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星司の贈物

作者:栗田隆喬
 今日も実験は深夜近くまでかかってしまった。
 連日の疲れで、いつの間にか寝てしまったらしい。
 電車は止まっていた。発車ベルの鳴る音が聞こえる。
 どこだろう……。
 座ったまま体をよじるようにして暗いガラスの外を見た。
 見慣れたビル。いつもの降りる駅だった。
 網棚に乗せていた黒いカバンを引っつかんで、あわてて席を立つ。だけどドアは、プシュゥ、と音を立てながら閉じてしまった。もたれ掛かるようにして扉に手をかけ、ため息をつく。
 電車はゆっくりとプラットホームを離れ、加速しはじめた。
「あらら。お寝坊さん、発見」
 鈴のような声。
 振り向くと、僕の傍らに女の子がほほ笑んでいた。
 さらさらのショートカット。白のシャツにはおった空色のカーディガンがまぶしいほどに似合っている。長いまつげに隠れそうな、くりくりした黒い瞳が僕を見上げていた。
「鮎沢さん……。久しぶり」
「うん。久しぶり、だね」
 見つめ合う。ちょっと気恥ずかしい。
 僕は目をそらした。
 最終電車より一、二本だけ早い列車。僕が乗ったときにはほぼ満員だったはずなのに、いつの間にか無人近くになっていた。みんな降りてしまったらしい。
 残ったわずかな乗客は例外なく目をつぶって舟をこいでいるか、携帯とにらめっこをしている。見知った顔がある訳でもない。
 窓ガラスの外は暗黒。光の筋のようになって街灯が流れて行く。
 電車はやがて川にさしかかった。街灯が見えなくなって、一面の漆黒。きっとあの暗闇は川面か河原あたりだろう。鉄骨の橋脚に響く音が、やけにうるさい。
 窓の外からちょっと焦点をずらすと、窓ガラスには鏡のように、がらんとした車内と、ぼんやりと外を見つめていた僕が写っていた。
 振り向くと、どうしたの、と言いたそうに軽く小首をかしげていた。耳のあたりにかかった髪が、電車にあわせて揺れている。
 別に、と声には出さず僕は首を振った。
 気づかないうちに、僕は苦笑いを浮かべていた。こうして彼女と向かい合っていると、どこか後ろめたさにも似た、変な気分になってきてしまう。そんな気持ちをごまかしたかったのか、それとも単にあきれているだけなのか。
 僕はちょっとぶっきらぼうに言ってみた。
「……気づいてたんなら、起こしてよ。もう上り電車、ないだろ」
「だってカサギくん、あんまり気持ち良さそうに寝てるんだもん。起こすのはどうしても罪な気がして。これでも気をつかってあげたんだよ」
 ちょっと唇をとがらせて、すねたような顔をしてみせる。すると彼女は視線をそらせて、うつむいた。
「それに……。カサギくんさえよかったら、久しぶりに夜間観測、付き合って欲しくて……」
『夜間観測』
 胸の奥を通り過ぎて行く。甘く、切ない響き。
 星の砂。海に上がる月。震えるほどに凜とした星空。暗闇を横切る天の川。牡牛座、蠍座、アンタレス、アルデバラン。
 イメージが次々と浮かんでくる。いや、思い出されるってほうが正確かもしれない。
 あの夜間観測から……。
「実は、……話があるの。いいでしょ?」
 僕は無言で頷く。
 窓の外には、たくさんの光が押し寄せている。その光の筋が少しずつ、ゆっくりになってきた。
 隣町の駅に着く。列車の扉が、音を立てて開いた。
 そして僕は、高校三年のあの日を、思い出していた。

