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断罪の章
 1 最初の布石
 すえた臭いのする床板の上に、ボロ切れと大差ない布が一枚。
 あたし達が寝床にしていたのは、そんな場所だった。
 硬く、どこかじめじめとした床の感触。冷えきったそれの上に横たわって、少しでも疲れた体を休める。そうして翌朝、朝早くから叩き起こされるまでのわずかなだけ、夢の中で微睡むのだ。
 夢の中では何でも叶った。
 暖かい寝床。美味しい御飯。優しい家族。
 甘いお菓子も、綺麗な服も、思いのままだった。
 あたし達はこっそり泣きながらそれらの夢を見て、辛い現実から一時的に逃避する。未来に絶望しかなくても、それでも夢ぐらいは見たいのだ。
 そこがどんなに、この世で一番希望から遠い場所だったとしても。
 ……あたしが一番多く見たのは、ふかふかの寝床で寝る夢だった。
 雲のようなふわふわの寝床があったら、きっと夢のような寝心地がするに違いない。そうしたら、目を瞑らなくても夢を見れそうな気がする。
 あぁ、でも、美味しい御飯も食べてみたい。どんな味なのか想像もつかないが、頬が落ちそうなほど美味しいという料理が食べたい。きっと素晴らしい味に違いない。……やっぱり想像もつかないが。
 あとは……あとは、母さんに会いたい。
 路地裏で冷たくなってしまった母さん。
 もっともっといろんな話がしたかった。
 頭を撫でて欲しかった。
 頬にキスをして欲しかった。笑ってほしかった。名前を呼んでほしかった。

