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ハヤンの憂鬱
作:愁華錬我



第30話 終わりへの秒読み


 
 プルシコフの話では、プルシコフの部下は優秀で、解読は遅くても明日の出発時刻(予定だが昼頃)までには必ず終わらせて、そして返すと、そう言っていた。プルシコフは、用件が済むと言葉少なめにハヤンの家を出た。
 本音を言うと、もう少し話をしていたかったのだが、引き止めるのも悪い。
 民間人と長い事接触するのも色々とまずいというのも有るのだろうし、それにプルシコフには他にも大事な仕事が有るのかもしれない。
 そういうことでハヤンはプルシコフを見送った。
 暗闇に映える、プルシコフの持つランタンの光が映し出す、その背を見ながら、ハヤンの心には陰りが生じていた、今夜がじっくりと話をする最後の機会かもしれないのに、素っ気無く帰るプルシコフの背に僅かながら苛立ちと悲しみを抱いていたのだ、冷静に考えれば別れの痛みを少なくする為かもしれないし、あるいは今夜が最後で無いと思っているか、もしくは他にも色々と都合が有るのかもしれない、だがそこまでじっくりとはハヤンは考えず幼い子供のように若干苛立っていた。
 
 その後、ハヤンには特に出かける理由も無いので、このまま不貞腐れたまま寝ようと思っていたが、妙な胸騒ぎを感じていた。
 虫の知らせとでも言うのだろうか。
 肌がざわざわと、ほんの僅かだが震えているような気さえする。
 布団(と言っても布をひいただけだが)に横たわり、眼を閉じても、どうにも寝付かれない。
 妙な気配が拭えないのだ、何か蜘蛛の糸が顔に張り付いているような、不快感に近い違和感が有る。
 ハヤンは、確信に近い感覚で眼を開けると、もう驚きも大分減ったが、1人の男がいつの間にかそこにいた。
 まるで幽鬼のようにそこに立っている。
 なんとなくだが、今眼を開けたらこの男と出会える気がしていた。
 肌の浅黒い男である、ただ今までの凡庸な印象とは違い、何か、そう、野性味のような物を感じさせる雰囲気をその周囲に纏っていた。
 「……何か起こっているのか?」
 今までその男に問いかけて、何か返事が有った事は無いが、それでもハヤンは問わずにはいられなかった。
 
 一瞬の沈黙。
 また笑みを浮かべるだけで何も言わないんだろう、そう思っていたのだが、予想外に男は口を開いた。
 「じきに分かるさ……」
 穏やかな口調だが、その声の裏に何かぞっとする物が潜んでいるようだった。
 本当は怖い人が、わざとそういう口調で話しているのとは違う、何か異質な物がそこに有る。
 「何が分かるんだよ?」
 返事を返した事に驚いたが、それでもハヤンはもう1度質問を投げかけた。
 男はその質問には返事を返さず。
 ハヤンの方をじっと見て、指差しながら。
 「お前は奇妙な立場に居る、お前は偶然だと思っているかもしれないが、偶然などと言う物はこの世界には無い、あいつらがここを訪れたのも偶然ではない。お前と連中の違いは、望んだか望まないか、その違いだけだ、だがその違いは実に大きい……、『鍵』を受け取る資格が有るのは望まぬ者、つまりお前だけだ」
 ハヤンには、まるで意味の分からない言葉だらけだった。
 最初の奇妙な立場に居ると言う事だけは明確に理解できる、何しろ誰も見えない男をずっと見ているし、会話もしている、これは奇妙だと納得できるが、他にはハヤンだろうと他の誰だろうと何も意味の分からない事だらけだった。
 「そういえば、あんた名前は有るのか?」
 ハヤンは、本来最初に聞くべきはずの質問をした。
 だが実際に、あんた誰だよと質問した時は意識を失い、次に質問した時は答えは返さなかった。また今度も同じような対応をするんだろう、とハヤンは予想したが。
 「名前はファレイ……、変わった名前だろう? だが、じきに忘れられなくなるさ」
 予想外に男は自らの名前を名乗った。
 
