私メリー。今同窓会に来てるの
「懐かしいな」
蝉の声が煩く響く夏真っ盛り。バスに揺られて一人の男が窓の外を眺めて呟く。その手には同窓会案内と書かれた葉書があった。
男は高校卒業と同時に町を離れ上京。そのまま卒業しても地元に帰らず就職して多忙な毎日を過ごしてきた。結果、成人式に戻って以来10年間一度もこの生まれ故郷の町に帰ることは無かった。実際ここは町といっても人口流出により隣村と合併しただけで実際には村となんら変わりない田舎の漁村であるが。
バスから降り男が深呼吸をすると、懐かしい磯の香りがここで過ごした遠い記憶を呼び起こす。それは毎日変わり映えのない日々で、当時の男にとっては牢獄にも等しい生活の記憶だ。
「あれ? メリーじゃない?」
昔を思い起こす男に声をかけてきたのは男よりも幾分か若く見える肌の白い女性であった。男は女性を見ると上から下までじっくりと眺める。ショートカットに薄着の白いワンピース姿はいやらしさを感じさせない、清純な雰囲気で尚且つ色っぽさも兼ね備えたまさに男の理想とでもいうべき美女である。しかし男はその女性の記憶がない。薄らとだが確かに見た目に覚えはある。だがどうしても名前が思い出せない。
「あー私のこと忘れてるんでしょ? メリーは昔っから人の顔と名前おぼえらんないよね」
その言葉に男は苦笑を返すしかなかった。確かに人の顔と名前を覚えるのが昔から苦手なのである。この女性については思い出せないがメリーと言う自分の渾名を知っている以上知り合いであろうと男、鈴木秀則は判断する。ちなみに何故こんな渾名になったかというと、小学生の頃の自己紹介時にひらがなで自分の名前を黒板に書いた時、ひでのりの『で』と『の』が重なってしまった為にひでめりとなってしまい、以後ずっと後ろの2文字のめりからメリーと呼ばれているのである。
「私は忘れたことなかったのにな」
「え?」
それではまるで片思いのようではないか。ひょっとして聞き間違いではと秀則は聞き返す。
「なーんてね!」
その言葉に女性の言葉が冗談であったことを悟り、秀則は若干呆れると共に少しの寂しさを感じた。
「逃げたほうがいいよ」
「え?」
急に真顔になった女性に秀則は再び聞き返す。今度は先程と違い淡い期待等全くない純粋な疑問だ。
「ここに居ちゃいけない。今ならまだ間に合うよ」
そう言うと女性は振り返ることもなく立ち去ってしまった。秀則は名前を忘れてることに対して詰問でもされるかと内心ひやひやしていたので少々安堵した。だが女性が最後に言っていた言葉が気にかかる。逃げろとはどういうことだろうか。考えてもわかるはずもなく、結局秀則は実家に行く道すがらずっと女性の名前を思い出す作業にいそしむこととなった。
実家に到着しても結局女性の名を思い出すことができず、面倒なので秀則はそのことを忘れることにした。このあたり秀則は非常にアバウトなのである。
「ただいま」
「おかえり。ちょっと老けたんじゃないか? 忙しいかもしれんが無理はするなよ」
「わかってる」
ちょうど玄関に出てきていた父親とばったり会う。10年間戻らなかったとはいえ電話くらいはしているのでそうそう懐かしい感じはしない。ただやはり直接会うと両親が、そして自分が歳をとったことを実感してしまう。自分より大きかったはずの父親が、今ではこんなに小さく感じるのはやはり10年と言う歳月が如何に長いものかと感じさせる。
「あらあら、秀ちゃんお帰り。お留守番よろしくね」
奥から出てきた母親は10年ぶりに会う息子よりも久しぶりの旅行の方に気が向いてしまっているようだ。そもそもこの町では海際の家に住む人間がお盆に家の外に出ることはほとんど無い。お盆初めのこんな日中なら極稀にいるのだが、夕方以降は人っ子一人見当たらなくなる。古い言い伝えを律儀に守る田舎ならではの現象だ。故にお盆になると旅行に行く家族が多い。どうせ外に出てはいけないのなら町から離れてしまえばいいということなのだろう。秀則の両親はあまり旅行に出かけることはなかったが、偶には夫婦水入らずで出かけたらと今年は秀則が温泉旅行をプレゼントしたのだ。まさかその後で同窓会の誘いが来るとは夢にも思わなかったが。その偶の親孝行の結果、秀則は一人寂しく留守番をする羽目になってしまった。
「買い置きはあるから今日の夕方以降2日間は外に、海に行ったらあかんぞ」
