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銭(インチキ)の力で、戦国の世を駆け抜ける。(本編完結) 作者:Y.A
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第三十六話 浜松城攻防戦

 元亀二年の収穫が終わった頃、一年間のみの仮初めの平和が終わり、再び戦の時が始まる。
 駿河、東遠江を領国化した武田信玄が、四万人という大軍で浜松城に迫っていた。

 これに呼応して、石山本願寺、四国の三好家、丹波の赤井直正、丹後の一色家、但馬の山名家なども同時に蜂起している。
 既に織田家が領国化した領地でも一向一揆や一部豪族の蜂起などもあり、信長は淡々と軍を発して討伐を始めている。

 その陰には相変わらずの将軍義昭がいるのだが、なぜか彼自身は蜂起しないので信長から監視だけされていた。

 そして南信濃には、武田四天王の一人である馬場信春を大将にした一万人の軍勢も出している。
 いくら新しい領地を得たからといって、前年の損害もある。
 かなり無理をして整えたと思われる軍勢であり、そのせいで南信濃と西遠江には再び流民が押し寄せていた。
 それでも信玄は、浜松城を落とせば勝ちだと思っているようだ。

「三河は、浜松城という硬い殻に守られた果実のようなもの。これさえ砕けば、あとは三河まで呑み込める」

 三河まで落ちれば奪われた南信濃の奪還も容易く、再び東美濃に進出可能である。
 そう考えた信玄は、浜松城の攻略こそが今回の戦いの鍵だと考えていた。

「この一年で、随分と弄ったものだな」

「そうですな」

 信玄の感想を聞き、傍にいる真田幸隆が相槌を打つ。

「銭に困らぬ新地らしい。だが、国を守るのは銭ではなく人なのだ」

 その割には、征服した信濃、西上野、駿河、東遠江で搾取して地元の住民達に恨まれているが、武田家は強いので信玄に文句を言う人も少ないし、言っていた人達は既にこの世にいないという現実もあった。

「浜松城の守りは一万七千人ほどだと聞くが」

「はい、ちと数が多いのが骨ですな」

「そのための対策は十分に立ててある」

 今回の大軍を集めるために、信玄は北信濃、駿河、西遠江への徴発と税を厚くした。
 これに不満を持った流民達が南信濃と東遠江に逃げ込んでいる。
 織田家と新地家は丁寧に保護しているらしいが、その優しさが彼らの兵糧を殺ぐ。

 果たして浜松城は、いつ食料不足となって落ちるであろうか?
 その前に、こちらの攻撃で落とせてしまうかもしれないと信玄はほくそ笑んだ。

「これで五ヶ国を押さえ、尾張と美濃に進出する」

 そうすれば、京もそう遠くはない。
 三好長慶、織田信長に続き、この武田信玄が天下を差配する立場となるのだ。

「(ワシの体調を考えると、そう長い時間はかけられぬ。浜松城攻略に全てがかかっている……)落とすぞ、幸隆」

「ははっ!」

 幸隆は、全軍に攻撃命令を出した。
 武田軍四万人が、事前に調べた情報に従って浜松城とその周辺に作られた守備要塞に向かって一斉に攻撃を開始する。

「新地殿、壮観な眺めだな」

 全軍で攻め寄せる武田軍に、応援で浜松城に来ていた徳川信康は感嘆の声をあげた。
 見事に訓練され、命令通りに動く精鋭武田軍の突入にいたく感心したようだ。

「その連中を殺すのが俺達の仕事ですけどね。殺さないと殺されますので」

「まだ撃たぬのか?」

 信康がここにいる理由は、徳川家が応援を出したからだ。
 光輝は最初断ったのだが『ご心配無用、三河は滞りなく治まっております』と、二千人の援軍を数正が送り出していた。

 大将は当主である信康であり、これが彼の初陣となる。

「斬り込みとかはありませんので、見て勉強だと思っていてください」

「わかった」

 以前の信康なら、手勢を率いて武田軍に斬り込みをかけ初陣に相応しく首を獲ると言ったであろうが、以前に今日子に一方的に破れてからは大人しくなり、武芸以外の勉学などにも励むようになっている。