 ファレイ
 
 今夜、ハヤンはファレイという存在と本当の意味で初めて出会う事になる。

                       ・
 
 妙な気配に気付いたのは、コテージまで後1kmほどの距離まで近付いた時だった。
 プルシコフの優秀な戦闘本能が、瞬時に異変に気付いていた。
 異変に気付いたと同時にランタンを消した、この暗闇で明かりを持つと言うのは自殺行為に近い。
 異変と言うのは匂いだ。
 僅かに、ほんの僅かにだが、風に乗って血の匂いがするのだ。
 それを感じ取ってから、これほど自分の嗅覚は優れていたか? という疑問も湧いた、五感が全て研ぎ澄ませたかのように鋭くなっている、視力も夜だと言うのにまるで昼間のように周囲がはっきりと見える。 
 どう言う事なのか、これは。
 体調の波は有る、しかしこれは体調が絶好調とかそういう次元の話ではない、訓練で常人とは比べ物にならないほどの能力を手にしている、嗅覚や視覚を鍛える事も可能で、人より遥かに夜目が利くが、まるで昼間のように見える事は無い。
 
 聴覚はどうか。
 そう思い、耳を済ませると、どこかもう少し離れた場所から音が聞こえる気がする。
 誰も住む人のいないはずの場所である、ここから一番近くに有る家でも歩いて15分以上は掛かる。
 音はそこから聞こえてくる。
 プルシコフは意を決して、そこに向かう事に決めた。
 用心の為に、手にはナイフを握っている、他にも隠し武器である暗器もいくつか仕込んであり、そして背には動きの邪魔にならないように軽量化された長剣を背負っている。
 この闇の中、飛び道具はそれほど怖くない、怖いのは探査魔法による居場所の特定と大規模魔法による破壊攻撃だが、どちらもプルシコフならば対処が出来る、相手が手に負えなければ逃げる事も可能だ。
 その辺の判断をプルシコフは誤った事は無い、だから今まで生きてこれたのだ。
 慎重な足取りで、音のする方へ近付いていった。
 
 そこは、奇妙な窪地だった。
 巨大な穴と、そう呼んでも良い物である。
 さっきコテージを出て、ハヤンの家に向かう時には存在しなかった窪地である。 
 大きさは直径4、50mほど、深さは5mは有るだろうか、そういう窪地が出現しているのである。
 これだけの物を人工的に造るには、かなり大掛かりな魔法かあるいは爆薬が必要だろう、だがそれだけの事をすると物凄い音が響きそうだ、いくら広く人が少ない場所だろうと、村人が不審に思い近寄ってくるだろう。
 それが無いと言うのはどう言う事なのだろうか?
 そういう音も生じさせないで、これだけの物が出現したと言うのだろうか?
 
 プルシコフは慎重に近寄って行った。近寄れば近寄るほど、音が大きくなる、聴力が異常に研ぎ澄まされている状況でなくても、ここまで近寄ればその音が分かる。
 そして、その窪地の中を覗き込んだ。
 プルシコフは思わず息を呑んでいた。
 その光景は、何と例えれば良いのかまるで見当が付かなかった。
 悪夢が悪夢を喰らい、なお悪夢を殺し、そして悪夢に殺される。
 それでも例え足りない、それほど異常がそこに繰り広げられていたのだ。
 そこには6人がいた。
 いや、人という数え方が正しいのか、プルシコフには自信が持てない。
 顔は知っている、全員が自分の部下である。
 だが、その表情、動き、放つ殺気、どれもが彼の知る部下達とはかけ離れた物だった。
 彼らは互いを攻撃しあっていた。
 それは今まで見た事の無い闘いだった。
 互いが互いを笑いながら攻撃している、愉悦に浸るように。
 まるで、猛獣同士がじゃれ合っているようにも見える、しかし、本当の猛獣同士は本当には殺さないようにしているのだろうが、この目の前の連中がそういう気配りをしているとは思えなかった、殺そうとしているのに、相手が死なないだけのようだった。
 全員が全員、体の周りに奇妙な力の塊とでも言うような物を纏わり付かせている。
 それをぶつけ合いながら遊んでいるようにも見えるが、もしそれを常人が喰らえば、十人そこに並んでいてもその十人ともが絶命を免れないような攻撃である。
 しかも、それはこの連中にとっては牽制ほどの意味しか持っていないようだった。
 信じられない破壊力である。
 それに一体、いつから続けているのだろうか?
 音が聞こえてから、10分は経っている、真剣勝負を休憩無しに10分。
 それも隠れながらの闘いや、一対一ではなく、自分以外全てが敵のような状況でこれだけの力を使いながらの10分、少なくとも10分である、もしかしたらもっと長いかもしれない、それは常人では不可能な領域である、神がかり的な体力がこの連中には備わっていると言うのか。
 堪らない戦慄が走った。
 
