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彼らの日々 作者:雲鳴遊乃実
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3人目 古田千衣

 朝起きたとき、視界が揺れた。寝惚けているのかと思ってほうっておいたらますます酷くなった。横になったまま、枕元に置いてあるデジタル時計の数字が着々と変わっていくのを眺めていた。
 久しぶりの不調、しかも風邪よりも重いやつだ。とうとう起き上がることを放棄して、充電器から取り外した携帯電話で私の家に電話をし、応対に出た母に事情を伝えた。一〇分後には部屋のドアが開き、体温計を差込まれ、それが三九度を示したのとほとんど同時に、母が病院への連絡を終えた。
 診察の結果はインフルエンザだった。
 直接の心当たりはないが、感染源といえば学校しか思い当たらない。そういえば二年生に遅めの流行の噂があった。所属している音楽部の活動はすでに始まっていたので、そこで二年生から受け取ったのだろう。
 二年生を責めるつもりはないが、三年生の誰かに移してしまっていたら気の毒だ。私と席が近いと言えば、前席の原坂、後席の辺見、右隣の鳥羽、左隣の弓川。全員勉強に執心するタイプではなかったと思うけど、罹ったら焦るだろう。無事を願っていますので、どうか手洗いうがいは忘れないでくださいね。
 ふと気がついたらお昼を回っていた。病院を出てからの記憶が薄い。ほんの一時間外出しただけで身体全体が怠さを訴えていたのは憶えている。その訴えに素直に応じて、意識はさっさと退場したようだ。随分と優しいな。
 上半身を起こしたら、布団の上に冷却シートが落ちた。額に貼ってあったらしい。数秒の間をおいて、それを持ち上げ、貼り直しながら部屋を眺めた。カーテンは閉められていて薄暗い。常備灯だけが灯されている。真ん中に見慣れない卓袱台があり、お盆が置かれている。添えられている置き手紙に目を通す。仕事に出た母からのものだ。カップの中身は玉子粥であり、足りない場合は冷蔵庫から取って、あとはなるべく動かずゆっくり眠りなさい、とのこと。温くなりつつあるお粥を見て申し訳なく思う。食欲は全く湧いていなかった。
 動くこと自体が辛いので、布団に戻るのも億劫になる。卓袱台の横に足を崩して、ぼんやり壁のシミを眺めていた。大昔、中学生だった頃、ジュースか何かを投げつけてついてしまったシミだ。どんなジュースだったのかはまったく憶えていない。そうなった経緯も曖昧だ。怒った矛先は母だったと思う。何でもかんでも、親のさしのべる手に苛立つ時期が確かにあった。今でも正直言えば残っている。
 できる限り、身の回りのことは自分でやる。それは私と母との、高校生になる頃に取り交わした約束だ。食事は一緒に作った方が安上がりだから母のを食べる。その点だけを特別枠として、他の家事は基本的に自分で行うこととした。実を言えば病院に行くこともそのうちの一つだった。インフルエンザなんて大層なものでなければ、今日だって病院には自転車で向っていたはずだったろう。
 やむを得なかった。わかっているけど悔いがある。もちろん病院には行けなかっただろうし、電話をしたことを母だって何も言わないだろう。それでも、なんとなく、上手く言えないけれども。
 頭が痛くなってきた。言葉にしようかしまいか迷っていたものが一緒くたになって流されていく。布団の上に斜めに覆い被さり、そのまま目を閉じた。春の暖かさに刺激されたスズメやヒバリの声がけたたましく耳を打っていた。

