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バニーガールと透明

作者:野足夏南
 野宮慎一は、マンションの階段を昇っている途中でバニーガールに遭遇した。
 彼は明日から始まる文化祭の準備を碌に手伝わず、周囲の生徒より早く下校した、その帰りだった。文化祭の出し物はお化け屋敷で、慎一は何故か透明人間の役が割り当てられていた。透明人間はお化けだろうか、という議論は起こらなかった。慎一を含め誰一人異議を唱えなかった。しかし暗い中で全身にサランラップを巻いた透明人間は恐らく、ただの人間ではないかと思いながらの帰宅途中だった。
 とにかくそんな彼はバニーガールに遭遇した。慎一は階段を登っており、バニーガールは走って下ってきた。そうしてニ階と三階の間の踊り場でばったりと鉢合わせた。
「何階の人?」バニーガールは早口で尋ねた。
「僕んちですか?」
「他に誰がいんのよ!」バニーガールは上をちらちらと見ながら叱る。
「3階ですけど」
「共働き?」
「共働きです、けど」
「ちょっとだけ匿って!マジで!」
冗談みたいな格好で、バニーガールはマジでと言う。と思っている間に彼は手を引っ張られた。階段を急いで昇らされる。つんのめりそうになりながら、慎一は夢でも見ている気分だった。
 302号室の慎一の部屋の鍵を開ける。バニーガールが慎一より先に自分の体を玄関にねじ込んだ。慎一はゆっくりと中に入る。バニーガールは靴を脱ぐのに手こずっていた。エナメルでヒールのあるピンク色のブーツ。
「きっつ! ちょっと引っ張って!」
バニーガールが後ろの慎一を見ながら催促する。
「なんなんですか」
「靴よ靴」
「そういうことじゃなくて」
言いながら慎一はブーツのヒールを握ってやる。ようやくブーツは脱げた。
「はーすっきりした。あいつマジで変態だわ」
バニーガールを追い越して、慎一はリビングのカーテンを開ける。差し込む日差しはまだ青々としている。いつもより早い帰宅で、のんびりしようと決めていたのに、なんだこれは。慎一はリビングに入ってきたバニーガール姿の女性を改めて見る。
 最初の印象よりも年上に見えた。それどころか口と喉の辺りの皺具合は、自分の母親とあまり変わらない気もした。となると、30代半ばから後半か。
「とりあえず、ありがと」
バニーガールは右手を上げて、食卓の椅子に腰掛けた。
「いや、あのー」
「え?」
「だから、なんなんですかこれ?」
「ああ。そうね。事情ね。君、何歳? あと煙草平気?」
バニーガールは髪の毛を指で梳かそうとして、大きな耳のカチューシャに手があたり、荒々しく耳を外した。もうバニーガールではない。慎一は思った。
「14です。煙草ダメです」
「中学生か。中学生にはちょっと刺激的な話になるかもだけどいい? え、煙草ダメなの?ベランダならいい?」
矢継ぎ早にバニーガールは訊く。ベランダなら、と応えた瞬間バニーガールは小さなセカンドバッグから煙草とライターを取り出し、ベランダへ急いだ。それでも窓を開ける時はそっと慎重を期しているようだった。風が入ってきて、緑色のカーテンがはためく。バニーガールは床の縁に腰掛けると、しゅぽっと音を立てて、煙草に火を点けた。
「お父さんも吸わないの?」
咥え煙草でバニーガールは振り向いた。煙が全部部屋の中に流れ込んできているのは気のせいではないと思った。
「吸いません。昔は吸ってたみたいですけど」慎一は答える。バニーガールは喫煙者は肩身狭いからね、等と呟いてもう一口吸う。
「……で?」慎一は先を促した。
「あ? ああ、私、デリヘル嬢なのね」