 その光景を見ながらプルシコフは恐怖以外の感情の存在を身の内に感じていた、自分の内側からも得体の知れないものが沸き起こるような気がしていたのだ。
 この仲間に入って暴れたい。
 そういう激しい衝動がむくりと起き上がるのを感じていた、しかしプルシコフは鋼鉄の意志でそれを押さえ込んだ。
 普通なら有り得ない感情が沸き起こると言う事は、これは新手の精神感応攻撃と言う事か? いやそれにしては、おかしい、幻覚の類や精神操作の類の術ならば、効果に個人差が有る、よほど卓越した術者だろうと、無知な大人数を虜にする事は可能でも、それなりの知識が有る者を相手にすると効果にムラが出るのだ。
 それなのに部下達は全員が全員同じような状態になっている、これはおかしい。 
 プルシコフが、どうにかその体の内側の破壊衝動を抑えた時、部下達の動きが止まった。

 「いつまで続けるつもりだ……?」
 言ったのは、ディゼルだった。しかし実際の本人の声よりも野太く、眼を瞑って聞くととても本人の声とは思えないほどだった。
 その口調の中には、いくら続けても終わりが無く、満足感の無い闘いに飽きたような響きが込められていた。
 「確かに、俺達同士でやりあっても、六竦みだな、誰かを殺そうとしたら、その隙を突かれてしまう……」
 それに答えたのはラングだった。こちらの声も本人とは思えない。
 全員が全員動きを止めたのは、同じ事を全員が考えていたからと、他の者が動きを止めたのに、自分が動いていると攻撃の的となり一斉に襲われると考えたからかもしれない。
 それだけの知性がまだこの6人には残されているようだった。
 「では、どうする? 早く誰かを喰わないと、もう気がおかしくなりそうだ」
 1人がそう言ったが、傍から見ているともう充分なくらい気がおかしくなっているように見える。
 「そうだな。では、こうしよう」
 提案をしたのはディゼルである。
 「全員が全員、バラバラの方向に行こう。俺はこの村には興味が無い、もっと人が多い場所に行く」
 「俺もだ」
 「俺だってそうだ」 
 「俺は南に行くぞ」
 「俺はこの村でまだ遊ぶぜ」
 全員がそれぞれの意思を伝え、今までの闘いが嘘のようにかなり平和的に話し合いが済みそうな雰囲気になった。
 プルシコフは、少しだけ安堵した。
 とりあえずこの村に残ると言った者だけをどうにか倒し、正気に戻すしかない、残った者は仕方が無い、軍部に連絡し捕獲してもらう、そういう考えをプルシコフは抱いた。
 軍部の連中でも、梃子摺りそうな怪物的な能力を持つ者達ではあるが、大量に戦力を投入すれば勝ち目は充分に有るだろう。
 その時、奇妙な事にプルシコフは気付いていた。
 何が奇妙なのか、すぐには分からなかった。
 今は全員が動きを止めて、話をしている。
 おかしいのは数だ、先ほどまで、そうついさっき動きを止めて話し始めた時は間違い無く6人居た。
 
 それなのに、今は5人しか居ない…… 

 角度の問題で、プルシコフの位置からは重なって見えるとかそういう次元ではなかった。
 残った五人の内の1人がぼそりと言った言葉が、プルシコフの考えに確信を与えた。
 「早い者勝ちとは言ったが、クァルゴの奴は動きが早いな……」
 常人ならばもちろん聞こえない声である、近くに居たとしても聞き取れるかどうかの小さな声だった、それをプルシコフは確かに聞き取っていた。
 その瞬間に、悪寒に似た物をプルシコフは感じ取っていた。
 瞬時にプルシコフは、その場所から飛び退いていた。
 それが、プルシコフを救った。
 飛び退いた瞬間に、地面から何者かが大地を切り裂いてプルシコフに攻撃を仕掛けてきたのである。
 「いやぁ、良く避けましたねェ」
 そこにはクァルゴが、不気味な笑みを浮かべて立っていた。

