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彼らの日々 作者:雲鳴遊乃実
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1人目 田沼芳樹

【1人目 田沼芳樹】
 シンバルを指先で押さえると、震えが止まって、余韻が残った。いつものことで、聞き慣れたものだ。ひと休みも兼ねて浸りたいところだったのだが、なぜかそこに渋い擦過音が加わった。建て付けの悪い音楽室の観音扉が開かれたときの音だった。
 そこには女の子が立っていた。チューバやコントラバスの担当者から度々非難される二メートルほどのこぢんまりとした扉枠に囲われても、その背の小ささは際立っていた。制服は真新しく、シャツの襟元には緑色のリボンがあった。ひと月前に、僕らが送り出した先輩方と同じ色だった。
「あ、お邪魔しちゃってすいません」
 女の子は素早く頭を下げた。僕とは距離が空いていたけれど、左曲がりの旋毛がよく見えた。
 謝るということは、誤解をしているのだろう。僕は首を横に振った。
「練習はこれで終わりにするつもりだったから。たまたま君が入ってきただけ」
 気にしないで、と言う前に、女の子は顔を上げた。やはり素早い。喜ぶのかと思ったが、なぜか妙に悲しげだった。
「終わっちゃうんですか」
「時間だしね」
 都合の良いことにチャイムが鳴る。ホームルームの10分前だ。外でこの音を聞いた連中は一斉に足を速め出す。
「新入生はなおさら、遅れるとまずいんじゃないかな」
 学年を確認したわけではなかったが、女の子が頷くのを見ると間違ってはいないようだ。
 女の子はまだ去らなかった。
「明日も練習ありますか」
「いつでも」
 反射的に答えていた。ここ数ヶ月、朝の練習は自分だった。誰を拒んだわけでもないが、一人で過ごすのが当たり前になっていた。
 春休みの間も来て、今日も今日とて足を運んでいた。自分にとっては習慣づけられていて、だから言い淀む余裕がなかった。
「入部したら、私も早めに来ます」
 朗らかに告げると、女の子は去っていった。ひとつに束ねた長髪が棚引くのを、僕がどんな顔で見ていたのか、幸い知られずに済んだようだ。

 昨日、午前中に入学式が執り行われ、新入生がぞろぞろと帰宅した午後に始業式が行われた。新三年生である僕らは式が終わると担任の先生に連れられて教室へと案内された。これまで通っていた二年一組の教室から見ればちょうど真上に当る場所だ。南に面する窓からの見晴らしが高度の分だけ良くなっていて、地面を歩く人は小さくなり、県境の河川がうっすらと見渡せた。還暦間際の担任の先生が新年度の抱負を述べる傍ら、隙を見ては外ばかり見つめていた。
 クラスの面々は二年生のときからほとんど変わっていなかった。進路希望を踏まえた上でクラス分けがなされるため、高校三年生ともなれば劇的な変化はそうそう起こらない。中には既望をがらりと変えたものもいたし、逆に今年から心機一転とクラス替えを希望した者もいた。それでも二八名のうち、片手で数えられるほどしかいない。
「というわけで、悔いのない一年を過ごしましょう。無理をしろとは言わないが、まあ、多少は無理してもどうにかなる。それが今のお前らだ。くれぐれもお大事に」
 先生が飄々と言って、教室が少し湧いた。柔らかい雰囲気だ。これも去年から引き続いている。値踏みするつもりはないが、四〇歳ほど離れた僕らを相手に口だけで和やかなムードを作れるのはベテランの技だろう。
 先生が解散の号令をして、クラスメイトが席を立ち始めた。さっさと鞄に荷物を詰め込む者もいれば、友達との談笑に興じている者もいる。僕は考え事をしていて、座ったまま、視線はまた外へと向いていた。
「なあ、今日どこへ行く?」
 ふと耳にその声が聞こえてきて、考え事が消えた。心臓が少し跳ねるのを感じて、嫌な気分になった。
 その声は僕に向けられたものではない。クラスの端、廊下側に集まる四、五人の男子連中が発しているものだ。
 彼らと僕との間は、何もない。同じクラスに所属する人どうしというだけで、嫌ったり嫌われたりしているわけでもない。
 それなのに僕の心臓は跳ね上がっている。止めたくてもなかなかできるものじゃない。
「適当でいいじゃん」
 一人がそう答えて、賛成の声が上がっていた。ドタドタと足音が聞こえ、遠ざかる。振り向けば彼らはみないなくなっていた。僕はホッと息をついた。
 クラスは平和だ。何も変わるところはない。でもそれはクラスだけに目を向けているときにだけ言えることだ。人と人との関係はいつもどこかしらで変わっている。
 さっきの男子連中のうち、三人は元々僕の友達だった。僕を吹奏楽部に誘ってくれた仲間だった。音楽が苦手で、最初は気乗りしていなかった僕を辛抱強く説得して、練習にもよく付き合ってくれた。今でもよく憶えている。思い出せてしまうくらい楽しかったんだと思う。
 二年になると同時に一人が辞め、当時の三年生が引退すると同時にもう一人が辞めた。「受験だから」と口々に言っていた。本当かどうかは、僕は知らない。聞く前に、距離が出来てしまっていた。
 残っている生徒も少なくなった教室で、一旦真っ白になっていた思考を元に戻した。
 今日はこれから何をしようか。
 それは実は、僕の議案でもあった。

