今のはなかったことにしてください!
長目の短編ですが、お付き合いいただけると嬉しいです^^
感想、ポイント評価、ブックマークを下さった方、本当にありがとうございます!
店舗の裏口の扉を開けたら、とんでもなく美人な男女がニッコリ笑って手を振っていた。
思わずバタン! と扉を閉めてしまった私は悪くないはずだ。
何今の。あからさまに場違いなんですけれど。
我が家は下町のパン屋さん。
裏口だけあって、そこは建物と建物の間の狭いスペース。
使い終わった小麦粉の袋やその他材料の空き箱も雑然と置かれていて、どう考えても貴族然とした人達がいる場所ではない。
いや、それを言ったら、そもそも「配達でーす!」と叫ばれるのならともかく、トントントン、と丁寧にノックされたのが、まず不自然だったんだけどね。
見間違い?
そっと、もう一度少しだけ扉を開けてみると。
柔らかなテノールとアルトが相次いで声をかけてきた。
「リリアさんだよね?」
「驚かせてごめんなさいね。ちょっと出てきてもらえるかしら」
見間違いじゃなかった。
二人とも私と同年代、十代後半くらいだろうか。恐らく兄妹なのだろう。手入れの行き届いた艶やかな銀髪に、濡れたような赤い唇。高貴な光をたたえる紫水晶の瞳に、すらりとしたスタイル。優雅で気品に満ちた佇まい。
気のせいかキラキラ後光まで背負っている。
私は自分のピンクブロンドの髪を、何となく手ぐしで整えた。
いやほら、あの銀髪には勝てないけどさ!
私だって撫で付ければ、何とか天使の輪っかくらいは出せるはずだ。
「どちらさまですか?」
「俺はノエル=ランカード、ランカード公爵家の者だ」
「私は妹のエレノア」
ランカード公爵家!?
それはこの国でも1、2を争う貴族の名前だ。
おののいた私に、美少女エレノア樣は意味不明の台詞を投げつけてきた。
「私たち、私たちの運命に会いに来たの。ゲーム開始期間まで待つのは性に合わなくって」
運命に会いに来た?
「貴女、『乙女ゲーム』とか『ヒロイン』とか聞いて、思い当たることがあるかしら?」
「……すみません、何のことですか……?」
「警戒ならしなくていいんだよ。だから正直に教えて欲しい。君は転生者かい?」
「……転生者?」
「ああ、大丈夫だ、俺は転生者ではないが、妹の知識と記憶は本物だ。エレノアは俺達の未来を知っている。エレノアの言う通りにすれば、君には幸せが訪れるよ。君の未来も、取るべき行動も、気を付けるべき行動も教えてくれる。だから君も、俺達を信じてくれないか」
熱い瞳で私に語りかけるランカード公爵家子息と、じっと私の反応を見つめているランカード公爵家令嬢。
何これ怖い。
私は途方に暮れた。
運命とか転生とか未来予知とか、新手の宗教のような単語が並んでいる。
そうか! これは宗教の勧誘だ。よく分からないが、きっと兄妹で目覚めてしまったエレノア教(仮)の布教に来たのだ。
新興宗教への正しい対応はただ1つである。
「すみません、今忙しいので!」
私は精一杯申し訳なさそうな顔で断ると、全力で扉を閉めた。ふぅ。
ものすごい貴族で、ものすごく美人なのに、ものすごく残念な人たちだったなぁ。
と、思ったのが約5時間前でした。
「何でまだここにいるんですか」
売れ残りと焼き損じのパンをバスケットに入れて家を出ると、目の前に停まっていた馬車から教祖さまの兄が降りてきた。
私は孤児院にパンを届けようとしているところだ。毎日とはいかないし、量も大したことないけれど、余ったパンを差し入れするのは、私の大事な習慣。迎えてくれる子供たちの、期待に満ちたピカピカ笑顔を思えば、早く行きたいと気も急く。
パン屋は朝が早い分、店じまいも早い。まだ空はうっすら青色で覆われているけれど、次第に西側から茜色もさしてくるだろう。そういう意味でも、足を留められるのは遠慮したい。
「君ともう少し話したいと思ったから。どこに行くんだい?送っていこうか?」
ここではいお願いしますと答えたら、1週間後の自分は、エレノア教の布教活動に従事している気がする。
「けっこうです!」
そのまま黙って早足で10メートル。50メートル。100メートル。
…………。
こっちが、こんなに一生懸命歩いているっていうのに、教祖兄はさしたる苦労もなくついてくる。
これはやはりあれか。足の長さの差なのか。
