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咎人のクロス
作者:Serenade

 ──教会。

 それは日本ではあまり馴染みのない建造物だ。考えるまでもなく寺社の方が圧倒的に多かった。
 けれどもヨーロッパでは珍しいものでも何でもなく、それは生活の一部であるとともに見慣れた風景の一部である。日常に深く広く静かに浸透した『当たり前』なのだ。
 それはともかくとして。僕は昔から教会というやつが好きだった。べつにクリスチャンというわけではないのだが、教会が持つ独特の雰囲気は肌に心地よい。静粛さというのだろうか。あるいは厳粛か。どちらにせよ身を引き締めるような、透き通った緊張感にも似た空気は心地よい。
 だから、行ってみたい教会というのは多々ある。
 イタリアのサン=マルコ聖堂にピサ大聖堂。フランスのクリュニー修道院にノートルダム大聖堂、ランス大聖堂。ドイツならばやはりライン河畔に立つ高さ157メートルのケルン大聖堂が見ものだ。
 個人的には11〜12世紀の間に南欧中心に広がったロマネスク様式が好きである。その代表格としては先述のピサ大聖堂やクリュニー修道院などが挙げられる。ローマ風の半円形アーチに、短く太い柱が重厚な雰囲気を醸し出し、思わず居住まいを正してしまいそうだった。
 しかしながら。ところで。今僕が目の前にしているのはゴシック様式の教会である。
 ゴシック様式は12〜14世紀の西・北欧中心に広がった様式で、尖塔に細い柱、そして何といっても大きな窓にはめ込まれたステンドグラスが最大の特徴である。厳かで慎ましやかな造りというよりは、高く明るく些か華美な造りとなっている。
 写真で何度か見たことはあるが、その実際を自分の目で見るのは初めてのことだった。
 扉は木製のもので両開きだった。一度開くともう二度と開かれることはないような、そんなあるはずもないイメージを連想させるものだった。
 思いがけず僕は固い生唾を呑み込む。そしてようやく疑問に思った。

 僕はなぜここにいるのだろうか?

 そもそもここがどこかすら分からない。気がつけば見知らぬ教会の前に一人で立っていた。
 素早く携帯を開いてみるも圏外。どころかさらに最悪なことには電源すら切れていた。生憎と腕時計はしない主義だ。これでは時間も分からない。太陽の傾き具合からおおよその時間帯を割り出そうと試みるも、そもそも方角が分からないのでは話にならなかった。漠然と明るいというのだけは感じ取れたのだが、まるで役に立たない代物である。

「……仕方がない。ずっと立ち尽くしてるっていうのも芸がないし、中に入ってみるとしよう」

 誰に言うでもなく呟く。冷たい木製の扉に手をかけた。
 そして扉を開いた瞬間、思わず僕は目を細めた。
 ……眩しい。
 明順応が働いて徐々に視界がクリアになる。それから声にならない叫びが僕の口をついて出た。
 綺麗だ。実に美しい。
 尖塔アーチを導入することによって大きな窓を確保することができるようになったのは知っていたが、これほどまでに大きいとは思ってもいなかった。これには少々驚かされた。ステンドグラス越しに差し込む柔らかな彩色光が室内に降り注ぎ、まるで荘厳なグレゴリオ聖歌が聞こえてくるかのようである。
 身廊に沿ってきょろきょろと教会中を見渡しながら歩を進める。等間隔に並んだ長椅子に高い天井。極彩色の小さな影を踏みしめながら教会の内陣アプスまで辿り着いた。
 歴史を感じる。というほど僕は博学ではないけれど、それでもやはり何かしら感じ入るところはある。
 適当に最前列の椅子に腰を下ろした。目を瞑る。柔らかな陽光が体に染み渡るようで気持ち良かった。

「それで、あなたはこの教会のシスターさんですか?」

 そっと目を開くと僕は言った。
 視界の端には若い女性の姿がある。修道服に身を包み込み、首からはロザリオをぶら下げた、恐ろしく綺麗な人だった。
 ブロンドの髪が陽光に透けてきらきらと輝いて見えた。