    ▽

「ね。夜間観測しない?」
 部室の電気を消してカギを閉めてた僕が振り返ると、ミナちゃんが期待感たっぷりの表情で僕を見上げている。
 鮎沢美奈。我らが天文部の部長。
 くりくりの目とさらさらのショートカットが、薄暗い蛍光灯に照らされて輝いて、子供っぽいミナちゃんの表情をさらに強調している。それは言うなれば……お子様ランチを目の前にして、食べ物よりも、おまけの安っぽいおもちゃに心奪われている子供の表情。これが本当に大学進学を来年に控えた女子高生かよ、と思わず突っ込みをいれたくなるような顔だった。
「いつ?」
「突然だけど、今夜。時間ある?」
「今夜、ねぇ。……本当に突然だなぁ」
「だってこんなんじゃ、かったるくってやってらんないですよ。楽しい夜間観測でもして、ちょいと気合いを入れないと。ほら、今夜ならちょうど雲も出てないし、いい天気でしょ? もってこいじゃない」
 僕は夜空を仰いだ。
 淡い暗闇に包まれた校舎の影。
 春の空気は薄い筋のような霞になって、柔らかく天を覆っている。星を眺めるのに支障は無さそうだ。
 まだ今週は始まって間もない。あしたの朝がちょっと心配だった。でも、予備校も、宿題もない。
 一拍おいてから僕はうなずいた。
「いいよ」
「やった! やったーっ! ありがとう、カサギくん!!」
 ミナちゃんは、文字どおり飛び上がって喜んだ。
 なんという喜びよう。下手をすると、僕に抱き着いてきそうなぐらい。でも、嫌みのない純真な喜び方は、見ている僕まで幸せになって、うれしくなってしまう。
 たまらなく、かわいらしい。
 それに着地の瞬間、ふんわりスカートが広がって、まるで空から降りてきたばかりの女の子って感じがした。ミナちゃんのアクションは、ときどき、こんな不思議な感覚を引き起こす。そこがちょっと神秘的ミステリアスで、僕にはどうしようもないほど魅力的で。
「でもさ、鮎沢さん」
「どうしてミナって呼んでくれないのさ、少年」
「だって鮎沢さんは鮎沢さんだろ?」
 ミナちゃんは眉根を寄せて、ぷうっと頬を膨らませている。
「……で、なぁに?」
「この頃学校休みがちだろ。明日寝不足で休んじゃったりして大丈夫なの?」
「平気だよ。へーきへーき」
「ふぅん……」
 とは言っても、やっぱり心配だった。大抵、夜間観測をすると一睡でもしてしまうと翌朝はそのまま起きれなくなる。だから徹夜が基本だ。でも、新学期が始まってから、随分とミナちゃんは学校に来ない日があった。本人は『極秘プロジェクトに関わってまして』なんて、本当かウソか分からないことを言ってる。もしかしたら、めちゃくちゃ根を詰めた受験勉強とかで、つかれがたまってるんじゃないだろうか。
「ねぇねぇカサギくん。それじゃ駅の改札に、午前零時ちょうど、待ち合わせ。遅刻厳禁。ハリセンボン飲ます、遅れたらハリセン百叩きの刑だよ」
「おっかねえなぁ。……で、駅集合だっけ? どこ行くの?」
「海だよ。うーみーは、ひろいーな、おおきーなー」
「それなら直接行った方が……」
「えっへへへ……」
 ミナちゃんは両の手を後ろで組む。ゆっくり僕の回りを歩きながら得意そうな顔をしている。
「実はですね……、ミナちゃんスペシャル企画の、特別プランがあるんですよ、これが」
「それ、たった今、思いついて言ってみたんだろう」
「ううん、ぜんぜんっ。ぜーんぜんそんなこと、ありませんよ、カサギの旦那ぁ。いやでございますよ、もう。はぁっはっはっはー」
 首をふりふり、全面否定するミナちゃんの表情にはちょっと焦りが見える。実は図星だな。
「んでさ、どんな特別プランなの?」
「えーとですね……、そうだっ! 題して、『銀河鉄道でいく! 夜間観測ツアー』ですよ。夜の海岸散歩。満天の星を見ながら、ひねもすのたりな春の海辺を歩くの。なかなかいいでしょ。そのために、わざわざ電車で隣町まで行くってわけ。まさに青春まっただ中のロードムービー的シチュエーションだよね」
「ロードムービーって、普通はもっと遠くまで旅するもんじゃないの?」
 僕の突っ込みをミナちゃんはスルーした。
「……で、歩きながら、海辺に降り注ぐ星の光を集める、というわけなのですよ。では、改めて聞きます。カサギくんは本ツアーへの参加を希望されますか?」
「まぁ、当然だな」
「満十八歳未満の方は、本ツアーの参加に保護者の承認が必要です。あなたは十八歳以上ですか?」
「この前誕生日きたばかりだから『ハイ』だな。……って、これじゃあまるで、エッチサイトの入り口みたいじゃない?」
「その突っ込み、待ってましたっ!」
 おいおい、本当ですかい。
「ふふふ……。お子様はお断り、なのですよ、本ツアーは。……という冗談はおいといて、本当のところ、カサギくんはご両親とか、心配しない? 大丈夫?」
「平気平気。部活だって言えばぜんぜん大丈夫だよ」
「よかった。じゃ、決まりね」
「備品とかの準備は……」
「いらない。……っていうか、手ぶらできて。特に星座早見板とか、絶対にダメ。帰ってからの予習も禁止だよ」
「ということは、実地の抜き打ちテストってわけだ」
「まぁ、そんなもんかな。カサギくんがこの半年で、どれだけ進歩したか、部長ジキジキのチェックが行われるのであった。『銀河鉄道でいく! 夜間観測ツアー』は、実はそんな、恐怖のミステリーツアーだったのであったのであったぁ!!」
 語尾、なんか変じゃない? と、くだらない突っ込みをする前に、ミナちゃんは、指をぐっと僕の方に突き出して見せた。語尾以外にも、どこが恐怖なんだかミステリーなんだか、実によく分からない。
「カサギ少年は、果たして恐怖の部長チェックを無事にパスして、伝説の『星の至宝』を天文部部長にして星のつかさ、プリンセス・ミーナから手にいれることができるのだろうか? この世界の存亡は、『星の至宝』にかかっている。カサギ少年に、世界は委ねられたのであった……」
 いったい何の映画の予告編だよ。そうは思ったけれど、突っ込みばかりじゃおもしろくない。たまにはミナちゃんワールドにどっぷりつかってみるのもいいもんだ。
 僕はアツく語るミナちゃんのテンションに、わざわざ飲み込まれてみた。
「よし、その挑戦、受けて立とうっ! 俺がこの世界を救ってやるぜぇぇっ!!」
「ははは……、カサギ少年、君の腕で、どこまで私を満足させられるかな。『星の至宝』はそう簡単には渡さんぞっ! とくとお手並み、拝見させていただこうっ!」
「おうっ! 望むところだっ!」
 僕らは顔を見合わせると、おかしくなって笑い始めた。
「……もう私、ヤバイヤバイ。ちょっと飛ばし過ぎかな」
「うん。ちょっと、変かも。ま、いつものことだけどさ」
「へへへ。その通りでやんすよ、カサギの旦那。うちのセンスは世界一、なーんてね」
 ミナちゃんは、普通に考えると、やっぱり変かもしれない。でも、肩をすくめながら、ペロッと小さく舌なんか出したしぐさは、僕にとってはガツンと後頭部を強打されたぐらいの破壊力だった。
 なんとか、冷静になれ、落ち着け、と、心の中で繰り返し、一緒になって笑いながら、少しずつ気を静めていく。
「あ~ぁ。ちょっと飛ばしすぎたら、ガクンと疲れちゃいましたよ。いやいや、トシはとりたくないもんですなぁ、じいさんや」
「誰がじいさんだって!」
「天文部の爺さん婆さんコンビっていうのも、悪くないなぁ……」
 なんだか本当に訳が分からん。僕は肩をすくめてみせた。
「……ところで鮎沢さんは駅まで自転車?」
「ううん、歩いて行くよ」
「そっか。じゃ、俺も歩いて行くよ」
「あれ? カサギくんの家からだと、ちょっと遠くない?」
「このごろ受験受験ばっかりだろ。あんま身体動かしてないじゃん。なまっちゃってさ。ちょうどいいかなって」
「そんなこと言って、無理しないでよ。隣町から歩いてくるんだから、トータルだと結構距離あるんだよ」
「無理じゃねぇって。じゃ、あとでな」
「じゃあね。本当に遅刻しないでよ。ハリセン、百叩きだよ」
「おうっ! 任せとけって!」


