彼女は人を嫌おうと必死だった。
自分の身の上を知り、その上で【自分の不幸さ】が他人にうつってしまうのが嫌で、彼女は人を寄せ付けないようにしていた。
優しく接してくれる者。友達になろうとしてくれる者。自分の悩みを聞こうとしてくれる者。
彼女は、それらを鬱陶しいと思い込むようにして、それらを拒み、それらと自分との世界を隔絶するようにしていた。
彼女の儚い願いが叶ったのは、唐突で、しかしあっという間だった。
文字どおり一瞬で。今日もどぎまぎしながらも話しかけてきてくれた人たちが、無感情な面構えを張り付かせて、
サーッと引く潮を早送りしたかのように、彼女を一斉に無視しはじめ。
「あ……」
彼女は、望んだとおりのひとりぼっちになったのだ。
彼女は呆然と、黒く長方形なカバンを取り落とし。
漠然とした感慨のまま、胸のロザリオを両手で握り締めた。
強く、強く。
"The rule of the joker of akane"−The wish is granted.−願いは叶えられる
「おはよう」
久しぶりに来た学校。真は挨拶してくるクラスメイト一人一人に挨拶を返し、自席に着いた。
彼の席は窓際から二列目。ちょっと遠い窓の外へ目を走らせ、真は澄み切った青空とそれに舞う鳥の姿に小さく微笑む。
和やかだった。心とともに、見る世界も。真はそう晴れ晴れとしていた。
「さあ、席に着けよぉ」
チャイムとともに教室へ入ってきた教師が、パンパンと両手を叩いて生徒達を席に座らせていく。
全員が座り終えた合図のシーンとした雰囲気の中で、真はハッと気づいた。
……あんな娘、いたっけ。
一番窓側の列の、真から左斜め三つ前の女の子。
ロングの黒髪。制服の白と同じくらい白い肌。
こんな後姿を見たことは、これまでにはなかった――真は思う。
そして、更なるおかしさが溢れた。
「はい、全員着てるってことでホームルームは終わり」
……あの娘、先生に呼ばれなかった。
じっと見ていた。先生が名簿を開き、一人一人名前を呼び出してから、名簿を閉じるまで。ずっとあの娘を見ていた。あの娘の後姿を見ていた。真はそうすることで、名前を知り、思い出すことを試みようと思っていたのだ。
加速する疑問感――真は、接触をすることとした。
……もしかしたら、転校生とかかもしれないしな。
先生のあれは単なるど忘れかもしれない。真はそう考えを結論付け、即の実行をおこした。
ざわめきの戻った教室に足音を拭い去り、ゆっくりと彼はその娘へ歩き、片手をその娘の肩へ伸ばす。
指先が触れかけ、決意するように一瞬だけ上へ手をやり、真は優しくトンットンッとその娘の肩を叩いた。
「え?」
ビクッと震え、背筋を伸ばしての硬直。その後おそるおそる振り返ってきたその娘に、真はほぅと内心唸った。
美少女と形容されるべき容姿。瞳に灯る光の弱さが、彼女を小動物のようだと連想させる。
見れば見るほど、これまでクラスメイトじゃなかった気がしてくる――真はその娘が人見知りするタイプか、引込思案であるかを察し、優しい口調をつくった。
「ごめん。いきなりで悪いんだけど、ノート貸してくれないかな?