「わかってるよ」
都会で10年も過ごしてきたせいかそんな迷信をはなっから信じていない秀則は先程と同じように適当に答えた。
「わし等は旅行に行ってくるがお盆休み中に戻ることは無い。わかったか?」
その言葉に秀則は内心首を掲げた。何故そんなことを念を押す必要があるのか? わからないままに秀則は「あぁ」と曖昧な返事しか返すことが出来なかった。
「それじゃ行ってくる」
そう言って両親は出かけて行った。一人残された秀則は10年ぶりとなる自身の部屋に戻り懐かしいベッドの感触を確かめるのだった。
部屋に荷物を置いた後、久しぶりに町を歩いてみることにした。ダメなのは夕方以降と言っていたし、まだ正午にもなっていない今なら特に問題ないだろう。秀則は留守番もせずに懐かしい町へと歩き出していった。
海際の堤防沿いをのんびりと歩く。夏真っ盛りの海辺だと言うのに人っ子一人見当たらない。観光客でも居るかと思えば古くからの漁村にそんな人を呼び込むものがある訳がない。こうやって田舎はさびれていくのだろう。折角の夏なのに海に人が居ないなんて勿体無い。そんなことを思いつつ海沿いを歩いていると何やら先方で怒声のような声が聞こえてくる。よくみると近所のおじいさんと水着を着た若者達が言い合いをしているようだ。
「だからお盆は海に近寄ったらあかんといっとるじゃろうが!!」
「なにこのじいさん。超うけるんですけど」
「まみちゃんこんなジジイほっといて泳ごうぜ」
少し先にワンボックスの大きな車が停まっている。恐らく若者達は地元住民ではなく流れの人達だろう。
「だからダメじゃと言うとるじゃろうが!! 取り返しのつかんことになるぞ!!」
怒声を上げる爺さんが怒りながらもこちらに気が付いた。
「おおっ!! 秀坊じゃないか!! 久しぶりだな、元気しとったか!!」
「お久しぶりです。おじさんもお元気そうでなによりです」
「立派になったのう。そうじゃ秀坊もこいつらに何とか言ってやってくれ」
おじいさんはそう言って若者達を指さした。若者達を見ると恐らく大学生くらいであろう男女の4人組だ。
「この時期はサメやクラゲが多いんですよ。泳ぐのは危ないですよ」
秀則は無難な回答をしておいた。何故なら古い伝承を言った所でこういう若者は面白がってしまうだけだと自身の経験から知っているからだ。それにあながち間違ったことを言っている訳でもなかった。
「あーそういうことか。だったら最初からそう言ってくれればいいのに。それなら沖に出なきゃいいだろ?」
「まぁ海辺くらいならいいんじゃないかな」
「いかん!! 海辺だろうが海に近寄ったらあかん!!」
それでも止めるおじいさんを無視して若者たちは海辺へと言ってしまった。
「全く……どうなっても知らんぞ」
「言い伝えは知ってますけど実際どうなるかは自分も知らないんですよ。海に入るとどうなるんですか?」
これは秀則がかねてより思っていたことだった。言い伝えはあっても実際にどんなことが起きるのかわからない。
「そうか。お前さんは村の外に出てるんだったな……。お盆の海には魔物が潜んどる。そいつは巧妙に人に近づいてくる。そして海に引きずり込んでしまう。そうなったらもうおしまいだ。そいつも魔物になっちまう」
「魔物?」
「あいつ等は狡賢いが、中から開けない限り戸締りをした場所に入ることができん。秀坊も夕方以降は家からでるんじゃないぞ」
そんな言葉を言い残しおじいさんは去って行ってしまった。残された秀則としても魔物というゲームや物語でしか存在しない者を言われて戸惑う他ない。まぁ家に閉じこもっていれば大丈夫だろうと楽観的に考えて秀則はそのまま散歩を続けることにした。
「ようメリー!」
そろそろ堤防も終わり、山道になろうかという場所で秀則は声をかけられた。振り向くと海岸線で崖になっている所に大きな木がある。その下の日陰になっている部分にその人物は居た。歳の頃は自分と同じくらいに見える男だ。こちらも先程の女性と同じくなんとなく見知った顔だが、やはり秀則は名前が思い出せない。
「お前……まさか俺のこと忘れてるんじゃないだろうな」
「えーともちろん覚えてるよ。たしか……アキラだろ?」
「同学年にアキラなんて名前の奴は一人もいねえよ!!」
そういえばそうだったと秀則は納得する。あれはゲームの主人公の名前だったか?