 クァルゴは素手である。
 どういう装備も無い、それなのに地面を突き進んできたと言うのか? 
 プルシコフの顔には困惑の表情が浮かんでいる、クァルゴの力量は知っているつもりだった、こういう芸当が出来るとは知らない、今のこの異常な殺気を放つクァルゴの歪んだ笑みも、プルシコフは初めて見る。
 身の毛がよだつ殺気だった。
 人と対峙している気配ではない、人が寄り付かない底なし沼に巣食う怪物のような存在と向き合っているようである。
 クァルゴとの距離は凡そ5m。
 何かを仕掛けてくるには、遠いが微塵も油断できない、もちろん相手が誰だろうとプルシコフは決して油断しない。
 「クァルゴ、何が有った?」
 プルシコフはクァルゴに声を掛けた、異常なのは分かっている、何か情報を得られると期待して声を掛けたわけではない、ただ相手の隙を伺っているだけである、プルシコフにはクァルゴを殺すつもりは希薄だが、向かってくるなら容赦なく殺す考えも、そしてそれを行動に移すだけの意思も有る。
 「何が有った? 何が有ったって、何です? 別に変わりは無いですよ、僕も皆もねェ。あ、そうだ、あの王様野郎はちょっと変わったかな、でも悪い変化じゃない、ちょっと無口になったってだけですけどねェ」
 楽しい事を思い起こしているように、へらへらと笑いながらクァルゴは言っている。
 プルシコフはそれだけで、ジブデン隊長がもう死んでいるか、あるいは口が利けない状況に陥っていると悟った、しかし無理して助けようと言う考える余裕は無い。
 「プルシコフさんも、うるさいなぁ、さっきから、何度、言えば、分かってますよ、うん、ははは……」
 完全に普通ではない。
 今はもう、目の前のプルシコフに話していると言うよりも、誰か見えない何かと話しているようであった。
 「おい、クァルゴ。大丈夫か?」
 そうは言うがプルシコフは決して近寄らない、近寄ったら何をされるかまったく分からない恐怖が有る。
 「……」
 クァルゴはプルシコフの問いに答えず、そのまま顔だけ地面に向け、まだぼそぼそと言葉を発していた。
 隙だらけに見えるが、攻撃するには何故か躊躇われる無防備さだった。
 
 意を決してプルシコフが一歩、右足をクァルゴの方に踏み出した瞬間だった。
 餓えた獣に生肉を放り投げたような勢いで、クァルゴはプルシコフに向けて飛び掛っていた、人の動きではなく獣の動きだった。
 「くっ!」
 咄嗟に、プルシコフは手に持っていたナイフではなく、ズボンに仕込んでいた掌に隠れるほどの小型のナイフを左手で抜き取り、クァルゴ目掛けて放っていた。
 相手の生死に気を配るほどの余裕は無かった、それほど凄まじい勢いでクァルゴは襲い掛かってきているのである。
 ナイフは恐ろしい勢いで風を切り、そして吸い込まれるようにクァルゴの胸に突き刺さった。
 その瞬間、ガチィッ! という金属音のような物が響いた、一瞬プルシコフはクァルゴが隠していた何かで弾いたのか、あるいは服の下に何か防具を仕込んでいたのかと思った、しかしすぐにそれが間違いで有ると気づいた。
 完全に、クァルゴの胸にはナイフが突き刺さっている。
 服が破け、人差し指から手首ほどの長さの刃が根元まで刺さっているのだ、それなのにクァルゴの胸から血も出なければ、プルシコフに向かってくる動きに僅かほどの勢いの衰えも無かった。
 一体どうなっているのか?
 プルシコフは、背から剣を引き抜き、左手に持った、右手にナイフ、左手に剣、普通ならば片手で扱うと、どちらかが疎かになりそうだが、そういう問題は無いようだ、そしてプルシコフはその両方の刃物の切っ先を襲い掛かってくるクァルゴに向けた。
 それでもクァルゴは怯まず、もうプルシコフの目の前に迫っていた、胸からは投げたナイフの柄の底の部分が見えるのが不気味だった。
 クァルゴは右腕を思いっきり上に振りかぶり、熊が前肢でするような大振りの攻撃をプルシコフに放った。
 大地を割る攻撃だった。
 人の腕力とは思えないほど、地面の土を辺りに巻き上げる威力が込められていた。
 だが、いくら素早く威力の有る攻撃でも大振り過ぎて、あまり効果的ではないその攻撃を、当たり前のようにプルシコフは難なく避け、そしてすぐに回り込み一瞬無防備になったのクァルゴの背中に、プルシコフが反撃に移ろうとした瞬間、予想外の事が起こった。
 クァルゴの胸に突き刺さっていたはずのナイフが、プルシコフ目掛けて飛んできたのである。
 勢いはそれほど早くないが、意表を突く攻撃だった。 
 しかし、どうやれば胸に突き刺さっていたナイフが、背を攻撃しようとしたプルシコフに放てるというのか? 両腕は塞がっていると言うのに。
 