「いつから私に気がついていたのです?」

 静かに。澄み渡った声で。修道服の女性は言葉を紡いだ。

「初めから。教会に入ったときからあなたには気がついていました」

 なにせ彼女は目立っていたのだから。
 光が奔流する眩しい教会にあっても、彼女は一際人目を惹く。最初はあまりの美しさに高価な調度品かと思ったほどだ。それほどまでに彼女はどこか浮き世離れしていた。

「それでは自己紹介をいたしましょう。私の名前はマリー=ランカスターと言います。以後お見知りおきを」

 マリー。それを別の呼び方にすればマリアとなる。西洋ではわりとポピュラーな名前だ。
 おそらくは我らが貴婦人、聖母マリア様からあやかったものなのだろう。そしてランカスターというのは赤薔薇か。
 なるほど、なかなかに面白い名前である。勿論、本名ではないのだろうけれど。

「えっと、僕の名前は向井姫乃と言います」

 とりあえずは儀礼的にこちらも名乗りをあげる。それから小さく会釈をしてみせた。
 彼女はピクリとも表情を変えずに僕を見る。見つめる。見透かす。その表情からはおおよそ一切の感情を読み取ることができなかった。

「汝は迷える仔羊ですか?」

「へ?」

 思わず素っ頓狂な声をあげる。僕は椅子から立ち上がると、彼女と向き合うように体を傾けた。

「迷える仔羊というのはつまり、僕に悩みがあるか否かということ?」

「そうです。あなたは懺悔をするためにここへ来た。違いますか?」

 マリー=ランカスターは疑問系の形を取りながらも、しかし断定的にそう言った。
 けれども僕がここへやって来たのは懺悔のためではない。どころかここへやって来たという記憶も意識もなかった。気がつけばここにいたのだ。

「違います。僕がこの教会にやって来たのは懺悔のためではない」

 僕が真っ直ぐにそう答えると、彼女は首を横に振ってそれを一蹴した。

「違わないです。残念ながら。あなたがここに来たのは懺悔をするためです」

 今度こそいよいよ疑問系の形すらとらずに断言した。
 彼女の深い碧の瞳が僕に向けられる。

「この教会に辿り着くことができるのは咎人だけです。懺悔すべき十字架を背負った人間にしかここへは入れない」

 シスターはそう言うと、修道服を翻して僕に一歩近づく。
 咎人。懺悔。十字架。
 全然、全くもって説明が足りていないが、なぜか僕はその言葉をすんなりと嚥下することができた。腑に落ちた。
 そうだ。僕は罪人だからこそこの教会にいるのだ。やっと正しい意味でここにいる理由を理解できた。

「それではマリー=ランカスター。あなたは僕の懺悔を聞いてくださいますか?」

 僕は彼女の前で膝をつくと、手を組み合わせて頭を下げる。
 ステンドグラス越しの陽光は相も変わらず柔らかくて心地よい。けれども今度は若干量の痛みも含有されているように感じた。

「いいでしょう、あなたの懺悔を聞き入れましょう。なぜならば、それが私の仕事なのですから。迷える仔羊を導くのが神の務めなのですから」

 教会の内陣アプスの奥にある十字架を背負って立つ彼女は、どこまでも綺麗だった。
 まるで一枚の絵画のようだ。
 そんな場違いなことを考えついてしまうくらい、僕は彼女に見入っていた。魅了されていた。他でもない、天使のような神の使いに。
 ああ、光溢れるこの場所で。死ぬことができたらどんなに幸せだろうか。

 僕は死を望まずにはいられなかった。


※1


 この教会に辿り着く条件はただ一つである。
 それは咎人であること。完膚なきまでに壊れた、異質で異常で歪な存在であること。
 ただそれだけだ。他には何もいらない。否、他には何も持っていないのだ。
 だからこそ僕は辿り着いた。罪を犯したわけではないのだけれど、僕が咎人であるという事実は変わらない。生まれながらの悪意。その存在自体が罪なのだから。

「それで、あなたの懺悔というのは一体何でしょう?」

「えっと、それは……」

 さて、困った。
 なんて言うか、いざ懺悔をするとなると何から話せばいいのやら分からない。見当もつかない。戸惑った。
 僕が口ごもっていると、マリー=ランカスターはやはり無表情に口を開いた。