「実だよ!! 矢田実!!」
「そうそう、実ね。もちろん覚えてるよ。ド忘れしただけだよ」
そんなことを言っているが実際はド忘れどころか秀則の脳内からは完全に記憶が削除されていた。そもそもそんなに仲が良かったわけでもなければ、話したことすらあまりない。家が近所であるというくらいしか接点は無かったのだ。
「まぁいいや。同窓会出るんだろ?」
「ああ」
「また後でな」
俺の返事を聞き、にやりと笑うと実は去って行った。先程の女性と言い会話を続ける気が無さそうに去っていく様はまるで嵐のようだ。気にせず今度は山道を登っていく。海から離れると若干ではあるが人の姿が見えるようになってきた。とはいっても庭で水やりをしている程度である。すると水やりをしている女性と目があった。確か同級生の母親だ。何度かこの家にはお邪魔したこともあったので覚えている。名前は思い出せないが表札を見ると深谷と書かれている。そういえばそんな金持ちの友達が居たなと思い出すも下の名前は思い出せなかった。
「あらあら秀君じゃないの!! 久しぶりねえ。元気にしてた?」
「はい。おばさんもお元気そうで。深谷君はどうしてます?」
「純は秀君と同じく東京に出てるのよ。もう何年も帰ってきてないわ。やっぱり都会がいいのかしら」
そういえば純という名前だったか? いや確か純一だったはずだ。おばさんとの会話で秀則はやっとのことで友人の名前を思い出す。
「私が言っても全然聞かないから、良かったら秀君電話して偶には帰るように言ってもらえないかしら?」
そんな無茶なことを言われてもと途方に暮れて苦笑いしているとOKと受け取ったのか、おばさんはすぐに家の中へと戻り紙を渡してきた。紙には携帯の番号らしき数字が書かれている。恐らく純一の携帯番号なのだろう。
「じゃあ秀君お願いね」
10年会ってない友人からいきなりの電話なんて怪しさ満点だ。どう考えても何か裏があるようにしか思えない。だがそんなことを口にするわけにもいかず、番号を渡されてしまった以上断るわけにもいかないので秀則は渋々と了承する。何か言われてもおばさんから言われたと言えば事実でもある以上、向こうも納得せざるを得ないだろう。
深谷の家から更に山を登り海を見渡せる場所に出た。晴れ渡った空の青が映える水平線は、雲ひとつない青空から照らし出す陽の光を反射して黄金の輝きを放っている。まさに絶景とも言える懐かしい景色を堪能してから秀則は先程とは違う道を通って山を降りた。
その途中この村唯一の居酒屋を目にする。町唯一でないのは、隣村にもある為だ。この居酒屋は基本漁師が来るために朝からやっている。だがお盆の時期は誰も漁に出ない為、基本的には休みなのだ。そこを貸し切って同窓会をやろうというのだろう。まだ空いていないであろう居酒屋を眺めながら前を素通りする時、ふと居酒屋の前の張り紙があるのに気付いた。
「旅行の為、8月いっぱいはお休みします?」
秀則は読み上げると頭に疑問符が浮かぶ。お盆だけじゃなく一ヶ月も休みとか羨ましい。そんな軒並みな感想ではない。休みなのにどうやって同窓会をやるのだ? という素朴な疑問だ。
「あれ? メリー?」
居酒屋の前で固まっていると居酒屋の隣家のベランダから声をかけられた。
「おう。久しぶり」
無難な受け答えをしておいたが、やはり名前は出てこない。だがたしかに見覚えのある顔だ。そのまま家に上げてもらうと奥さんらしき人がお茶を運んできた。良く見るとその顔も見覚えがある。
「懐かしいわね。メリー君久しぶり。私のこと覚えてる?」
「……もちろんだよ」
「嘘付け! 絶対覚えてないだろ!!」
そんな気安い受け答えに秀則は懐かしさを感じる。そうだ。確か学生の頃もこんな風に言い合いをしていた。そんなやり取りに遠い懐かしい記憶を思い出す。
「懐かしいわね。そうやっていっつもメリー君、色乃に怒られてたじゃない」
色乃……秀則は突然天啓の様に思い出した。この町に来て最初にあった女性。野呂色乃。近所の幼馴染だ。どうして完全に忘れていたのだろう。
「色乃いつもメリー君のこと見てたよね。私、絶対二人はくっつくと思ってたのに……」
そんなことを言われて秀則は苦笑しか返すことが出来なかった。当時の秀則は狭い交友範囲に決められたレールのような人生。毎日繰り返される変わり映えのしない田舎生活に心底うんざりしていた。その為、早くこの村を出ることしか考えておらず、幼い頃から一緒にいたその少女すら変わらない日常生活の一部と判断しており、いつかここを出ていく自分からは離れていくものとして深く接しなかった記憶がある。
「そいえばさっき色乃見たよ」
秀則のその言葉に夫婦は驚いた表情を見せた。人は絶句すると本当に固まるのだと秀則は初めて確認出来た。
「さっき? どこで?」
「バス降りてすぐの所で」
「……色乃、去年のお盆から行方不明だぞ?」
その言葉に今度は秀則が絶句した。行方不明? ならば丁度一緒に帰ってきたということか?
