少しずつ、膿み腐っていく。
見えない場所、触れられない奥から。内臓が、脳髄が、少しずつ溶けるように腐っていく。
死穢。
逃れられず、避けられないもの。人は、死肉を食んで生きている。命を食らわずに生を長らえる生命は、存在しない。かつて命であったものを、死を食らいながら生きている。
遙か昔、神代より。
水を張ったプールの中にいるように、耳の奥に薄い膜があるように音が不明瞭で、頭の奥で鈍くぼやけてこだまする。視界は薄く白いフィルターを通しているようだ。熱があるのかも知れない。とにかく眠くて、まぶたを開けているのも億劫で。
「……ねぇ、聞いてる?」
それどころじゃない。
そう思ったが、普段来慣れない高級ホテルのディナー中。わざわざ相手の機嫌を損ねるのも悪いだろう──大体、元々この日この時間は彼女と会う約束になっていたのだ。なのに体調を崩したのは俺の管理能力不足であって、彼女には責任はない──俺は無理矢理笑顔を作ってみせた。
「聞いているよ」
すると彼女は軽く俺を睨んだ。
「嘘ばっかり」
どうやら機嫌を損ねたらしい。
「……仕事は忙しい?」
俺は話題を変えた。
「ええ。そうね。順調よ。……あなたは?」
「俺……そうだな」
血の味。四箇月前から、口にする全ての食べ物に血の味が僅かに混じる。それだけだ。たった、それだけ。他に問題など無い。
「問題はない。相変わらずだ」
当たり障りのない返答をしておく。それが、俺にだけ感じられる現実ならば、他の誰に告げても無意味だ。俺にしか感じられないなら、幻想と同じ。白昼夢。
「でも、疲れてるみたいね」
俺は曖昧に笑った。ここのところ、体がひどく重い。怠い。夜は泥のように眠るけど、その割に目覚めが良くない。すっきりしない。見えない重い水の膜で覆われてるような。
「食べないの?」
彼女は手を付けられないままの俺の皿を見て言った。
「……悪い。食欲があまりないんだ」
「風邪?」
「そういうわけじゃないと思う。熱はない」
「体調良くないの?」
「いや」
良いとは思ってない。だが、悪いとも思っていない。たいしたことはない。軽い倦怠。それからやたらと喉が渇く。食欲不振。睡魔。食べ物は欲しくない。考えただけで吐き気がする。今朝食べた朝食は数分と経たないうちに吐いてしまった。朝から水しか飲んでない。
「平気だよ」
「そう?」
俺は無理矢理笑顔を作った。
「平気だよ」
「ダイエットでもしてるの?」
「……君じゃあるまいし」
「何よ、それ。ダイエットしろってこと?」
「そんな事は言ってないだろう? 被害妄想じゃないのか?」
「そういう事言う? ……もう」
彼女のふくれ面に、俺は軽く笑いを誘われる。
──けれど、身の内に巣くっている微弱な不安。ささやかな恐怖。重い水が絡みつき、俺の両肩にのしかかってくる。悩みというほどの事でもない。だが、振り払えないもの。振り切れずに、つきまとうもの。
「そう言えば、ね」
「え?」
「キリスト教ではパンはイエスの肉で、ワインはイエスの血だって言うでしょう?」
それまでの会話から急に話が飛んだ。彼女はくすりと笑って、赤ワインのグラスを揺らし、傾ける。グラス越しの彼女の瞳が、俺を見た。ぞくりと寒気がした。暗い照明の加減か、彼女の唇が血の色に見えた。
「五穀誕生の神話って知ってる?日本書紀にあるんだけど」
笑いながら、彼女は言う。赤い唇から、何故か目がそらせない。
「……いや」
俺は答えながら、目の前で固く両手指を組み合わせた。じいん、と耳の奥が鳴った。
「今ある穀物や作物は、保食神という女神の死体から生まれた、て話よ」
……女神の……死体?
「保食神は月読命という神様に惨殺されたの。月読命が、ある日、天照大神に命じられて、保食神のところへ食べ物を貰いに行ったけれど、女神は月読命をもてなすために、口から米や魚や獣などを吐きだしたので、『汚い』と怒って月読命は怒って女神を殺してしまった。女神が死ぬと、その死体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部からは麦、大豆、小豆が生じた。それが五穀誕生の元になった。その経緯を聞いた天照大神は月読命の乱暴さを嫌って月読命とは二度と顔を合わせようとしなくなったので、昼と夜が分かれたって話よ。どう?」
どう、なんて言われても……曖昧に笑うしかなかった。
「初めて聞いたよ」
「収穫・豊穣の神が女神、という話は割と良くあるのよ」
そう言うと、彼女はオードブルの最後の一切れを口の中に入れた。
「ギリシア神話のデメテルとか、原始文明の地母神とか北欧神話のシフとかエジプト神話のレネネウテトとか」
「ふうん。……今回の、テーマ?」
「そうよ。『食』が『死』と密接な関係なのは、昔のひとにとっては当たり前だったのよ」
「狩猟をしたから?」
「それだけじゃないけど……『生きる』ということは、他者を『食らう』ことだわ。現代人は加工した食物を食べ慣れているから忘れがちだけど、光合成の出来ない人間は、『命』を食らう以外に、自らの生命を長らえることはできない。私はね、絶対菜食主義にはならないわ。……だってキレイ事だもの」
「……相変わらずだな」
俺は苦笑した。
「光合成してる植物だって、他者の屍を糧にしている。私達は皆、死体を食らって生きているのよ」
俺達は皆、死体を食らって生きている……。
「……そうか」
食事する度に蘇る血の味。
「死体を食らうのが厭だと言うなら、死ぬより他に道はない。生きている状態でそれに抗おうだなんて、笑っちゃうわ」
『食』は『死』に通じる。
「君はいつもそんなことを考えながら、食事しているのか?」
彼女は目を細めて笑った。
その時。何も口にしていないのに、血の味が口の中に広がった。
死穢。
──The End. |