ボクは、医者って大変だよなあって思っていた。だけど、「ありがとうございました」って言ってもらうために99回も苦しいのを乗り越えなくちゃいけないなんて、冗談抜きで憂鬱だよ。ボクにはできない。お父さんのこと、心の中で自慢に思ってるけど、でも、自分がそういう生き方ができるかって聞かれたら、それは……考えるだけで気が重くなるんだ。
お父さんのお腹には、手術の痕がある。一緒にお風呂に入った時に聞いてみた。そしたら、胃潰瘍で胃を半分取ったって言ってた。仕事中にたくさん血を吐いたんだって。ストレスが溜まると胃から血が出ることがあるらしい。お父さんに言わせると、「男の勲章」ってことになっている。
「お前も医者になって、困った人たちを助けろ」と言われても、小学3年生の頃のように素直に返事ができなくなってきた。だって、ボク、手術なんか受けたくない。99回も苦しい思いをして、胃まで取って、そのご褒美が「ありがとうございました」って、なんか、すごく地味じゃない? イチローとかだとさ、”何とか賞”とかもらって、インタビューに答えて、みんなから沢山の拍手を貰ってるよね。
中学受験に向けて、4年生から頑張ってきた。友達が遊んでるときに、ボクは塾に行くか、夜はお母さんがつきっきりで問題集を解いた。塾の先生から、「かなり頑張らないと難しいです」と言われて、どういうわけかお母さんが真剣になった。
お母さんと一緒に勉強するのは、マジでストレスだった。
図形の問題に手こずっていると、
「何で、こんな簡単な問題がわからないの。補助線一本かけば終わりじゃない」
と、大きな声でボクを叱る。
そんなことを言われたって、わからないものはわからないんだ。
ボクの横で、段々イライラしてくるのがわかるんだ。
う〜〜って思っちゃう。お母さんと喧嘩するほどボクは子供じゃないつもりだし。
でも、とにかく頑張らないと中学は公立校になる。もし合格しなかったら、今度は3年後に高校受験だ。それはいやだ。今まで受験のために塾通いしたんだから。
そんなわけで、時々切れそうになるのをぐっと我慢して、中学受験にこぎつけた。そして、何とか志望校に合格した。多分、ぎりぎりだったと思う。
ボクは今、中高一貫校に通っている。高校受験がないからそれはちょっと嬉しいんだけど、
「高校に上ると、受験で新たに入ってくる優秀な人が増えるから、エレベーター方式で上る奴は相当頑張らないとダメだ」と、お父さんに言われている。
中学受験が終わって、ちゃんと合格できたんだから、本当言うと、ちょっとゆっくりしてもいいような気がしてたんだけどな。でも、「医者になるためには、今が大事だぞ」ってお父さんに言われる。
「今が大事」「今が大事」これじゃあ、ずっと大事ってことじゃないか。
もしも、もしもだよ、医者以外に選択肢があるとしたら、ボクは、天文学者になりたいなあ。
山の上に、自分の天文台を作るんだ。口径1m級のさ、デカイ反射望遠鏡を取り付けて、コンピュータで制御するんだ。
お母さんにそんな話をしたとき、
「バカじゃないの。そんなんじゃ、食べていけないでしょ。」
って、ボクの夢、ぶち壊し。
お母さんの発言のどこがボクの気持を尊重してるんだろう。
結局、医者しかないんだよ。お母さんの頭の中には。
少しボクの好きな話をしていい?
ボクね、さそり座のアンタレスが大好きなんだ。綺麗だろ?あの赤色。
綺麗なだけじゃない。 600光年だよ、そんな遠くの星が、地球からこんなに綺麗に見えるんだ。すごいと思わない?二重星ってところも、いいよね。
一昨年の3月に、アンタレス食があったの、知ってる?