 それは、今日子が武芸以外にも色々と多才な事を知ったからだ。
 若い信康は、女には負けられないと努力をするようになった。

「あの堀に軍勢が達してから、一斉射撃です」

 要塞化した浜松城の周囲には空堀が掘ってある。
 実はこれは、配置された鉄砲隊に距離を知らせる狙いも含まれていた。

「撃てい!」

 射撃開始の合図が声と旗で知らされ、鉄砲隊は自分が担当するエリアに入ってきた軍勢に銃撃を開始した。
 新地軍の『狙う』が効率よくできる兵士達の射撃は、訓練量の多さも比例して熟練の域技にまで達している。

 次々と銃弾が命中し、兵も将も分け隔てなくあの世へと送り込んでしまう。

「殿が、新地殿の命令通りにせよと」

「まずは数を減らすか……」

 配置された徳川軍も、弓を放ったり投石機を使って石を投げ続ける。
 直接戦えない不満はあるが、相手はあの武田軍だ。
 下手に直接交戦すれば、わずか二千人しかいない徳川軍など簡単に壊滅するであろう。

「前年の犠牲のせいで新入りも多いからな。戦場に慣れさせるのが先か」

 本多忠勝は割り当てられた箇所に籠り、弓矢と投石器をもって攻撃を続ける。
 数少ない鉄砲もあったが、これはここぞという時のために取ってあった。

 鉄砲自体の数もそうだが、実は火薬と弾薬がなくてあまり撃てなかったのだ。
 まさか織田家の家臣でしかない新地家に弾薬をたかるわけにもいかず、徳川軍の鉄砲隊は沈黙して機会を待っていた。

「向こうは景気がいいのぉ」

「金がないのがこんなに辛いとはな……」

 三河の小豪族など、普段は百姓と同じ生活をしている。
 銭の流通量も少なく、田舎では今も物々交換が普通に行われていた。
 忠勝はそれを普通だと思い、逆に何にでも銭を大量に使う光輝を実は半分バカにしていた。
 勇敢なる三河武士である自分達が、銭如きに負けはしないと。

 だが、現実は違った。
 その精強なはずの三河武士は、もっと精強な武田軍によって当主まで討たれ、三河の安全は浜松に巨大な城を建設した光輝によって保証されている。
 自分の領地が武田家と接しなくなった。

 このおかげで、徳川家の建て直しがどれだけ効率よく進められているか。
 第一、奪われた奥三河は新地軍が奪還して返還してもらったものだ。

 今も、攻め寄せる武田軍の大軍を、新地軍が大量の鉄砲による射撃で攻撃している。
 自分達が担当している箇所にも部隊が配置されていて、三河勢よりも大量に敵を討っている。

 自分達は弱いから新地軍に守ってもらっている。
 それがわかるから、忠勝は悔しくて堪らないのだ。

「嘆くな、平八郎」

 共に三河衆を率いている榊原康政が、忠勝を諌める。

「今はできる事をやるしかないのだ」

 生き残った徳川家の家臣達は、信康を新当主として懸命に建て直しを行っている。
 若い信康を侮り、武田家に通じようとした豪族と地侍を討ち、三河国内の開発も進めている。
 米の生産のみならず、銭になる木綿の生産も石川数正の提案で始まっていた。

 これも新地光輝の勧めらしいが、今はそんな細かい事に拘ってはいられないと康政は思っている。
 栽培された木綿が売れて、その利益で軍備が整えられればいいのだから。

「それよりも、目の前の敵を何とかせねばなるまい」

 射撃の印にもなっている空堀は、既に大量の武田軍兵士の遺体で埋まっていた。
 他の方面もほぼ同じなのに、信玄坊主は攻勢を止めない。

「信玄坊主が、ただ犠牲を出し続けるのか?」

 康政は、信玄の意図が読めずに首を捻っていた。

「彼らは捨て駒ですからね。東遠江と駿河の者達です」

 康政の疑問に答えるように、声をかけてきたのは本陣から使者としてきた本多正信であった。

「弥八郎か……」

「何の用事だ?」

 忠勝と康政は、正信と知己であった。
 だが、三河一向一揆で国外に逃亡し、他の離脱組と共に新地家で拾われて重臣となった正信にあまりいい感情を抱いてはいない。

 他の徳川家家臣もそうなのだが、時機がくれば家康が正信達を赦免しようとしている事を知っていたから、その前に新地家に仕官してしまった彼らに複雑な感情を抱いていたのだ。