 ■■と、呼んで欲しかった。

 優しい、あの声で。

「ベル」

 そう、そんな風に……

 ※ ※ ※

 夢を見ていた。
 あたしはパッチリと目を開ける。
 夢を見ていたのだと、理解した。
 あたしの名前はベル。あと一月半ほどで九つになる女の子だ。
 あたしがいるのは、つい数日前まで世話になっていた孤児院ではない。あの陰鬱な北部屋でも無ければ、路地裏の日陰でもない。
 王都でも貴族や富豪がこぞって住まう北区の外れ。敷地面積だけは北区随一の邸宅、クラウドール邸である。
 北区の豪邸群の中では、クラウドール邸の家屋敷はかなり小さい部類に入る。
 内装・外観ともに華美なところはまるで無く、他の家屋敷と比べれば、質素を通り越して貧相と言われそうなほど慎ましい。だが、華やぎのかわりに重厚さを、煌びやかさのかわりに気高さを置き換えたような、どこか品格のある佇まいをしていた。
 そんな屋敷に住むのが、あたしの命の恩人にして未来の旦那様。レメク・(とにかく中略)・クラウドール、三十二歳。
 気っ風の良い、強くて賢い超絶男前である。
 強いだけでなくすこぶる優しい彼は、ずぶ濡れのドブネズミのようだったあたし(死にかけ)を助けてくれた上、美味しいご飯や綺麗な服を買ってくれたりと、実に様々な面倒をみてくれる。
 感謝は募る一方なのに、あたしにはお金も無ければ頼ることのできる身内もいない。おかげで満足にお礼もできない状態だった。
 しかも、あたしはカーテンレールを壊した上に壁にヒビを入れるなど、屋敷のあちこちに傷をつけている。その修繕費を考えると、ちょっと気が遠くなりそうだ。
 せめてと思い、知り合いの宿のおねーちゃんが言っていたように「体で払うわ!」と言ったのだが、レメクには光の速さで断固拒否された。
 何故だろう?
 あたしがクラウドール邸にやっかいになって、今日で十三日目。
 この間にそこそこ親睦を深め、それなりに意思疎通ができるようになったと思っていたのだが、あたし達の間には相変わらず広くて深い溝があるらしい。
 ……しょんぼり。
 あたしは布団の中で目をしょぼつかせ、もぞもぞと落ち着く場所に移動する。
 あたしがいる部屋は、ぽかぽかと陽気が差し込む南側の二階、その中央部にある。
 部屋は広く、壁には大きくて立派な暖炉があり、黒光りする床にはこれまた立派な絨毯が敷かれていた。
 あたしが寝ているこのふかふかのベットは、なんと綿と羽毛をふんだんに使った豪華なものだった。
 カバーは刺繍の入った木綿で、その上から上等の絹が掛けられている。上に乗る掛け布団は、完全羽毛のふわっふわだ。防寒対策に豪華な毛皮まで敷き込まれ、どこの王侯貴族かと言いたくなる豪華さだった。
 孤児院の院長だって、こんな立派なベットはもっていないだろう。
 天蓋付きでこそ無いものの、その内容は物語で聞く王様のベットのよう。もちろん寝心地は最上級。まさに雲の上。思わず二度寝しそうになるほど魅力的だ。
「ベル」
 そう、そんな風に呼び出されさえしなければ……
(……ん?)
 あれ? この声、ケニード?
 あたしはもそもそと布団の中から顔を出した。
 誰もいない部屋の向こう、廊下側に人の気配がある。
「起きてるかい? 御飯できたけど、どうする?」
 ドアの向こうから聞こえてくる声は、数日前に知り合った次期男爵様にして、我が同士。レメクスキスキ仲間のケニード・アロックだ。
 レアモノマニアの彼は、レアな種族であるあたしの一族のことにものすごく詳しい。一族秘伝の健康茶をマスターしちゃうほどのお人である。
 ちなみに、とある巨乳魔女と別の意味で変態だ。
「食べるーっ!」
 元気よくドアに向かって声をあげたあたしに、向こう側で笑った気配がした。
「じゃあ、台所においでよ! 先に行ってるからね!」
「わかったー!」
 あたしはもそもそと動き、ふと動きを止めてベットの中に舞い戻った。
 ……ふんふんふん……フンフンフンフンフンフンフン!
 何をしているのかは聞かないでいただきたい。
 ……匂いをかいでるだけだから。
 あたしが寝ていた場所の左隣。その広範囲に「あるべき匂い」を探して幸福補充。
 しかし、匂いの元が去ってからかなり時間が経っているらしく、あんまり匂いが残ってなかった。