ほら、ここ最近ずっと休んでたから。あるだけ貸して欲しいんだ……だめかな?」
「え、えと」
瞳を左右に泳がせ、その娘はちょっとだけ迷う。
真は念を押すようにその娘へ少しだけ顔を寄せて、それに押されたようにその娘はちょっとだけ顔を引いて、
「……いい、ですよ」
観念するようにそう言い、はにかんだ。
真は大げさに喜び、笑顔をかしげる。つられたように引き出された、はにかみではない彼女の微笑。
真は彼女から時計へと目を移し、口を開いた。
「それじゃ、いいかい?」
真の言葉の意図を知ってか、彼女は頷いて机の中へと手を差し入れ、四枚のノートを真へ差し出す。
それを受け取った真に、彼女はにっこりと微笑んで人差し指をビシッと向けた。
「乱暴な扱いは、しないでくださいね?」
「ああ、わかってるよ」
クスクスと微笑み合い、自席へもどる真は思う。
……引込思案というわけでも、人見知りというわけでもないようだな。
ならなぜ、最初だけあんな怯えていたのだろうか。
怯える――予想外のことに対する、驚愕という反応。
真は、自分という存在に話しかけられることが予想外で、それでちょっと怯えただけに違いないと思考を結論。
しかし、とその後に思った。
自席から、そっと彼女を覗き見る。
同じようにこちらへちょっとだけ振り返っていた彼女と目が合い、彼女はあっと言うように目を見開いて、だけどにっこりと微笑んでひらひらと真へ手を振った。
真も小さく手を振り返す。
……やはり、思い出せない。
今日までにいろいろありすぎたかと、真は心の中だけで自分を嘲り笑った。
――真は誰に手を振っているんだろう。
周囲のクラスメイト達は、そう思っていた。
チャイムが二度鳴り響いた後――
「茜さん」
ノートに書かれていたフルネーム天宮茜から、真は彼女をそう呼んだ。
さきほどと同じようにビクッと震え、おそるおそる振り返ってくる彼女に、真は苦笑いを浮かべる。
「あっ、あなたはさっきの……ええと、真さん?」
「うん」
真は茜に頷き、一枚のノートを差し出す。
茜はへぇっと感心の声を漏らした。
「もう、写し終えたんですか」
「量が少なかったからね。それに、このノートは次の教科のだし。なかったら、当てられたときに困るだろ?」
そう言って、真は見た。
真の言葉に一瞬だけ影を差して見せた茜――貼り付けられた笑顔は、普段があまりにも無垢だからこそぎこちなさが際立っている。
真は訝しげに思った。茜は悲しげに微笑んで、そうですねと頷く。
「それじゃ、このノートは没収します」
そして彼女は真からノートを受け取り、それを胸に抱いて髪を揺らした。
真も、疑問を押し殺して優しく微笑む。
その頃。
「……暇ねぇ」
アリスは、美里と真が新たに暮らす場所と決めたあるホテルの最上階の部屋で、真のベッドで身を横にして、呆然と呟いた。
物のほとんどないこの部屋。本棚は粗方探検し尽し、ほかに探って楽しそうなものはなにもない。
ほんと暇だなぁと、アリスは溜息を吐いた。
その視線の先で、垂れ流しにされるテレビ。それは、こう題されたニュースを放送している。
"心霊スポット 幽霊の存在に迫る"
「……幽霊なんて」
いるはずがない、という言葉を言うことすらめんどくさいと思い、アリスは目を閉じた。
足音が響く。
「真さんは、神さまの存在を信じますか?」
コツンコツン……
「いいや、信じない」
コツンコツン……
「どうして?」
コツンコツン……
「……この世界は腐っている。だから、神はいない」
ピタッとひとつの足音が止まり、少ししてもうひとつの足音も止まった。
螺旋階段で一階まで降りんとする真と茜。少しばかり薄暗いそこの半端で、真は茜へ振り返り、茜は真をじっと見つめる。
「……この世界は、腐ってなんていませんよ」
無理やりに微笑んだ彼女に、真は返答しないまま歩き出した。
小走りで真に追いつくと、茜はさらに言い募る。
「真さんって、今を生きる夢見がちな青春の人なんですね」