「懺悔をするからには何かしらの罪の意識がある。さて、それではあなたは一体何を罪と認識しているのでしょう。何に後ろめたさを感じているのでしょうか」

 淡々とした抑揚のない声。
 僕が話しやすいように先導してくれる。
 しかし、それは優しさからくるものではないのだろうと思う。言うなれば、彼女のそれは義務だ。そこに彼女の意志が介在する余地はない。
 きっと。おそらく。だからこその無表情なのだ。

「まさか人を殺したということはないのでしょう?」

「……や、それは流石にないです」

「そうですか。いえ、私の友人の後輩に人を殺したという少年がいまして。まあ、もっとも正当防衛だったのらしいですけれど」

 僕は少し驚く。
 人を殺した少年というところにではない。彼女に、マリー=ランカスターに、およそ友人と呼べる人間がいたことにだ。
 彼女とは初対面だが、しかし、初対面だからこそ分かるものがある。感じるものがある。
 絶対に彼女は人を近づけない。理由があるのかないのかは知らないけれど、人を近づけさせない雰囲気というものがある。とっつきにくいのではない。とりつく島がないのだ。
 だから彼女に友人がいたことが少しばかり意外だった。

「……人を殺した少年ですか。生憎と僕は殺人犯ではないのですけれど、でも人を殺そうとはしました。言うなれば殺人未遂ですかね」

「なるほど。それがあなたの罪状、懺悔ですか?」

 マリー=ランカスターが問うた。
 しかし僕はハッキリと首を横に振った。否定を意味するサインだ。

「いいえ、違います。僕は人を殺そうとしたことを全く罪だとは思っていない」

 そう、だからこそ。

 ──だからこそ、罪なのだ。

 人を殺すことに全く罪悪を覚えない人間だなんて、人間ではない。人形だ。文字通り、人の形をしただけのモノ。中身は化け物だった。

「人形、ですか。なかなかに面白い比喩表現です。実にユニークですね」

「ええ、面白いでしょう。ところで、マリー=ランカスター。あなたはピノキオという物語をご存知で?」

 僕が訊ねると彼女はこくりと頷いた。

「勿論、知っていますとも。人形が嘘を吐くたびに鼻が高くなるというイタリアの童話でしょう?」

「はい、それです。最後は人形が人間になるという話。けれどもそれは飽くまでも物語の話です。実際はそううまくはいかない」

 所詮はフィクションなのだから。現実とは異なる虚構の世界の話だ。

「出る杭は打たれると言います。僕は人にはそれぞれ身分相応の立場というものがあると思う。だから、人形が人間になることを夢見るだなんて出過ぎた話です」

 そこまで言うと、彼女は僕の言わんとしていることを理解したようだ。

「つまりあなたは一生人形のままだということですか?」

 僕が言いたかったことを先回りして彼女が代弁した。
 そうだ、そうだとも。反論の余地もないほどにその通りだった。
 人形が人間になることはない。化け物が人間になることもない。僕はただ人の形をしただけの異形なのだから。

「しかし、あなたはなぜ人を殺そうとしたのですか?」

 それはもっとも根本的な質問だった。あるいは根底的だろうか。どちらにせよ同じ意味であるからにして、畢竟どちらでも構わないのだが。
 普段は使わない頭を回転させて思考する。長考するわけではない。素早く考えを、記憶を、口上を纏めるのだ。

「少し聞き苦しい話かもしれませんが構いませんか?」

「ええ、無論です。懺悔とはもともとそういう性質のものなのですから」

 一応の確認をとると、彼女は快く了承した。
 そして僕は語り始める。何てことはない、少し特殊だけれど日本国においてはわりとありふれた話を。ただの悲劇もどきを。


※2


 僕にはそれなりに友達がいる。そして彼もその内の一人だった。
 ある日。彼は僕に助けを求めてきた。どうにかして欲しいと。
 あまりにも唐突なことだったので僕は少しばかり驚いた。けれど彼の切羽詰まった様子は尋常ではなかった。常軌を逸していた。異変を感じ取った。
 だから。だからこそ僕はとりあえず事情を聞くことにしたのだった。
 話を促すと彼はポツリポツリと語り始めた。
 彼の家は昔から和菓子屋を営んでいる。僕も何度か訪れたことがあった。しかし、この不況だ。経営は困難だった。だから彼の父親は借金をした。何もそれ自体は悪いことではない。ごく当たり前の話だ。けれども店の経営は困難になるばかりで、借金は膨れ上がるばかりだった。
 本来ならば、と僕は思う。もしもそこで店をたたんでおけばと思わずにはいられなかった。
 だが、どうやら彼の父親はそうは思わなかったようで。先祖代々続く和菓子屋を守ることに必死だった。だから金を借り続けた。そして最後は所謂、世間で言うところの闇金にまで手を出した。
 しかし。やはり借金を返せるはずもない。闇金の取り立ては度を増していった。そして彼の妹はその男達に暴力をされて、それ以来そのショックで声が出せなくなったらしいのだ。