デリヘル嬢という単語に、慎一は目を丸くする。胸元が大きく開いた格好が途端に淫靡な世界を想像させる。いや、正確には最初から淫靡な気配は感じていた。
「分かる? デリヘル。今日び、中学生なら知ってるか」
「まぁ言葉くらいは」
「そう。で、ここの5階のお客さんのところに来たわけよ。なんか優男でさ、バニーガールの服着てほしいっていうからサービスで着てあげて。本当はそういうのオプションで有料だからね、覚えときな。で、そしたらね」
「あ、チェンジですか」
「殺すよ」
バニーガールの目がマジになって、慎一は口を噤む。バニーガールは年増だが、くっきりとした目や鼻筋、ふっくらした唇とそれなりに綺麗で、睨まれると迫力があった。
「で、いざ、ヤリますってなったらよ。縄出してきて、無理矢理縛ろうとすんの」
「ダメなんですか縛るのは」『ヤります』という言葉に刺激を覚えながら、慎一は訊いた。
「デリヘルをなんだと思ってるのよ」
なんだと思ってるのと言われても、慎一はまだ中学2年生で、正直、なんだとも思っていない。
「それはナシって言っても全然止めないの。怖かった。目がマジなのよ。あれってあれよ。サイコパスの目よ」
慎一はサイコパスにも出会ったことがない。映画でみるような狂気的な犯罪者の顔を想像した。バットマンのジョーカーだ。
「もうしょうがないから、股間を思い切り蹴ってやったの。そしたら動きが止まって、お金持って逃げてきたというわけ」
「なるほど。いや、待ってください。お金持ってきたんですか?」
バニーガールは、ふっふっふ、と笑って慎一に札束を見せる。3枚の紙幣が手の中にあった。
「お金持ってくるのはダメなんじゃないですか。その、やることやってないわけだし」
分かってるわよ、とバニーガールはつまらなそうに口を尖らせて言う。
「だから逃げてるんじゃない」
「で、どうなるんですかこういう場合」
「何が」
「その7階の客は、店にクレームを入れますよね。警察に行くとか言われたらどうするんですか」
「大丈夫、うちの店、そういう時クレーム対応係がお客さんのところにすぐ行くから」
「対応係?」
「ヤクザみたいなヤクザじゃないみたいなね、怖いお兄さんが」
 バニーガールが笑った。
「お姉さんは大丈夫なんですか?」
慎一は尋ねる。
「あんまり大丈夫じゃないけどね。でもいいの。今日でバックレようと思ってたから」
ねぇ、もう一本吸っていい?とバニーガールが訊くので、慎一は仕方なく一緒にベランダに出て窓を閉めた。
「これなら」
どうも、と言ってバニーガールは立ち上がり、煙草に火を点ける。バニーガールは網タイツをはいている。その先はお尻のぎりぎりの所まで、というより「ややお尻」くらいまで見えていて、慎一は目を背ける。デリヘル嬢と二人ベランダにいるこの非日常が、慎一を興奮させてしまう。
 慎一は同級生の片桐日奈子のことを、ふと思い浮かべる。片桐がバニーガールの格好をしているところを思い浮かべる。なぜ彼女なのか、分かっているのに分からない振りをしながら。
「何の本読んでるの?」
 そう片桐が話し掛けてきたのが最初だ。昼休み、同級生の男子たちが外でバスケをしたり、教室内でこっそり持ってきた漫画雑誌を回し読みしたり、携帯でゲームをしている中、慎一は教室の中央で本を読んでいた。
「箱男」
慎一は話し掛けられたことに驚きながら、咄嗟にそう答える。
「箱男? なにそれ」
片桐の顔に笑顔が浮かぶ。ああ、これは周りの女子たちに、ねえねえ野宮君が変な本読んでる、みたいに広められて地獄の昼休みが始まるのか。慎一はそう思ったが、訊かれたことに素直に答えた。
「段ボール箱を頭から被って都市を彷徨う男の話」