 一人暮らしをしたいのだ。
 春休みに、母に向ってそう告げた。大学が遠くなら当然、たとえ通える範囲に決まったとしても。この家からは出て部屋を借りたい。居間のソファにもたれ掛かっていた母は固まって、伏し目がちに私と向き合った。
 真面目に通うのなら。それが母の呈示した条件だった。
「私は絶対辞めないから」
 大きく目を開いて、母を見つめてそう言った。瞬きもしないで、次第に潤む視界の中で、母が疲れを見せながらも頷くのが見えた。
 その日の夜、父の車が入ってくる音を聞いて、私は自室の床に耳をつけた。玄関の開く音がして、しばらくしたら父の驚く声が聞こえてきた。心臓が高鳴った。今にも階段を駆け上り、約束を反故にされるのではないか。焦りながら耳をより強くくっつけた。幸いなことに、大きな音がそれ以上聞こえてくることはなかった。
 心配は杞憂に終わったのだ。
 安心しきった私はそのまま眠り、寝違えた末の首の痛みとともに朝を迎えた。
 嬉しさと同時に覚悟もした。感謝でもあり謝罪でもある。
 母が固まる理由も、父が驚く理由もよくわかっていた。二人とも胸に抱いたのは姉のことだったのだろう。姉が大学を中退したのは、私が高校二年生のときで、姉は大学三年生だった。
 姉は相談もせずに部屋も引き払い、家族からの連絡は受け取らず、たまに向こうから連絡したかと思えば、三〇〇キロも五〇〇キロも遠くにいた。たまに海を渡ることもある。海外渡航など一度も経験したことない私には、遠くに行こうとする姉が恐かった。怒り心頭の父や、狼狽する母に同情し、姉を軽蔑した。だけど本当のところを言えば、姉は同時に輝かしくも見えた。とても両親には言えなかったけど。
 姉は自由に生きている。その自由のために心労している家族がいる。その中にいる私がどこまで自由になっていいのか。わからなくて、心苦しかった。母にお伺いをたてたとき、私の方もまた気を揉み、疲れ切っていた。
 頭を悩ませるあれやこれやは全部姉のせいだった。たとえ憧れている姿であろうとも、怒りはまた別個に芽生えている。どこで出会えるのかもわからないけれど、もし今度であったら、絶対怒ってやろうと決めていた。

 また眠っていた。デジタル時計は午後五時を指している。
 夕方だ。もう日も傾いているだろう。それにしては部屋が明るい。常備灯が蛍光灯に切り替わっている。私がつけたのだろうか。どうにも、怪しい。
 勢い込んで身体を起こしたら、部屋に人がいた。
「誰!?」
 声は嗄れていたが、そのまま怒鳴った。頭の中がぐるぐると回っていた。とにかく警戒しなくては。とっさに身構えて、デジタル時計を鷲掴みにした。
 座っていたその人は、私を振り向いた。長い髪の奥から顔が覗いた。
「幸江ちゃん……?」
 姉だ。
 最後に見たときと比べれば細くなった。化粧をしている姿も初めて見た。濃い。前髪には青のメッシュがいくつか混ざっている。でもどう見ても姉の幸江ちゃんだった。
「ごめん、千衣。辛そうだったから起こさなかったんだ」
 幸江ちゃんは手を合わせた。間が開いて、私は首を横に振った。
「何でここにいるの?」
「え……実家だし。帰ってきたんだよ、普通に」
「普通って! 何で? 突然」
「お母さんには連絡したよ。なんかがやがや言ってたけど。あ、あった」
 幸江ちゃんは足下にある袋から何かを摘まみ上げた。ピックだ。そのときになってやっと、その袋がギターケースだとわかった。
「それ、私の」
「うん。持ってきた奴がちょっと割れちゃってさ。どうしても今日使いたいんだ。貸して、お願い」
 また手を合わせる。それでいて、私が答える前に幸江ちゃんは立ち上がり、自分のギターケースを手に取った。
「それじゃ、行くから」
「え、どこへ?」
「駅。路上ライブやるんだ。これから毎日やるから、たまには聴きに来てよ」
 頭の痛みが酷くなった。
 確かに幸江ちゃんは音楽が好きだった。私も小さい頃、幸江ちゃんからギターを教えてもらった。音楽部に入ったのもその経験があったからだ。でも幸江ちゃんが音楽の道を進もうとしていたなんて話は今の時まで全く知らなかった。
「できるの?」と、口をついて出てきた。
「できないことはない」
 幸江ちゃんはドアノブに手を掛け、私を振り返った。
「そうそう、お土産置いておいたから。そこに」
 卓袱台の上にある小包が指差された。気を取られている隙に、部屋の扉が閉められた。
 慌ただしく階段を駆け下りる音が聞こえる。追いかける気にはなれない。玄関の開く音が微かに聞こえた。
 静かにしていたら、独りでに痛みは治まっていった。
 卓袱台に近づいて、箱を見下ろした。山吹色の包装に風船の模様が刻まれている。風船堂という、この街で密やかに人気を集める洋菓子屋のものだ。
「怒るの、忘れちゃったな」
 寒気は若干ある。が、手が勝手に動いていた。
 包みを解き、箱を開く。小さな器が六つ綺麗に並んでいた。プリンだ。甘い香りが手元から広がってくる。
 私の一番好きやつ。さすが姉といったところか。
 箱の隅に束ねられていたプラスチックのスプーンを一本つまみ、器を手に取り、表面を掬う。淡黄色が穏やかに揺れた。
 やむを得ない。怒るのは次に会ったときだ。悔いを残す時間も惜しく、一口目を早速運んだ。
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