見たかったんだけどな、できなかった。とっても悔しかった。お父さんは仕事で忙しかったから、全然アンタレス食の話ができなくて、お母さんに話しても、ちっとも理解してもらえなかった。一等星の食がどんなにすごいことなのか。しかも、アンタレスだからね。本当に、見るべきだったんだ。
次に見れるとしたら、おうし座のアルデバラン食がある。2016年だから、まだまだ先。ボクが22歳の時だ。22歳。何してるんだろう。ヒゲ生えてるかな。親孝行して医学部生かなあ。ため息がでちゃうね。
ボクが天体に興味を持ち始めたのは、じいちゃんが星が好きだったから。ボクがまだ小学2年生の頃、じいちゃんは望遠鏡で月の表面を見せてくれた。ものすごく感動した。そして、その年の誕生日のプレゼントに子供用の望遠鏡を買ってくれたんだ。じいちゃんの望遠鏡みたいに立派じゃなかったけど、それなりに見えるんだよ。
「この望遠鏡を丁寧に扱えるようになったら、もう少し上等のを買ってやるからな」
じいちゃんはそう言った。
でも、次の望遠鏡を買ってもらう前に、じいちゃんは死んだ。
風呂場で倒れているのをばあちゃんが見つけたんだ。
じいちゃんが、さそり座を教えてくれた。じいちゃんは11月2日生まれでさそり座なんだ。小学3年の夏休み、じいちゃんは、天の川にかかるさそりの尻尾付近のM6、M7、そして、心臓のアンタレスを教えてくれた。
「じいちゃんが死んだら、あの、アンタレスになって、翔太のことを見守ってやるから。」
じいちゃんは自分が死ぬことを予感していたのだろうか。じいちゃんがアンタレスになったのは、その年の冬だった。
お母さんがずっと一緒にいるの、正直言って、鬱陶しいんだ。ボク、悪い子だろ?でもさ、
「翔太のためよ」
って、それ、ボクが憂鬱になるようにわざと言ってるの?
「翔太のために、お母さんは、仕事を諦めているのよ」
そんなの知るかよ。ボクのことはいいから、だったら仕事してくれよ。
できることなら、大声で叫びたいさ。
わかるだろ?ボクが憂鬱になるの。
夜、おにぎり作ってくれるのも、苦痛なんだ。
「勉強で疲れたら、食べなさい」
って、何だよ、それ。
お願いだから、ボクのこと、放っておいてくれよ。
ただ、そう思いつつ、腹減ったら、つい、おにぎり食ってしまう自分も情けないんだけどさ。
だから、余計お母さんは、ボクが喜んでるって思っちゃうよなあ。
でもね、お母さんのいい所。お料理が上手いんだ。ものすごく速いよ、夕飯の準備なんか。
話しかけると怒られたりする。
「今、忙しいから後にしてちょうだい」
腕、2本しかないはずなのに、パッと冷蔵庫開けて、パッと材料取って、「あらら」とか言いながらガスの火を細めて、さっさっと刻んだ野菜なんか入れて。誰かと競争してるみたいな勢いで作るんだ。見てて面白いよ。味?うん、おいしいと思う。お父さんも、
「お母さんの料理、うまいなあ」と言う。
同級生にはたくさん、医学部目指してる奴がいる。そう、ボクが入学したのは、医学部進学率が高いことで有名な進学校なんだ。いろんなのがいるよ。ボクみたいに親が医者って子もいるし、全然家族に医者がいないって子もいる。小学校の頃から頭が良くってさ、だったら、医者か弁護士って。
正直言って、お父さんが医者じゃない友達って羨ましいと思う。
「きのうのテレビ見た?神の手だって、すっげえよな。こんなんやって、こんな風に……。オレ、外科外科。絶対外科に行く」
あんなことボクには言えないさ。
神の手は、99回苦しい思いをして、子供の運動会にも絶対に行かないんだ。絶対に。
服脱いだら、多分、お腹に縫い目があるよ。
ボクはさ、結局「覚悟」ができてないんだと思う。お父さんのこと、尊敬してるさ。一生懸命仕事をしているお父さんは、格好いいって思うよ。だけどさ、世の中にはいっぱい楽しいことがあるのに、そういうの、たくさん捨てなくちゃいけないんだよ。今だって、いっぱい我慢してるんだ。ゲームだってそうだし。
お父さんが言うんだよ。
「中学受験なんて、始まりの始まりの始まりだって。」
ボクにとっては、大変だったんだよ。中学受験。
それなのに、始まりの始まりの始まりって言われたらさあ……
お父さんが珍しく早く病院から帰ってきたとき、夕食の席で、また始まった。ビール飲んじゃったからね。いつものやつだよ。
