第十三話:高科大公家 その三
首から取り外したネックレスを胸の前で大事そうに握りしめ、一花は昔を思い出すように話しはじめた。
「私たちが入っていたシェルターは発掘師に掘り出されたの。場所は和国の西の鉱山よ。そして、シェルターを出た私たちは発掘師の人たちと一緒に坑道を地上に向かっていたわ。私はまだ小さかったからお父さまにおんぶされてね。狭くて入り組んだ坑道は、暗くてとても怖かった――」
一花によると、陽一さんに背負われて坑道の出口に向かっていたとき、突然前方の天井が崩れ落ちて妖魔が出現したらしい。
暗くて妖魔の姿は見えなかったが、その時の恐怖は今でも忘れられないそうだ。
出現した妖魔は、物理的実体のない”妖気”だけの存在で、掘り出してくれた発掘師の人たちが倒したそうなのだが、そのときに飛び散った”妖気”の一部が、運悪く一花の小さい体に入り込んでしまったらしい。
「――あのときの怖さ、痛さ、苦しさは今でも覚えてる。体の内側から壊されていくようなおぞましい感覚。私はこのまま死ぬんだと思ったわ。でも、空お兄ちゃんがくれたこの宝玉があったから……」
込み上げてくるものを抑えるように、一花はネックレスを胸の前で再び握りしめた。
それを見かねたように陽一さんが口をはさむ。
「そこから先は僕が話そう。空君はどの程度”妖気”について知っているんだい?」
「”気”と相反する存在で、邪悪なものとしか」
「おおむねそれで正解だ。そして補足すれば、”妖気”は”気”で相殺することができる。だから、体内に多くの”気”を内包している人は、”妖気”が体に入り込んでも体内の”気”で相殺できるんだ。しかし――」
陽一さんの話は、すぐに脱線して長くなるのでまとめると。
シェルターから出たばかりの陽一さんたち三人の体には、ほとんど”気”が満たされておらず、体に入り込んだ”妖気”に対抗することなど出来るはずがなかった。
しかも、”妖気”に入り込まれた一花はまだ幼く体が小さかった。
そのため、”妖気”は瞬く間に一花の体中に浸透し、その幼い体を内部からむしばみはじめた。
急いで坑道の外に出て発掘師の人が治療をはじめたが、一花の体はみるみるドス黒い紫色に変色していった。
必死に治療をしてくれている女性の発掘師の顔色が、絶望の色に染まるのを見て、このままではもうダメだ、一花が死んでしまう。
そう思ったとき、一花の首にかけられていたネックレスの紫水晶が、はらりと服からこぼれ落ちた。
そして、治療をしていた発掘師がその紫水晶を見て、目の色を変えた。
「――宝石には二種類あってね、今の時代ではその片方を宝玉というんだけど、まぁ、厳密には三種類なんだけど話がややこしくなるから。空君が聞きたいっていうなら話すけど」
「いえ、今はいいです。それより、宝玉ってなんなんですか? 宝石とどう違うんですか?」
「宝玉はね、簡単にいうと色がついた透明な宝石の総称なんだ。ああ、ガラスに色を付けたものはだめだよ。あくまでも自然石じゃなきゃダメ――」
陽一さんの話をまとめると、というかこの人は脇道にそれずに話すことができないのだろうか。
この時代に来る前は、こんなに長話をする人じゃなかったのに。
さておき、宝玉とは色がついた透明な自然石のことで、光の三原色にそれぞれ特有の効果があるそうだ。
その効果とは、”気”の増幅効果であり、赤には攻撃力増強、青には回復力増強、そして緑には防御力を高める効果があるらしい。
さらに赤と青が混ざった紫には攻撃力と回復力を増強させる効果があり、赤と緑が混ざった黄色には攻撃力と防御力が混ざった効果があるとのことだった。
ようするに、青と緑が混ざった水色には、回復力と防御力といった具合だ。
ただし、複合される効果は二つまでで、全ての色が混ざった白には何の効果もないそうだ。
「でも、その妖魔を倒せたほどの発掘師なら、増幅効果なんか使わなくても一花ちゃんを治せたんじゃないですか?」
