少年と犬が寄り添い合って、一枚の絵を見上げている。
か細い呼吸と、わずかな微笑み。
死を目前にしながら、なんとも穏やかな表情だ。
容赦ない冷気が、彼らの周囲を白く染め上げていく。
うっすらとした笑みを描いた少年の唇が、緩やかに動いた。
『ごらん…パトラッシュ…ルーベンスの絵だよ…』
それに呼応するかのように、犬が小さく鳴いた。
嬉しそうに、幸せそうに、少年が犬の背に寄りかかる。
静かに、じっと目を閉じる。
一人と一匹は、それきりピクリとも動かなかった。
舞い降りた天使たちが、2人の魂を天へと昇らせていった。
「‥‥‥っ、パ‥‥」
一人の青年が、目に涙を溜めながらテレビにかじりつく。
ちょうど、見ていたアニメがクライマックスを迎えたところだった。
「パトラッシュ――――ッ!!」
「うるせえ」
げしっ。
泣きながらテレビに抱きついている友人の背を、何の躊躇いもなく蹴り飛ばす。
不意打ちで思いっきり背骨を痛めつけられた友人は、今度は別の意味で涙を溜めつつ振り向いた。
「なっ、なにすんだよ! 今すっげぇ良いとこだったのに!」
「うるせえモンにうるせえと言ってなにが悪い」
「蹴ることはないだろ!?」
「二十歳にもなる男がぴーぴー泣いてるのを見たら、誰だって蹴りたくもなるさ」
「誰がぴーぴーなんか言ったよ!?」
「もののたとえだ」
ふう、と溜め息を吐いて、ちらりとテレビの方へと目をやる。
「お前…こんなもんでよく感動できるな」
「こんなもんとはなんだ、こんなもんとは。“フラ○ダースの犬”は世界が認める名作じゃないか!!」
「‥‥‥名作、ねぇ。でもただのアニメだろ」
「なに言ってンだ! これ見て泣かないヤツは人間じゃないね!」
「じゃあ俺は何なんだよ」
「鬼か悪魔だな」
「もっかい蹴られたいのかコノヤロー」
疲れる。
怒ると体力を消耗するというのは事実らしい。じゃあ怒らなければいいじゃないかと自分で自分に突っ込みをいれてみたが、そういうわけにもいかない。なぜだか知らないが無性に怒りたくなるのだ。こういう馬鹿を見ていると。
ため息混じりに、いまだにえぐえぐと泣きながらテレビ画面を見つめている友人の姿を一瞥する。
‥‥‥‥アニメを見て感動のあまり号泣する男(成人)。
うわぁいやだ。なんかいやだ。生理的に許せない。
そう思った次の瞬間、再び友人の背中を蹴り飛ばす。
ほとんど無意識だった。
「いでっ!! 何しやがる!?」
「あ、ゴメンなんか、つい」
「そんな中途半端な理由で人の背中を痛めつけるな!」
「しょーがねーだろ。お前も悪い」
「はぁっ? 俺のどこが!」
「存在自体」
「んだとこら!!!」
あーやかましい。
なにやら熱くなっている友人は放置して、青年はやれやれとキッチンに向かった。
ちょうどお湯が沸いたところだった。
「おら。とりあえずその情けない顔をどうかしやがれ」
「情けない?」
「目と鼻、真っ赤」
「えっ、マジ!?」
慌ててごしごしと顔をこする友人を横目に、青年はインスタントコーヒーを入れた。自分の分には何も入れず、相手のカップにはミルクと砂糖をたっぷり混ぜる。
一緒に暮らしていくうち、自然と覚えてしまった。
なんだかしょっぱい気持ちでいっぱいになる心を必死で無視し、青年は中身をこぼさないよう丁寧にカップを運ぶ。
それを持っていって渡すと、友人はいくぶん落ち着いた顔で「さんきゅ」と言った。いつもこれぐらい静かなら、自分もむやみに蹴り飛ばしたりはしないのだが、と青年は心の片隅で小さくため息を吐いた。
とにかく、普段からいろいろと煩すぎるのだ、この友人は。
「ん、何。なんか言いたそうだけど」
「‥‥‥‥別に」
無意識のうちに相手をじっと見つめていたらしい。首を傾げる友人を適当にごまかして、青年は苦いブラックコーヒーを口に含んだ。
暫くは、二人とも無言だった。
テレビは先ほどのアニメではなく、お笑い芸人がずらりと並んだトークショーへと切り替わっている。また何か言われると察した友人がチャンネルを変えたのだろう。賢明な判断だと思った。
―――ほんと、いつもこれくらい静かだったらいいのにな。
そうすれば、ケンカもしなくてすむ。
「なんかさぁ」
「ん?」
ふいの呟きだった。
青年がそちらを見ると、友人は憂い深げな表情で天井を仰いでいる。
どこか深刻な雰囲気が漂っていたので、自然と青年の表情も引き締まった。
神妙な面持ちで友人の返答を待った、次の瞬間。
「ああいうアニメとか映画見るとさ、俺達ってすげぇ幸せだと思わねー?」
「‥‥‥‥何を言い出すかと思ったら」
がっくりと肩の力が抜ける。
呆れたように乾いた声で応えると、友人は不機嫌そうに、むっと眉を寄せた。
まるで、相手の反応が心外だとでも言わんばかりに。
「なんだよ。お前はそう思わねーの」
言いながら、ぐいぐいと袖を引っ張ってくる。
なんだこいつ。なんだこの表情。どっかの幼稚園児かお前。
心の中で突っ込みながら、その友人を鬱陶しげに見やりつつ、青年は「そうだな」と呟いた。
まったく、うるさくてガキっぽくて、どうして俺はこんなヤツと友達になんかなったんだろう。
もっとも、同居することを承知したのは自分だし、こういう奴だと解っていながら突き放せないのも、自分の意思だ。
だからこそ悔しいというのもあるし、たまに後悔したりもする。
でも。
「‥‥‥幸せかも、しれないな」
ちょっとだけ、笑えてくる。
「幸せだよなぁ、俺たち」
にぎやかな生活は、それほど嫌いではなかった。
青年の穏やかな表情を見て、友人は「だろ?」と嬉しそうに笑みを浮かべる。
テレビでは、新人の芸人が何かボケたらしく、隣の相方や先輩芸人から盛大なツッコミを受けていた。
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