「段ボール箱を頭から被って都市を彷徨う男の話・・・・・・」
片桐はオウム返しした。いまいち飲み込めていない表情で、そのまま立ち去るかと思いきや、慎一の一つ前の席に腰を下ろした。
「面白そう」そう言った。うん、返事をしながら慎一は自分の顔がなるべく赤くならないように願った。
「野宮君て、そういう本たくさん読んでるよね」
「たくさんて、ほどじゃないけど。あともっと普通の本も読むよ」
今度一冊貸してくれない、と片桐は言った。うん、と慎一は頷く。よろしくと言って片桐は席を立った。集まっている女子たちの群れに戻っていく。女子たちが慎一を見て、せせら笑う様子はなかった。
 だがそれきり、本を渡すことは出来ていない。
「ねぇ中学生ってこんなに帰ってくるの早いの?」
バニーガールはすっかり気が抜けた様子で、ベランダの柵に肘を乗せながら慎一に話し掛ける。
「うちの学校明日から文化祭で、今日はその準備なんです」
「文化祭。懐かしいねぇ。で、準備終わったの」
「いや、まだやってんじゃないですか」
「なるほど」
そう言ってバニーガールがもう一煙吐き出す。頭に耳はもう付けていないとはいえ、変な衣装は見えている、この光景を路地を通る人が見たらなんだと思うだろう。慎一は少し心配になる。
「いじめられてんだ?」
バニーガールの言葉に、慎一は即座に反応する。
「違いますよ」
「いいんだよ別に。私だっていじめられてた時期あったし」
決めつけようとする。
「本当に違うんです。そういうの無いです」
慎一がもう一度否定すると、バニーガールは、ふうん、と相槌を打った。
「でも、だって、文化祭前日っていったらさ、一番盛り上がるとこじゃん」
「あんまりそういうの好きじゃないんで」
「あーそういう年頃ね」
初めて会った人間に、分かったように年頃で一括りにされて、慎一としては不服だったが特に文句を言うつもりも無かった。
「で、なにやるの、文化祭」
「お化け屋敷です」
「お化けやるの?」
「はい」
「なに」
「透明人間です」
ぶっ、とバニーガールは吹き出した。
「透明人間ってお化けなの?」
「その議論は巻き起こりませんでした」
「巻き起こしなよ。ていうかさ、やっぱりそれって遠回しないじめじゃないの?」
そう言って笑いながら路地に目をやったバニーガールは、慌ててしゃがんで身を隠した。
「やばい、見つかった」
その顔には動揺の色が見える。
「誰にですか?」
「怖いお兄さん。どうしよう、部屋バレたよ」
慎一も焦った。ここに乗り込んでくる強面のお兄さんを想像する。
「逃げよう」
バニーガールは言った。どうして自分も含まれているのか、その時の慎一には考える余裕もなかった。
 ベランダから中へ入り、最低限の荷物を持つ。
「なんかコートとかない?この格好じゃ目立ちすぎ」
バニーガールが言う。慎一はクローゼットから母親の黒いロングコートを見つけて、渡す。
バニーガールはそれを着込み、ブーツを手に持って、裸足で外へ出る。慎一は靴を履いて出て、鍵だけ閉める。
「早く!」バニーガールが急かす。
「裏口から出ます」
慎一は言う。通常の階段ではなく、非常階段の方だ。おい、と通常階段の方から声が聞こえた気がする。妙に落ち着いた声が慎一の心拍数を上げる。非常口の扉を開ける。青空と住宅街が見える。非常階段を下っていく。路地に出て、どっちに行こうかと慎一が逡巡すると、バニーガールが「こっち」と先導して走り出した。慎一はちらっとマンションの玄関の方を見る。黒いシャツを着た男の姿がある。それが誰だかは分からないまま、慎一も走り出した。