「そう簡単な話じゃないんだ。うーん、どう言ったらいかな……」
また話が長くなったので簡単にまとめると、人の体に入り込んだ”妖気”を”気”で相殺するだけなら、その発掘師でも簡単にできたらしい。
しかしそうしてしまえば、一花の体の中で”気”と”妖気”の対消滅が起こり、その熱や衝撃で、彼女の体細胞まで破壊されてしまうそうだ。
そうなれば、一花に待っているのは悲惨な死という結末だけだ。
さらに、”妖気”に侵されたまま放っておくと、死よりもつらい結末が待っていて、そのまま妖魔化してしまうらしい。
「つまり”妖気”に侵された人を放っておくと、妖魔になってしまうと」
「その通りだよ――」
陽一さんによれば、もと人間だった妖魔も、いるところにはかなりの数がいるということだった。
しかし、また話がそれてしまっていることに気づいた俺は、陽一さんを誘導するように話を振った。
「それで、一花ちゃんはどうなったんですか?」
「ああ、そうだったね。空君が一花にプレゼントしてくれた宝玉、つまりこの紫水晶は――」
前にも言った通り、紫水晶は攻撃力増強の赤と、回復力増強の青が混ざった紫色をしている。
治療にあたった発掘師は、紫水晶に自分の”気”を通すことで、一花の体内に入り込んだ”妖気”を攻撃し、相殺。
同時に傷ついて弱った体細胞を修復し、回復させたということだった。
「――だから、宝玉と呼ばれる宝石、つまり透明で色がついた宝石には高い価値があるんだ」
「でも、紫水晶なんてサファイヤとかルビーに比べたら、それこそただの石ころでしょ? 数も多いし簡単に採れる」
「そう思うかい? 僕たちが生まれた時代だったらそうかもしれない。でもね、今の時代ではどっちも同じくらい価値あるものなんだ。たしかに、希少価値だけでいったらサファイヤもルビーも、そして、宝玉ではないダイヤモンドの方が上さ。しかし、宝玉として見た場合は、その効果が価値の全てなんだ。それに、紫水晶だって日本のどこで採れるかなんて、今は誰も知らないし、地形もずいぶん変わっちゃったからね」
知っている。
俺は紫水晶の産出地も、黄色い宝石、琥珀の産地だって知っている。
地形が変わったといっても、緯度経度は変わらないはずだ。
もしかしなくてもこれは、俺だけのとてつもない、チートとも呼べるアドバンテージじゃないだろうか。
なにせ、小指の先程度の大きさの紫水晶ひとつで軍に捕らえられるほどだ。
その産地に行くことができれば、どれだけの……
いや、今はそんなことより。
「それで、話を戻したいんですが、その後一花ちゃんは?」
「体の方は順調に回復したんだけどね。でも、心の方に後遺症が残ったんだよ。ああ、心配しないで。完全ではないけど、もうほとんど克服したから」
たしかに、幼少のころに死の恐怖にさらされたなら、それはトラウマになるだろう。
ほとんど克服したと陽一さんは言っているが、完全ではないとも言っていた。
ならば、一花の前でこの話題に触れることは、できるだけよそうとこのとき俺は思った。
まだまだ知りたいことはあるが、これでおおかた、知りたいことを聞くことができた。
そう思ったのだが、ひとつだけ大事なことを聞き忘れていることを思いだした。
「話は全然変わるんですけど、どうして陽一さんが王様…… ああ、大公様でしたね。その大公様になったんですか?」
「そうだねぇ、どのあたりから話そうか……」
そう言った陽一さんは、本当に待ってました、という顔をしている。
この流れだと、とてつもなく長い話になりそうな気がしてきた。
たしかに俺は陽一さんが大公になった理由を知りたいが、余計な無駄話にまではつきあいたくない。
「あの、できるだけ簡単にお願いします」
「それは残念だねぇ。でも、あまり時間をかけられないか」
このとき陽一さんは、かなり残念そうな表情をしていた。
よほどこの話をしたかったのだろう。