「作戦命令書です。ご一読を」

 正信から渡された命令書を二人は読み、すぐに懐に入れる。
 他の者に見せないようにと書かれていたからだ。

「そう上手くいくのか?」

「駄目でも、次の対策はあるのでご安心ください」

「そうか、平八郎もいいな?」

「ああ」

 康政はそうでもないが。忠勝は特に正信が気に入らないのでなるべく口を利こうとしない。
 新地家の重臣になっている正信と揉めないようにしなければという常識は持っているので、あえて対応を康政に任せる事で問題を起こさないようにしていたのだ。

「先の捨て駒の話だが……」

「武田家が支配を強化するために、先陣で潰そうとしているというわけです。高価な玉薬と引き換えなら費用効率がいいと、信玄坊主は考えているのでしょう」

「可哀想になるな」

 康政は、ただ攻め寄せては討ち取られる彼らに同情した。
 徳川家も当主を討たれたが、それでもまだ家と領地は残っている。
 ところが彼らはここで命をすり潰し、力を失った領地と家は武田家に呑まれてしまうのだから。

「武田家は強い。ですが、非情の強さだと殿は仰っております」

「新地殿がか?」

「はい。非情の強さは、所詮非情なので長持ちはしない。ここで上手く信玄坊主が討てれば、不幸な者も減るであろうと」

「確かにそうだな」

 話を終えた正信は本陣へと戻り、康政は攻撃を続けながら考え込んでしまう。

「徳川家が、新地殿に勝てる日は来るのであろうか?」

 少なくとも、相当な困難が予想されると康政は思うのであった。




「幸隆、どうだ? 新地軍の様子は?」

「徐々に種子島の射撃頻度が落ちています。投石と弓矢に切り替わっております」

「やはりな」

 攻撃開始から一刻(二時間)、武田軍の先陣は大損害を受けていたが、浜松城とその周辺に配置された新地軍の鉄砲の射撃頻度は落ちていた。

「さすがに撃ちすぎであろう」

 新地家は、どの戦いでも常に種子島の大量投入によって勝利を得ている。
 元商人らしい勝ち方だと、信玄は思っていた。

 だが、さすがにもう玉薬の備蓄量も限界であろうと信玄は考え、実際にそうなっている。

「あの新地光輝とかいう男、信長に仕える前から慎重に玉薬の備蓄を行っていたのであろう」

 そして、信長に仕え始めてからそれらを一気に使用して成り上がった。

「慎重な男なのであろうな。だが、それももう終わりだ」

 使い捨てにした東遠江、駿河衆の犠牲は甚大だが、いい仕事をしてくれた。
 生き残った連中で従順な者は家臣団に組み込んでやろう、ただし外様だが、と信玄は思っている。

「もう少しで種子島の射撃が終わる。そうしたら一気に落とすぞ」

 更に半刻後、新地軍の射撃はほぼ止んだ。
 信玄は、これが好機と甲斐、信濃衆の精鋭を含めてほぼ全軍を投入する。
 下手に出し惜しみなどせずに、全力で浜松城を落とした方が犠牲はかえって少ないからだ。

「かかれ!」

 武田軍全軍を統括する内藤昌豊と高坂昌信指揮の元、一気に全軍が投入され激しい攻防戦となった。

「俺はこういう戦の方が好きだがな!」

 槍を振るい、本多忠勝が武田軍の攻勢を防ぐ。

「思ったよりもちゃんと戦えているな。今日子様のおかげか」

 島清興も、新地軍が武田軍の猛攻を防げている事に安堵の表情を浮かべた。 
 今日子が作成した調練指南書とやらに従って訓練を施したのだが、実戦に出してみると思ったよりも戦えていたからだ。

 清興には、超未来の効率を最重視した海兵隊式調練方法など知らない。
 だが、その指南書に従って訓練を行い、自分も勉強してみると、これほど優れた方法はないと思ってしまうのだ。

「あの方は、殿と合わせて何者なのだろうか?」

 少し考えて、清興は考えるのを止めた。
 何だっていいじゃないか、実際にあの夫婦は凄くて、自分は新地家の重臣である。
 滅んでしまった筒井家で燻っているよりは、何十倍もマシであろうと。