 ──どうにかして欲しい。

 彼は、僕の友人は、そう言った。だから僕も誠心誠意をもって返答をする。
 任せろ、と。
 それからの話は簡単だ。彼の家にやって来た借金取りを僕が刃物を振り回して追い返した。追いかけ回した。殺すつもりで。もう二度とやって来ないように。一時凌ぎにしかならないと分かっていながらも。
 何人かは重傷を負ったようだけれど、相手が相手だったので事件になることもなかったようだった。
 これがことの顛末である。

「なるほど。それがあなたが殺人未遂を犯した動機ですか」

 話を聞き終わった彼女はそう締めくくった。

「はい、そうです。けれどもこれが僕の十字架というわけではない」

 そう、そこが問題なのだ。
 人を刺したことに。斬りつけたことに。殺そうとしたことに。全く罪悪は感じていない。
 そしてそれこそが僕の十字架だった。殺人を罪と認識できないという心が罪。端的に言ってしまえば異常者である。

「僕は善意で人を殺すことができる化け物なんです」

 人を殺すのには二つの心理的状態があると僕は考える。
 一つは怨恨と憎悪から生じるもの。純粋な悪意でもって人を殺すのだ。
 それからもう一つは機械的に、あるいは衝動的に人を殺すもの。まるで何の感情も持たずに人を殺める。または衝動的に頭が真っ白の状態で殺めるものとがあると思う。
 けれども。しかし僕の場合はそのいずれも当てはまらなかった。
 僕は完全なる善意で人を殺すことができる。まるでボランティア活動をするかのように、人を壊すことができる。そういう歪んだ化け物なのだ。

「分かりました。あなたの懺悔は聞き入れました」

 頷いて彼女は言った。
 コツコツとマリー=ランカスターの黒革のブーツが音を立てる。閑散とした教会に響いては消えた。
 そして僕の前でぴたりと歩みを止めると彼女は口を開いた。

「その懺悔を聞き入れたうえで、あなたに訊ねましょう。あなたは私にどうして欲しいのですか?」

 僕は少しだけ逡巡する。考える素振りをみせた。考えるふりをした。
 なぜなら最初からそれに対する答えはすでに決まっているのだから。僕が望むものはただ一つ。それは……。

「僕を、向井姫乃という化け物を、どうか殺してください」

 こんな存在は生きていてはいけない。人を善意で殺せる人間など人間ではないのだ。
 だから僕は、自分がそういう存在であると気がついた日から、ずっと心の奥底で安らかな死を望んでいた。この世から抹消されることを心底渇望していたのだ。
 だが、マリー=ランカスターは笑う。初めて笑みを見せる。酷く歪な笑みを魅せる。

「あなたは善意で人を殺せると言いましたね?」

「……はい、確かに言いました」

「ならば私は悪意で人を救うことができます。どうせその命を捨てるのならば私が貰い受けましょう」

 彼女はニヤリと口の端を吊り上げると、背筋が凍るほどの、この世でもっとも綺麗な笑みでもってもっとも醜悪に笑ってみせた。

「ふざけるな!」

 僕は思わず怒鳴り声をあげる。腹に据えかねるというよりは、条件反射に近いような怒りだった。

「それは救いでもなんでもない、言うなれば地獄だ! あなたは自分が化け物だと知っていながらもなお僕に生きろというのか!?」

 あまりにも残酷な話だ。まるで拷問のような、死刑宣告のような話だ。
 それはあんまりだった。
 僕はこんなにも死を望んでいるのに、生きろというのは酷すぎる。非道すぎる。そして僕は外道すぎる。
 お願いだから誰か殺してくれ。