いやでも仕方ないじゃないか。そもそも身長が違うんだから、歩幅もかなり違うはずだ。私は小柄な方だし、決して私の足が特別短いわけではない。
全力でダッシュしたら振り切れるかなぁ…。
私は横目で隣を歩く美形を確認し、そして項垂れた。
キビキビした無駄のない所作。武器こそ帯びていないが、恐らく武術を嗜んでいるのだろう。勝てる気がしない。
これは、諦めて相手をし、出来るだけ早く穏便にお引き取り願うのが正解のようである。
「……教祖さまは?」
「教祖さま?」
「い、いえ、妹さん! エレノア様は居ないんですか?!」
「エレノアなら帰ったよ。君はどうやら何も知らないようだから。それだけ分かればまずは十分だ、と言ってね」
二人で一緒に帰ってくれれば良かったのに。
「エレノアには怒られたよ。俺の言い方が悪いから、君に警戒されたって。でもどうか聞いて欲しい。荒唐無稽に聞こえるだろうけれど、君にとって重要な話なんだ」
そこで教祖兄は、さりげなく「持つよ」と私のバスケットを取り上げた。
女性に対する心遣い? の行動だろうけれど……、ちょっとだけバスケットを人質に取られたような気分だ。
二人で並んで歩くと、周りからの目線が、集中放火で突き刺さった。
そうだよね、逆の立場なら私もガン見する。教祖兄は路地裏から出てきても、やはり後光を背負っていた。
小間物屋のターニャが、顔を真っ赤にして家から飛び出してくるのが見えた。
私と目が合うと、大きく口をパクパクさせる。
なになに? 『紹介しろ』?
新興宗教の関係者でもいいのだろうか。
「私の未来に、何か大事件でも起きるんですか?」
ナイナイ、と思いながら適当に問いかけてみると、教祖兄は驚いたことに頷いた。
「まだ気がついていないだろうけれど、君は強力な魔力を持っているんだ。しかも貴族にも滅多にいない光の属性。このままだと君は、それが分かって、近いうちに王立学園に入学することになるんだよ」
は?
「……。ええと?」
魔力を持っているのは、基本的には貴族だけだ。平民にはほとんどいないと言っていい。
それなのに先祖代々下町のパン屋の私に魔力? この人何言ってるの?
きょとんとした私に、教祖兄は苦笑した。悔しいけどドキッとするくらいカッコよかった。
「でも、俺が一番君に警告したいのは、魔力とか学園とかじゃなくて。君が『自分が自分じゃなくなる』ことの危険性と恐怖だ。俺の経験で言うと、それはカチッ、という乾いた音で始まる。俺達はスイッチって呼んでいるけれどね。君にもそれが起こる可能性が高い」
そこでちょうど三叉路に差し掛かった私たちは、自然と足を止めた。
「行き先はどっちかな?」
「右です。孤児院に行きたいので」
「うん。でも例えば今ここでスイッチが入ると。次にカチッと音がしてスイッチが切れるまで、俺達は自分の行動を自分で決められなくなる。心の中では右に行きたいと思っているのに、堂々と真ん中の道を進んでいく。そして、このパンは孤児院への差し入れだよね?その大切なパンを、例えば排水の溝の中に投げ捨てる」
「私はそんなことしません!」
教祖兄は首を横に振った。
「君の意思は関係ない。その時々で違うけれど、特定の発生条件を満たすと、未来は決められた方向へと流れ出す。どんなにそれが嫌でも、やりたくないと全力で抗っても、体は勝手に動いてしまうんだ。そしてスイッチを自分の意思で切る方法は、見つかっていない。出来るのは、スイッチを入れないように注意深く進んでいくことだけだ」
さぁ行こう、と教祖兄は私を促すと、右側の道をたどり始めた。
何でもないその行動が、その時だけはとてつもなく貴重なものに思えた。
「……俺とエレノアの決められた未来は、俺達が仲違いをし、最後は決定的に憎み合う方向へと流れている。エレノアは俺の恋人を憎み、俺はそんなエレノアを憎み、最終的にはエレノアを死に追いやるらしい。その流れに、俺達は今まで全力で抗ってきた」
重々しい口調で。真摯な眼差しで。
「少しでも気を許せば、望まない未来が牙をむく。俺は君に、それを伝えに来たんだ」
それがエレノア教の教義なんですか? とか、茶化すことができれば良かった。
でも教祖兄の真剣さは、そういった私の逃げを許さなかった。
だってこの人、私にこんな嘘をついて、何の得があるんだろう? ランカード公爵家の人で、ものすごく美形で、お金も地位も十分持ってるのに、こんなちっぽけな私をこんな嘘で騙して、何かいいことがあるだろうか?