 清潔好きのレメクは、ベッドカバーすら数日毎に洗濯してしまう。その結果、布団の中だというのに元々匂いが乏しいのだ。
 もう少し、ベッドに自分の匂いをつけておいてくれてもいいだろうにと思うのだが。
 ……しょんぼり。
 わずかに残っていた匂いすら根こそぎ嗅ぎとってしまったあたしは、もそもそと寝台から降りた。
 毛の長い絨毯足の裏を包む。
「うひゃぅ」
 こそばゆいほどの柔らかさに、思わず変な声がでる。ツルツルのスベスベなのに、もふっとした分厚さを感じる絨毯。ものすごい贅沢な感触だ。
 思わずその気持ち良さに負けて、意味もなく足踏みをしてしまう。大きく足を撫でつけると、たまらないほど滑らかな感触がした。
(気持ちいい……!!)
 あたしはうっとりとその感触に浸る。
 そのまま絨毯の海に飛び込み、思う様泳ぎまくればどれほど気持ちいいだろうか! 体を擦りつけたり、手で撫でくりまわしたり……想像するだけでうっとりだ!!
 しかし、そんな風にゴロゴロしてる所をレメクにだけは見つかってはいけない。
 なぜならば、そんな所を見られたが最後、レメクにおかしな行動をとられてしまうからだ。
 あれは七日ほど前のこと。
 絨毯の上でその感触を存分に味わっていたあたしは、ちょうど部屋に入ってきたレメクに踏んづけられかけた。
 互いにびっくりした顔で見つめ合ったのだが、レメクは足下に転がるあたしをけっこう長いこと見つめた後、なにやら不思議な微笑を浮かべて「気をつけなさい」と言った。
 レメクの微笑はとても貴重なのだが、あの笑みだけはちょっといただけない。
 何故だろう。
 何故かとてもいただけない。
 なんというか、こう、とってもなま暖かい感じで。
 そしてその後、彼の手によってなぜか大きな籠に毛布を敷き詰めたものが窓際に設置された。
 どういう意味だろうか、あれは。
 ちょうどあたしがすっぽり入る特大サイズなのがとても気になる。
 ……わざわざ特注したんだろうか、あれ。
 ……いや、確かに、そこで丸くなって寝たらものすごく気持ちよかったけど……
 しかし、あれ以来、あたしは彼の目がある時には絨毯にじゃれつかなくなった。
 もし万が一、次に見つかって「弾む球体」だの「毛糸の束」だのをそっと設置されたら、しばらくヘコんで立ち直れないからだ。
 籠はまぁ……日当たりのいい時はちょっと利用したりするが。 
 さてさて。
 その豪華な絨毯の上だが、その上にはいろんな家具が乗っている。
 そのうちの一つ、典雅な意匠のソファには、可愛らしい服がきちんと畳んで置かれていた。
 ピンクを基調としたそれは、色柄でわかる通り、あたしの服である。
 あたしの服。
 なんていい響きの言葉。
 かつてあたしが着ていたのは、ボロ布を紐でくくっただけの『服』とも呼べないような代物だった。
 孤児院で配られるその手合いの服は、もともと生地が悪く、また替えの服も無いことから、すぐにすり切れて薄くなってしまう。
 そのため、前々から持っている服と良いところを交換しながら、かろうじて人として最低限の体裁を整るのだ。
 ツギハギだらけのそれは、最低の生活をしていた証のようなもので、今見ても気分のいいものではない。
 しかし、その服は、今はどこに捨てられたのか、影も形もなかった。
 かわりに与えられたのは、可愛らしいピンクのジャケットとスカートだ。
 刺繍なんていう高価なものまで施されていて、ボロしか着たことのないあたしは、この服を着るだけで貴族のお嬢様にでもなった気分がする。
 シャツ、スカート、上着。もちろんパンツも新しいものだ。靴下と呼ばれる、足にはく布まである。
 これらが全部、あたしのもの。
 あぁ、本当になんて素敵な響きなんだろう。涙が出そうだ。
 いそいそと袖を通し、四苦八苦しながら全部を装着して、あたしは部屋の扉に手を伸ばした。
 もはやドアというよりも鍵の見本市のようになっているドアの前に立ち、計十個の鍵一つ一つ解錠していく。
 ぱちんと最後の一つを外して、さぁお外に出発だ。
 美味しい御飯の待つ一階を目指して足を進めながら、あたしは(それにしても)と、ちょっと遠い眼差しで思った。
 ……なんで前より鍵の量が増えてるんだろうか?