「シェルターから出た僕たちは、和国で生活をはじめたんだ。当然、仕事をしなけりゃ生活はできない。まぁ、仕事をはじめるまでにもいろいろあったんだけどね。とにかく僕は仕事をはじめた。そしてその仕事は――」
要約すると、陽一さんは和国でアルバイトをしながら食いつなぎ、発掘師の資格を取った。
これは、関東から中部にかけて、どのあたりにどんな施設があったか知っているというチートを活かす選択だった。
俺が考えていることと全く同じことを陽一さんは考えたわけだ。
そして、発掘師として目覚ましい成果を上げ、財を築いた。
あるときから、陽一さんの飛びぬけた”気”力と、財力に目をつけた和国朝廷から、貴族として国につくしてほしいと、たび重なる要請があった。
その理由は、和国南部を領地として南方からの妖魔流入を食い止める目的があったらしい。
しかし、陽一さんはこれを固辞した。
理由は貴族として縛られたくなかったかららしい。
しかし、和国で暮らしていくうちに、妖魔流入による悲惨な人的被害を何度も目のあたりにし、その考えを改めたそうだ。
最初は軍に協力して防衛戦線に参加したりしていたそうだが、個人の力だけではどうにもならなかった。
指揮権があれば、もっと効率的で人的被害が少ない防衛戦線が構築できる。
そう考えた陽一さんは、朝廷の要請を受け入れ、貴族として軍をまとめあげると、和国南部戦線防衛軍を組織した。
和国南部戦線防衛軍の効率的な防衛戦略により、人的被害は抑えられ、和国内部への妖魔流入は著しく減少した。
妖魔の流入を完全に防ぎきるまでには至らなかったが、人々が安定した暮らしを取り戻したとき、陽一さんが和国で暮らしはじめて八年、貴族になって四年が経過していた。
しかしその間、防衛軍も少しずつではあるが消耗し疲弊していた。
このままでは、いずれ防衛戦線が崩壊するだろうと考えた陽一さんは、妖魔が定期的に襲ってくる原因を調査するため、単身南方へと赴いた。
そして、かつての御殿場、今の富士大公国周辺に、妖魔の巣とも呼べる妖魔たちが密集する場所を探し当てた。
陽一さんは朝廷にこれを報告し、同時に妖魔の巣を一掃するための作戦案と、御殿場南方に川と堀を使った新たな妖魔流入を防ぐための方策を提示した。
和国朝廷は、今までの陽一さんの実績と、和国南部戦線防衛軍の功績を鑑み、作戦案を承認し、和国朝廷軍から援軍を派遣した。
陽一さんは、朝廷の援軍を加えた和国南部戦線防衛軍を再編し、翌年、御殿場に巣食う妖魔どもを殲滅するための作戦を実行に移したのだった。
この作戦には、成長して十六になった一花と、希美花さんも参加したそうだ。
当然、陽一さんはこれに反対したが、彼女らの意思は固く、しぶしぶ参加をみとめる形になった。
これは、彼女らの”気”力が、陽一さんに匹敵する絶大なものであり、御殿場近辺の妖魔では、束になっても敵わないという担保があったからに他ならない。
そして、彼女らの活躍はめざましく、結果的に作戦は大成功をおさめたそうで、その功績をもって、陽一さんは大公の爵位をうけ、富士大公国が誕生したらしい。
「――とまあ、こんないきさつでね」
「でも、一花ちゃんは妖魔にトラウマ的なものがあったんじゃ」
「一花はね、努力したんだよ。それはもう見ていられないくらいにね」
「なぜそれほど?」
「まぁ、本人の前では言いにくいから言わないけど、一花が頑張ったのは、空君、君が関係してるんだ」
「???」
横に座って俺の方を見ながらも、妙にモジモジ照れている一花。
そんな彼女を見て首をかしげていたところに、例の陽一さんに伝言をした和服姿の女の人に連れられたヒカル爺と遥が現れた。
ヒカル爺は黒のスーツ姿で、遥は赤いワンピースのドレスを身にまとい、いつもはしない化粧をして別人のように綺麗になっている。
すっぴんの遥も可愛いが、化粧をした彼女もまた、見惚れるほどに見目麗しかった。
そのヒカル爺と遥が、俺を見て一瞬安堵したような表情を浮かべた直後、陽一さんを見るや両目を見ひらき、いきなりその場で土下座状態で額を床に擦りつけた。