「矢田と駆け落ちしたなんて言われてるけど絶対そんなはずない!! だって色乃はメリー君一筋だったし」
「矢田? 矢田実?」
「そう。あいつずっと色乃にしつこく言い寄ってたの」
「矢田にもさっき会ったぞ? 2人で帰ってきたんじゃないか?」
その言葉に夫婦は青ざめた顔をして顔を見合わせた。
「メリー!! お前すぐ帰れ!! 今ならまだ間に合う!! 絶対海に近寄るなよ!!」
「え?」
「家に帰ったら戸締りして絶対扉開けちゃだめよ!!」
一斉に捲し立ててくる夫婦に反応できずにいるとそのままの勢いに外に追い出された。
「何なんだ一体」
そう一人愚痴りつつも秀則は言われた通り家路へと急いだ。まだ正午になったばかりというのにやけに肌寒く感じるのは潮風のせいだろうか。
「しまった」
秀則は帰る途中に同窓会について聞くのを忘れたことに気が付いた。今から戻るのもなんだし、戻ってもあんな風に勢いのままに追い出された以上恐らく会ってももらえないだろう。結局二人の名前も聞きそびれたと秀則は内心溜息をついた。
その後は特に何が起こる訳でもなく坂を下り無事に家に到着した。言われた通り家中の戸締りを確認し、一人テレビを付けてのんびりと寝転がる。世間一般の学生は夏休みという時期もあるが、こんな時間に秀則が好むような番組等やるはずもなく、秀則はただぼーっとテレビを眺めていた。
いつの間にかウトウトとしてしまい、気がつくと夕方になっていた。秀則は寝ぼけ眼を擦りつつ、机の上に置かれた母親の作り置きしてくれていた夕食を食べることにする。都会の男の一人暮らしだとどうしても食生活は外食かインスタントになってしまう。そんな食生活が続いていた為、秀則は久しぶりに母親の味を食べられることに歓喜していた。どこか懐かしい味。あんなに嫌だった田舎の象徴でもある味のはずなのに今では中々食べることが出来ない貴重な味でもある。素朴な味であるが、インスタントの味噌汁では味わえないこの素朴な味わいはやはり家庭の味なのだろう。秀則が一人で感動しつつ食事を終え、何気なくポケットに手を突っ込むと紙の手触りを感じる。しょうがないかと諦めた表情で秀則はその紙にかかれた番号へと携帯から電話をかける。3コールのうちに電話の相手は出た。
『もしもし』
「純一か? 俺だよ俺」
『……誰だよ?』
「俺だって俺」
『わかんねえよ!!』
「鈴木だよ。鈴木秀則」
『鈴木秀則? 誰?』
「うおい!! お前俺より酷いな!!」
『冗談だよ。久しぶりだなメリー。どうしたんだ急に? どこでこの番号知ったんだ?』
「おばさんに頼まれたんだよ。息子が帰ってこないから俺から電話して帰るように言ってくれってな」
『全く母さんは……てことはお前戻ってるのか?』
「ああ。今実家」
10年以上話して居なかったはずなのに、まるでつい昨日も会ったかのように会話がはずむ。長年の友人と言うのは何物にも代えがたい物だと電話中にもかかわらず、秀則は懐かしさと嬉しさで思わず笑いが込み上げてきた。
「そうそう、同窓会の案内が来てたんだけどな。おかしいんだよ。会場の居酒屋が一ヶ月休みってなってたんだ。お前の所には案内来てるか?」
『いや、来てないぞ?』
「お前……ハブられてるんじゃないか?」
『そんなわけあるか!!』
懐かしい軽口の言い合いは今も昔も全く変わらないようだ。10年ぶりの会話にいささか緊張していた気分は一瞬で吹っ飛び、秀則達の気持ちは一気に10年前へとタイムスリップしていた。そんな折に玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。そして外から男の大きな声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。
「なんか矢田が来てるみたいだ」
そう漏らした声に電話の向こうの声が一瞬黙る。
『矢田? 矢田が来てるのか?』
「ああ、覚えてるだろ?」
『今、家だよな?』
「ああ」
『開けるなよ!! 絶対に!!』
突然の友人のどなり声に思わず携帯を耳から離す。すると玄関をドンドンと扉を叩く音も聞こえてきた。そういえばあの夫婦も開けるなって言ってたな……。そう思いつつ秀則は携帯片手に玄関へと向かう。
「おーい!! メリー!! 迎えにきたぞー!!」
「全く、あいつは声がでかいな。そっちにも聞こえてるか?」
『……いや、何も聞こえないぞ?』
「嘘だろ? こんなでかい声なのに」
そう言って秀則は携帯を玄関に向けてかざす。
「おーい!! 居るんだろー!!」
「どうだ? 聞こえたか?」
『全く聞こえないぞ……。いいか、絶対開けるなよ!! そいつは矢田じゃな』