「翔太。医者ってのはな、……」
もう、覚えちゃったよ、そのセリフ。
「医者ってのは、国家試験に合格した後から、少しずつ医者になっていくもんなんだ。医師免許ってのは、医者になってもいいですよ、そういう権利を与えますよってだけでね。まだ、医者じゃない。そこから一生懸命頑張って、少しずつ医者らしくなっていくんだよ。勘違いしてる奴が多いんだな。基礎からじっくり積み上げていく。とにかく頑張って、頑張って、がんばって、な。わかるだろ」
「うん」
そうとしか答えられないだろ。ここで余計なことを言うと、また、話が長くなるんだ。
運動会の応援団で面白い振り付けをすることになった。夜、一人で練習していたら、急に居間の方から大きな声が聞こえてきた。
「私は家政婦じゃない!」
お父さんとお母さんが喧嘩してる……
お父さんのもっと大きな声が聞こえた。
興奮してるみたいで、何て言ってるのか、よく聞こえなかった。
気になって、部屋のドアをそっと開けてみた。
お母さんが泣きながら文句言ってる。
「翔太ももう中学に入ったことだし、今復帰しなくちゃ、このままだと私、どんどん置いてきぼり。どうしてわかってくれないの?」
「中途半端に医者したって、現場は迷惑なだけだ!」
「そんな、約束が違うじゃない。子供が少し大きくなったら仕事に復帰すればいいって。」
「あのな、冷静に考えてみろよ。お前にどこまでできるって言うんだ!」
ボクはドアを閉めた。
お母さん、病院で働きたいんだ……
しばらく怒鳴りあいが続いて、急に静かになった。
もう一度、ボクはそっとドアを開けてみた。
居間にはお母さんが一人、テーブルに顔をつけて泣いていた。
ボクには何もできることがなかった。
ドアのこちら側で気づかないふりをするしかなかった。
夢を見た。
変な夢。
お父さんがお母さんを殴って、お母さんが掃除機を振り回している夢。
犬のブッチーが、クーンクーン泣きながらお母さんの足元に近づいて、
そうしたら、お母さんがブッチーを足で蹴り上げて、ブッチーは床に落ちて動かなくなった。
ボクは、思わず
「やめてー」と叫んで、目が覚めた。
ブッチーはボクが4歳の頃、うちにやってきた。
ボストンテリアっていう種類の犬なんだけど、2年前、病気で死んだ。
お腹に大きなできものができていた。
ブッチーが死んでから、ボクは淋しくて淋しくて、また、別の犬がほしいって言ったんだけど、お母さんが、
「もう、ペットはたくさんよ。いつかは死ぬでしょ。また、悲しい思いをしなくちゃならないのよ」
と言って、買ってくれなかった。
ブッチーはお母さんのことが一番好きだった。
お母さんだってそうさ。ブッチーが死んだとき、いつまでも泣いていた。
今でも、ベッドの横にブッチーの写真が飾ってある。
それにしても、どうしてこんな夢を見たのだろう。とってもリアルで怖かった。
あれから、お父さんとお母さんは、時々喧嘩をするようになった。
お母さんはいつもイライラしていた。
ボクが学校に行ってる間、勉強してるんだろうか、分厚い本と英語で書かれた難しい雑誌が、テレビの横に何冊か積み重なっていた。
お父さんは、やっぱりいつも忙しくて、あんまり話をする時間がなかった。
お母さんは、中学に合格した時には、すごく優しくなったけど、また、厳しくなってきた。
時々、急に怒り出すことがあって、ボクはどうしたらいいのかわからないことがある。
昔は、どうして自分が怒られているのか、よくわかっていた。
それが、最近は一体何が気に食わないのかわからない。
二学期の期末テスト。
結果は、クラスで28番。ビリから3番目。
入学したばかりの時、僕は、クラスで19番だった。
お母さんは、気が狂ったように怒った。
あんなに怖いお母さんを見たのは初めてだった。
家に帰るのが、だんだん憂鬱になってきた。
これまでぼんやりと感じていた憂鬱、それは、まだ、ボクの緊急の問題ではなかった。
それが、突然、ボクの前に黒い大きな壁になって迫ってきた。
お母さんと二人きりの夜。
「翔太、自分のやりたいことを精一杯できるのは幸せなことよ。勉強できない子が世界には沢山いるんだから。その子たちのためにも死ぬ気でがんばらなくちゃ。」
ボクらの「犠牲」になってるお母さんと、自分だけのために一日中時間を使うことのできる恵まれたボク。そして、お父さんとお母さんの望みどおりにやってけないボクの弱さ。