 バニーガールは走った。意外なほどにその足は速い。緩い上り坂を抜けていくと斜面に沿った住宅街の奥に、木々に挟まれて石段が見え、その登った先に鳥居があり神社がある。石段の途中で、バニーガールはようやく足を緩める。
「あー疲れた」
そう言って天を仰ぐが、木の枝に遮られて、天はほとんど見えない。11月の初旬、日向はまだそれほどだが、日陰の気温は何度も低い。闖入者に戸惑うように木々もざわざわと揺れる。「さっむ」と言いながらバニーガールはコートの前を合わせる。
 慎一も息切れして、膝に手をつく。元々運動は苦手だ。
「土地勘あるんですね」慎一がそう言うと、バニーガールは振り向いて「無いよ。女の勘」と素っ気なく言った。
 石段を登り切り、赤錆びた鳥居をくぐると、手入れの行き届いていなさそうな古びた神社が現れる。ここは神主も住み込んでおらず、昔も今も子供たちの遊び場となっている。慎一もここでよくゲームや鬼ごっこをして遊んだことを思い出す。周囲の友達より賢かった慎一は遊びの中心にいた。あの頃自分は透明人間ではなかった。
 慎一がそんな思いに耽っていると、バニーガールはいつの間にか賽銭箱の前にいた。
「お参りですか」
「賽銭は無いけどね。今大きいのしか持ってなくて」
慎一は自分の財布から10円玉を取り出して投げ入れた。コンと音を立てて、木箱の中に賽銭は落ちていった。
「どうぞ」
「嫌だよ、中学生に奢られるなんて屈辱でしかないからね」
「僕別に祈ることないですから」
「祈ることない中学生なんて聞いたことない」
「祈る中学生って言うのも聞いたことないですけど」
「何か祈りなよ、受験とか、恋愛とか、彼女いないでしょどうせ」
どうせ、と言われて腹が立ったが、慎一は仕方なく祈ることにした。家内安全を。しかし頭の中に片桐の顔が浮かんでいた。それほど美人でもない、頬骨が盛り上がっている片桐の顔が。目を開けるとちゃっかりとバニーガールも祈っていた。
「何祈ってるんですか」慎一が聞くと無視して、
「ここ寒い。なんかもうちょっと暖かいとこ行こう」と言い出した。
慎一は、この神社から更に雑木林を登ったところがはげ山になっていると説明し、登ることにした。バニーガールは裸足であることを思い出し、ようやくブーツを履く。
 はげ山は、やはりはげていた。日が差し込んでいて、風は当たるが神社よりは暖かい。眼下に住宅街や駅が見える。それからうちの中学校。バニーガールは草っぱらに座り込む。もしかして、あれあんたの学校?と指差して訊かれ慎一は、はい、と答える。ふうん。風が吹いて、バニーガールの長い髪がはためいた。
「あそこに、黒い家あるでしょ」バニーガールが今度は指の方向を変えて言った。
「ありますね」それは家というより屋敷、と言う方が正しい広い敷地の古風な家だ。
「あの家知ってますよ。この辺で一番大きい家ですもん」
「うん、あそこの親父がね、私のお得意さんだったの」
ええ。慎一は笑う。
「そんな」
「そうなのよ。エロ親父なんだから」
そう言うとまた一本煙草を取り出す。
「で、頼まれて欲しいことがあんのよ」
 屋敷は改めて目の前で見てもやはり大きな屋敷だった。どこかの企業の社長か会長が住んでいるという噂を聞いたことがある。それも頑固な親父だという。
 だった、というべきだ。香典袋を手に、慎一は思い直す。
「心筋梗塞だって。信じらんない。だって、一時間で2回もするような性欲ジジイだったのに」笑いながらバニーガールは言った。心臓が急に止まったんだって。
門の右側に「中川勝雄 葬儀会場」と立て看板が立っている。時刻は5時を過ぎ、喪服に身を包んだ参列者が入っていく。奥からはお経と木魚の音が聞こえてくる。
 バニーガールから渡されたのはバッグから取り出されたさっきの三万円と香典袋だった。「これ、そのジジイのとこ置いてきてよ」