 夕飯の時。
 どうしても、そわそわしている自分がいる。
 夜間観測で、夜に出掛ける、と小声で言うと、
「ちょっとユウスケ、あんた三年にもなって、まだ部活? それも二年になってから入ったんでしょう? おかしいわよ。普通ならもうとっくに引退して、受験に専念するんじゃないの」
 しわが増えて困る、なんてしょっちゅう言ってるのに、母さんはおでこにしわを寄せ、眉を吊り上げた。
 僕は、何事もなかったかのようにホウレン草のおひたしをつまむ。
「どこの部活も引退は夏休み後だよ。それに部活やりはじめてから成績、ちゃんと上がってるだろ」
 そう。それはミナちゃんのお陰。
 テスト前に、先生たちなんかよりもずっと分かりやすく、難しい問題は簡単に、基礎的な部分はていねいに、微妙にずれたギャグを混ぜながら教えてくれる。いや、まったくそのセンスときたら、先生たちのを『おやじギャグ』と切って捨てられないほど、なんとも微妙なポジションで……って、今はそこが問題じゃあなかったな。
 とにかく、ミナちゃんのおかげで、ずっともやもやの霧の中にいたような以前と違って、最近は授業中も何の話をしているか、なんとなく分かるようになってきていた。
「部活なんかしてる暇に勉強すれば、もっと成績上がるんじゃないの? みんな必死よ? なんであんたはそう危機感がないのよ。全く、だれに似たんだか……」
 大げさにため息なんかついちゃって。ところで父さんは会社でくしゃみでもしてないだろうか。
「母さん、全然分かってないなぁ。いいからほっといてよ」
 僕は皿に残してあったバター風味のきいた焼きエリンギを、ムシャムシャとほお張った。うまい。
「またぁ。お行儀悪い」
「とにかく行くからね。ごっそさん!」
「ユウスケ、食器ぐらい運びなさいっ!」
「へーい」
 食器を流しに浸すと、僕は部屋に戻った。
 カーテンをすべらせると、窓を開け放つ。電気はつけない。
 夜風が部屋に流れこんだ。
 外を眺める。
 目の前の細い道路を、ててて……とエンジンを控えめに響かせて、原付きが赤い光の筋を引いて走り去っていく。昔ながらの農道。片田舎。最近住宅も随分増えたけれど、このあたりはまだ、畑もかなり残っていた。
 真っ暗な畑の先には、黒々としたモコモコの固まり。あれは、近所の神社の林。
 さらにその先に、ついこの前できたばかりのマンション。壁みたいな四角い影に、整然と電球色の蛍光灯が連なって輝いている。
 本当についこの前まで、神社の木々の向こうに、海がほんのかすかだけど見えた。今は、完全に遮られちゃっているけれど。
 マンションの上には、夜空。夕方にも見えていた薄いもやの筋がいくつか、ほんのりと白っぽく輝いて、そのあたりはマンションなんかよりも明るく見えた。
 駅までは、歩いて三十分ちょっとかかる。
 運動不足は確かに気になるけれど、どうして歩くことにしてしまったんだろう。
 僕は首をかしげた。
 自転車の方がずっと効率はいいのに。
 ただあの時は、なんとなく、無性に歩きたかった。


 時計を見る。十一時を少しまわっていた。
 風呂を出てから、僕は受験用の数学問題集をやっていた。
 はっきり言って普通じゃない。ちょっと緊張してるのかも知れない。
 ……実は、ちょっとどころじゃなくて、すごく緊張していた。いまさらながら。
 真夜中の海辺に、ミナちゃんと二人っきり。健全な高校生男子なら、緊張しないほうがおかしいだろう。

 そろそろ出た方がいい。
 僕はノートを閉じると、抜き足差し足、玄関に向かった。もっと堂々と出て行っても、全然かまわないはず。なのに、出掛ける姿を見られるのは、なんか嫌だった。
 これはれっきとした、天文部としての活動である。
 やましいところは微塵もない。
 年頃の男女二人が夜に出会うとしても、だ。
 デートでも、意味深な密会でもない!
 もし、これをやましいと感じるなら、そう感じる本人にやましいところがあるからだっ!

