第三十話 嵐の前の静けさ
「よく紀伊一国を落とせたな。城の一つも落とせれば上出来だと思っていたのだが……」
紀伊平定を終えて京にいる信長に顔を出すと、光輝は信長から意外そうな顔で言われてしまった。
「その代わりに火薬も金銭も空っ欠、兵の犠牲も多く、紀伊はいまだに燻り続けていますけど……」
「であろうな。暫くは、遠征を免除してやる」
勿論嘘だが、信長は新地軍の戦い方を聞いてそれを信じた。
大量に使用された火薬の代金だけでも、新地家は暫く行動不能だと判断したからだ。
現在の織田軍は、越前半国を賜った柴田勝家が越前一向宗残党の討伐と、加賀まで出陣して攻勢防御に徹している。
紀伊で二万人以上を討ち取った新地軍の、倍以上の一向宗を根切りにして殲滅したそうだ。
まさに、鬼柴田の面目躍如というところであろう。
同じく朝倉家の支配下に入っていたものの、国人衆の反抗が大きかった若狭は丹羽長秀が平定してこの地を賜っている。
丹波の波多野家と赤井家を降した明智光秀、木下藤吉郎に、摂津で三好軍を撤退させた三好義継、松永久秀と、彼が調略した荒木村重、中川清秀隊などが石山包囲に参加。
これに信長から軍を預かった佐久間信盛隊と合わせて包囲しているが、落ちる気配はないようだ。
孫一率いる雑賀衆強硬派が鉄砲隊を率いて参戦し、しぶとく抵抗しているらしい。
「石山とは講和になるであろうな」
朝廷に献金を贈り、現在村井貞勝が工作中のようだ。
巨大な要塞である石山を、そう簡単に落とせるはずがない。
他の織田家を攻撃していた勢力がすべて敗北したので、本願寺は講和を受け入れるはずだと信長は言う。
「義昭公はどうされました?」
「何食わぬ顔をしておるな」
今回の包囲作戦を裏で主導した癖に、信長が顔を出すと『大義である!』と太刀を恩賞として渡している。
義昭が謀略の達人なのか、それともただの厚顔無恥で自分に都合が悪い事をすぐに忘れられる羨ましい性格をしているのか。
光輝には、いまいち判断がつかなかった。
「義昭公は、本来の守護である畠山高政に紀伊を返せと仰せだ」
信長追討の密命を出しておいて、それが失敗に終わると光輝が苦心して占領した紀伊を本来の守護である畠山高政に返せという。
光輝は、義昭が厚顔無恥で悪知恵だけが働く小悪党なのだと理解した。
「返すのですか?」
「返したところで、無用な混乱を招くだけだ」
それに、紀伊は多大な資金と労力を用いて光輝が平定したのだ。
もしこれを取り上げようとして、新地家が織田家に反発したら?