「なんでそうなる?」
「ダークヒーローを気取りたがっているといいますか、ワイルドになろうとしているといいますか」
「そんな男を、茜さんはどう思う?」
「かっこいいとは思いませんね。だけど、真さんはかっこいいと思います」
にっこり微笑み、断言した茜。
真は肩を竦めてみせた。
「話が脱線しはじめてるぞ。俺を褒めてどうする」
「ちょっと不良に捻じ曲がる人は、褒めれば真っ直ぐに治るものですよ?」
「俺は不良か」
「私はそう印象付けられました。だから、がんばって私の印象を良くしてくださいね」
「ああ、がんばるよ……って、そうじゃなくて、神さまの話だろう? お前はどうなんだ。信じてるか、信じてないか」
「微妙です。信じてるようで、信じてないっていいますか。信じてないようで、信じてるといいますか」
「そっちのほうが現代を生きる者の考えだな」
「そうでしょうか?」
「お正月とクリスマス。どっちを祝わない?」
「ええと……両方祝います」
「じゃあやっぱり、茜は現代を生きる者だ」
「それはちょっと違う気がするんですけど……」
交わす言葉は途絶えない。皮肉の言い合い、論理の言い合い、疑問の解消のし合い――話題を探すような間はなく、しかし会話は止まらない。
「でも、神さまを信じるかは本当に微妙です。神さまは形あるものじゃなくて、とっても曖昧で、とっても淡い存在で、
というか、はっきりしないのが神さまの形だと思うんです」
「……ゼウスのあたりを全否定する考えだな」
「全否定はしてませんよ。ただ、あれも神さまの形だと思うんです」
茜はにっこりと微笑む。
「ファンタジックな夢や希望を人に与える。そういう、神さまの形……私はそう考えています」
「あながち間違ってもいないな。神話はその信憑性を100にすることはできない。だからこそ人の想像を掻き立てる。
そういう意味では確かに曖昧で、淡くて、はっきりしない」
「でしょ? 私の持論を初めて聞いたあなたにそう言ってもらえて、私も嬉しいです」
「だが、それはそれでクリスチャン等の信者を全否定することになるし、クリスマスや正月を祝うことはできなくなるな。
がんばれよ、無神論信者」
「む、むぅ……それは嫌ですね」
真は小さくほくそ笑み、言った。
「なら、ひとつだけ助言しておくよ。人は神を信じることで、救われる。神に救われるわけじゃなく、神を信じることに救われるんだ。
だから、形ある神のほとんどは人工神格といっても過言じゃない……茜の言うような形ない神を、人々は崇めることができないから。
曖昧で淡い存在を人は欲しない。人が欲するのは、絶対的で『自分たちを救ってくれる』と思わせる形のある神だ」
確信しているから、堅固とした口調で真は断言することができる。
茜はふぅんと頷くような声をあげて、数歩分真の前へ出た。
そして、クルッと回って振り返る。
「それでは、次の授業のあとまでさよならです」
「ああ……」
はい、と答えるかわりに微笑を傾げて、体操服姿の茜はグラウンド方向へ走り行った。
同様に体操服を着込む真は、螺旋階段終わりの手前で茜の姿を見送り、
体育館でバスケットボールだったかと思いながら、これから歩み行く方向へ目を向けた。
鼻歌を混じらせるほどに気分の良い茜は、スキップしになってしまいそうなほど軽い足取りで体育館へ向かう。
青い空。白い雲が流れ行く澄み切った空――茜はつま先立ちし、んんっと唸って深呼吸。
そのとき。
「あっ」
「わっ!?」
体育館に急いでいた女の子が、頭から茜にぶつかった。
茜は数歩前へ進み、慌てて振り返る。
「大丈夫?」
「う、うん……」
尻餅をつく女の子へ、三人の女の子が膝を折っていた。
立ち上がる彼女達に、茜は片手を胸に押し当てて一歩歩み寄る。
「あ、あの、ほんとに、その……ご、ごめんなさい」
深く深く頭を下げる茜。
「いきなりどうしたの? 何かにぶつかったみたいじゃない」