 ……。
 ああ、見事に墓穴を掘ってしまった気がする。

 天文部は去年、一人も一年生が残らなかった。あの先輩方の、近年まれにみるような壊れかかった激しいバイタリティに、みんな耐え切れなかったのだろう。
 ある意味、仕方がないのかもしれない。僕らだって「ゆとり」とか軟弱とか言われてるけど、そんな僕からみても、一つ下の学年はまるで宇宙人みたいだったし。
 そのにぎやかな先輩たちも、三月で卒業してしまった。
 あれだけたくさんいたのだから、一人ぐらい、赤点とって留年ぐらいしてくれても良かったのに。そうしたら、同じ学年になりましたね、なんて嫌みの一つも言えたんだけど。
 ミナちゃんは、先輩たちのノリにも負けずについて行ける正統派だった。一方の僕は、星や星座なんて興味はなかったのに、中学時代から縁のあるとある先輩に誘われて(無理やり、の方があってるかもしれないけど)去年の夏休み明けに中途入部して以来、なんとかドロップアウトせずについてきた。
 そんな感じで、我が天文部はミナちゃんと僕の総勢二名。うちの学校の規定では、二人いれば何とか部としての体裁を保つことができる。僕が抜けるとアウト、というギリギリのライン。
 消滅の危機には瀕していたんだけれど、今日、生徒会から一通の紙が届いた。内容は、今年の一年生に天文部への入部希望者はいません、と。
 こうして、廃部がほぼ決定的になってしまった。
 ミナちゃんが夜間観測なんて突然に言い出したのも、これだと思う。
 僕らも、もう三年生。
 母親の前では、「引退は夏休み後だ」なんて言ってみたけれど、ミナちゃんも、進学希望。最近、予備校に通い始めたって言ってた。テストとか受験にはテクニックが必要で、それは予備校で身につけないといけないんだって。僕からみれば超天才のミナちゃんでさえ、わざわざ準備しないと点数がとれないらしい。確かに、去年の成績表を見せてもらったけれど、あんまり成績自体はよくなかったか。テストとか、受験とかって、本当に頭がいいか悪いかとは全く無関係みたいだ。
 とにかく、二人とも予備校がよいとなると、これからはなかなか集まるのも難しくなってしまう。
 だからひょっとすると、今夜の夜間観測も消えてしまう天文部の最後の活動にならないとも限らなかった。
 そして、ミナちゃんとの最後のデート、思いを伝えられる最後のチャンスじゃないか……、だなんて、不埒なことを考えている自分がいた。


 僕がミナちゃんを意識しはじめたのは、本当につい最近で、春休みの少し前だった。
 体育の授業が終わったばかりの教室。
 さっさと着替えを済ませた僕が、文庫本をぱらぱらと眺めていると、クラスメートのヘラヘラ笑いが耳に飛び込んできた。
『……ってことはさ、鮎沢さん狙うんなら、今がチャンスじゃね?』
『でもさ、どうやら相手の方も完全に脈なしってわけでもないらしいぞ。まだあきらめてねぇんじゃ……』
『だけど、鮎沢さんって天然だもんなぁ。かわいいけど、つきあうとなるとちょっと引いちゃうのもわかるよな』
 男ばかりとなると、うちのクラスでは、ここぞとばかりに恋愛話が盛り上がる。たとえそれが、体育の合間の着替えの時間だとしても。どうやら恋愛体質の連中が一カ所に押し込まれたような雰囲気だった。地味を地で行く、僕みたいな例外を除いて。
 こういう話の出所は、歩く広告塔とあだなされる女子で、定期的に男子側、女子側で情報交換が行われているらしかった。
 マッチングメーカー気取りなのかもしれないが、実はそれなりに機能しているみたいで、バレンタイン、ホワイトデーと一連のイベントが終わってみると、クラス内カップルが八組誕生という、ある意味恐ろしい実績を誇っていた。
 今日はミナちゃんがうわさの主だった。
 誰かに告白して、振られたらしい。いや、話の流れからすると、完全に振られた訳でもない、宙ぶらりんな状態のようだった。どうも相手の男がまともに対応してないらしい。
『それでさ、その相手って誰だよ』
 本当にそいつって誰だよっ!
 バレンタインデー。部活の帰り際にミナちゃんからでっかく「義理」って書かれたハートのチョコをもらっていた。だから僕もホワイトデーには「義理返し」ってでっかく書かれたパッケージのビスケットを返した。
 その時は、全然気にもしてなかったけれどミナちゃんは「本命」のチョコ、いったい誰に渡したんだろう。
 ミナちゃんの好きな相手って、どんな奴なんだろう……。
 読みかけの本をめくる手が止まっている。気付くと僕は、その噂話に耳をすましていた。
 その時、着替えの済んだ女子たちが、ガヤガヤと教室に戻ってきた。
 ミナちゃんの相手の名前は騒音にかき消されて、ついに聞こえなかった。
 隣に人の気配を感じる。僕は、きちんと読んでもいない文庫本のページをあわててめくっていた。

 あれから、ふとしたはずみに、ミナちゃんの真ん丸の目と、さらさらのショートの髪、こっちまで一緒に笑いたくなるようなまぶしい笑顔が、急に思い出されたりするようになった。突然の、あまりにもハイセンスで、すぐには笑えないギャグと共に。
 そんなことばかりが、今では、いつも頭の中を飛びまわっている。
 僕の頭は、あれからちょっと、おかしくなってしまっていた。
 だからミナちゃんのことを、おかしいとか、変だなんて、言えるはずがない。
 本当に変なのは、ミナちゃんしか見えなくなっている僕だもの。


 暗い夜道を駅に向かって、ひたすらに歩く。ランニングシューズは通学に使う革靴と違って軽い。一歩ごとに路面をしっかりととらえているのが感じられた。
 身体はグングン、風を切って前に進んで行く。
 歩道の無い細い道路。ときおりヘッドライトを眩しく輝かせながら、結構なスピードで車が僕を追い越していく。
 神社の木立を通り過ぎ、赤や黄色の派手なレンガで舗装されたマンションの歩道を抜ける。
 そこから先には申し訳程度、路肩に歩道があって、たまに、駅の方から疲れてふらふらな感じのおっちゃんや、髪がぼさぼさになったおねぇさんが歩いて来た。
 肩をぶつけそうになりながらすれ違い、僕は先を急いだ。