信長は、考えただけで身震いがした。
どうせ治めるには労力を要する土地である。
褒美として、新地家に任せてしまった方がいいと信長は考えた。
「(義昭め! くだらぬ離間策を仕掛けおって!)第一、高政は河内一国ですら碌に治められておらぬのだ」
信長に従ったので仕方なく河内を任せているが、守護代の遊佐氏と、丹下盛知、安見宗房などの重臣達に傀儡にされていて、とても紀伊を統治する余裕などない。
信長は光輝に、畠山高政の現状を説明する。
「困った方ですね」
困った方とは、勿論義昭の事である。
「まだ利用価値もあるので、排除も出来まいて」
信長から紀伊安定化のために暫くは兵を出さなくてもいいという許可を貰った光輝は、紀伊統治に全力を傾ける事となる。
「なぜ、新しい人員と種子島の補充が来ないのか」
結局、織田軍に包囲された石山本願寺は朝廷が間に入って講和となった。
だが、そんな講和などいつ崩れるかわからない。
紀伊雑賀荘から子飼いの鉄砲隊を引き連れて参戦した孫一は、次の戦いに備えて雑賀荘から人員と種子島の補充を受けようとした。
ところが、雑賀荘からは何も送られてこない。
むしろ、そんな要求は迷惑だという返事がきた。
これには、孫一も絶句してしまう。
「御館、雑賀荘は新地家に牙を抜かれてしまったようです」
紀伊平定後、雑賀荘は新地軍によって容赦なく解体された。
技術のある鉄砲鍛冶で従順な者は家族ごと新地に引き抜かれ、そこで好待遇を受けているので孫一の命令になど従わない。
内心で不満のある連中も、種子島の製造は禁止されたが、新地領内では大規模な開発が進んでいる。
農機具、調理道具、工事道具、建物に必要な鉄材や釘など。
民生品の受注が大量に入って忙しく、最初は文句を言っていたものの、すぐに新地家に従順になってしまった。
段々と生活がよくなっていくのに、何も無理に武装化してまで新地家に反抗する理由がないからだ。
新地にある工業地帯に引っ越した者も増えて、雑賀荘でも新たに開発が進んで新しい住民が入ってくる。
雑賀荘は、もう以前のように孫一が影響力を発揮できる場所ではなくなっていたのだ。
おかげで、新地家に対して大規模に蜂起する事はできなくなっていた。
「根来寺は? 高野山は?」
「そちらもあてになりません……」
僧兵は大量に討たれたが、新地軍は寺院には一切手を出さなかった。
新地家の指導で、紀伊の寺院、神社は多くの参拝・観光客を迎え入れるように改築が周辺地域の開発と共に進められている。
武装は禁止されたが、治安維持は新地軍が担っているので問題ない。
伊勢、紀伊、大和との街道工事も始まり、今伊勢で改築中の伊勢神宮、同じく新地家に屈した熊野三山と共に観光地化が進んでいる。
これらの有名な神社や寺を巡る観光ツアーの宣伝を、新地家が始めたのだ。
『人生に一度は、伊勢、紀伊、大和のありがたい寺院と神社に観光に行きましょう。寺は駄目だけど、伊勢神宮の紹介には美少女巫女キャラにやらせよう』
清輝が観光案内の制作と印刷を始め、宿場町の建設も始まっている。
とりあえずのターゲットは、信長が平定しつつある畿内の住民だ。
「紀伊国外に散った連中は?」
「そちらも駄目です」
彼らは地方の荘園に到着すると、その地で武力を背景に独立してしまった。
『本尊の奪還と正当な信仰の回復、仏敵信長と新地の討伐』と口にはするが、兵を起こして紀伊に攻め寄せる計画はない。
「そう叫んで大義を主張し、その地方の荘園を支配できれば満足なのでしょうな……」
当然、元からいた僧兵や僧侶達からの評判も悪い。
下手に留守にすると蜂起される可能性があるので、彼らは奪った荘園と利権を確保するために現地に留まり続けるというわけだ。
人間、守る物ができると冒険はしないものだ。
「新地家の傀儡になった本尊を批判、その奪還を主張しつつ、乗っ取った地方の寺と荘園に居座るわけか」
孫一は『自分もそうしとけばよかったかな?』と一瞬考えてしまったが、もう遅い。
下手に雑賀荘を押さえる新地家と妥協すれば、今いる子飼いの連中すら離脱してしまう。
