二雨
「あなたが思ってる“あい”じゃないわ」
哀はやんわり否定した。
「あなたが言った哀しい方の“あい”よ」
「……どうして?」
「私も“あい”を知らなかったから」
ハオはそうか、と呟いて哀を見つめる。
「キミはアンナに似てる」
そう言って、哀の髪に手を伸ばす。
「今の僕には闘う力は残されていないけど、たったひとつ。
――人の心が読める」
「妖怪みたいね。そういうの、知らない?」
驚く素振りも見せず哀は返した。髪に触れる手を払うこともせずに。
「知ってる。『この人はどうしてあんなところにいたのかしら?』
こう思ってるね、哀」
いきなり名前を呼ばれても(名前しか教えてなかったが)、哀は別段不快とは感じなかった。
揺れる瞳が哀しげだから、もしかして憐憫の眼差しを向けてしまっているの? それって失礼だわ。
「僕を助けてくれた人がいるんだ。オパチョが、自分の力を使って、この世界の扉をこじ開けた」
ハオは最後に聞いた「ハオ様!」の叫びを思い出す。
後にも先にも、あんな哀しい声を聞いたのは初めてだった。
一人で、あの子は残されている。不安になって泣いていやしないか。
「ハオ……?」
哀は黙りこくった彼に声を掛ける。
なんでこんなに気をかけるのか、哀にも全然わかりはしないけど彼女は彼から瞳を逸らせない。
「こっちに来たときの空間のねじれで年はこんなんだけど、向こうでは一応14歳かな? 葉と一緒だから」
「最初から説明してもらってもよいかしら?」
「全てを説明することは避けるけどね、そうしたら、キミはきっと僕をきらいになる」
一言も口を挟まず、ハオの話を聞き終えた哀は、彼が黙るとキッチンに立って紅茶を淹れた。
「どうぞ」
「僕はエスプレッソが好きなんだけど。葉とも飲んだ」
後半はほぼ独り言だろう。
「きっとこれも好きになるわ」
差し出したマグをハオは受け取り、恐る恐る唇をつけた。
「うん、葉っぱの味だね、おいしいよ」
一口のどに流し込んでハオは笑った。
初めて見る笑顔。
「……あなたのこれからだけど」
そう前置きして、自分も持ってきたマグで紅茶を飲むと哀は言う。
「よかったらここにいるといいわ。幸い、部屋はいっぱいあるし。
博士もあなたを追い出したりはしないと思う」
「ハカセ? ああ、キミは一人でいるわけではないんだね」
「そうよ。一緒に暮らしているの。だからあなたもいていいの」
カシャン、とリビングの奥で鍵の開く音がした。
「随分早いのね、今日はまだ帰ってこないかと思ったわ」
呟いて、哀は立ち上がり、重いボストンバッグを抱えた博士を出迎えた。
「おかえりなさい、博士」
「ただいま、哀くん! 早起きじゃな、思ったより早く用事が終っての。
哀くんと朝食を食べようと急いで帰ってきたんじゃよ」
満面の笑顔を浮かべる博士を、こそばゆそうに笑い哀はリビングの扉を開けた。
――ハオがいない。
開け放たれた窓。
カーテンがはためいた。
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