「た、大公陛下におかれましては……」
やれやれと、まいったように陽一さんは首を振っている。
「そんなに畏まらないでください。お二方は空君の恩人です。どうか顔を上げて楽にしてくれませんか」
「し、しかし大公陛下……」
「お二方をお呼びしたのは私的な要望だし、それにほら、空君はこんなにくつろいでいるよ」
陽一さんがここまで言ってようやく二人は顔を上げ、正座の姿勢になった。
しかしその顔はまだ、二人ともガチガチにこわばっている。
しかも、あれほど遥のことを気にしていないように振る舞っていた一花から、遥に向けて強烈な”気”の圧力がぶつけられていた。
これはあれだろうか? 修羅場というやつになるのだろうか。
「貴女が遥さん?」
「は、はい、そのようにございます。一花様」
一花の”気”にあてられた遥は、若干震えながら答えていた。
しかし。
「空様を助けていただいたこと、ありがとうございました。お二方には感謝してもしきれません」
そう言って”気”をおさめ、一花はにっこりと微笑んだ。
遥はホッとしたように安堵の表情を浮かべている。
しかし、どうして一花は俺のことを様づけで呼んだのだろうか。
「今日お二方をお呼びしたのは他でもない。空君を助けてくれたこと、この通りお礼申し上げる」
ようやく場が和んだところで、陽一さんがヒカル爺と遥に深々と頭を下げた。
「なんと勿体ない。頭をお上げください、大公陛下」
「ははは、気にしないでくれ。空君は私たち高科家の古い友人でね、いわば家族も同然の間柄なんだ。だからお二方には恩賞を渡そうと思ってね」
「恩賞だなんて私どもには」
「いや、これは私のエゴだ。ぜひとも貰ってほしい」
「大公陛下がそうまで仰られるなら、お断りするわけにもいきますまい。恩賞はありがたく頂戴いたします」
そう言ってヒカル爺はうやうやしく頭を下げた。
「恩賞は帰りにお渡ししましょう。ところで、お二方をお呼びしたのは他にも理由がありまして、森で行き倒れた空君を発見した場所や、その時の状況を詳しく聞きたいのです。協力していただけますか?」
「もちろん協力いたしますとも。ただ、遥はその時一緒にはいなかったゆえ、報告は私一人でしたいのですが」
「構いません、構いません。ささ、ヒカルさんはこちらに」
そう言って陽一さんはヒカル爺を奥の部屋へと連れて行った。
それはもう嬉しそうに。
あの表情から察するに、俺が行き倒れていた場所と状況を聞くことにかこつけ、長話をきめこむつもりだろう。
そして、あとに残ったのは希美花さんと一花、それに俺と遥だ。
どちらかといえば、場の雰囲気を和ませていた陽一さんが去り、あとに残された俺たちの間には少しだけよそよそしい空気が流れた。
「まぁまぁ、陽一君ったらあんなに嬉しそうにして」
その空気を希美花さんの一言が押し流した。
しかし。
「お母さま、わたくしは遥さんと二人だけのお話がしたいです。席を外しますがよろしいですね」
「ええ、ええ、構いませんよ」
「では遥さん、わたくしについてきてください」
虚をつかれたような顔をして固まった遥だったが、一花のいわば強制的な申し出に、彼女が逆らえるはずもなかった。
それはもうヘビに睨まれたカエル、いや、まな板の上のコイと言ったほうが正確だろう。
このときの一花には、王族の威厳とでも言ったらいいだろうか、オーラと言ったほうがいいだろうか、思わず平伏してしまいそうな神々しさがあった。
遥がああなってしまったのも仕方がないだろう。
俺は当初、一花と遥がバチバチと、それはもうライバル心むき出しの火花を散らしあうものと想像していた。
しかし実際には、二人の間には絶望的なまでの身分差があった。
一花と遥の歳はほとんどかわらないが、かたや一国のお姫様、かたや平民の娘。
二人には、俺では想像できないような絶望的な身分の開きがあるのだ。