 なんで僕が、と抵抗したが、私この格好だよ、と言われると言い返せなかった。焼香とかはいいから。むしろしなくていいから、とにかくその金だけ置いてきて。
 制服を着た学生は見たところ慎一だけで、門の前で尻込みをした。それでも、なぜかちょっと真剣な目でお願いされた気がして、慎一は深く息を吐くと、門をくぐった。
 一人で通夜会場に入るのは初めてだった。左手側に受付があるのを見つけ、そこに並んだ。受付係の若い女性は、慎一を見て、一瞬怪訝な顔をした。慎一も緊張する。しかし、慎一がぎこちなく香典を渡すと、ご記帳を、と促した。慎一は何と書くか悩んで、結局「山田三郎」と偽名を書いた。
 そのまま立ち去ろうとしたところで、通夜の会場が見えた。左右の椅子に座る人々、その奥に親族が座っている。花で飾られた祭壇の中央に故人の遺影があった。その顔を見て、慎一は歩みを止めた。口を開ける。思わず、不謹慎にも、笑ってしまった。
「遅い」
はげ山に戻ると、バニーガールはそう言った。草はらに差し込む光は、とっくにオレンジ色に変わっている。
「焼香してきたので」
慎一がそう言うと、慎一を軽く睨んで、置いてくるだけだって言ったじゃんと不平を漏らす。
「でも、中川さんの代理ですから」
その言葉に、バニーガールは表情を変えた。驚きから、怒ったような、がっかりしたような表情へと。
「なんだよ。分かっちゃったんだ」
 慎一は遺影の笑顔を思い浮かべる。そっくりだった。バニーガールに。 
「私こう見えても生徒会長とかやってたんだよね。あんたと同じ中学の」
慎一は驚く。中学の先輩だったとは。
「まぁやらされてたというかね。当時、うちの親父がPTAの会長やってたから」
バニーガールはそこで頭を掻く。慎一は、発せられる言葉をただ待っている。
「嫌だったんだよね、PTA代表して一言とか聞くの。一言つってんのにやたら長かったりさ。で、私には一個上の兄貴がいてね。一個しか違わないからお互い何かと張り合ったりしてて。張り合ってる内に私、どんどん勉強できるようになってて、公立の地区トップの高校に受かったの。親父もお母さんも喜んでさ」
「頭良いんですね」と慎一が言うと、「風俗嬢なめちゃダメだよ、私の知り合いに東大卒のソープ嬢いたよ」と言って、続けた。
「でもね、見ちゃったの。その後、奥の和室で、兄貴が怒られてるとこ」
「なんでですか?」
「兄貴はね、その前の年、その公立トップのとこに落ちて、私立に入ったの。で、親父が言ってた。『なんで女に入れて、お前は入れないんだ』って。オンナって言ったの父親が」
オンナ。それはバニーガールにとって最大級の侮蔑の言葉だった。
「あぁ、って思ったのよ、その時。私ってオンナなんだ、オンナはオトコより下じゃなきゃいけないって、そういう価値観なんだ、この家は、って」
そう思ったらなんだかすべてが嘘くさくなって、母親のことも嫌いになった。
「だって、父は女をそういう風に見てるんだもん。だったら母親だって、ただ食欲や性欲を満たしてくれりゃそれでいい存在なんだと思えてきて、全部バカバカしくなって、高校卒業と同時に家を出たの」
また口から煙を吐く。慎一には紫がかって、悲しい色に見えた。
「それで、そういうことなら、私オンナを売ってやろうと思って。クラブで働いて、ソープで働いて、デリヘルで働いて。セックスでオンナすり減らして子供も作んないでとにかく私の中からオンナ出てけっていう感じで。そしたら、唯一内緒で連絡取ってた兄貴から、一昨日ね。『死んだ』って来てさ」
慎一は自分の体からする香木の香りを感じていた。死が、まだ自分にまとわりついているようだった。