そこで携帯は切れてしまった。リダイヤルをしてもつながらない。まさか偽物とかそんなことあるわけが……そう言おうとしたその時、扉を叩く音がドンドンと大きくなっていくことに気づく。
「いるんだろうがああああああ!! あけろやあああああああ!!」
矢田の声が段々と狂気を帯びた感じになっている。うちの玄関は外の様子が全く分からない為、外がどうなっているのかわからない。思わず開けようとするも友人達の言葉を思い出し、ドアノブに伸ばそうとしている手が躊躇して進まない。そのまましばらく躊躇っていると玄関の音も怒声もやみ、先程までの騒音がまるで嘘のように静まり返った。だが扉の向こうから気配を感じる。絶対に奴はいる。そう確信した秀則は静かに玄関から離れ、2階の自分の部屋へと向かった。
薄暗くなっている部屋に戻ると秀則は電気を付け……ようとしてぎりぎりその手を止めた。このまま電気をつけたら矢田に気付かれる。その思いが秀則の手を躊躇させたのだ。窓にカーテンが掛かっていない今の状態では電気をつけたらすぐにばれてしまうだろう。気付かれないように屈んでそっと窓に近寄り、少しずつ顔を出して玄関を確認する。玄関の上は屋根がある為にここから直接確認することは出来ないが、帰る所は見られるはずだ。窓から顔を出し、矢田が居ないことを確認した後にカーテンを閉める。ほっと一息つくが分厚い遮光カーテンは閉めるとそれだけで部屋が真っ暗になってしまう。不気味さを振り払うようにカーテンを少しだけずらし、秀則は外を眺める。
「うわああああ!!」
秀則は思わず声をあげて尻もちをついてしまった。窓の外から見えたもの。それは玄関の先からこちらを見る矢田の笑った顔だった。すぐにカーテンを閉めると荒くなった息を整える。するとバンバンと後ろで音が鳴った。今度こそ心臓が飛び出るのではというくらい驚いた秀則は思わず悲鳴を上げて部屋の反対側まで這うようにして逃げ惑う。バンバンと言う音はまだ続いている。それはまるで掌で窓を叩く音である。しかしこの部屋の外には屋根もなければ乗り上げることができる場所もない。梯子でもかけない限り直接窓を叩くなんてマネは到底無理なのである。秀則は遮光カーテンの向こうで笑いながら窓を叩く矢田の姿を想像し心底恐怖した。
「居るんだろ。メリー」
明らかに窓のすぐ外から声が聞こえてくる。窓を叩く音も休むことは無い。それどころかどんどん数が増えているように感じる。その音の数はおおよそ一人の手では不可能な程だ。それだけ叩かれているにも関わらず窓は一切揺れるような気配を感じない。普通窓を叩いた場合、少しは窓が軋むものだがそんな気配が微塵もなく、これだけ大きな音で叩けば割れても良さそうなものだが割れる気配もない。だが音は一切止むことなく、むしろより一層激しくなってきている。秀則は思わず部屋から飛び出し1階へと向かった。
リビングでは先程と同じくテレビがついている。そこで思い出したかのように携帯でリダイヤルするもやはり純一には繋がらない。何度リダイヤルしても駄目だ。そんな焦る秀則を更に追い打ちが襲う。バンという先程から聞きなれた音が一つ聞こえたのだ。それは庭に面したリビングの窓。運よく遮光カーテンがかかっている為、外は見えなかったが間違いなくそこから聞こえてきた。2階の時と同じように一つ、また一つと叩く音が増えていき、その数はすぐに凄まじい騒音になるまでに至った。秀則はその恐怖を薄める為テレビの音量を上げる。それにより恐怖は若干ではあるが薄まった。そして外から見えそうになる窓を全てカーテンや布で覆い見えなくなるようにする。幸いにも自分で開けた自分の部屋の窓以外の家中の窓にはすでにカーテンがかけられていた為に、トイレの窓等の曇りガラスのみでその作業は済んだ。その後、家の電気を全てつけることで恐怖心はさらに薄まり気づけば窓を叩く音も無くなっていた。
束の間の平穏に秀則はテレビを流しつつ携帯で電話をかける。しかし先程から誰にもつながることはない。電波は来ているようだが話中でコール音すらならないのだ。ならばと110や119にかけるも同じく話中である。それは家の電話を使っても同じ結果であった。
玄関近くの電話の受話器を置いて今後のことを考えていると玄関を叩く音が聞こえた。また矢田かと思うもどうも声が違う。
「お願い!! あけて!!」
「頼む!! 開けてくれ!!」
男女入り混じった声からどうやら複数の人間がいるようだとわかる。そこで秀則が思い当たるのは日中にあった大学生風の4人組であった。
「どうしたんだ?」
秀則は扉を開けずに中から声をかけて見る。
「海に入った2人がおかしいんだ!! 助けてくれ!!」
男が狂ったように喚く。一体何が起こったのか気になる所ではある。見捨てる訳にもいかないと秀則はドアノブに手をかけた所でまたもや停止した。