ひとりの女の子が、尻餅をついたほうの女の子にきゃあきゃあ微笑んだ。
そして去っていく四人――茜の謝罪を無視するように。いや、どちらかといえば、
まるで茜が見えなかったかのように、彼女らは体育館に急いだ。
音から彼女らが去ったのを覚る茜は、さらにしばらく頭を下げ続け。
「……真さん、私もひとつだけ助言しますね」
ゆっくりと、身を直線へもどし、
「人は、人が最後の最後で頼るのは、結局のところ」
深呼吸のときのように、グッと大空を見上げ、
「自分の心に住まう、いつまでもいっしょにいてくれる友人なんですよ?」
今にも泣きそうな声で――だけど頬に涙を流さずに、
悲愴を込めて口ずさんだ。
教師が出張のため、課題はバスケットボールからドッジボールへと変わる。
白いテープでつくられた正方形二つを内野とし、バスケットをするときの青線やらなにやらががんじがらめになっておかしな模様をつくる体育館を戦場として争いあっていた。
さっさと外野へ出た真は、うんざりという言葉を顔で表して内野でパスを待ち望んでいるお仲間へとボールを返す。
しかし、即座に宙を舞って真へボールが再来してきた。
真がうんざりする理由のすべてはこれ――つまり、活躍しているということに他ならない。
真は、運動神経が鈍いわけではない。ただ、彼は無駄な消費を避ける方針をもっているため、このような疲労をしたくないのだ。
「真!」
彼の名を呼び、急かす内野の者。
真は視線をキツくし、そちらへ投げ――るフェイントをして、敵内野の一人を打撃した。
同時、笛が鳴る。
「そこまでだ」
代行を務める教師が対峙するふたつの内野へ割り込み、まだ投げ合おうとする者らにガンを飛ばしていった。
ほっと一息を吐く真に、クラスメイトの一人がポンッと肩を叩いてお疲れ様と言う。
真はそれに疲れた笑みを返し、あることを思い出して彼に聞くこととした。
「なぁ。聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「ああ、いいよ。自称学級委員の俺に、答えられないの二文字はないからな! ……今のツッコむとこだぞ?」
「いや、あえて放置するよ」
「レベル高ぇプレイだなオイ!?」
「それより」
コホンと咳払いも交え、真は雰囲気を無理やりに変えて尋ねる。
「……天宮茜という女の子を、知っているか?」
「へ?」
キョトンと二度ほど目を瞬かせ、真の言葉に冗談さがないことを感じ取った彼は、落ち着いた声で真に囁く。
「……好きな女なのか?」
「まあ、そういった感じだな」
神妙な顔つきで真をじ……っと覗き込んだ後、
彼はふふんと微笑んで、流し目をキランと輝かせた。
「真……好きな女には、自分から近づくのがポイントだ」
「冗談はよして、情報を寄越せ」
「正直、何も知らないんだよ」
真の鋭いガンに当てられた彼は、大げさに肩を竦める。
「どこの娘なんだよ」
「は……?」
真は一瞬、こいつはバカかと彼を蔑みそうになった。
だが、あえて口を手で塞いで、思考を加速させる。
――辻褄はあう。だが、馬鹿げている。
「うちのクラスじゃないよな」
――しかし、出席確認のときのこともある。視覚できなかったのだとしたら、辻褄が合ってしまう。
「この学年でも、そんな名前の娘はいないぞ」
――確かめなければならない。
真は彼に触れ、彼に目を合わせ、なんらかのことを呟いたあと、
疾走で体育館から抜け出した。
青い空は、まだまだ青く。
高い太陽は、まだまだ高い。
校門まで歩き行った茜は、ある歌のある歌詞を思い出していた。
『桜舞う校舎を背中に 夢をみて一歩踏み出した――』自分と少し似ていると、茜はクスリと微笑む。
「似ているのは、ほんとうに少しだけよね」
校舎に桜は舞っていないし。
夢を見てはいない。
この一歩は、逃げるためのもの。
逃げると考えて、何から逃げるつもりなのだろうと茜は疑問に思った。