あんなに大好きなお母さんだったのに、今は……
今は、お母さんがボクに覆いかぶさっているみたいで、息をするのも苦しくて……
そして、お父さんとお母さんが喧嘩をするとき、ボクは、自分がその原因を作っていることを感じる。お父さんの怒鳴り声は「翔太の頑張りが足りないからだ」って聞こえてくる。
お父さんとお母さんは、折角3人で食事ができる時も、話をしなくなった。お母さんが病院で働くっていう話も出てこない。
食卓で、お父さんが言うセリフは、
「おい、翔太。学校はどうだ」
決まって、これだ。多分、ほかに喋ることが無いのだろう。
何となく気まずい雰囲気になると、ボクに話を振って場を誤魔化そうとする。
こっちはいい迷惑だ。
以前は、3人で食卓を囲むのが楽しみだった。いつも、お父さんが遅いから、たまに早いと、お母さんも張り切ってご馳走を作ってくれた。
「翔太、医者ってのはな……」
という話も、うんざりはしたけど、お父さんはいつも楽しそうで、ボクはそんなお父さんを見るのが好きだった。
学校は、そんなに楽しくもなかったけど、家よりはずっとマシだった。
学校にいるときだけは、ちょっとだけ解放された気分。
一時間かかる電車通学も、慣れたらどうってことなくなった。かえって、朝早く家を出れるから、良かったって思う。
カズヤと話が合う。あいつも、宇宙が大好きなんだけど、彼のはまり方は半端じゃない。
お父さんが、やっぱり宇宙マニアらしくって、天体望遠鏡も4つあるんだって。ひゃあ、羨ましい。そして、なんと、とうとう二人で、天体望遠鏡を自分たちで作ってしまったらしい!
学校では、休み時間になると、彼が持ってきた「宇宙探訪」という月刊誌や天体望遠鏡のパンフレット、それに、カズヤがお父さんと撮った星の写真を見せてもらったりした。ボクはいつも、「すげー」を連発した。
今度、流星群を一緒に見に行かないかと誘われた。お母さんが許してくれるかなあ。
それがちょっとだけ心配だったけど、いくら何でも、もう中学生なんだから、ダメってことないだろう。その日は、家に帰るのがちょっとだけ楽しみだった。
その日、学校から家に帰ると、いつもと様子が違っていた。
ピンポーンと押しても、返事がない。
仕方なく、ボクは自分の鍵を使って玄関のドアを開けた。お母さんは買い物かな。
お母さんは完璧主義者で、いつも家の中が綺麗に片付いていないと気がすまない。
風邪をひいて熱があっても、家の中を動き回って掃除をする。
「頭が痛い」って文句を言いながら、お父さんがテーブルに置きっぱなしにしていたテレビのリモコンを所定の位置に仕舞ったり、新聞を片付けたりする。
ボクも本とか散らかしたままにしていると、ひどく叱られた。
そんなお母さんなのに、テーブルには、食べた後のお茶碗がそのまま残っていた。
そして、病院の薬袋があった。”優々(ゆうゆう)ハートクリニック 院長 竹島茂雄”
お母さんは病院に行ったんだ。
ハートクリニックって何だろう。
すると、寝室のドアが開いて、おかあさんが出てきた。髪が乱れていた。
ボクはびっくりした。てっきり買い物だと思っていたから。
それに、ハートクリニックって、何だか見ちゃいけないものを見たような気がしていた。
「帰ってたの?」
お母さんは小さな声で聞いた。
「うん。ただいま。」
「少し待っててね。今から夕飯準備するから。」
お母さんは、少しふらふらしながらエプロンをはめて台所に立った。
お母さんはいつもと違って、ゆっくり料理を作った。
夕飯を一緒に食べながら、お母さんは、一度だけボクの方を見て、優しい目でゆっくり笑った。でも、あとは、黙って食事をした。
スープが何だか塩辛かった。
何もかもが、いつもと少し違っていた。
そしてボクは、とうとう流星群の話ができなかった。
家の中が、少しずつ変化していった。
お母さんから叱られることがなくなった。
部屋の中が、少し汚くなった。
お父さんとお母さんは、全然話をしなくなった。
お母さんが一人で泣いているところを何度も見た。
その度に、ボクの中には言いしれない恐怖が走った。
ボクが弱いから。
ボクが自分の将来をまっすぐに見ることができていないから。
ボクが家族を壊しているんだ。
それと同時に、お母さんに対して、腹を立てているボクがいる。
どうして、ボクを責めるの?