 幹線道路を横切ると、駅はもうすぐだった。
 バスロータリーを覆うように駅前広場は高架になっている。一基しかないエレベーターはこの時間、下り専用だ。
 僕は二段飛ばしで階段を駆け上がった。
 やっぱり、運動不足。これぐらいでも軽く息が上がってしまう。さすがに、ぜぇ、はぁ、しながら現れるのも格好が悪い。
 僕はすこしゆっくり歩きながら息を整えて、それから改札に向かった。
 蛍光灯に照らされた、くすんだような改札前。人だかりが次々と吐き出されてくる。すでに半分ほど閉まりかかった切符売り場前で、人波に飲み込まれないように、ミナちゃんは立っていた。
 手には黒っぽいチェックが入った、小さなハンドバッグ。
 白のシャツに空色のカーディガンがまぶしく映えている。どんよりと曇った灰色の雲の切れ間に、青空が垣間見えたようなすがすがしさを感じさせた。
 でも、その表情はいつもの元気はどこに行ったのか、そわそわと人混みに視線を滑らせていた。まるで、大海原にたった一人、救助を待っているかのような視線。
 ちょうど僕の方にミナちゃんの瞳が向いた瞬間、僕はエイとばかりに大きく片手を伸ばした。左右に振ると、ミナちゃんの表情がかわった。さっきまでの遭難者みたいな雰囲気は、いったいどこへ行ったのやら。急に明るくなった顔には、色白の頬にすこし赤みまでさして、まぶしい瞳が、僕をまっすぐに見つめている。
 ただ、僕の方を見ている。それだけなのに、いったん上がってしまった息と鼓動を整えたはずが、もう心臓がドキドキしていた。
「こっちこっち!」
「お、お待たせ!」
「時間ぴったりだね。じゃ、行こう! 電車きちゃうよ!」
 ミナちゃんが僕の手をぐっとつかんで、歩き出す。温かい手のひら。僕も遅れないように慌ててあとを追う。改札を抜けると、プラットホームに降りる階段を早足で下った。




 隣町の駅で降りると、もう上り電車は当然無くなっていた。薄暗い雰囲気の駅を、みんな早足で通り過ぎていく。
 カードをかざして自動改札を抜けると、海側の出口に向かった。
 しばらくシャッターの閉まった売店を通り抜けて、長い渡り廊下みたいな連絡通路を過ぎると、やっと下に降りる階段があった。
 駅前とは思えないほどあたりは暗くて、活気がない。海側は基本的に住宅地になっていて、飲み屋や深夜までやっているコンビニもほとんどなかった。人がいるところと言えば、長蛇の列が一つだけ。列の先頭には、「タクシー乗り場」と書かれた看板が立っていた。
 海へと続く道は河口に向けて続く一直線。足下を照らすちょっとしゃれた街灯と、街路樹の並木。そして、植え込みを挟んで幅が広くてゆったりとした歩道が、車道の両側にあった。地元の駅前とは見た目が全く違う。
 地元の駅前も、最近はようやくちょっとこじゃれた感じに整備されてきたものの、基本的に道が狭くてそのあたりはどうにもならないところだった。家の近所なんて、昔の農道がそのまま舗装されたようで、変に曲がりくねっている。
 こっちの方が便利でいいな、と思う反面、ここまできちんと整備されていると、なんか中途半端に人工的すぎる感じもするのだけど。

 夜風が気持ちいい。無言で歩き続ける。
 河口に続く道への曲がり角で、僕は立ち止まってしまった。
 目の前、ちょうど道路の真っ正面に、月が煌煌と輝いていた。
 まだ昇ってきたばかりで、今までは住宅の陰に隠れて気づかなかったらしい。まっすぐに続く道の先、空の低いところに輝く月の形は、満月を通り過ぎて、半月に近づいていた。薄い靄を通して、初夏に出回る琵琶の実のような色が、妖しさと美しさを感じさせる。その明るさは人の心を惑わす光。つい、ため息が漏れてしまった。
「なんか、すごいね……」
 歩道の足下を照らす電球色のランプが、まるで誘導灯のようだった。
 まっすぐに続く道は、あの月への滑走路。
 このまままっすぐ、歩き続けると、身体が浮かび上がって、そのまま月の輝きまで届いてしまいそうな、幻想的な風景だった。
 どれくらいぼんやりと月を眺めていたのだろう。しばらくすると、後ろから歩いてきた女の子に追い抜かれてしまった。
「行かなきゃ」
 歩き出す。
 あそこで立ち尽くしていたのは、そんなに長いはずはなかった。追い越していったあの子は、たしか同じ電車に乗ってたのだから。でも、月の姿に見とれていた時間は、永遠と感じるほどの何かが、確かにあった。