 観音開きの扉を潜れば、やはり渋い音が鳴った。部員の数は疎らで、真面目な二年生たちは丁寧に挨拶をしてくれた。
 備え付けのロッカーに荷物を仕舞い込んでいると、再び扉が開き、入ってきた男が僕と目を合わせた。椎名という、見知った奴だった。
「田沼?」
 僕の名を呼びながら目を見開き、詰寄ってきた。
「お前、どうして」
「……もう少し考えてみようと思って」
 上手く答えられたかはわからない。
 どう受け止められるか、恐い気持ちで待っていたら、椎名は破顔してみせた。
「ありがとう。一人でも賑やかな方が今日はいい」
 上機嫌な椎名を見るうちに、言葉は喉の奥へと引っ込んだ。

 賑やかな方がいい、との文言はよくよく考えれば奇妙だが、椎名に聞き返すまでもなかった。部活が始まる時間になると、着慣れていない制服を羽織った新入生たちがやってきたのだ。数は五人。吹奏楽部としては小規模である僕たちからしてみれば、これは嬉しいことだった。
 定刻通りに音楽室へとやってきた顧問の女性教諭が合図を取って、演奏時の定位置に座った僕らの前で新入生を並ばせた。
「本来は部活動説明会が終わってから来て貰うのだけど、今年は熱心な子が多かったの。それでこっそり、呼んで来ちゃった」
 女性教諭はあくまでも軽々と言ってのけて、新入生たちがぎこちなく笑った。
 自己紹介と称して、新入生の一人一人が順番にマイクを渡された。とりあえず出身中学校とクラス、趣味や特技、言いたいことを手短に。最初の一人は歯のかち合う音が聞こえてくるくらい緊張していたけれど、二人目からはイメージがつかめたのか、次第に流暢になっていった。
 明るい、と新入生を見ていて思った。性格や態度が明るいというのとは少し違う。何が、と言われると困ってしまうけど、たった二年しか離れていなくとも、今の僕とは随分と違う。何だかみんな、前を見ていた。入ってきたばかりなのだから、それは当たり前のことなのかもしれないが。
 この五人のうち、何人が残るだろう。
 ドラムセット脇のパイプ椅子に深く腰掛けて、そんなことを考えていた。気がつけば腕を組んでいた。その仕草が人にとっては拒絶を感じさせてしまうと知っていながら、敢えて組んだ手を放さなかった。
 四人目の新入生から、最後の子へとマイクが渡った。束ねた髪の揺れるのを見て既視感を憶えた。「あ」と思わず小さく声が出た。話者の切り替わるタイミングで、静かになっていた音楽室に、その声は良く響いた。
 その子は僕と目を合わせ、途端に頬を緩ませた。僕の腕組みは全く気にしていない様子だった。
「瀬尾夢加と言います。出身は北泉中学――」
 小さい身体に似合わず、声は大きく、響きやすい構造とは言え、よく通る良い声をしていた。長く続いた自己紹介の連続にだれつつあった空気が多少良くなった気がした。
 瀬尾は最後に力強く、こう言った。
「朝練も頑張りますので、よろしくお願いします」
 勢いよく頭を下げた。そのおかげで、彼女は僕たち先輩方の表情を見ないで済んだだろう。僕らはきっと全員が、間の抜けた顔をしていたに違いない。
 朝練をしていた連中は、僕以外の全員がすでにいなくなっていた。朝練という習慣そのものが続いていると知らない者もいるだろう。僕がいなくなってしまえば、その恒例は跡形もなく消える。
「待ってます」
 気がつけば、僕は口に出していた。
 驚きの視線が、主に三年生から向けられてきていた。無理もない。僕の知り合いは粗方辞めているのだ。次は僕が辞めるのだろうと、誰もが思っていたに違いない。
 実際、僕の鞄には退部届が入っていた。まだ書いてはいないにしろ、それはすでに顧問の先生から受け取っていた。あとは理由を書いて、提出してしまえば終わり、のはずだった。
「ありがとうございます」
 跳ね上がるようにして瀬尾は顔を上げた。また笑っていた。屈託がなさ過ぎて、見ているのが辛くなった。
 だけどそのまた一方で、朝の練習にたった一人で臨む瀬尾を思い浮かべるのはもっと辛いと思った。
 たぶん、それが一番の理由だった。
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