 「ちぃっ!」
 絶好の攻撃の機会だったが、それを諦めるしかなかった。
 プルシコフは、咄嗟にその飛んできたナイフを剣で払い、そしてまたクァルゴと距離を取った。
 もう、会話はしない。
 会話が成立するとは思えないし、それに、会話する事で僅かでも情が移ると攻撃が鈍る、高めた気迫を溜め込む為には会話は出来ない。
 ゆらり。
 クァルゴは、先ほどとは違い、今度はゆっくりとした動きでプルシコフに近付いていた。
 重さの有る生温い風のように、距離を詰めてくる。
 プルシコフは下がらない、それを迎え撃つように右手に持ったナイフ、左手に持った剣を構えていた。
 クァルゴはおもむろに両手を上げて、その両の掌をプルシコフの方に向けた、まるで”ちょっと待ってくれ”という意思表示のように見えた。
 次の瞬間、どうやったのか、視界を覆うほどの土砂がプルシコフに襲い掛かった。
 防御をする方法が思いつかない攻撃だった、避けるしかない、反射的に右に飛んで避けたが、そこには既にクァルゴが待ち構えていた。
 「――待ってましたよ」
 右手に持っていたナイフをクァルゴの喉目掛けて放った、が、プルシコフはその瞬間信じられない物を見た。
 それは口だった、口といっても人の物とは違う、鋭く尖った牙だけで構成された口とでも言うのか。
 プルシコフの喉に、その口が出来て、それがナイフを見事に噛み銜えていた、先ほど聞いたガチィッという音と共に。
 それだけで常人ならば気が萎える、その場にへたり込んでしまってもおかしくない光景だった。
 だが、プルシコフは常人ではなかった。
 今度は、左手で持っていた剣でクァルゴの首を刎ねる勢いで、振るった。
 クァルゴの顔には笑みが浮かんでいた、この攻撃も止めるだけの余裕と、そして確固たる自信が有るのだろう。
 だが、その剣がクァルゴの予想通り動かなかった、剣がクァルゴの首に触れる瞬間に、プルシコフはその剣を放していたのだ。
 達人ともいえるレベルの人間が、こういう闘いの最中についうっかり剣を取り落としたりするだろうか? もちろん違う。
 プルシコフは、そのままの勢いで、いやそれ以上の勢いで回転し、その遠心力を高めた左手の掌底をクァルゴの右側頭部に叩き込んでいた。
 剣での攻撃を予測し、その後に反撃を仕掛けるつもりだったクァルゴは、人間離れした反射神経と運動能力を持っていても、その動きにはついていけなかった、プルシコフの動きもまた人間離れしていたのである。
 
 鈍い音がした。
 
 その音と共に、クァルゴは吹っ飛び、そのまま地面に体を擦り付けるように滑っていたが、嘘のようにすぐに起き上がった。
 しかし、その足取りは確かな物ではない。
 プルシコフの方に顔は向けているが視線が定まっていない。
 「あれ……? おかしいですねェ? あの程度の攻撃で……、あれ? あれ……?」
 そう言いながら、真っ赤な両目が白に変わったと同時に、クァルゴは崩れ落ちた。
 プルシコフは、僅かではあるが、安堵の息を吐いた。
 時間にしてみれば、最初にクァルゴが仕掛けてきてから1分も経っていないだろう、それなのに何時間も闘っていたような気がする。
 クァルゴに動く気配は無い、はっきりとは分からないがすぐにはまた襲い掛かっては来ないだろう、何か縛る物が有れば縛って置いても良いが、どんな縄でも今のクァルゴが本気になったら動きを止めていられる代物は無い。
 殺して置くのが一番良いのかも知れないが、出来る事ならそれは止めて置きたい。
 プルシコフは、急にはっとして、先ほどの窪地を見た。
 そこにはもう誰もいなかった。
 呆れるほど静まり返ったその光景に、プルシコフはここにいた一人の言葉を思い出していた。

 『俺はこの村でまだ遊ぶぜ』

 ハヤンの事が気掛かりだった。

 












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