 先を歩いていたはずの女の子は、ふと気づくと、河口の橋に着く前に、見えなくなってしまった。きっと途中の路地にでも入ったのだろう。予備校の帰り、夜中に駅から歩いていると、地元の人は路地裏の近道を知っていて、そっちを通っていることがある。そんなとき一瞬、目の前から人が消えてしまったみたいでびっくりするのだけど、ほんとうはそんなことはなくて、心配損だったりする。
 きっとあの子も地元なんだろう。
 どんどん道を進んでいくと、やがて信号が見えてきた。海岸の道路との交差点。そのよこにはファミレスの明かり。店内はがらがらで、ウェイトレスさんがお盆を手にしたまま、ぼんやりとたっているのが見える。
 信号を渡ると、橋のあたりはちょうど拡張工事中だった。作業用の赤い照明や、車道の方はまだ車が進入してこないように、黄色と黒のストライプがついた看板が通せんぼをしている。
 まだ新しい歩道。通行禁止の車道は、汚れのない真っ黒なアスファルト。作られたばかりの白く真新しいコンクリートのブロックに、赤土。植えられたばかりの芝生と、まるで建築模型のような細い街路樹が、ナトリウムランプのオレンジ色の光に照らされている。
 まるで、未来都市のジオラマに入り込んでしまったような気分になった。
「こういう場所って好き」
 駅を降りてから、ずっと黙っていたミナちゃんの声を聞きながら、僕はコンクリートブロックをまたいで、車が走らない車道の真ん中を歩いていた。
「新しくて、未完成で……どうなるかわからない、余地があって」
「作りかけがいいの?」
「作りかけって言うより、整然とした中に、発展の可能性が秘められているのを感じるのが、楽しいの。……小さい頃、お父さんがラジコン飛ばすのに、よく車で一緒に連れて行ってくれてね。そんなとき、開発中の埋め立て地とか、まだ家の建っていないニュータウンとか、そんなところに行って、ラジコンのヘリコプターを飛ばしたの。私はそのとき、もちろんラジコンなんて興味なかったんだけどね。あの土地の雰囲気が、なんか好きだったの」
「ふうん。……なんか、模型みたいだよね」
「そう。模型みたい。だから、ちょっと上の方から、街全体が見渡せるような気がして。整然と伸びた、まっすぐな道路。街灯の列。街路樹の連なり。そんなきちんきちんとした場所の間には、赤土ばかりで、雑草の生い茂った空き地が広がっているでしょ。この広大な場所に、何ができるんだろう、どんな街を作ってみようとか、想像しているだけで、楽しくって。でも、だんだんに建物ができてくると、急に普通な感じがして、つまらなくなっちゃうのよね」
「でもさ、そこに住んでいる人は、ショッピングモールとか、住宅とか、オフィスとかができた方が便利になっていいはずだよね。よそからその街に来る人にとっても」
「そう。……どうも私は想像する余地がなくなって、全部が確定してしまうのが嫌みたい。あの空き地ばかりの風景が、好き。……やがて消えてしまう可能性が、ここまで大きく開かれているのって、切なくて、だから余計に愛おしいの」
「なんだか、妙にシリアスだね」
「いいじゃない。こんなに月がきれいな夜くらい、ちょっとはマジメなふりしてみても」
 そう、今夜の月は、あまりにもきれいだった。
 工事現場を抜けて、坂になっている橋の入り口を登り切ると、目の前には海が広がっていた。月は幅広の光の帯になって水面に輝いている。砂浜から、光のはしけが海面を渡り、オレンジ色の月まで繋がっていた。
 きらきらと輝く月明かりを横目に、橋を渡っていく。隣町との境界になっている河は、結構な幅があって、歩いて渡るとずいぶん時間がかかった。
 橋の上を、潮風が吹き抜けていく。かすかな波音。月の光にアクセントを添えるように、水平線近くには、灯台の明かりが、緑、赤と、回転する光の帯を伴って明滅していた。


