5分で分かる論理学 これで充分?
論理学とは、、
人間の思考方法であり、
ある前提から、、結論を出すことである。
こうして人間は自然の謎を解き
論理を追求し神の存在を証明?してきたのである。
その際、用いる方法論が
論理学である。
論理学とは
いかに確実に
いかに明瞭に
いかに正確に
事物を省察するか
世界を証明するか
人知を裏付けるか
という方法論である。
論理学には
主として4つの方法論がある
その1
演繹推理、、、、人は皆死ぬ → 私は人だ → だから私はいつか必ず死ぬ。
デカルトのコギトエルゴスムもこれですね。
「われ思うゆえにわれあり。」
でも?これをこう茶化す?ひともいますよ、
『我思う、と思う、ゆえにわれありと、思う」
結局これって独我論、唯心論でしかないってことでしょう?
コギトエルゴスムも確実な論拠なんかじゃあないってことでしょうね?
前提が間違っていたら?それは致命的ですよね。
その2
帰納推理、、、観察した限りにおいて、カラスは黒い、だからカラスはみな黒い
これも前提が、間違っていたら?それでオシマイ?ですよね。
その3
仮説推理、、、、、もし、こうであったら、、こうなる、、だから、こうなる。
大胆な仮説をまず提起して、それからそれを検証してゆく方法です。
宇宙は膨張しているのではないか?
その証拠は?
星々は遠ざかってゆく。
だから宇宙は膨張している。
その始原は?
ビッグバンがあったはずだ。
と、、まあこういう論法ですね。
その4
直観推理 啓示によるヴィジョンも立派な?論理学?である。
なにしろ?神の御託宣?ですよ。これが真実でないハズがないでしょ?
神が私に挑み、神は私にこういった。
だから真実だ。、
これ以上の真理がありますか?
まあ
論理学ってのもですね、
所詮言語依存であり
人なるものは言語でしか考えられない存在ですから
言語の枠内の狭い認識でしかないってことです。
言語を離れて
言語以外で
あなたは事態を事物を世界を宇宙を
認識できますか?
描写できますか?
記述できますか?
論証できますか?
できないでしょ?
その意味で人間の認識は論理は
言語学?である?
という結論でしょうね。
聖書にこうあります
「コトバは神である」と、
そのとおりです。
コトバは人間にとっては唯一の神なのです。
コトバを離れては、何も認識できないそれが人間です。
ですから
「語りえないモノについては、、、沈黙するしかない」 ヴィトゲンシュイタイン
のですね。
でも?
コトバってそれほど厳密でもないし
科学的にきっちりしたものでもないし
あやふや?なものでしかないのが実態ですよね?
犬、、と言っても
あの動物の犬なのか
ソレトモ「ケイサツのイヌ」?なのか
それとももっと他の意味なのか?
判然としませんね。
こういう風にすべからく言語はあいまいでいい加減?です。
話す人と聞く人のツーカーの関係で分かるって言葉もあります。
「ねえ?
あれってどうなった。
ああ、、あれはもう終ったよ」
これってわかりますか?
当人同士はわかるのです。
こういうあいまいな言語というツールでしか人間は認識も論理もできないというお寒い?現実なのです。
じゃあもっと「あいまい言語」を除去して
コトバをより一層 厳密化、、数式化? 科学的言語にすればいいじゃないか。
という意見があるわけですよ、
でも
コトバを厳密化する?って実は出来ません。
コトバってそもそもあいまいでうやむやでいい加減なシロモノだからです。
それが言葉の本質です。
それを変える?なんてムリなんですよ。
かくして論理学もあいまい言語によるしかないのですから
論証も曖昧の域を出ないのです。
完全な100パーセントの論証なんて不可能です。
それが現実です。
だから?
非言語的な神秘的な神の啓示が
こんな科学全盛の現代でも
生き残っているのです。
それももうひとつの?真実だからです。