一雨
と、と、と……。窓に当たる雨の音と、カーテンから差し込む薄い光に哀は瞳を開ける。
ベッドサイドに置かれた赤い目覚まし時計に手を伸ばす。午前5時20分。
このまま起きても……、とまどろみの中で哀は考える。
ゆったりと流れる平和そのものの時間が、とてつもなく愛おしくて哀は一度目を閉じた。
一定のリズムを刻む雨の音が心地よくて、一瞬眠りの国へと意識が持って行かれそうになる。
だけど。
哀はふと思いつき、勢いよくブランケットをまくった。
カーテンを一気に開けて、伸びをする。
外は結構な雨降りで、今日は一日家で本でも読んで過ごそうかしら。
博士は学会だから今日は帰ってこないのよね、一人で朝食を食べるのは久しぶりだわ。
断片的に考えを巡らしながら、リビングへ向かう哀。
がらん、としたリビングに、電気を付けると一人きりじゃない気がして安心する。
こんなとき、どうしてか名探偵さんの声が聞きたくなる。
あなたはどんな夢を見ているかしら? なんてね。
哀は、そっと笑って外のポストから新聞を取ってこようと、玄関に行き、傘立てから緑色のビニール傘を出して、外に出る。
ポストに背伸びして、ビニールに包まった新聞を取り出して、それから哀が何気なく地面に目を遣ると、そこに人が倒れていた。
長い髪が地面に伸びて、その人物はマントらしきものを羽織り、ブーツを履いている。
身長から見ても同年代のようで、哀は眉を寄せた。
女の子? 行き倒れかしら?
哀は、門を開けて、一歩近付いた。
そして、傘を差しかけたまま、そっと地面に伸ばされた手首を握る。
よかった。脈はしっかりしてるわ。
屈みこんで、その顔を見た。
長いまつげ……。
ここにそのままってのもね。
哀はため息を吐いて、その人物の肩を抱き上げ、よろめきながら阿笠邸へと戻っていった。
とりあえず、ソファに寝かせて、暖房を入れる。
「ア……」
その人は、何かを呟いていた。
誰かの名前なのかしら?
向かい合い、じっとその人物見つめる哀は、硬く瞑られた瞳が何色なのか、そんなことを考えながら、ゆっくりとまぶたが重くなっていくのを感じて、ソファに身を預ける。
ふと気がつくと、彼……なぜそう思ったか哀にも分からないけど、男は紫色の瞳で哀を見つめていた。
「気がついたの?」
哀が少し寝ぼけたような声で、問うと男は黙って頷いた。
警戒してる。
あのときの私みたいに。
彼は耳から星の刻まれた丸いイヤリングを外してテーブルに置いた。
「葉は? アンナは? オパチョ……。あれからどうなった?」
それが独り言かなんなのか哀には判別がつかない。
哀の思ったとおり男だった。
けれど「わからないわ」そう応えた。
「キミは誰だ?」
「あなたは、誰なの?」
「ハオ」
素っ気なく男は言った。哀に事情がわからないように、彼もまた何もわからないらしい。
「ここはどこだ?」
「東京都米花町」
「トーキョウ? ここが?」
信じられないというように、彼は顔を伏せる。
長い髪から雫がポタポタ落ちて、それは涙みたいだとぼんやり哀は思った。
「名前……」
しばらくして、ハオはぽつりと零した。
「え?」
「キミの名前を聞いてない」
「あい」
はっきりと哀は告げた。
「哀しい名前だね」
ハオは顔を上げる。
哀が昔よく見せていた自嘲めいた笑みが浮かんでいた。
「僕はそれを知らないんだ」 |