「残念ながらキリスト教では自殺は認められていません。ゆえに私はあなたを救います。極上の悪意でもって救済します」

「違う。本当に僕を救おうと思うのならば、僕を殺してくれ。あなたのやろうとしていることは救済ではない、ただの苦痛だ」

「だから言ったでしょう。これは悪意だと。そして、苦痛を伴わない悪意などこの世には存在しえないのです」

 彼女の白く細長い美しい指先が僕の前髪をかきあげた。ぴたりと額に手を当てる。熱を計るかのように優しく手を当てる。
 僕は何が起きているのか分からずに目を白黒とさせた。マリー=ランカスターの顔を覗き見るも、彼女は目を瞑ったままじっとしているだけだった。
 それからしばらくそのままの状態でいると、不意に彼女は目を開いた。

「なるほど、そういうことですか」

 すっと額から手を放すと彼女は僕から一歩距離をとる。
 そして再び十字架をバックにして立った。

「……何か分かったのですか?」

 僕は訊ねる。
 やたらと喉が渇いた。眼球が熱かった。頭がぼんやりとしてきた。体がきりきりと痛んだ。
 なぜだろう。なぜなのだろう。これ以上彼女の言葉を聞いてはならない。頭の中で警鐘が鳴り響いていた。本能的に体がそれを拒んでいた。
 だが、そんな僕などお構いなしに彼女は言葉を紡ぐ。

「今、あなたの記憶を読み解きました。正しく嘘偽りのない記憶を解き明かしました」

 ……そんなこと、できるはずが、ない。
 確かに僕はそう思ったけれど、それと同時に彼女ならばできるとも思った。矛盾している。だけどそれを言うのなら、この教会自体が眉唾ものなのだ。だから彼女もそのくらいのことは平気の平左でできるのかもしれない。

「あなたは善意で人を殺そうとしたのではない」

 そこで一度言葉を切ると、彼女は真っ直ぐ僕の目を見て言った。清々しいまでに言い切った。

「あなたは愛で人を殺そうとしたのです」

 その言葉は重苦しく僕の中で響いた。反芻された。染み渡った。理解した。
 そうだ、全て思い出した。
 偽りの記憶ではない、本物の記憶を。事実無根の虚構ではなく、正真正銘の真実を。

 ──そう、僕の友人である彼はこの僕だったのだ。


※3


 僕の家は昔から代々続く和菓子屋だった。
 僕の父親は莫大な借金をした。
 僕の妹は取り立てに来た男達に乱暴をされた。
 それで妹は壊れた。母は妹を偏愛するようになった。
 最後に父は首を吊って死んだ。自殺だった。無責任にも死でもって己の罪から逃げようとした。

 それが僕の正しい記憶だ。

 マリー=ランカスターは言う。またいつもの無表情で。淡々と事実だけを語るように。

「人はあまりにも辛いことがあると無意識のうちに記憶をすり替えるものです。そしてあなたの場合は、自分の記憶を、架空の友人の体験にすり替えた」

 そうだ、彼は僕で僕は彼なのだ。
 その友人の境遇ではなく、僕自身の境遇。架空の人物を作り上げてすり替えでもしないと、僕の精神は平穏を保つことができなかったのだ。
 我ながらなんて脆弱なのだろう。危うい、あまりにも危うすぎる。よくも今の今まで綱渡りのような絶妙なバランスで生きてこられたものだ。
 溜め息が出た。嫌気がさした。辟易とした。この世界に。他でもない僕自身に。全てが煩わしく思えた。

「あなたは家族が好きだった。それは今でも変わることなく。そうですね?」

「……はい」

 己の罪から逃れた父も、外れてしまった母も、すっかりと壊れてしまった妹も。みんな好きだった。愛していた。
 過去形ではない。現在進行形で。否、未来形で。僕は家族を愛し続けるだろう。
 ……だけれど、もう疲れたのだ。現実という名の足枷は僕には少し重すぎたようだ。

「あなたの話を聞いたとき、私は大きな違和感を覚えました。どうしてたかが友人のためごときに殺人未遂まで犯そうとするのかと」

 たかが友人のためごときにと彼女は言った。
 確かに僕もそう思う。友人は大切だ。しかし、だからと言って友人のために殺人行為まではしない。所詮は血の繋がらない赤の他人なのだから。
 それは家族だからこそ。掛け値なしで大事だと思えるからこそ、人を殺そうとしてまでも守りたかったのだ。