この時代では、それほどまでに身分というのは絶対的なものなのだろう。
普段の勝気な遥を知っているだけに、言われるがままの彼女を見て俺はそう思った。
そして同時にこうも思った。
今すぐには無理でも、公国に浸透させることは無理だとしても、せめて一花と遥の間には、身分差を意識させない関係を築きたいものだと。
それができなければ、俺は自分を許せないだろう。
「あらあら、陽一君も一花ちゃんもいなくなっちゃったわ」
崇高な決意というのはおこがましいかもしれないが、少なくとも俺にとっては大切な想いを胸に決意を新たにしていたところに、希美花さんが気の抜けるようなトーンで独り言をつぶやいた。
しかし、彼女が言うとおり、今ここには俺と希美花さんしかいない。
これはチャンスなのだろう。
チャンスと言っても、希美花さんとエロい関係になるチャンスなどではない。
そう、アレを聞くタイミングは今しかないのだ。
「あの、希美花さんに聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「あらあら、わたしを口説こうとしても無駄よ。わたしには陽一君がいるんだから」
「そんなことをするつもりはありませんって」
「冗談よ。で、聞きたいことってなあに?」
「どうして一花ちゃんはあそこまで俺にベッタリなんですか?」
あごにピンと伸ばした人差し指をあて、希美花さんはアヒル口でうーんと考え込んだ。
「一花ちゃんには内緒よ」
「あ、はい、もちろん言いません」
「一花ちゃんが空君にゾッコンなのはね、ひとつは陽一君が原因なの。もう一つは空君、あなたにも責任があるわ」
「俺の責任って、もしかしないでもあのネックレスですか? それともしょちゅう遊んであげていたことですか?」
「その両方よ。でも、どっちかっていうと、ネックレスの方が大きいかな」
これは俺でもある程度予想できていたことだった。
しかし、この程度で一花がああなるとは思えなかった。
「もうひとつの陽一さんが原因って、彼は一花ちゃんに何をしたんですか?」
「空君、シェルターに入っていたとき、退屈じゃなかった?」
「それはもう退屈でしたよ。受験勉強しかすることがなかったし、それもすぐに飽きちゃったし」
本当は、オ○ニーできないことが一番堪えたのだが、そんなことを希美花さんに吐露できるはずがなかった。
「そうよね。あんな環境じゃ、だれだって退屈になると思う。それは一花ちゃんも同じだったわ」
「それでどうしたんですか?」
「退屈で退屈で何もすることがなかった一花ちゃんはね、かんしゃくをおこしたの――」
話を聞いてみれば、希美花さんも陽一さんほどではないが話が長い人だった。
それは置いておくとして、あの状況で一花が癇癪を起すのは当然の結果だと俺は思った。
そして、癇癪を起した一花をなだめるために、陽一さんは俺の名を使って彼女をあやしていたそうだ。
『いい子にしていないと空お兄ちゃんが遊んでくれなくなるよ。一花は空お兄ちゃんが大好きだもんね』
『いい子にしていたら空お兄ちゃんからご褒美がもらえるよ』
『空お兄ちゃんは何って言っていた? 頑張れっていっていたよね。だから一花も頑張るんだ。そうしたら空お兄ちゃんがきっとまた、ご褒美をくれる』
などなど、なにかにつけて俺の名前を出して一花を言いくるめていたらしい。
さらに、シェルターから出たあとも、事あるごとに俺の名前を使って一花に言うことを聞かせていたそうだ。
約束を守らないと俺が見つからなくなるとか、俺のお嫁さんになりたかったら頑張りなさいとか。
これはもう完全な刷り込みだろう。
鳥のヒナが、初めて見た動くものを親と認識する以上の刷り込みだと俺は思った。
一花が俺のことを慕ってくれるのは確かに嬉しい。
彼女は可愛いし、温かいし、柔らかいし、体つきもエロいし、彼女になってくれるには申し分のない人だ。