答えはすぐに浮かんでくる。それは、あまりにも残酷で、どうしようもできない漠然としたもの。
「……成ってしまった現実、かな」
両脇が花壇で綺麗なスロープを越え終えて、茜はふぅと息を吐いた。
憂鬱な面持ちが滲む笑顔を傾げ、ここではない何所かを見て、茜は無意識にもロザリオに触れる。
「そこのお嬢さん」
そのとき、茜は声をかけられた。
振り返った彼女の先には、彼女に声をかけた男と下卑な感漂わせる二人の巨漢が。
「……ええと、どちらさまですか?」
茜が訝しげな視線を彼らに向ける。
一番前で、茜へ口元を歪ませる男が――ギラリと目を輝かせた。
「この世に存在してはいけないあなたを、滅する者ですよ」
茜の心が、開錠される。
グラウンドで体育を行っていた女子のクラスメイト達。それを指揮っていた教師に天宮茜の所在を聞き、それは誰のことかと問い返され、真は確信せざるを得なくなった。
校内に茜の姿がないか探し始め、どこにもいないという絶対が膨らみ始めたとき、彼は四階から見たのだった。
スロープを上がっていく、ひとつの少女の後姿――どことなく茜の後姿に似ていて、真は自分がそう感じたことを縋るわらとして、一階まで駆け下りる。
そうして赤レンガに似た色のスロープを駆け上がり、真は荒くなった息を整えるために歩みを止めた。
右手を校門に当て、左手で左目を押さえ、時折うっと痛みを訴えるように唸る彼。
ゆっくりと左手を離したその目では、孕まれた最凶がうっすらと鳴動していた。
なぜ――この現象を体験するのが二度目となる真は、予測を立てる。
……前回は、アリスのときだった。
あのとき、アリスと出会ったあのとき、狂痛とほどいえないこの痛みを感じたあとアリスは現れた。
言うなら、この痛みは能力者の察知。
……ということは。
「この近くにいるのか」
何かがと考え、真は表情を堅くした。
そのとき、何かに何かを感じて、真は空を見上げる。
青い空だ。白い雲が漂う、それ以外はない空。
白い雲以外の何かを左目で見る真は、ゆっくりと視線を空から地へ下ろして行き。
「つっ!!」
歯を食い縛り、駆け出した。
テレビですら潰せなくなった、というよりもテレビがつまらないせいで余計に膨らんでしまった退屈さを、アリスはベッド中をごろんごろんと回ることで消化していた。
"ピピピピッ ピピピピッ"
その懐で突然鳴り出す、簡素な着信音。
アリスはんっと唸って上半身を起こし、くしゃくしゃでなければ今よりも美麗だろうゴスロリチックな服装の一部から携帯を取り出し耳に当てる。
『アリス。用件がひとつある』
「挨拶もなし? 今すぐ通信を切断したいくらいに不愉快だわ」
『命令だ。こちらの用件に無条件で答えろ』
「はい、はい」
しょうがないというように相槌を打つ彼女だが、その実は電話相手の真に絶対な服従を強いられる敗者だ。元々電話相手の応対を拒絶することはできない。
『"Joker"を受ける前後で、起こる変化をすべて教えてくれ。できるだけ簡潔に』
「前後、ねぇ……すべてって言っても、ひとつしかないけど、それでいい?」
『構わない』
ふぅんと人差し指を唇に当て、一拍。
キリッと顔つきを引き締め、感情を無としたアリスは、淡々と告げ始める。
「真くんにかけた第一段階での"Joker"がいつの間にかなくなってたでしょ? 多分、あれって真くんのほうの"Joker"が私の"Joker"を殺したんだと思うのよね。
いうなら、インフルエンザ菌が入ってきても抗体があるから大丈夫っていうやつ? まぁ、そんな風に、"Joker"感染者は他の"Joker"を一定時間しか受け付けない可能性があるのよ。といっても、私は真くんに今も絶対服従中なわけだから、"Joker"侵食は後々消失させられても命令というインプットは消せないのかなぁって残念に思ってる。
真くんのいう"Joker"感染前後でのことはあくまで予想なのだけど、新たに体が作り変えられるわけだから、多分、第三段階終了でもそれを解約できるんじゃないかな? あとは考え方が変わるってのもあるだろうけど、こっちは強い力を手に入れたことにより精神的――」