「何故、昼間初めて会った俺が、この家にいるとわかったんだ?」
そんな質問をするとドアを叩いていた音はぴたりと止んだ。
「フフフフフフフアハハハハハハハアハハハ」
そして狂ったような笑い声が聞こえてきた。その声は最初の学生のものではない。
「惜しいなあ、もう少しだったのに」
矢田のような声でそんな言葉が聞こえてきた。震えあがった秀則は階段を駆け上り自分の部屋へと飛び込んだ。そして電気をつけテレビを大音量で付ける。それで一安心と思うもそれは長くは続かなかった。
「え?」
プツンという音と共にテレビも電気も消えたのだ。家中の電化製品をつけたせいでブレーカーが落ちたのだろうと、秀則は勇気をだして真っ暗闇に包まれる部屋から出て一階に向かう。10年ぶりとはいえ長年暮らしてきた勝手知ったる自分家である。例え灯りがなくとも手探りで大体の物の位置は把握できている。秀則は階段を下りると手にした携帯をライト変わりにブレーカーをあげに行く。しかし確認するもブレーカーは下りていなかった。
「停電……か」
つまりこれは自身では復旧出来ないということだ。家中締め切った為に家の中はほぼ完全な闇の中である。ロウソクや懐中電灯なんかも使ったことがないのでどこにあるのかわからない。どうしようもない状態に秀則は諦めて自分の部屋へと戻った。部屋に入ると窓が一斉に鳴りだした。
暗闇の中、唐突の音に驚いて秀則はヘッドへと潜り込んだ。まだまだ真夏である。エアコンも付けないで布団に潜り込むなんて普通では考えられない程暑いはずだ。にもかかわらず秀則は訳のわからぬ恐怖の肌寒さに震えていた。
チュンチュンという雀の鳴き声が聞こえる。恐怖と疲れからかそのまま寝入ってしまったようだ。真っ暗な部屋で目を覚ました秀則は布団から起き上がり、静かになった窓に近寄る。恐る恐るカーテンを少しめくると隙間から陽の光が差し込んできた。やっと朝になったと一気にカーテンを開けるとそこに映るのは窓一面についた手形の後であった。一体何人が叩いたのかと言わんばかりに窓一面についた手形はもはや常軌を逸した光景である。秀則はすぐにカーテンを閉める。再び部屋は暗闇に戻るもそれにまさる恐怖には打ち勝つことができなかった。しかし、どんなに恐怖があってもそれに打ち勝つものがある。ぐうとなるお腹を押さえて秀則は部屋を出た。
「母さん……」
1階に下りて冷蔵庫を開ける。携帯のライトで中を照らすと中はまさかの空っぽだった。正確には空っぽではなく調味料しか入っていなかったのだが。仕方なく他の場所を探すと棚にインスタントラーメンがおいてあった。
「買い置きってこれかよ親父!!」
秀則は恐怖も忘れて思わず声を荒げてここにはいない父親に突っ込んだ。その後、真っ暗闇で火を使う訳にも行かず、結局秀則はインスタントラーメンを生のまま食べることとなった。
真っ暗闇の中、腹を満たして秀則は自分の部屋へと戻る。携帯の時計を見るとまだ正午にもなっていない。外に出たい所であるが、父の言葉を信じるなら後明日までは出てはいけないはずである。それは日中であろうと油断は出来ないということだ。外から叩く音はしなくなったが、いつ何時また始るのかわからない。それにこちらから開けさえしなければやつらは入って来られないようだ。それならば後は1日我慢するだけである。現代人において電気の無い生活は相当辛いだろうが、後1日半と言う明確な目標があるなら耐えることが出来る。秀則は暗闇の中、一人ベッドの上で寝転ぶのであった。
プルルルルルという音にはっと目を覚ます。腹が満たされ、することもなく暗闇で寝転がっていると、秀則はいつの間にかまた寝入っていたようだ。手に持った携帯を見ると父親からの様だ。
『何か変わったことは無かったか?』
「変わったことだらけだよ!!」
久しぶりの父親との会話に安心感からか秀則は思わず怒鳴り声をあげる。そして今まで怒ったことを父親に説明する。
『そいつは魔物だ。昔から話は聞いてただろ? 10年前まではお前だって家から一歩も出なかっただろうが。今更何をいってるんだ』
言われてみれば確かにそうだと秀則は思いだす。思い起こせばお盆に家から出たことなんて一度たりともなかった。特に疑問に思うこともなく地元民の習慣であった為に、何故と深く考えることすらなかったのだ。秀則は急激に色あせていた昔の記憶が鮮明によみがえってくる。
『だが、扉を叩いたりしてくるとなると、何故かはわからんが完全にお前は魅入られてるようだ。父さん達今からすぐ戻るからそれまで絶対扉を開けるんじゃないぞ?』
その言葉に秀則は安堵する。アラサーになってもやはり父親と言うのは子供にとっては安心できる偉大な存在なのだろう。これで後は1日乗り切るだけだと秀則は電話を切って安堵すると再び鳴り響く携帯に心臓が飛び跳ねそうになる。すでに電池が切れそうな携帯画面に映し出されたのは純一の名前だ。
