表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

地獄坂

作者: 糸川草一郎

元城町をつらぬくその坂は、通称地獄坂と呼ばれるくらい勾配が急であって、おもて道を歩いていてその坂にさしかかると、誰もが嶮しい貌になってゆくというので、車を持たぬ人でも、近年そこを歩く者は少なく、ちょっとの距離でもタクシーを拾ったり、バスに乗ったりした。かく言う私も、例によってバスを待っていたが、その日に限って、もう三十分近く待っているというのに、予定時刻を大幅に過ぎてもバスはやって来なかった。

富士山はあいにく雲に隠れていたが、その雲と言うのがどうにも異様に暗く、前線の境目のような空気の層がありありと見てとれるものに見えた。雲はひどく低く垂れこめて、墨を霧吹きで吹いたようにぼてぼてと重たそうであって、そちらの方角から、人間の髪を焼くような匂いが流れてきたから、何だか嫌な気分がした。今にも雨が降りそうに見えたが、時々ぱらぱら舞ってくることはあったけれど、それ以上降ることは結局なかった。

時刻は午後四時を廻ったばかりだったが、もう三月になっていたから、日が暮れるには時間的に早すぎる。東西へはしる表通りの様子を窺ってみたけれど、西の空は薄ぼんやりと紅く、そのせいで山々は影絵のように黒く、すがたは物々しく、怒っているように思えた。どこかでどすどすと、不気味な地鳴りのような音が聞こえた。

ぶつぶつとひとりでに独語(ひとりごと)が出た。独語が出ると気持ちが楽になってくる。厭なことがあったわけではないが、誰に話しかけているわけでもないのに、独語はいつまでも止まらなかった。自分に話しかけ、自分で答えた。

そのようにして時間を潰していたが、バスは一向に来ない。私は元城町のバス停に立っていて、いい加減じりじりしていたので、そこからちょっと横丁へ這入った、保育園前を通る裏町通りを少し行ったところにある、ラーメン屋の暖簾をくぐった。

その頃には時刻は四時半を廻っていたから、店はやっていたけれど、客はまだ誰もいなかった。腹が減っていなかったので、店の小母さんを呼んで、麦酒を頼んだ。

誰もいない店内にぽつんと座っていたが、気分はいいとは言えなかった。運ばれてきた麦酒をしばらく飲んでいると、若干楽になってきたように思われたから、ほっとしていると、店の前をとてつもなく大きな黒い影が、どすどすとまるで巨人の歩くような、ひどく物々しい音を立てて過った。その大きさはしばしおもてが真っ暗になるほどであって、あるいは十トンクラスの大型車がのろのろと過ったのかと思われたが、ここは道幅が狭く、大型車が通れるほどではない。私は店の外に出て(くだん)の影の正体を確かめたかったが、いかんせん自分はこの店の常連さんではないのだし、店の小母さんに無銭飲食を怪しまれてはいけないと思ったから、諦めた。大きな黒い影はひとしきり、この小さな店をがたがたと揺らしながら通りすぎていった。影がそれっきり過ることもなかったのならよかったのだが、そのあとも麦酒をグラスに注いで飲むたびに、と思うほど頻繁に、ぞっとするような地響きを立てて店の前を通りすぎていった。お蔭でそのことばかりが気になり、せっかくの麦酒の味がはっきりしなくなってしまった。やっと一本飲み終えると、外はすっかり薄暗くなっていた。勘定をする時もあの背筋の寒くなるような地響きを伴って、黒い影は過っていったようだから、何の気なしに小母さんに尋ねてみた。

「外は何の騒ぎですかね」

「表通りで下水道の本管の敷設工事をやっているんですよ」

「ここをダンプでも通るんですか」

「さあ。でも作業服姿の人がよく店に来ますよ」

どうやら店の前を工事車両が過るらしいが、それにしても大型重機にしろ、ダンプカーにしろ、舗道を通る時に巨人の歩くような音をどすどすと立てて走るわけがない。それにおもてを過った巨大な黒い影は、表通りの片側車線を通行止めにする程度の小型の重機の影には、どうしても思えなかった。

おもてへ出ると、よくわからないが、三月の初めだというのにぼかぼかと、焚き火にあたっているような風が通りを吹きぬけてゆくのを、嫌な気配が差し迫っているもののように感じた。私は店の前を揺らして過った巨大な物の影を探しながら歩いたけれど、そんなものはどこにも見あたらなかった。店の小母さんは下水道の本管の敷設工事と言っていたが、どこを歩いても工事をしている様子、していた様子・痕跡は欠片もなかった。ただ、最初に言ったような人間の髪の焼けるような匂いは、一層濃く立ちこめてきた。富士山を覆っていた黒い雲はいつの間にか()れており、まだ明るい夕空が見えていて、山はまだらに残照が映えていたけれど、それもしばらくすると翳ってきて、ただ、稜線の影だけが暗くなりかかった夕空にくっきりと描いたように浮かび上がっていた。私は結局バスを諦め、通称〈地獄坂〉を歩いてゆくことにしたが、別に酔っているはずもないし、目の錯覚にも見えなかったのだけれど、富士山の山肌の雪化粧から下のすぐのところに、ぞっとするような巨大な眼が見開かれているのに気づいた。その眼はまばたきもせず、私のいる方を見ていたから、私はすっかり恐ろしくなってしまった。この界隈は富士を隠す物陰など無いに等しかったので、私はこの巨眼の凝視に耐えなければならなかった。かの〈眼〉は今にも物を言い出しそうに見えたが、もし仮に、実際物を言い出したらどうしたらいいか。私にはわからなかった。街の路上はいつしか人ごみと化していて、誰もが右往左往しているようだった。どこからこれほどの人が湧いて出たのかわからないほど、人で溢れ返っていたが、彼らはみな一様に深刻な表情をして、口々に「噴火だ。噴火したぞ」と叫んでおり、表通りも裏通りも人々でひしめいて、口汚い罵声が飛び交い、互いに突き飛ばしあうようにして、我先にと逃げ出す算段に腐心しているようであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