 橋を渡りきると、地元の街だった。こちら側の河口付近には下水処理施設があって、地上部分はきれいに整備された公園になっている。さすがに深夜は封鎖されているので、砂浜の方に出るためには、もう少し先のところから曲がらないといけなかった。
 夜になってこのあたりを歩き回る人の姿はない。夏ならいざ知らず、春先の海岸付近は全くの無人だった。
 しばらく歩くと、道路沿いに派手な看板が目に入った。
 ……ラブホテル。
 慌てて僕は防砂林の間から砂浜の方に抜ける道を見つけ出す。
「どうしたの?」
「いいからこっち!」
 ミナちゃんの、温かい手。指先まで熱い。僕も頬が熱くなっていた。ミナちゃんの手を引いて、半分走るように僕は防砂林の方を曲がる。
 暗い松林を抜けると、砂の感触が足下から伝わってきた。
 海岸のサイクリングロード。潮騒が一段と大きくなった。防風林に遮られて、道路側の照明も届かない。真っ暗な砂浜を、月が照らしている。ちょっと明るすぎるような気もしたけれど、それに負けないくらい、星の輝きも強かった。
 突き抜けるような、鋭い輝きは、銀河全体が地球に近づいてきているようだった。
「ふぅ……。カサギ君、急にどうしたのよ」
「な、なんでもないよ」
 僕はミナちゃんの手を離した。ちょっと振り払うみたいになってしまって、大丈夫かな、なんて思ったけれど、ミナちゃんは全く気にしてないみたい。
「ほ、ほう。思春期真っ盛りの少年には、ちょっと刺激の強すぎるものでも、見つけてしまったかな?」
「だから、なんでもないって!」
「やっぱりカサギ君、おもしろいなぁ。あきないよ。ずっと見ていたいくらい」
「えっ!」
「……というわけで、早速にも夜間観測、始めるかな。いい、部長チェックのルールは簡単。私が今出ている星について聞くから、カサギ君が答える。以上。何か質問は?」
「いや……別に」
「じゃ、適当に歩きながら聞くからね。覚悟なさいませ、ほほほ」
 サイクリングロードを、ゆっくり歩く。さすがに駅から小一時間近く歩き続けると、疲れが出てくる。僕も結構疲れたけれど、ミナちゃんも歩調はだいぶん遅くなっていた。
 防砂柵の向こう側は砂の斜面になっていて、その下は砂浜になっている。波の音に合わせて、砂浜に平行に、白い線が浮かび上がってくる。波が泡立っているのだった。月の光の帯は、その波でゆらゆらと揺れている。
「それでは、第一問。あの星はなんでしょう?」
 ミナちゃんは天頂から少し北側を指さした。この星なら、いくら何でも僕にもわかる。あの七つの星のそろいは……
「北斗七星」
「はい、正解! やるねえ、カサギ君」
「さすがに中学生でもわかるでしょ」
「じゃあ、ちょっと難しいの、いくよ。あれは?」
 天頂近くを指すミナちゃんの指先には、なんか明るめの星がごちゃごちゃ、あった。それだけ。星座には見えない。
「わからないよ」
「あれはね、牛飼い座。一番明るいのが一等星のアルクトゥルス。……じゃあ、あれは?」
 やっぱりわからない。
「乙女座ね。明るいのが一等星、スピカ。うーん、じゃあ、あれは……」
 ほとんどひっついちゃいそうになりながら、僕はミナちゃんと並んで、真っ暗な海岸を歩いていた。
 女の子と二人っきり。大変ロマンチックなシチュエーションになりそうだし、そんなことを僕も期待してなかったというと大嘘になってしまうけれど、現実は甘くなかった。矢継ぎ早に繰り出されるミナちゃんの部長チェックに、僕は天に広がる無限の星空から、何とかして少しでも知っている星座の名前をひねり出そうと、歩きながら頭を悩ませている。全く持って健全に、天文部の本分を全うしようとしていた。
 ただ、悲しいことに、今までのところ正解したのはたったの一問。最初の北斗七星だけだった。
「カサギ君、この成績だとなかなか厳しいねえ。正解したら、いいものあげようかと思っていたんだけどねえ、残念だねえ」
 暗闇で表情がよく見えなかったけれど、ミナちゃんが笑っているのはよくわかる。
「だって仕方ないよ。……考えてみたら、俺が覚えてるの、冬の星座だけだもん」
「常日頃の精進を怠るからだよ、ほっほっほ。……でも、こんなんじゃ、予習ぐらいさせてあげれてもよかったかなぁ」
「そうしてくれれば嬉しかったかも。なんか手持ちぶさたでさ、大学受験用の数学問題集なんかやっちゃったよ」
「もう受験生だもんね。……カサギ君はどこを受けるつもり?」
「よくわかんない。とりあえず勉強して、いい成績とっておいて、入れそうなところを適当に探して、入れそうなら入るしかないもの」
「何かやりたいこととか、ないの? 将来の夢、とか」
「うーん、別に無いなあ。何がやりたいとか、よくわからないし。でも、とにかくどっか大学入って、就職して、金を稼げるようにならないと、生活成り立たないもんなぁ」
「おやおや、ちっちゃいねえ」
「鮎沢さんはどうなの?」
「私? 天文か、物理か、……本当のところは、よくわからないのよね。そこが、悩みどころ。どうせだったら,もっともっと、いろいろ知りたいから。ほかにも、いろいろ……ね。たくさんあり過ぎるのに、時間が足りないかも知れないけれど」
 僕を見つめるミナちゃんの瞳が、月明かりにきらきらと輝いている。
 きれいだった。
 手の届かない、月の女神様みたいに、きれいだった。
 そう。ミナちゃんには、知りたくて、追求したくてたまらないものが、あったんだ。
 僕とミナちゃんは、できが違う。
 急に、ずっとずっと遠く、手の届かないところに行ってしまう存在だったってことを、忘れていた。
 違う。
 忘れていた訳じゃない。知っていて、認めたくなかったんだ。きっといつか、ミナちゃんに心を伝える、そんなことができると無理矢理に信じたくて、目をつぶっていたんだ。

 やり切れない気持ちで、歩いた。ミナちゃんは、ずいぶんゆっくりだ。もう、漁港を越えて、海水浴場を通り過ぎようとしていた。このあたりになると、ウォークボードが整備されていて、木道を歩くことができる。
 しばらく行くと、ミナちゃんが立ち止まった。
「ちょっと、休まない?」
 石造りの変なモニュメントが目の前にある。そういえばこれ、地元が観光推進のためにわざわざ作ったんだっけ。なにやら、縁結びとか何とか言ってた。普段ならくだらない、なんて思うところだけれど、今の僕は、そんな広告用のフレーズを思い出しただけでも、傷口に塩をすり込まれるくらいのダメージを受けている。
 二人で、そのモニュメントに腰掛けた。
 目の前の漆黒の波打ち際には、規則的に白い泡が列を作り、波音を伴って押し寄せている。だいぶん月は高くなってきたけれど、まだ海面にまぶしく反射する光の帯は連なっていた。
「じゃあ、最後の部長チェック。これで正解したら、今までの間違いを全部チャラ、一発逆転でプリンセス・ミーナの『星の至宝』をプレゼントだよ。あれは?」
 ミナちゃんは、僕らの座った真正面、水平線近くに輝く星々を指さした。横に倒れたようなY字型。真ん中に輝く赤い星。あれは……。
「蠍座!」
「おっ、正解ですね。……へえ、これだけは、覚えていたの?」
 僕は極力平静を装って、いつも通りに接しようとした。
「冬の星座にオリオン座があるじゃない。あれを覚えるときに、オリオンの伝説も読んだんだ。たしか、サソリに刺されて死んだから、冬の星座と夏の星座で天の反対側にいるってあるでしょ」
「よし、……そうしたらもう一つだけ質問」
「えっ! 今ので終わりじゃないの? ずるいぞぉ」
「何いってんのよ。ずっと間違い続きで、最後の逆転チャンスもらっただけでも喜びなさいよ。で、質問です。あの赤い一等星は?」
 質問を聞いた瞬間、ついさっきまで、頭の中で鮮明に像を結んでいた星の名前が、真っ白になって消え去ってしまった。
 思い出せ、思い出せ、思い出すんだ!
 ア……。たしか、アから始まる……。
「アルデバラン!」
「残念っっ! アンタレス。アルデバランは、牡牛座の一等星だよ」
「な、なにい……」
「と、言うわけで、私の勝ちね」
「いつの間に勝敗が関係するようになってたんだよ」
「今から。で、勝った方が、負けた方に、何でも命令していいの」
「それって、王様ゲームって言わないか」
「そうかも。とにかくそういうことで、よろしく」
「よろしくじゃねぇっ!」
「じゃあまず、そのまま動かないで」
 そういって、ミナちゃんが近づいてくる。
 僕は急にドキドキしてしまった。
 潮風とともに、ミナちゃんの洗い上がりの髪の香りが鼻孔をくすぐる。甘い香り。
 ぴったりと、ミナちゃんは僕に寄りかかっていた。柔らかな胸のふくらみが、腕にしっかりと当たっている。
 熱い。
 僕の身体も熱くなってくる。
 もう、心臓が爆発しそうだ。
 今すぐ、好きだ、と伝えたい。
 この手で、彼女を抱きしめたい。
 たとえ離れてしまう存在でも、この気持ちを……。
「カサギ君……。ごめんね」
「な、なんだよ、急に」
「お願い、救急車呼んでくれる? 苦しい……」
「鮎沢さん、どうしたんだよっ?」
「私、もう、だめ……」
「鮎沢さん、……鮎沢さんっっ!」