「もう少しか……武田軍が深く食い込んだら……」

 清興は、懐に仕舞われた命令書に一瞬意識を送る。
 戦いの前に、光輝が言っていた事を思い出したからだ。

『この戦いの目的は一つ、信玄を討つ事だ』

『信玄をですか? 難しいのでは?』

『難しいけど、彼が死んでくれると大半の問題は片付くからね』

 光輝は、清興に今回の作戦の趣旨を説明する。

『信玄は一代の英雄で、甲斐の国人、豪族衆にとっての希望なのさ』

 だから、武田軍は常に精強で多くの国を切り取る事に成功した。
 切り取られた側の住民達は不幸でしかなかったが、

『その希望の星が落ちれば、武田軍は弱くなる』

 彼らの強さの源は、甲斐が貧しいからであった。
 光輝は、アキツシマ共和国のみならず、多くの国家が軍人を募集する時に比較的貧しい地域から兵を募る事が多いのを知っている。
 貧しい地域の住民は、生きるのが大変な故に精強な兵士に成長する土壌を持っているのだと。

『それだけだとただの山賊だけど、それを信玄が巧みに指揮する事で武田軍は強くなった』

 精強な騎馬隊という情報も諜報活動の過程で報告を受けていたが、基本山地が多い甲斐や信濃が領地なのでそこまで多くはない。
 むしろ、平地の多い北条家の方が騎馬隊は多いくらいだ。
 そして今では、織田家の方が遥かに多くの騎馬隊を保有している。

『よって、信玄が死ねば武田家は崩壊します』

『新しい後継者がいますが……』

『彼は武田家の後継者ではなく、諏訪家の後継者と見なされている』

 武田家の駿河侵攻に反対した嫡男義信は腹を切らされ、代わりに四男の諏訪勝頼が後継者と見なされている。
 だが見なされてるだけで、信濃の諏訪家出身の彼が甲斐の国人衆達に支持されるはずがなかった。

 悪い事に、今の諏訪家は織田家側に組した者達もいて分裂状態にある。
 そんな家の血を引く者を、簡単に後継者には出来ないというという事情もあった。

『というわけで、この浜松城を餌に信玄坊主を討ち取る策を……奥さんが考えてくれました』

『いえい』

 清興には『いえい』という言葉の意味はわからなかったが、その作戦案の綿密さと成功への期待感に、今日子の凄さを再確認していた。
 清興は、今日子が元エリート軍人だという情報など知らないので、ますますその正体への疑問が膨らんでいたが。

『絵里の世話を奥さんに任せて悪いね』

『いえ、今はこんな状態なので……』

 今回、今日子は光輝の臨時参謀として戦いに参加していた。 
 その間、乳飲み子である絵里姫の世話は清興の妻に任せている。
 清興の妻他数名の女中が、今日子と絵里姫の世話のために浜松城まで来ていたのだ。

『作戦の最終段階の合図は、旗で知らせるから見逃さないように』

 命令書には、今日子の字でそのように書かれていた。




「いよいよか」

 少し考え事はしていたが、その瞬間を逃すほど清興は間抜けではない。
 本陣のある急造の天守閣モドキから真っ赤な旗があがる。
 すると同時に、新地軍が鉄砲の一斉射撃を開始した。
 前よりも濃密に、それぞれに事前に割り振られたエリアに撃ち続ける。

 そこには攻撃中の武田軍精鋭もいて、大損害を受けた先陣衆のようにバタバタと倒れていく。
 続いて、隠蔽されていた青銅大筒と密かに運び込まれていた艦船用の大筒が一斉に火を噴いた。
 これにより後方の武田軍まで砲撃に巻き込まれ、短時間で多くの兵と将が討ち死にしてしまう。