いや、ない。布教活動を求めているわけでもないみたいだし。
話の継ぎ目を見つけられなくて、黙って歩いているうちに、目的地が近づいていた。
孤児院の門から、馴染みの子供たちが何人も顔をのぞかせている。
ああ、キラキラした笑顔で、今にも駆け出しそうにこっちを見ているのはアンだ。両手をブンブン大きく振っている。
「リリアお姉ちゃーん!」
「アン! 今行くから! 危ないから出てきちゃダメよ!」
アンは分かってるよーだ、って顔をして、後ろを振り返っている。
「院長先生ー! リリアお姉ちゃんが、ものすごいカッコいい彼氏連れてきたー!」
え?! 彼氏?!
「うわぁぁ、すごーい! 王子様みたい! リリアお姉ちゃんやるぅー!」
「ほんとだ王子様だ! 剣術ごっこをして遊ぼうぜー!」
「リリアお姉ちゃーん、その人どうやって捕まえたのー?! 教えて教えてー!」
しまった! そういう反応は予想してなかった!
「ノエル様、バスケットありがとうございました! じゃあここで!」
焦って振り返った私を、教祖兄改め王子様はおっとりと笑って制した。
「帰りも送りたいから付き合うよ」
いやいや、ここは空気を読んでくださいよ!
「……ええと、もみくちゃにされますよ?」
「いいよ。貴族をやってると、それは、かえって新鮮だ。あんな無邪気な頃、俺達にあったかな……。幼い頃は、今よりスイッチを避けるのが下手だったしな……」
クスクス笑いを含んでいた声が、段々しみじみとして、最後には独り言のように小さく。
私は何だかこの人が可哀想になってきた。こんな些細なところから、この反応。一体どれだけ地雷を持ってるの。
「大変だったんですね……」
思わずねぎらうと、ノエル様はちょっと驚いたように目を見張ってから、「ありがとう」と小さく呟いた。
結局私は彼にほだされて、からかわれながら孤児院を一緒に過ごしたあげく、しっかり帰り道も送ってもらってしまった。
合間合間に、それなりに話をしながら。ノエル様の王立学園生活とか、彼らの小さい頃の思い出とか。
そして、その夜、私は彼らの夢を見た。
夢の中で、アンくらいの年齢のエレノア様と、それより少し大きなノエル様、そしてもう一人、見知らぬ小さな令嬢が向かいあっている。
ノエル様がプレゼントの包みをその令嬢に差し出すと、突然兄妹の瞳がガラス玉のようになった。
そしてエレノア様は、小さな令嬢からプレゼントを無理矢理奪い取り、投げ捨てる。
「お兄様は私のものなんだから!貴女なんかにはあげない!」
激しい癇癪を起こしているのに、その瞳には何も映していない。
「エレノア! 止めるんだ。今日は彼女の誕生日だぞ、謝りなさい!」
「いや! 絶対絶対、お兄様は私のものよ! あんな子にプレゼントなんてあげないで!」
「エレノア! いい加減にしろ!」
ノエル様はエレノア様を突き飛ばした。エレノア様の可愛らしいドレスが砂にまみれる。
しかしエレノア様は負けずに立ち上がると、令嬢をキッと睨み付けた。グシャグシャに踏み潰されるプレゼント。泣き出す令嬢。走り去るエレノア様。
エレノア様が走り去ると同時に、ノエル様の瞳に生気が戻って。次の瞬間ノエル様は、エレノア様を追いかけて走り出す。
見つけたエレノア様の瞳は、先ほどと違う意味で涙に濡れていた。
「お兄様……私、私、そんなつもりじゃ……。勝手に体が動くの、あんなことするつもりじゃなかったのに。ごめんなさい、嫌わないで……嫌わないで……」
エレノア様を抱きしめるノエル様も泣いていた。
夜中に目が覚めて、私は自分に呆れてしまった。どれだけ影響されやすいんだ、私。
いくらエピソードは聞いたとおりとは言え、映像は全部妄想で補ってしまった。小さなエレノア様とノエル様はめちゃくちゃ可愛かった。いっそよくやった、私。