    ▽

 僕は、ミナちゃんとの最後の夜間観測を思い出しながら、暗い夜道を歩いていた。
 今夜は月のない、全くの暗闇だった。
 それでも海辺は、満天の星と、その星明かりだけで十分に明るかった。
 漁港を越えて、海水浴場にさしかかる。
 あの変なモニュメントは、今でもそこにあった。近づこうとしたら、先客がいる。
 カップルだ。邪魔しないように、僕は先を急いだ。
「このあたりか?」
「うん。軽く埋めといたんだけど、たぶん、もうかなり深く埋もれてしまっていると思う。申し訳ないんだけれど……」
「なに、……まだあの王様ゲームは有効だよ」
 僕は腕まくりをすると、ミナちゃんの指さしたあたりの砂を掘り出した。
 あれから、ずいぶんと砂が飛んできたらしい。
 全身、砂まみれ、汗まみれになって掘り進むと、どれぐらいしてからだろう。
 一つの小さな瓶を見つけた。
「鮎沢さん、これ?」
「うん。開けてみて」
 僕は砂をよけてそっと瓶の蓋を開けた。
 中からは、小さな金属のプレートとガラスのようなものが出てきた。
 精巧につくられた星座早見盤のキーホルダーだった。ガラスは、拡大鏡。星の名前まで髪の毛より細い線で描かれていた。
「誕生日おめでとう、カサギ君。十八歳の誕生日から、あの日でももう遅れてたのに、もっともっと遅れちゃった」
 少し錆が浮いた金属の板は、もう回らない。でも、ちょうど僕の誕生日の午前零時の星空が全て分かるようになっていた。
「あの日、星のつかさプリンセス・ミーナが授けるつもりだった『星の至宝』だよ。星の姿は、海の砂に融けて……ちゃんと名前を覚えてもらいたくて、カサギ君の元にこうしてやってきたのです。……なんて言いたかったんだけどね。その機会もなくなっちゃった」
「今なら早見盤なんかみなくても、星座のことなら何を聞かれても百発百中、完璧に答えられるのにな」
 僕は笑いながら答えた。
「やっぱり遅かったかぁ」
 ミナちゃんも笑っている。
 僕らは笑っていたはずなのに、気づくと二人とも、泣いていた。

 病院に見舞いに行った僕は、そのあと、一等星はもちろんのこと、全天八十八の星座を全て覚えた。
 ミナちゃんとまた、夜間観測に出かけると約束したから。
 部長チェックを完璧にパスすると約束したから。
 だけど。

 それは叶わなかった。


「ね、カサギくん。それじゃあ、私の名前も覚えてくれた?」
「覚えたもなにも……」
 ずっと心の中では呼びかけていた。
 ミナちゃん、て。
「私も、今なら回りくどいことしなくても」
 気づいていた。
 お互い、心では気づいていたのに……。
「……素直に好きって、言えるのに」

 だけど、あのときはどうしても、一歩が踏み出せなかった。


「……さよなら、カサギくん。もうお別れの時間なの」
「待ってよっ!」
 ミナちゃんはゆっくりと首を振った。
「いつでも、会えるから」
「ミナちゃんっ!」
「やっと名前で呼んでくれた。……ありがとう」
 光が、広がっていく。
 まるで幾千の夜光虫に包まれるように、ミナちゃんの姿は小さな光に包まれ、それがゆっくりと空へ舞い上がっていった。
「ミナちゃんっ!」

 僕の手元には、錆びついた星座早見盤だけが残った。
 今でも、この星座早見盤をみると、本当にミナちゃんは星のつかさだった気がする。
 僕は大学に進んでから、ミナちゃんが将来勉強したいと言っていた宇宙物理の研究室に入った。
 大量の観測データを分析していく研究は、時々、無限の宇宙に放り出されてしまったような孤独を感じる。
 でも、この錆びついた星座早見盤をみるたびに、ミナちゃんが僕を、星の本当の姿へと誘ってくれている気がした。

 ずっとあの浜辺で待ち続けていた、ミナちゃんの心が、僕の手元にある。
 そして僕は歩いている。
 星の世界に導いてくれた、彼女の元に。

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