『わかった。そのまででいい、ありがとう』
「ここからが良いところなのに?」
『あとひとつ……この眼、オカルトになるのか?』
え? とキョトンとしたアリスは、予想外の質問に慌てて思考を回転し、何度か舌を噛みそうになりながらも言った。
「ま、前にも言ったと思うけど、眼に何かが浮かぶのは科学的根拠とかいろいろあるわけだし、オカルトとは関係性はないと思うわ。超能力とかとも違う感じだけど、突然使えるようになるって意味では酷似して――」
『ありがとう。あと少しで帰るから、飯でも用意しといてくれ』
一方的にブチッと切られ、アリスは思わずぷぅっと頬を膨らませた。
しかし、彼女は小さく微笑んで、仕方ないなぁというような表情で真の部屋から出て行く。
ベッドの上に残された携帯は、付けっぱなしにされるテレビを見るようにディスプレイをそちらへ向けられていた。
教会。
澄み切った青空に輝く太陽から光を受け、ステンドガラスが神秘的に発輝している。
そんな神の御前で、静寂とは程遠い波乱の、穢れなきとは真反対に荒んだ場景が、広がっていた。
「へ……ヘヘヘ……」
巨漢の一人が、ゆだれを垂らす。
膝を抱え、そこに顔を深く沈める黒髪の少女。どっしりと重い空気は周りの者の調子もずぶずぶと沈ませてしまうそうだが、少女に一歩また一歩と近づく巨漢と、歩き出さずにじっと立ち止まっているもう一人の巨漢は憂愁に飲まれてはいなかった。
いや、どちらかといえば、彼らは絶望感漂わせる少女に気分を昂らせていた。
少女は、いうならば翼の折れた天使――挫けていても美貌を失わない彼女は、あまりにも美しい。
虚ろで、だけど絶対的。淡く脆く繊細で美麗。真反対に存在する腐と美の、その両方を比喩の妥当とする少女。彼女に見惚れない者はいなく、勿論彼女を我が物としたいと思う者が多多を占める。
巨漢二人もそれに含まれ、今一番少女を汚すであろう欲望の幽囚が彼らだった。
「じょ、嬢ちゃん……」
少女に手を伸ばし始める巨漢。
それから起こること――あまりにも禁句で、あまりにも汚濁で、
必ずにも神の御前で行われてはいけない類の行為。
何にもその行為が阻まれぬのは、神という悪魔の嘲りか。
ダンッ!
――そのとき、
教会の扉が開かれる。
少女から遠い方の巨漢が瞬時に反応し、そちらへ顔を向けた。
「誰だ。おぬしは?」
――愚者の手が、天使を掴まんとしたそのとき。
巨漢が訝しげに言う先には、ひとりの人と、ひとつの怒と、ひとつの静があった。
扉を開け放したモーションのまま、荒い息も荒いままにし、来訪者はこの場景をしかと見据える。
ひっと呻きをあげ、巨漢に迫られてもうんともすんとも反応しなかった少女が少しだけ尻を浮かせた。
「おい! あんた、見せ物じゃねえんだよ」
――神に代わって、
ドスを聞かせた声で言う一人に、少女へ今まさに手を触れんとさせるもう一人が淫らかな雄の笑みを向ける。
「へへ、あいつもこのちっちぇのヤりにきたんだろうさ……エミュさんがもう広め始めたみたいだな。あの人も、やる事がオレたちの次元じゃないぜっ」
――清が清である不変と、
この少女と少年とがなんらかの知り合いであると感づいたのだろう、無言で目伏せした彼らは少年のほうへ視線を集めて、並んで少年に対峙した。
「悪いが、このちっちぇのはオレと兄貴との貸切なんだ。とっとと帰るなら口が聞けなくなるまで叩きのめすだけだが、渋るっていうんなら……どうなるかわかってるよなァ?」
――汚が汚である不変とを断固とする士が、
空気と地面を伝う振動。
なんというおかしさはない、立ち尽くす少年がついに顔を上げただけだ。
感情の抜け落ちた右目と、人でない化け物が映る左目。
幽鬼のように暗い圧迫感は尋常ではなく、トチ狂っている。だが、対峙するのもまた同じ界の住人で、其方は虎ほどの威を前にして後ずさることすらなかった。