お願いだから、お母さんは、自分のために生きて。
翔太のために我慢してるって態度を取らないで。
ボクは苦しいんだ。
そして、お父さんに対して、暴力的な気持が芽生えてきている。
絶対的な自信。絶対的な正義。
全て、お父さんが悪いんじゃないか。
ボクの本当の気持ちに気づいてよ。
お父さんのような生き方はできないんだ。
今だってボクは充分に苦しいのに、これから、長い長い苦しみのトンネルをくぐらないと、楽しいことはやってこないんでしょう?
まだ、始まりの始まりの始まりなんだよね。
ボクにはできそうにないよ。
お父さんみたいに立派な人間にはなれないよ。
医者、医者、医者、医者って、息が詰まりそうだよ。
お父さんにもお母さんにも流星群を見に行きたいって話をしないまま、その日になった。
カズヤには、一旦、「行くから」と返事をしてから、一昨日断った。
本当は行きたかったんだ。タイミングを見て、お父さんかお母さんに話そうと思っていた。
だけど、結局、ムリだってわかった。
カズヤには「ばあちゃんが入院したから行けなくなった」とウソをついた。
ごめん、ばあちゃん。
その日、めずらしく早くお父さんが帰ってきた。
お母さんは、お父さんが帰ってきても、無表情のままだった。
お父さんが早く帰ってくると、ボクは余計に落ち着かない。
何だか作り物の家族みたいな気がしてくる。
家の中の空気が鉛のように沈殿してきた。ボクは耐え切れなくなって、お父さんに言った。
「カズヤんちまで、行ってくる。一緒に勉強する約束してたから」
ボクはウインドブレーカを羽織ると、自転車をこいで、家から20分くらいのところにある高台を目指した。
外の空気は氷のように冷たかったけれど、ツンと澄んでいた。自転車を走らせるうちに、少しずつ身体が温まっていった。
途中の林道は、不法投棄をする人がいて、そんな車が2台ほど、ボクの横を通り過ぎた。
ちょっと怖い場所だ。ボクは全速力で自転車を漕いだ。
息が切れて、これ以上漕げないと思った頃、視界が開けて高台に出た。
空には沢山の星が見えた。
カズヤは今頃、彼のお父さんと一緒に、星を見るには最高の山にいることだろう。
望遠鏡がないのは残念だけど、それでも、明かりの少ないところに来ると、これだけの星が見えるんだ。ボクは、自転車を置いて空を見上げた。
立ち漕ぎで出た汗に、風が冷たく当たった。鼻水が出そうだ。
南の空を見た。
さそり座は、隣町の山の向こう側だ。アンタレスは見えない。
三日月がうっすら雲をかぶっていた。
小学2年の頃、じいちゃんが初めてボクに月を見せてくれた時、庭で秋の虫が大合唱をしていた。じいちゃんは、真剣になって庭に望遠鏡を構えて、ばあちゃんは、縁側からボクらを見ていた。
あの頃、ボクは、自分の将来のことなんて、あんまり考えていなかった。
ぼんやりと、「医者になるのかな」ってくらいで。
じいちゃんは、その時、ばあちゃんと「駆け落ち」をした話をしてくれた。
じいちゃんのお父さんとお母さんが二人の結婚に反対していたから、「駆け落ち」をしたと言う。昔は親の言うことは絶対だったから、親に逆らうことは考えられなかったらしい。
その時のボクには、何だかよくわからなかったけれど、今は「じいちゃんが、すごいことをしたんだ」ってことぐらいは分かるようになった。
「翔太。自分の本当に大事な物は、戦ってでも手に入れなくちゃいかんぞ。」
じいちゃんが生きていたら、今のボクに何と言っただろうか。
ボクはまた空を見上げた。
悲しいわけじゃないのに、後から後から、涙が溢れて止まらなかった。
顔をこすって、空を見上げたその時、一つの星が流れた。
「あっ」
思わず声が出た。
すると、ボクが驚いたので、じいちゃんがいたずらをしたんだろうか、
二つ、三つ、立て続けに星が流れた。
ジイチャン。
ボクヲタスケテ。
ボクは心の中で叫んだ。
今回は、思い切って中学生を主人公にしてみました。翔太なりのプレッシャーを感じていただけたらいいかな、と思います。この後のストーリーは、皆様の想像にお任せします。
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