「もしもし」
『メリーか? 昨晩は楽しかったか?』
純一の言葉に頭にクエスチョンマークが浮かびあがる。
『ドッキリだよドッキリ。矢田達と組んで脅かしたんだよ』
「はあ!?」
秀則は思わず声を荒げた。今までの恐怖がドッキリだと? さすがの秀則も怒りが込み上げてきた。
「お前ふざけんなよ!!」
『悪い悪い。ホントはネタばらしは明日にしようと思ったんだけどな。同窓会するから今からお前の所いってばらすっていってたよ』
その言葉に秀則は心底呆れ果てた。居酒屋や自分の母親までつかってわざわざこんな大掛かりなドッキリを仕掛けたと言うのか。確かに今までの現象も会った人達がみんなグルだというならば殆どは人の手で可能ではある。やりきれない怒りとドッキリかという安堵感から秀則は力が抜けた気がした。
携帯を持ったまま階段を下り、玄関へと向かう。すると丁度チャイムが鳴った所だった。
「おーい。メリーあけてくれー」
外から矢田の声が聞こえてきた。昨日の夜のような狂気の声ではなく会った時の普通の声だ。一言どころか一晩中説教でもしてやろうかとドアノブに手をかけるも体が言うことを効かない。何かを忘れている気がする。父親は何と言っていた? 絶対に開けるなと言っていなかったか? ドッキリだとしたらどうやって停電させたのか? そもそも純一の母親と会ったのも偶然だ。純一とグルになって俺にドッキリを予め仕掛けるなんてマネは不可能だ。玄関の外ではドンドンと叩く音が聞こえる。
「おーい」
外に聞こえる矢田の声を無視して秀則はドアノブから手を離した。
『なんで開けないの?』
携帯から聞こえてくる感情を全く感じさせない声に秀則は思わず携帯を落とす。聞こえてきたのは純一の声ではなかった。落とした拍子に携帯は電池が切れたように真っ暗になってしまった。真っ暗闇の中、秀則は落とした携帯をそのままに2階へと駆け上がり自分の部屋に飛び込んだ。布団にうずくまり震えていると、昨日と同じように窓の外を叩く音が聞こえ始めた。暗闇の中、秀則は恐怖のあまりそのまま気を失うのだった。
どれくらいの時が経っただろうか。相変わらず真っ暗闇の中、意識を戻した秀則は手元に携帯がなく時間を確認出来ないことに気づく。窓の外からはチュンチュンと雀の声が聞こえてきている。どうやら気を失った後、明け方まで眠ってしまったようだ。あの窓一面にびっしりとついた手形を見たくは無いのでカーテンは開けず、父親が帰るまでそのままでいることにした。
しばらくするとキキーッという甲高いブレーキ音とドンという鈍い音が聞こえてきた。
「母さん!! 母さん!!」
外から聞こえてくる聞きなれた父親の悲鳴にも似た声に秀則の心臓は跳ね上がった。母親が車に轢かれた!? 暗闇の中急いで玄関へと向かう。玄関のカギを開けて扉を開けるとそこには……。
「やっと開けたな」
夜の闇を背に、にやりと笑う矢田が立っていた。
☆
ここはどこだ? 秀則は薄れている意識の中、冷たさに意識が覚醒する。はっと気がつくと、自分はどうやら腰まで水につかっているようだ。波の音が聞こえることから自分は海にいるのだと確信する。足を止めようにも自分の意思とは無関係に足は沖へと向かっていく。自分の足の向かう先、まるで闇に浮かぶように頭が斜めになっている矢田らしきおぞましいモノがこちらを見ていた。その姿はおおよそ人のそれではない。恐怖に慄くも悲鳴すら上げることが出来ない。
「ダメ!!」
女性の声が聞こえた。その途端体に自由が戻る。
「ひーくん逃げて!!」
波打ち際で叫ぶ女性、色乃の声に引っ張られるように秀則は重い足を動かして必死に陸へと走った。こんなに懸命に走ったことはないだろうという程全力で走り、なんとか海から出ることに成功する。
「裏切るのか色乃!!」
後ろから矢田の怒声と恐ろしい呻き声が迫ってきているのがわかる。
「逃げるよ!! 走って!!」
そう言って走る色乃の後を秀則は後ろを振り返らず必死に走って着いていく。山道に差し掛かったところで色乃は立ち止まり山を指さす。
「頂上まで行けば大丈夫だから」
「色乃……どうして」
一体何が何だかわからない秀則は困惑して色乃に尋ねる。
「去年のお盆にね。私矢田に襲われたの。必死で抵抗して、外に逃げ出したんだけど……気づいたら追いかけてきた矢田と一緒に海に……私もあいつらと同じになっちゃった」
そう言って笑う色乃に秀則はなにも返すことができなかった。
「どうにかならないのか!? お前はここにいるじゃないか!!」
怒鳴る秀則に色乃は静かに首を振る。