 ※ ※ ※

 クラウドール邸には、本邸以外にも建物がある。
 北区随一の敷地に、北区の屋敷にしてはこぢんまりとした瀟洒な建物が一つ。これが本邸で、レメクやあたしがここに住んでいる。
 そして庭と言うよりも林と呼んだほうがいいような木々が屋敷の周囲を囲い、南側に門、北側に丘あり泉ありの牧場もどきがある。
 この牧場もどきには、未だあたしも足を踏み入れたことがない。そのため、詳しい内容はよくわからない。
 屋敷からそこまでかなりの距離があるので、未だ探索許可が下りないのだ。
 聞くところによると、レメクが所有している敷地は北区のほぼ十分の一を占めるらしい。
 他のエリアに数十人からなる貴族達の所有地があることを考えれば、レメクがどれほど広大な土地を持っているのかがわかるだろう。
 ハッキリ言って、破格である。
 そんな広大な土地だが、もちろんその管理をレメク一人でするのは無理だ。
 普通ならばそれらは使用人がするのだが、レメクの住む屋敷には使用人はいない。
 ではどこにいるのか。答えは、その広大な土地にあった。
 クラウドール邸の使用人は、牧場もどきがある北側の土地にいるのだ。
 まだ会ったことは無いが、その大半がお年寄りで、丘の上に建てた一軒家に集団で住んでいるらしい。
 彼らに庭の管理をしてもらうなら、いっそ本邸の管理も任せればいいのにと思うのだが、レメクはなぜかそうしなかった。
 その理由は話してもらってないのでわからないが、きっとあたしにはわからないイロイロな理由があるのだろう。
 しかし、せっかく同じ土地にいるのだから、いつか丘の上のおじいちゃん達に会いに行きたいものである。
 とはいえ、今のあたしはレメクに保護してもらっている身の上。彼の許可なしには外出もできない。
 体が万全では無いあたしは、レメクの温情でかろうじて生きている状態だった。
 とはいえ、パッと見では元気そうに見えるだろう。
 良いモノをたっぷりと食べさせてもらったうえ、休息もバッチリとらせてもらっているので、最近は骨の周りにお肉がついてきたほどだ。
 だが、その実中身はもうボロボロで、レメクがいなければあっというまに墓場に直行してしまう。
 そのカラクリを説明された今では、前のように家から脱走して路銀を稼ぎにレッツラゴーも恐くてできなかった。
 今はただ、ひたすら元気になるために、気合いを入れて養生するだけである。
 そんなあたしの楽しみといえば、恩人であるレメクとの他愛のない会話と、匂いと、感触と、彼の作ってくれる美味しい御飯。そして、数日前に知り合ったケニードの訪問だった。
 彼の持ってきてくれる様々な品物は、あたしにとって無上の喜びである。なにしろ、それらは総じてレメクの関連物なのだから。
 今日は何を持ってきてくれたんだろうとウキウキしながら台所に行くと、テーブルの上に所狭しと料理が並べられていた。
 いい匂い!!
 この世でレメクの匂いの次に魅力的な匂いを嗅ぎ取り、あたしはいそいそとテーブルに近寄った。
 ちょうど鍋をかきまぜていたらしいケニードが、あたしの足音に振り返る。
「あぁ、やっと来たね! ……って、ベル、またボタンが段違いになってるよ」
 ケニードの指摘に、あたしは自分の着ている服を見下ろした。
 ……ありゃ。本当だ。
(……てゆか、このボタンってやつ、すごいやりにくいんだけど……)
 もそもそと直していると、笑い含みにケニードがやってきた。あたしの前でしゃがんで、お母さんのように手早く直してくれる。
「ほら、ここをこうやって持ち上げて、この穴にひっかけて、はい、これで終わり。簡単だろう?」
 ニコッと笑う笑顔が眩しい。
 レメクのぷちストーカーという変態さんではあるが、彼はとてもよい人だった。
「ありがとう!」
 苦手なボタンつけをやってくれた彼に、あたしも惜しみない笑顔で礼を言う。
 テレテレと笑って、彼はまた調理に戻るべくあたしに背を向けた。
 上品な仕立ての服にかかる、フリフリエプロンがとても似合っている。
「ねね、今作ってるの、何?」
「うん。じっくりことこと煮込んだ野菜のコーンスープだよ」
 おおお。なんて美味しそうな。
「もう暖まったからいいかな。ほら、ベル、席につかないと御飯食べられないよ」
 ちょろちょろと周りをうろつくあたしに、ケニードが笑いながら言う。
 あたしは慌てて椅子によじ登った。
 最近忙しくて昼間に帰って来れないレメクのかわりに、ケニードはあたしのお母さんのごとく世話をやいてくれる。
 最初の頃は、彼の手際の良さに驚いた。
 なにしろ、ケニードは貴族様なのだ。しかも男爵家の後継者である。
 そんな彼が、何故にこんな技能を身につけているのか。あれだけ沢山の使用人に囲まれているのに、何故、と、とてもとても気になるのです。
 しかし、あたしはそれを敢えて詳しは追求しなかった。
 以前、うっかり訊いてしまったことがあるのだ。どうしてこんなことできるの? と。
 彼の答えは簡素だった。
「必要にかられて、かな?」
 そのときの笑顔が、それ以上の問いを拒んでいた。
 だからあたしはそれ以上問わない。彼がもし語ってくれる時が来たら、静かにそれを聞けばいいのだ。
「じゃあ、暖かいうちにいただこうね」
 スープを皿によそい、ケニードも同じテーブルの席につく。
 あたし達は笑い、両手を合わせて合唱した。
「「いただきます!」」