けれども一花が俺を慕ってくれるのは、俺が彼女になにかをしてあげたとか、親身になって相談に乗ったとか、彼女のためになにか特別なことをしたとか、そういった理由があってのことでななかった。
たしかに一花とはよく遊んであげたし、風呂に入れたことだって何回もある。
泣いている彼女をあやしたことも一度や二度ではない。
しかし、それだけであそこまで慕われるのは、俺としても納得がいかなかった。
だから俺はこう思った。
一花の想いに応えられるだけの男になろう。
慕われて当然のことを成そうと。
「話してくれてありがとうございました。俺も一花ちゃんに慕われる資格をもった男になろうと思います」
「あら、嬉しいわぁ。一花ちゃんに聞かせてあげたいくらい。でも、黙っていてあげるわ。だから空君も、わたしが話したこと、一花ちゃんには黙っていてね」
「はい、わかりました」
このあと、希美花さんとたわいもない世間話、といってもそれは彼女にとってだが、貴族の日常だとか陽一さんのほかの奥さんや子供のことだとかを話してもらった。
ほとんど希美花さんが一方的にしゃべり、俺は聞き役に徹する感じだ。
そして、その話も一段落したところで一花と遥が戻ってきた。
「話は終わった?」
「ええ、これからは一花様とも友人としてお付き合いすることになったわ」
そう言った遥の表情は、憑き物がとれたように晴れ晴れとしたものになっていた。
一花のことを様づけで呼んではいるが、へりくだっている様子も伺えない。
いったい二人でどんな話をしたのか、何があったのか、俺には想像もできないが、彼女らなりに納得できる結論にたどり着いたのだろう。
二人の吹っ切れたような様子からは、そうとしか思えなかった。
「そう、それは良かった」
「空、良かったじゃないわよ。心配したんだからね」
一花と話をして緊張の糸がほぐれたのだろうか、遥の瞳からは涙があふれている。
そんな彼女を見かねたのだろう、一花が遥の背をやさしく押した。
一花に押されて俺の胸に顔をうずめる形になった遥は、声を上げて泣き出したのだが、このとき俺は自然に体が動き、彼女の頭を優しく撫でていた。
一花もその様子を優しそうな瞳で見つめている。
「ごめん、心配かけたね。もう帰ろうか」
「うん」
「希美花さん、一花ちゃん、今日はもう鴻ノ江食堂に帰ろうと思います。来月には発掘師の試験もあるし」
「あらあら残念ね。夕食もご一緒できるとおもったのに」
「お母さま、空様にもご予定がおありなのです」
「はいはい」
驚いたことに、希美花さんより一花の方が俺が帰ることに理解を示したのだ。
一花がグズるかもしれないと思っていた俺は、彼女の意外な一面をこのとき見た気がした。
この時代でではあるが、俺の倍近い人生経験がある彼女の方が、俺よりもはるかに大人なのかもしれない。
そして、遥が来てから一花が俺を様づけで呼ぶようになったことは気になる、というか、むず痒いものがあるが、今は彼女の好きにさせてあげようとも思った。
いずれ改めてもらえばそれでいいと。
「一花ちゃん、今日は助けてくれてありがとう。本当に助かったし嬉しかったよ。そして希美花さん、こうしてみんなと再会できてスゴク嬉しかったし、安心しました。陽一さんにもヨロシクお伝えください」
こうして、俺は遥とともに高科家の豪邸を後にしようとしたのだが、その途中廊下で不愉快極まりないことが起こった。
「見ない顔だな。藤崎殿、その者らは?」
「大公陛下のお客人であらせられる」
俺と遥を先導して歩いていた藤崎さんに話しかけてきた若い男。
若いと言っても俺より年上で、二十歳過ぎに見えるから実際の歳は五十前後なんだろうけど、その男は訝しむように俺と遥を見下していた。
髪をオールバックに上げ、シルクだろうか、光沢のあるベージュのスーツに、首にはくすんだ赤色のスカーフを大粒の琥珀でまとめてある。
どこからどう見ても高貴なお貴族様だ。
「陛下も困ったものだ。このような下賤な輩を権威ある大公宮に招き入れるとは」