「もうわかってるでしょ。私もあいつらと同じ。もう人じゃないの。今はまだ私だけど、すぐにあいつ等みたいになっちゃう。ごめんねひーくん。私が私じゃ無くなっちゃう前に……最後にもう一度ひーくんに会いたかったの」
そう言って涙を溢す色乃は昔のままの姿にしか見えなかった。
「懐かしいなその呼び方」
色乃は幼い頃、自分をひーくんと呼んでいた。メリーと言う名が定着してからは恥ずかしさもあってひーくんはやめろと言ってあったが、色乃はきっとそう呼びたかったのだろうと今更になって気づく。
「ひーくんって呼ぶのは私だけだからね!! ……最後に会えてうれしかったよ。さよならひーくん。大好きだったよ」
そう言って色乃は坂を下っていく。その先には黒い塊のような煙のようなものが海から迫ってきているのがわかる。
「色乃!!」
「走って!!」
色乃の叫び声に秀則は振り向き、そして全力で坂道を登り始めた。急こう配の坂を全力疾走で走り抜ける。電気のついている家は一件もない。おおよそ現実感のない一連の出来事に、これは夢なのでは? 目が覚めたらあーやっぱり夢か。そんなことになるのではと淡い想像を描いてしまった秀則の思考は誰にも攻められないだろう。山の中腹でスピードが落ち、膝を押さえながら懸命に登る。自身の乱れる息が整ってくると、静かな山道に後ろから何かが聞こえてきた。それはぴちゃん、ぴちゃん、という水滴のようであり、まるでずぶぬれの何かが歩いて迫ってくる、そんな不気味な音であった。
秀則は後ろを振り返らず必死に坂を登った。もう一生でこんなに走ることは無いだろうと思える、そんな全力疾走をしているにもかかわらず、後ろから迫る音はどんどん迫ってくる。もうすぐ山の頂上に差し掛かるというところで後ろから何かが背中に触れた。それは足に、手に、そして頬に触れついには足首を掴まれ秀則は転倒してしまう。そして後ろを見てしまった。そこにはおびただしい数の黒い影が山を登ってきている姿だった。すぐ近くには矢田の顔をした黒い影がこちらに手を伸ばしてきている。目が斜め上を見ておりどこを見ているかわからない。ふらふらと揺れているその姿は以前会った時とはまるで別物だ。逃げようと腰を浮かせると途端に視線がこちらを捉えた。
「ひっ!?」
思わず声をあげ、秀則は再び全力で坂を駆け上がる。矢田の手が空を切り何とか逃げ出すと色乃に言われた通り山頂を目指した。心臓が口から飛び出そうになる程の全力疾走で秀則はなんとか山頂にたどり着いた。
「やった……」
息も絶え絶えに速度を落とすとすぐさま足首を掴まれた。再び転倒すると足を掴む矢田らしき影が見える。
「山頂は大丈夫じゃなかったのかよ!!」
そんな叫び声もむなしく倒れた秀則に続々と影が集まってくる。影の顔は老若男女入り乱れており、統一性がない。
「お前も」
そんな声が辺りから絶え間なく聞こえてくる。そして影達が秀則に手を伸ばそうとしたその時、秀則の体に触れる前に手が止まった。秀則はまるで死刑宣告を待つかのように固まっていると後ろから薄らと朝日が差し込んでくるのに気が付いた。その光に影達はまるで波のように一斉に引いていった。
「助かった……のか」
極限の緊張感と疲労、そして助かったと言う安堵感で秀則はその場で崩れ落ち意識を失った。その後、道で寝ている所を山を通りがかった隣村の人に起こされた。家路へと急ぐとまるで昨日のことが夢だったかのように村には人が出歩いていた。どうやら3日目の朝以降は出歩いても良いようだ。憔悴しきった秀則の姿を見て色々と心配されつつもなんとか家まで辿り着く。空きっぱなしになった玄関の奥からは声が聞こえてくる。恐る恐る入ってみるとどうやらテレビのようだ。気がつけば電気が戻っていた。秀則はすぐに荷物をまとめ東京の自宅へと急ぐのだった。
☆
一年後。
東京に戻った秀則は秀則は再び忙しい毎日に戻る。あの後、両親に電話するとそもそも休み中は携帯の電源を入れておらず、秀則と電話なんてしていないと言われた。ではあれは誰だったのか? 考えるまでもないだろう。しばらくは電話に出ることすら恐怖に感じていたが、多忙な毎日はすぐにあの夏の恐怖をを忘れさせてくれた。
『聞いてるのかメリー?』
あれから一年。唯一変わったことといえば純一と電話をして会うようになったことくらいか。東京に戻って確認してみると意外に近い場所に住んでおり、今では頻繁に会ってお互いの家で飲んでいる。
「聞いてるよ」
そう言いつつ秀則は会社からの帰宅中にかかってきた友人の電話に上の空で答える。不意によぎった彼女のことに思わず返事が遅れる。自分が捨てたにも関わらず、ずっと自分を思ってくれていた幼馴染。蝉の声が煩くなるたびにその姿を思い出してしまいそうだ。そんな気持ちを抱きつつ、自宅の郵便受けを漁るとそこには同窓会案内と書かれた一枚の葉書が入っていた。
夏は終わらない。