 ※ ※ ※

 元気な体は、よい食事とよい睡眠と、そして適度な運動から。
 あたしを元気にするために、レメクはできるだけそれらの環境を整えてくれた。
 美味しい料理はたっぷりと食べられるし、ゆっくりと体を休めれるよう、寝心地抜群の寝台も貨してくれる。
 労働を強いられることは無く、むしろちゃんと体が元気になるまで動くなと釘をさされるほど。
 そんな過保護な母親のように世話をやいてくれていた彼は、今、ものすごく忙しいらしく、朝早くから夜遅くまで家を留守にしていた。
 ケニードとあたしが仲良しになって、彼がかわりに世話をやいてくれるから、安心して出かけれれるようになったのだろう。
 あたしが脱走をしなくなったのも、大きな理由であるらしい。
 彼は今、本当にとても忙しいのだ。
「昨日、教会の内部に動きがあったよ。たぶん、例の孤児院関連だろうね」
 毎日来てくれるケニードは、御飯を食べながらそんな風に最新レメク情報をあたしに教えてくれる。
「悪い噂の絶えなかった神官が二人、処罰された。神官が裁かれるなんて、よっぽどのことがない限り無いからね。もともと悪評がたっていた二人だったから、それほど反発もなく比較的スムーズに裁判も済んだみたいだけど、余波はすごいだろうね」
「余波?」
 野菜スープを飲み干し、次の野菜炒めを攻略しながら、あたしは首を傾げた。
「悪い神官が裁判を受けて、それで終わりじゃ……ないのね?」
「うん。彼らと関わりのあった人達にも、大なり小なり罪があるからね。それらもちゃんと処罰しないといけない。洗い出しはもう終わってるんだろうけど、逃げようとする人を捕まえたりしないといけないから、いろいろ大変だろうなぁ……」
 保護官であるケニードは、そういった裁判の仕事にはほとんど関わることがない。
 例外として、保護指定物が関わったときだけ資料を整えたり、助言したり、相手の罪を追求したりと動くらしいが、孤児院に関わる不正問題については完璧に門外漢だった。
「彼らと懇意にしていた貴族も暗躍するだろうね。それにしても、慈善事業費をくすねる連中がいるなんてなぁ……」
 呆れとも嘆息ともつかない息を吐いて、ケニードはビネガーのたっぷりかかったサラダを器用にフォークで食べた。
 あたしは未だフォークに慣れなくて、手についたビネガーを嘗めながら、同じサラダを手づかみで食べていた。
 ……むぅ。今度、ちゃんとフォークの練習をしよう。
 レメクにも注意されたが、綺麗に上品に食べる人を見ていると、自分の食べ方の汚さがよくわかる。
 レメクもとても上品に食べるが、なにしろ食が細い。あたしが御飯に夢中になっている間にいつの間にか食べ終わっていて、あたしが見たことがあるのはパンをちぎっている姿と、紅茶を飲んでいる姿だけだった。
 ケニードは細いわりになかなかの健啖家で、あたしと同じぐらいよく食べる。なので、その上品な食べ方をしっかりと見ることができた。
 ……がんばって真似しよう。
「おじ様は、その費用は莫大なものだって言ってたけど、どれぐらいすごい金額なの?」
「うーん……」
 ケニードは軽く考える顔になり、さらりと金額を口にした。
 あたしにしてみれば、天文学的な金額を。
 ボタッと、あたしの手からパンが落っこちたのも無理はないだろう。それは、それほどの金額だったのだ。
「ちょ、ちょっと……待って、ねぇ、本当に……?」
「うん」
 あたしの動揺を余所に、ケニードはあっさりと頷く。
「国家予算の三分の一を投入したからね。まぁ、全額くすねられたわけじゃないだろうけど、ベルの話を聞く分には、半分以上くすねられたと見ていいだろうね。……陛下が怒るはずだよ」
 国家予算の三分の一。
 あたしは気が遠くなった。
 それほどの金額をあたし達のために使ってくれたのだ。この国の女王陛下は。
 なのに、それが半分以上ちゃんと使われずに貴族や神官達の懐に消えた。
 あの苛烈で破廉恥な女王陛下の怒りの程や如何に。
「……正義の仮面が炸裂するかも……」
「いやぁ、その前にクラウドール卿の制裁が炸裂するだろうね」
 レメクの制裁?
 あたしは首を傾げた。
「まさか、鉄拳制裁とか?」
「いやいやいや、てゆか、それだとバルバロッサ卿じゃないか」
 ……あの巨熊神官は、鉄拳制裁をするのか。
 あたしはつい数日前に会った巨漢を思い出した。
 ……しそうだなぁ……
 神官だというのに、むしろ歴戦の武将のような厳つい大男。彼には神官服よりも甲冑のほうが遙かに似合うに違いない。そのバルバロッサ卿が大神官なんてやってるのだから、世の中不思議だ。しかも裁判官でもあるらしい。
 てことは、レメクの制裁っていうのは、バルバロッサ卿に裁いてもらうことをいうのだろうか?
 なんかそれだと、レメクの制裁っていうよりは、バルバロッサ卿の制裁って感じなんだが……