「あなたは家族を守るために人を殺そうとした。それは善意からくるものではない。愛からくるものです」

 ステンドグラス越しに漏れる極彩色の陽光は、今度こそ暖かいもののように思えた。柔らかいでも痛いでもなく暖かい。
 一条の光明だった。

「そう、善意で人を殺せる人間だなんて存在しない。だからあなたは人形でも化け物でもありません。血の通ったただの人間です」

「……僕が、人間?」

「ええ、私が保証します。神が了承しますとも」

 マリー=ランカスターはそう言うと、くるりと反転する。ふわりと修道服の端が舞った。

「あなたが善意ではなく愛で人を殺せるというのならば、私も悪意ではなく慈悲の心であなたを救いましょう」

 僕に背中を向けた彼女は、その肩越しに顔を覗かせてチラリと一瞥をくれた。
 逆光の所為で彼女の表情は判然としなかったけれど、何となくだが笑っていたように感じられた。

「では今一度あなたに問います。汝は私に何を望む?」

 彼女の前で両膝をつき手を組む僕に問いを投げかける。
 今ならハッキリと分かる気がした。人形ではなく、化け物でもない、人間の僕ならば。何を望むべきか分かる気がした。

「シスター、マリー=ランカスター。どうか哀れな仔羊を、僕をお助けください」

 魂の救済を求む。
 彼女に。神に。絶望に。幸福に。世界に。全てのものに。
 どうか救ってください。
 僕は救済を望まずにはいられなかった。

「分かりました。あなたの願いを聞き入れましょう。私はあなたを救います」

 そう言って再び僕に向き直った彼女の手には、不気味に黒光りする重厚な拳銃が握り締められていた。
 全く違和感はない。まるで当たり前のようで、どこか得心がいく光景だった。きっとそれは断罪のための聖なる道具なのだ。
 カチリと激鉄を起こした彼女は、いつか僕にそうしたように、重厚な銃口を僕の額に押し当てた。

「今から重く苦しい足枷からあなたを解放してさしあげましょう。世界から開放してさしあげましょう」

 彼女の美しい指が引き金に掛かる。
 不思議と恐怖はなかった。なぜならば彼女は僕を救ってくれるのだから。これでやっと自由の身になれるのだから。人間として生きられるのだから。
 だから、恐怖など微塵も感じなかった。

「私が殺すのはあなたの忌まわしい記憶です。これさえ殺せばきっとあなたは楽になれる」

 やはり相も変わらず淡々とした科白を吐きながら、最後に彼女はにこりと笑ってみせた。
 まるで僕を導いてくれるかのような天使の微笑みだ。

「シスター。マリー=ランカスター。ありがとう、僕はあなたにとても感謝をしています」

「そうですか。それは良かった。誰かの力になれたのならば、それは私にとって至福の喜びなのですから」

 聖職者は僕をじっと見つめる。
 僕も彼女をじっと見つめ返した。

「それではそろそろ時間です。準備はできましたか?」

 その言葉に僕は迷うことなく頷いた。
 もう過去の未練ならば切り捨てた。家族との縁も切った。記憶と決別するケジメをつけた。
 これで僕はどこにだって行ける。

「それでは祈りましょう、我らが神に。アーメン」

 躊躇いなく彼女は引き金を引いた。善意でも悪意でもなく、義務のように引いた。
 ズドン。
 刹那、教会に響く銃声。青白い硝煙が銃口から立ち昇る。
 そして最後に聞こえてきたのはやっぱり淡々とした天使の声だった。抑揚のない平淡な声色だ。

「迷える仔羊よ。どうかあなたに神の祝福があらんことを……」

 そして僕は意識を手放した。

 ああ、やっとこれで人間になれる……。


※4


 物語が幕を降ろすのはいかなるときか。
 それは主人公がハッピーエンドを迎えるときでも、バッドエンドを迎えるときでもない。
 正しい意味で物語が幕を降ろすのは、語り部を失ったときのみである。
 ゆえにこの物語はこれにて閉幕だ。語り部が消失した物語に存在する意義はない。

 語り部の終わりとともに、物語も終わるのである。










【咎人のクロス/閉幕】
物語が幕を下ろすとき、それは必ずしも終演による終焉とは限らない。
そう、なぜならばこの世には『幕間』という言葉が存在するのだから。
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