「その言いよう、大公陛下のお客人に、あまりにも無礼ではないか」
「ふんっ」
その男は言いたいことだけ言って、鼻を鳴らし、立ち去ってしまった。
男のあまりの傍若無人さにだろうが、遥は目をパチクリとさせて驚いている。
「なんなんすか、あの失礼な男は」
「どうかお気を悪くなさらないでください。あの男は御堂伯爵家の次期頭首、虎次郎殿です。一花様の伴侶には自分こそふさわしいと公言してはばからない恥知らずな不届き者。空殿が気にかけるような男にはございません」
一花がいたからかもしれないが、今まで一切の表情を表に出さなかった藤崎さんが、このときだけは怒りの色をその顔に滲ませていた。
藤崎さんは、あの虎次郎という男を本気で嫌っているのだろう。
「さ、あんな男のことなど気にせず参りましょう」
最後に後味の悪い小さなハプニングもあったが、高科邸を後にした俺と遥は、二頭立ての馬車で彼女の実家まで送ってもらった。
そして、食堂ののれんをくぐろうとした俺に遥が一言。
「お爺ちゃん忘れてきちゃったね」
一花と遥がどうなるのか気になって仕方がなかった俺は、彼女らの関係が良好なものになったことに気をとられ、すっかりヒカル爺も来ていたことを忘れてしまっていた。
ヒカル爺はいまごろ、陽一さんの長話につき合わされていることだろう。
「あはは、すっかり忘れてたよ。でも、陽一さんは話が長いからたぶんまだ捕まってると思う。それに、遅くなったら豪華な夕食にもありつけるからいいんじゃないかな」
「そうよね。私たちみたいに送ってくれるだろうし、お爺ちゃんは美味しいものに目がないから」
とは言って見たものの、俺は心の中でヒカル爺に合掌したのだった。
ただでさえ緊張するだろう大公家で、たとえ豪華な夕食にありつけたとしても、果たしてその味を堪能する余裕がヒカル爺にあるのだろうかと。
そんなこんなでようやく遥の実家に帰りつくことができた俺は、食堂の面々や遥の家族に再会し、ようやく落ち着きを取り戻すことができたのだった。
そしてヒカル爺はといえば、翌日の夕方になってようやく帰ってきたのだが、何やら陽一さんと意気投合したらしく、置いてけぼりを喰らったことなどまるで気にしていない様子だった。
しかも、高科邸でご馳走になった食事のあまりの美味しさに、また連れて行ってくれと頼んでくる始末だ。
さらに、いくらかは教えてくれなかったが、恩賞も貰ってきたらしい。
楽しそうに食事の内容を報告するヒカル爺を見て、忘れて来て悪いことをしたと思った俺と遥の気苦労を返せと、このとき俺は思ったのだった。
そして季節は寒さやわらぐ三月になり、待ちに待った二級発掘師の試験当日をむかえた。
今日の試験に合格すれば、俺は晴れて発掘師となり、念願だったトレジャーハントに行くことができる。
試験勉強に抜かりはないし、”気”力も充実した今の俺に死角はない。
俺は意気揚々とした足取りで、発掘師協会の試験会場に向かったのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
少しだけ時を遡り、空と遥が高科大公家を後にした夕方。
二人を鴻ノ江食堂まで送り届けた藤崎は、帰りの馬車の中で一人考えていた。
一花様があれほどまで必死になって探していた空と言う男。
”気”を探ってみたが、間違いなく大公ご一家に匹敵するものを持ち合わせていた。
私でははるかに及ばない、比べるのもおこがましいほどの”気”力。
空という男、一花様が仰る通り、間違いなく始祖だ。
見つかったと聞いたときは、一花様に害成す者でなければと憂慮したが、会ってみてそれが杞憂だと理解できた。
ただ、周りに流されやすそうな弱さも見受けられた。
いずれは一花様の伴侶となり、公国の中枢に関わるお方、よく見極め、間違った方向に進まぬよう導かねばなるまい。
いや、それだけでは足りぬか、虎次郎めにも気を配る必要があろう……