 あたしの疑問をよそに、ケニードはしみじみとした口調で語る。
「クラウドール卿の制裁は恐いよ。誰も逃れられないから。まぁ、一番いいのは、裁判官に裁いてもらうことだからね。だから、クラウドール卿もみっちりと調査して、言い逃れできない証拠を揃えてから動いてる。きちんとした裁判をしてもらうためにね。『罪には罰を』だったかな? 彼のポリシーは」
 ほうほう。
 あたしは素早く脳内メモを広げた。
 罪には罰を。
 レメクのポリシーだと言うのなら、きっちり覚えておかねば。
「彼の前にあっては誰も言い逃れできない、って言われるぐらいだから、それこそ魔法みたいに不正を調べては証拠を揃えてくるよ。ターゲットにされた方は恐いだろうなぁ……。ただ、今回の神官の処罰がどういう目に出るのかは、博打だね」
「?」
 脳味噌に書き込みをしながらハンバーグを頬張っていたあたしは、またしても意味がわからずにケニードを見上げた。
 ケニードは首をすくめて苦笑する。
「ちょっとね、時期が早いなと思うんだ。いつもなら、裁判は最終段階だ。なのに、意外と早く裁判が行われた。……僕が思うに、昨日の裁判は見せしめなんじゃないかな。牽制なのか、抑制なのか、それとも布石なのか……その辺りの判別が、僕にはまだできないんだけどね。まぁ、ベルのいた孤児院に関わる人には違いないけど、孤児院そのものには手を出してない……ということは、布石と見ていいかな。牽制になって孤児院の体勢そのものが改善されればいいだろうけど、その場合は闇に消えたお金は戻ってこない……さぁて、どうするつもりなのかなぁ」
 どこか楽しそうに言うケニードに、あたしはちょっと口を尖らせた。
「楽しそうね、ケニード」
「うん? あぁ、ごめんよ、ベル。君にとっては他人事じゃないし、今も孤児院にいる子達のことを思えば、僕はとても不謹慎だね。……でも、うん、正直に言うと、僕は楽しみにしているんだ。クラウドール卿がどう動くのか、何を考えているのか、それを想像するのがとても楽しいんだ。彼がどうやってこの事件を解決していくのか、とか、それを考えるだけでワクワクしてたまらないんだよ」
 本当に正直にそう言ったケニードに、あたしは苦笑した。彼はとても子供っぽい人だが、同時にそんな自分自身にとても正直な人だった。言い逃れや苦しい言い訳は一切しない。
「ケニードはおじ様が大好きだもの。それは仕方ないことだわ」
「そう言ってもらえれると嬉しいよ。でも、不謹慎なことには変わりないね」
 ケニードは苦笑し、やや顔つきを改めてあたしを見た。
 あたしは肉の固まりを飲み込む。そうして、真面目な顔のケニードと向き直った。
「お詫びにもならないけど、一つだけ、君に言っておきたいことがある」
「……なに?」
「君を保護して以降、クラウドール卿はできる限りのことをしてきた。君が休んでいる間も、君が知らないあらゆる分野で、あの人は最大限の努力をしている」
「……うん」
「だから、覚えておいて。彼がそれだけのことをしても、どうしても、どうにもならないことはあるんだ、って」
 ケニードの声に、あたしはじっと視線を彼に注いだ。
 ケニードは軽く笑う。どこか、寂しいような悲しいような顔で。
「人は、過去を取り戻すことはできない。すでに終わってしまったことを最初からやり直すことはできないんだ。だから、彼にもどうしようもないことが沢山ある」
 あたしはその言葉を、一言ももらさずに頭の中にたたき込んだ。
 これは、とても大切なことだ。そう直感した。彼は、今、大事なことを語っているのだと。
「だから、全部が終わった後に、救えなかった人がいたとしても……あの人に対して、絶対に『どうしてもっと』とは、言わないでほしいんだ。だって、あの人は、本当にいつだって最大限力を尽くしているんだから。……まぁ、もっとも、こんなこと言わなくても、君は絶対に彼を守ってくれると思うんだけどね」
 ケニードの微笑に、あたしはちょっと戸惑った。
「おじ様は神様じゃないもの。全部を全部なんとかしてくれなんて、とても言えないわ。……でも、ねぇ、おじ様を守るって? あたし、守ってもらってばかりだけど」
 命を救ってくれた。いや、今もずっと救ってくれている。あたしはそのことをよく知っている。
 けれど、あたしがレメクに対してできたことなど、何もないのだ。迷惑ばかりかけるだけで、彼のためになることなど唯の一つもできていない。
 だからケニードの言葉が意味不明で、あたしは思わずそう問うた。
 ケニードは笑う。
 それはそれは眩しい笑顔で。
「いつだって君は守ってるよ。今はまだ、ピンとこないかもしれないけどね」
 ……やっぱり意味は不明だった。



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