自分は、何が何でも新地光輝に対抗しなければならないのだ。
そのためにも、今は石山本願寺の鉄砲部隊指揮官として信用を得るべきである。
「講和など時間稼ぎ! すぐに信長との戦いも始まる。その手下にすぎない新地光輝など、俺が撃ち殺してくれるわ!」
孫一は部下達の手前もあり、わざと大げさに故郷を占領した光輝打倒を口にした。
「それは勇ましくて結構なのですが、一つ残念なお知らせがありまして……」
「残念な知らせ?」
「はい……実は……」
その直後に孫一は、率いていた鉄砲隊の半数が勝手に雑賀荘に戻ったという報告を受けて出鼻をくじかれた。
これが、雑賀孫一の長年にわたる試練の始まりであった。
永禄十二年、織田家は珍しく戦をしていない。
唯一の例外は加賀であったが、越前の一向一揆勢を根切りにした柴田勝家は、戦で荒廃した越前の整備を行いつつ、加賀に兵を出して一向宗とぶつける事で越前から戦乱をなくす事に成功した。
いささか強硬な手段であるが、有効ではある。
内政手腕も悪いものではなく、次第に林、佐久間の宿老二人との差が縮まりつつあった。
四番手は若狭を与えられた丹羽長秀、五番手は東美濃に所領を持つ滝川一益、六番手に坂本に所領を持ち、既に織田家の家臣に偏っている明智光秀、それと大差ない西美濃墨俣周辺に加増された木下藤吉郎こと、今は改名して羽柴秀吉であろうか。
秀吉は改名に際して、柴田勝家と丹羽長秀から文字を貰っている。
柴田勝家は『小賢しい媚よな、サルらしいわ!』と文句を言ったが、拒否はしなかった。
勝家は自分の武勇と功績に自信があるので、周囲が秀吉の改名について悪くは思わないだろうと理解したからだ。
「嵐の前の静けさかもしれませぬな」
紀伊の統治で忙しい光輝の空いている時間を縫うようにして、羽柴秀吉が新地を訪ねてきた。
ねねが二人目の子供を身籠ったので、それを知らせに来たのだ。
一人目の子供は男の子で、秀吉は自分の幼名である日吉と名付けて可愛がっている。
「あのアホ将軍が、何か企むからですか?」
「大殿も、あのアホ相手に大変でしょうな」
幕府の力を増そうと努力するのはいいのだが、自分を擁立した信長追討を命じた密書を出し、それが失敗すると織田家が取った領地を自分の息のかかった家臣に与えろと言う。
秀吉からすれば、よく信長が激怒しないなという感じなのであろう。
「まだ利用価値があるとかで」
「利用価値があるのか……腐っても鯛なのか?」
「そんなところでしょうな」
秀吉は領地に戻り、光輝は紀伊の統治に精力を傾ける。
大金を投じて強引に開発を進め、たまに発生する地侍や武装僧侶達による一揆を鎮圧した。
いくら新地家が政策を説明しても理解してもらえず、それが嫌だと思う以上は容赦なく鎮圧していくしかない。
それでも生活がよくなったので、大半の領民達は新しい領主の施政を支持していた。
大規模な街道工事が進み、大和、伊勢、紀伊、河内・摂津へとアクセスが容易になって経済的にも発展を始めたからだ。
大和南部の発展を飴に大和の統治体勢を強化したい松永久秀も協力し、これも今のところは上手く行っている。
長島が陥落して伊勢が安定し、この跡地の工事も進んでいる。
今日子は二男二女、お市は二女、清輝の妻孝子も二男を産んで今は三人目を妊娠していた。
新地家には、安寧の日々が訪れていた。
「しかし、二人目だから次郎ですか? 安易な命名ですな」
「いいじゃないか! 元服したら名前を与えるんだし!」
正信から子供の名前について苦言を呈され、光輝はムキになって言い返してしまう。
ちなみに、お市の二人目の子も娘で、お江と彼女が名付けた。
光輝は『何か強そう』と言って、今日子に叱られてしまうのであった。
「兄貴、武田家って金持ちだな」
「金持ちというか、金だけは豊富だな」
絶賛内政中の新地家では、現在いかに織田家以外の大名家から利益を得るか努力を重ねている。
まずは、銅塊の買い取り。
実は、銅塊には大量の金と銀が含まれている。