目に見える強力も、目に見えぬ強力も少年には在りはしない。そう見定めての彼らの笑みは、おしくも間違いではなく、愚かにも間違いだった。
「……せろ」
――神以上に無情で、
少年が呟く。
耐え難い何かを暴発し、しかしどう成せばいいかわからず、呟いた言葉に一角の炎も込めれずに、少年はただただ暴走する感情の波を己が身で焦がした。
「あァ? よく聞こえねぇナぁ?」
――神以上に断固な処斬を、
少年の心の引き金を引くように、巨漢の一人が皮肉まじりな声でそう不敵に微笑む。
もうひとりもそれに誘われ、あまりにも劣悪な笑みを浮かべてしまっている。
そうして少年は、表面張力でぎりぎりに保っていたといっていい巨大な何かを、
「……失せろ、カス共」
――――下す。
少年のではない力が彼らを地獄へ叩き落したことで、一方向へ奔流させた。
「嫌ぁ……来ないで……」
小さく、短く、力強く、淡く、そう叫んで茜は背中を押し当てる壁へさらに身をにじり込ませる。
一歩、また一歩と遅くもなく速くもない足取りで彼女に近寄る真は、愁いを眼に帯びさせていた。
「嫌……嫌ぁぁ……」
「なんで……いや、何が嫌なんだ?」
優しく、尋ねる。
怯えた子猫の様子で、答えが来た。
「これ以上誰かを遠ざけるのは嫌なの……一人はもう嫌っ!」
血走らせる勢いで目を見開き、茜はさらに言葉を漏らす。
「上辺だけの優しさで私はいっぱい苦しむことになったの……もう絶対に嫌……誰にも忘れられるなんて嫌……」
彼女は醜く在ろうとしていた。
そして、それもまた上辺だけの優しさとは違う嘘の姿で、本当でもある姿だった。
恐怖していた。
ひとりを。孤独を。無視を。隔たりを。
彼女の心は今も塞がらない傷口からドクドクと血を垂れ流し、これ以上の痛みを受けるなどとうに不可能。
だから、恐怖していた。
失うことを願い、その願いが叶えられることを。
「……俺と話すのが、久しぶりの人との会話だったんだな」
ビクッと震え、だけどコクコクと頷く茜。
目を細め、どこか遠くを見つめ、先ほどまでの畏怖する様子より大分落ち着いた感じで彼女は言葉を紡ぐ。
「……失いたくないの…………真さんを……」
一年以上振りの会話。一年以上振りの微笑。一年以上振りの口論。一年以上振りの意見の指摘し合い。
茜は、真に対して恋に近い気持ちを抱いてさえいた。
救世主だからという理由でもあり――いや、もしかしたらそれだけなのかもしれない。
だが、彼女には恋かどうかは関係なく、どちらにしても真はなくしてはならない存在だった。
一日――半日以下という時間は、彼女にとっては強すぎる刺激で、味も何もない毎日に戻る気持ちを挫くには十分過ぎるもので。
茜は、また消してしまうという恐怖から真を見れなかった。
絶望。それよりは明るく、しかしそれよりは荒波な混沌とした感情。
「……茜、大丈夫。変わればいい、それだけだ」
対し真は、茜に膝を折って、茜の頬に手を当てて、そう優しく微笑した。
茜は一瞬だけ目に光を瞬かせ、だけどすぐにまた鈍い色へ返してしまう。
プルプルと横へ首を振り、三角座りをして真の手に頬を背ける彼女は、顎を膝と膝との間に埋めて言った。
「無理よ。変われないわ。もう、何もかもが遅いんだもの。今更――」
「俺なら変えられる。お前を、お前のなりたい方向へと」
もう一度彼女の頬に触れ、彼女の瞳を覗きこむ真。その左目は、死魔にギラリと光る。
えっと丸くなった彼女の目で黒蝶が泳ぐ。
「そして、俺なら変えられる……この世界を、この荒んだ世界を、お前が暮らすべき世界へ、お前を健やかに保ち続ける世界へ、変えることができる」
「……この世界は、荒んでなんていませんよ」
無理やりに微笑む彼女は、真の目にはあまりにも痛々しく映り、
耐え切れなくなったように彼女へそっと両腕を回し、右目だけで泣いた。