「35だよ。宿敵いなくなっちゃった。ラスボスいなくなっちゃったよ」
バニーガールが、中川さんが泣いていた。
「なんで泣けるんだろ。その場限りの感傷なんかになんで浸れるんだろ。だからオンナなのかな。まだ捨て切れてないのかな」
「僕は男です」
慎一は言った。
「どうしたの透明人間?」泣きながら笑みを浮かべて中川さんは言った。
「僕は男です。それで、中川さんは女です。確かにお父さんはそういう考え方だったかもしれないけど、女、素敵じゃないですか」
慎一の脳裏に片桐日奈子が浮かぶ。はっきりと浮かぶ。
「柔らかくて、なんか大人っぽくて、良い匂いがして。男も女もいるからこの世界は成り立ってるわけで、だから、中川さんは、女であっていいんです。それから、その場限りの感傷なんかじゃないと思います。ちゃんと悲しんだ方がいいと思います。だって」
慎一は通夜の光景を思い浮かべる。遺影の横で、ずっと目にハンカチを充てている女性の姿を。
「中川さんのお母さんも泣いてました。良い思い出だってあったから、だから泣けるんじゃないですか?」
中川さんは泣いた。泣き続けた。その間、慎一には掛ける言葉は無かった。ただ隣にいて、泣き声と共に夕日が沈んでいくのを見ていた。太陽は山の向こうに隠れようとしている。また一周して戻ってくるくせに。
 中川さんが泣き止んだ時には、日は完全に隠れていた。辺りは半分夜だった。
「私、事務所行ってお金返してくる」
中川さんはそう言った。そうしてちゃんと辞めてくる。それからどうするんですか、と訊くと、親父の遺産を貰いに行く、と言っていた。はげ山を下りたところで、二人は別れた。黒いコートは返して貰って、中川さんは寒そうだったが、歩き方は堂々としていた。女です、と背中が言っていた。
 慎一は、一人取り残された。自分に問い直す。お前は本当に透明人間なのか。いや、僕は、男だ。透明人間だけど男だ。
「何してたの?」 
学校にはまだ生徒たちが残っていた。訊いたのは片桐日奈子だ。まだお化け屋敷の装飾をしていた。顔は笑っている。ちょっと、と慎一は答える。ちょっとって、時間の感覚おかしいよ、と片桐日奈子が言う。
 うるさいな、と慎一は思う。思いながら、装飾を手伝う。
「透明人間の役作りしてたんだよ」
「どんな?」
「透明人間は、男だ」
「なにそれ」
片桐が笑う。それはそんなに美しくはない。けれど、慎一にとっては美しい。比較物が無いほど美しい。
「明日、本持ってくるよ」
慎一は呟くように言った。
「やっとか」片桐の声が聞こえる。その声は、慎一には分からない程度に、弾んでいる。 

 暗闇の中、足音が聞こえる。十字架の部分から目を出して、誰かが通りかかったら出て行く。来た。
「わーっ」
「あ、はい」
男の人だった。驚きではなく、返事をされた。どうして、透明人間は肌色の全身タイツにサランラップを巻いて、十字架の描かれた棺から飛び出すのか。それはドラキュラではないのか。しかし悩む暇もなく、また棺の中に戻る透明人間は忙しい。また、誰かが歩いてくる。
「わーっ」
歩いてきた女性はそれを見て固まった。驚かせた、と思ったのも束の間、女性は笑い出した。
「透明人間ってそういう感じなの?」
中川さんがそこに立っていた。もうバニーガールの格好はしていない。透明人間はもう一度わーっと言った。
 中川さんが全身を眺めている。元デリヘル嬢が眺めている。と、中川さんが耳許で囁いた。
「なんか勃起してるよ」 


              

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