明や南蛮の商人は、日本から銅塊を購入してそこから金と銀を取り出して莫大な利益をあげていた。
新地家でもそれを行い、多くの金銀を得ている。
万が一に備えて備蓄を行い、残りは金貨、銀貨、銅も永楽通宝を鋳造して世間に流していた。
武田家には黒川金山や湯之奥金山などの金山が存在し、甲州金として流通している。
これらと、不足しがちな食料などを交換するのだ。
小氷河期であり不作も多かった甲斐、信濃に食料などを輸出、代わりに甲州金を受け取る。
他にも、ビタ銭を永楽通宝に交換したり、甲州金と新地家鋳造の金貨、銀貨を交換したり。
新地家鋳造の金貨、銀貨は、鋳造技術の素晴らしさと重さと純度がすべて同じであったので甲州金よりも信用度が増し、信濃と甲斐の国人が備蓄や取引に使うようになった。
取引の窓口は光輝と仲がいい一益がいる東美濃経由で、そこから信濃、甲斐へと向かう。
仲介している一益にも利益があり、武田家の金保有量減少にも役に立っている。
今の織田家と武田家は同盟関係にあるので、この取引を止める理由もない。
むしろ、信長が推奨している。
飢えた狼である武田家に、ちょっかいをかけられると困るからだ。
武田家はとにかく強い。
甲斐はそこまで貧しいとはいわないが、山地ばかりで獲れる米の量は土地の面積から考えると低い。
その石高で、常に万を超える軍勢を率いて戦うのだ。
現地調達を期待しての行軍なのは、誰にでもわかった。
負ければ飢える軍勢が強いのは当たり前なのだ。
だから、信長は武田信玄にはえらく気を使っている。
贈り物も欠かさず、嫡男信忠と信玄の娘松姫との婚約も決めた。
せっかく開発が進んでいる尾張と美濃を攻められたくないのであろう。
「信玄は、駿河侵攻で忙しいんだっけか?」
武田家は、桶狭間までは今川・北条家と同盟を結んでいたが、今は今川義元の娘を正妻にしていた嫡男義信を廃嫡し、自害させて駿河を攻めている。
その前には西上野も版図に加えていて、信長は信玄を恐れていた。
「あんまり関わり合いになりたくない連中だな」
「飢えているから強いとか、あんまり自慢にはならないよな……」
三河を統一した徳川家も、今は今川氏の領土である遠江併合を目指して進撃中であった。
両者の間には、武田家は駿河、徳川家は遠江という密約が存在するらしい。
光輝が知っている時点で密約でも何でないが、そういう決まりなのだから仕方がない。
それよりも、弱ければ食われるという乱世の恐ろしさに光輝も清輝も恐怖した。
今川家が可哀想などと同情している暇など、光輝達にはないのだ。
「それで上手く切り分けたとしても、武田家が徳川家に攻め込まないという保証はないよね?」
「大丈夫なんじゃないか?」
織田家と武田家は半ば同盟状態にあり、織田家と徳川家も同盟状態にある。
まさか、そんな相手を攻めまいと光輝は思うのだ。
「でもさ、今川家を攻めるために、そこの娘を嫁にしていた嫡男まで排除したおっさんじゃん。それにさ、もう一つ気になる事があるんだ」
ヒキコモリの癖に、清輝は情報に聡い部分があった。
「武田信玄と本願寺顕如の嫁達、姉妹なんだけど……」
「えっ? そうなの?」
「葉子さんの義実家の出だね」
「ああ、そんな話もあったな!」
葉子が嫁いできた時に、そんな話を聞いたような気がする。
ただ、いくら婚姻を結んでいても戦になる時にはなってしまうのだ。
気にしても仕方がないと光輝は思っていた。
「葉子は、何も言っていないんだろう?」
「遠い親戚の半家から養女に入ったから、嫁いだ義姉達は顔を見た事もないって」
そんな状況では、『縁戚関係を利用して、両者が融和という策すら使えないのでは?』と光輝は思ってしまう。
もし武田家から何かを頼まれたとしても、光輝としても困ってしまう。
「一応、準備はしておかないと駄目かな?」
「火薬、増産しておこうかな。やっぱり紀伊からも糞尿を集めて硝石丘小屋の増築も必要だな。他の肥料と糞尿を交換するシステムと輸送網の構築を……」
光輝はまた戦争に駆り出されるかもと、急ぎ清輝と共に戦に備えて準備を始めるのであった。