「ああ、そうだ。この世界は荒んでなんていない。でも、それでも、この世界は荒んでいる。
此方ではなく其方が荒んでいて、其方の荒みがお前を苦しめている。苦しむ理由のないお前を、苦しめている。
だから、俺は正したい――お前に誓うよ。お前と契約する。俺から、お前へ。
俺の総てを果たしてでも、お前の見るこの世界から荒みを取り除いてみせる」
茜はハッと、気づいた。
いや、覚った。
真が何かの信念を持ち合わせ、そしてそれが何らかに自分を脅かす――それは勘のみでの畏怖心で、何よりも信憑性がなくて、だけど真を拒絶する凄まじく大きな理由だった。
グッと真を押し返し、そっぽを向く茜。嗚咽とともに流れる涙はないが、泣いているように見えた。
「世界を変えてみせるから、お前は変わった後の世界を生きればいい。もうこれ以上この世界に生き耐え続ける必要は、ない」
「い――」
茜の両頬を押さえ、こちらへ向かせる真。
茜は、ぎゅっと視線を真に向けて、祈ってしまう。
"ハナシテ"
ロザリオが、煌きに発輝する。
淡く、淡く、淡く――しかし、段段と強く、強く、強く。
茜はこの"光"を知っていた。だから、あっと思った表情のまま涙をはらりと流す。
彼女は思っていた。絶望に打ちひしがれていた。
消えてしまう――楽しかった一瞬は一瞬以上に伸びず、また同じまま。
「お前は俺を消せない」
だが、不可解にも、
真は消えなかった。
茜は思う。なんで消えないのだ、願ったというのに、願いが叶えられてしまったというのに。
なぜという疑問の目に、真はフッと小さく微笑む。
「俺はお前を変えられる。俺はお前と同じ、"Joker"の感染者だから――お前が、周囲の人たちを変えたように、俺もお前を変えることができる。
壊してやる、涙を流す理由総てを」
「あ……」
真の言葉を飲み下している間に、茜は、
「眠れ。安らかに」
――壊された。
「……その娘も、ここに住むの?」
「ああ。こいつとお前と、綾菜と美里と、俺の住む場所がここだ」
そっと茜をベッドに下ろし、真は言った。
照明の付かないこの真の自室は、物がないこともあってさらに寒々しく、静々としている。
元の部屋も同じくらいに物がなかったから真にとってはあまり変わりないのかもしれないが。
「これからの方針を決めたい。アリス、お前が頼りだ」
「……私のこと、大切?」
「大切だ。とても大切で、かけがえのない存在だ」
アリスは、真の背中に問うた。
答えはすぐで、あまりにも情熱的な言葉で、あまりにも冷淡な声で。
アリスはさらに尋ねたいことがあったけれども、押し黙ってそうと相槌を打った。
静寂の数秒が、流れる。
ゆっくり、ゆっくりと茜の頬を撫でた真は、優しい眼差しのまま目を閉じて、立ち上がった。
さっとアリスへ翻ったときには、優しさなど微塵も滲み出てはいない。
「|行こう(go)。|前へ(ahead)」
それは、当たり前なのだろう。なぜなら。
彼は、総ての甘さを茜に捨て置いたのだから。
優しさ、暖かさ、微笑むこと、頼ること。
彼に残るものがそれらに属さないのだから、自然と彼は冷たく鋭利で孤独となる。
アリスもそれを読むことができた。だから、彼にとって自分がどう大切なのかをわかることができた。
彼の出て行った後で、アリスはそっと左胸に手を当てる。
つらそうに顔をしかめ――茜に怨めしそうな視線を向けて、
「……和食。がんばってつくったのだけど、不要のようね」
絶望に満ちた呟きを漏らし、アリスは真の後を追って退室した。
彼への服従に彼女の気持ちが関係ないからこそ。
予告
この世界に生き飽きた。
荒んだと嘆くのは簡単だ。だが、それだけで終わるわけにはいかない。
変えなければならない。理由はある。だから動く。
この手に力があるかぎり、俺は己が身を黒く染める。
【漆黒の紋章-emblem-】♯05[ 君 臨 ]
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