「容赦するな! 皆殺しにするつもりで撃て!」

 清興は、自らも青銅大筒を操作しながら射撃を行う。
 新地家の指揮官は、全員訓練で種子島のみならず、大筒や艦船の操作まで習っているのでひと通りできるのだ。

「これは、武田軍も終わりだな」

 青銅大筒を撃ちながら、清興は眼下に見える武田軍の壊滅状態を見て念仏を唱えた。




「これは……」

「御館、撤退の命令を!」

「急げ!」

 信玄は、短時間で壊滅した自分の軍勢を目の当たりしたが、何とか理性を保っていた。
 幸隆に全軍撤退の命令を出すが、同時にそれには時間がかかると思っている。

 勢いよく浜松城にとりつき、そのまま討ち死にしてしまった者も多かろうと理解したからだ。

「穴山信君様、討ち死に!」

「一条信龍様、討ち死に!」

「小山田信茂様、討ち死に!」

「高坂昌信様、討ち死に!」

「土屋昌次様、討ち死に!」

「小山田昌辰様、討ち死に!」

「小原広勝様、討ち死に!」

「甘利信康様、討ち死に!」

「曽根昌世様、討ち死に!」

「山本勘蔵様、討ち死に!」

「横田康景様、討ち死に!」

 主だった家臣の戦死報告が続き、彼らの率いていた軍勢は統率をする者もおらず、次々と鉄砲と大砲の攻撃で死んでいく。
 逃走を開始した者もいたが、彼らの大半は信濃、駿河、東遠江衆であった。

 甲斐衆は、ほとんどが残って攻撃を続けている。
 彼らは知っているのだ。
 ここで逃げれば、あとで信玄からどんな叱責を受けるかと。

 武田家の厳しい武田流軍学により、彼らはどんな戦でも逃げずに戦い、その名を挙げてきた。
 だが、今はその厳しい軍法のせいで、ただの射撃の的になっている。

「二俣城に撤退して、体勢を立て直す!」

 信玄は即断して本陣から駆け出し、馬に飛び乗って二俣城までの道をかける。
 幸隆達近習もそれに続くが、他の者達はそうはいかなかった。

「みんな討ち死にしてしまったか!」

 生き残っている内藤昌豊は自分の軍勢を鉄砲の射程距離から離したが、生き残りが半分もいない事を知って叫び声をあげてしまった。
 この怒りを持っていく場所がなかったからだ。

 確かに戸石崩れのような惨敗も過去にあったが、ここまでの大敗は初めてだ。
 あとで損害を確認するだけで溜息ものであろう。

「二俣に退くぞ!」

 それでも昌豊は、途中で他の軍勢も拾いながらどうにか撤退を成功させる。

「御館、御無事で!」

「昌豊も無事で何よりだ」

 二俣城に逃げ込めた軍勢が、信玄直轄の五百人と、昌豊が纏めて連れてきた二千人ほどのみ。
 あとからバラバラに逃げてきたが、それを加えても四千人を切っていた。
 全員が討ち死にしたとは思えないが、戻って来ない以上は戦力にならない。

「新地軍は、徳川軍と共に追撃も行いました」

 一部精鋭部隊を出して止めの追撃を行ったと、わずか数十人で逃れてきた武田信廉は信玄に報告する。

「殿、篭城なされますか?」

「バカな。行くぞ!」

 再び信玄は素早く立ち上がると、三千七百人ほどにまで減った軍勢を指揮して甲斐へと撤退を開始する。

「兄上、駿河ではないのですか?」

「駿河で篭城など無理に決まっている」

 最初の侵攻から数えて、自分達がどれほど駿河と東遠江から搾取したか。
 甲斐のためとはいえ、今の惨敗した武田軍など復讐の対象でしかない。
 ここは甲斐に撤退して、体勢を整えるべきだと信玄は言う。

「どうせ、北条と駿河の領有で揉めて戦となろう。信春の軍勢が残っているのだから、甲斐、北信濃、西上野で抵抗すれば状況も変わろうて。今は、耐える時である」

 信玄は、普段は使わないような山道を北上して甲斐へと道を急いだ。
 途中また血を吐いたが、彼の判断は正しく無事に甲斐へと撤退する事に成功する。

「お味方、惨敗いたしました」

「是非もなし。撤退する」

 高遠城の近くで羽柴・滝川軍と睨み合いを続けていた武田軍別働隊を指揮する馬場信春は、味方惨敗の報を聞くと兵を退いた。
 別働隊は、本軍が浜松城の攻略に成功しないと動けない作戦になっていたので、退くしかなかったのだ。

「助かった……」

「新地殿がやってくれたか……」

 鬼美濃と呼ばれる信春と戦わずに済んだ一益と秀吉は、安堵の溜息をつく。
 以降武田家は、甲斐、北信濃、西上野に籠って守勢の体勢を貫く事になる。
 だが、武田家の未来は暗かった。
+注意+
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