でも、容姿は可愛かったけれど、エピソードは可愛らしいとはとても言えない。小さな二人が目をつり上げて怒る様子も、大声で怒鳴り合う姿も、普段の二人とは似ても似つかないから。いや、そんなに二人のことを深く知っているわけじゃないけど。
エレノア様のスイッチは、ノエル様に女性が近づくと反応することが多いそうだ。そしてノエル様のスイッチは、エレノア様がノエル様の側の女性に酷いことをする時に発動する。それに気がついてからは、ノエル様は、自分の周囲に女性を寄せ付けないように、細心の注意を払ってきた。
それでもふとしたことでスイッチが発動すると。段々と罵り合う激しさが増している気がする、とノエル様は言う。
本当はそんなつもりはなくても。仲良くしたいと願っていても。
鋭い言葉のトゲでお互いを傷つけあうのだと。
それは、どれだけツラいだろうか。
そして、二人はそれを回避するために、普段からどれだけ神経をすり減らしているのだろうか。
私も、ちょっと真面目に考えようと思う。どんな風なのか想像なんて出来ないし、本当はからかわれているだけで、そんなこと起こらないのかもしれないけれど。
自分が自分の意思で動けなくなるなんて、やっぱり嫌だ。怖い。
明日もまた会いに来てくれるって言っていたし。詳しいことを相談しようと思う。
そう心に決めて、私はまた眠りについたのだった。
そして次の日から、我がパン屋は突如として大繁盛することになった。
だって超絶美形が二人も店内をウロウロしているのだ。
パンそっちのけの人だかりができ始めた時点で、ノエル様を会計係に立たせた私は悪くない。むしろ我ながらいい仕事をしたと思う。おかげでパンが飛ぶように売れる売れる。
補充に必死になったパン屋一家を見て、エレノア様もマフィンを焼いてくれた。美少女手作り焼きたてマフィンの売れゆきも素晴らしかった。
ランカード公爵家兄妹をタダ働きさせた平民は、きっと私だけに違いない。
「リリアが魔力を発現しないままでいるのが、一番いいと思うのよ」
エレノア様はマフィン生地を混ぜながら言った。
今私たちは、マフィンを作りながら、厨房の端でコソコソ会話中だ。エレノア様のマフィンはビックリするくらい美味しいので、この機会にコツを教えてもらう気満々だ。
曲がりなりにもパン屋の娘より、美味しいマフィンを作れる公爵令嬢。貴族って本当にすごい。多芸にも程がある。
しかしそのわりに、公爵家では厨房に入れてもらえなくて、初めて作ったとか言っているのはどういうことだ。
「リリアのスイッチは、学園に入学してからのものばかりなの。魔力さえ発現しなければ、学園に入学することもないわけだから安心だわ。それともリリアは、魔力が欲しいかしら?」
「いえ、ちょっと興味はありますけど。正直そのスイッチが怖すぎるので遠慮したいです」
「それがいいと思うわ。リリアは学園に行くと貴族の恋人ができるのだけれど、とりあえずお兄様とは、こうして縁ができたわけだし」
「な、な、な、何でそこで」
「リリアは可愛いしモテるだろうけれど、うちのお兄様もお買い得よ? ランカード公爵家も漏れなくついてくるわ」
ひえええぇ。
「エレノア様! 何言ってるんですか。それこそ貴族なんだから、お二人ともとっくに婚約者とか居るんでしょう?」
平民に対して、オプションでランカード公爵家とか、アピールポイントとしては重すぎます。
「居るわけないでしょう。迂闊なことをしてスイッチが反応したら嫌だもの。全力で回避中だわ」
「あ、そ、そうなんですか」
「ええ。だから、お兄様はチョコマフィンが好きよ? この次に焼きましょうね」
ニッコリ。その笑顔はかなり可愛いですが。
スイッチを回避するために、さぞかし毎日おそるおそる行動しているのだろうと思いきや、予想外の強力プッシュですね。クラクラします。
私は引きつった笑みを返した。
どんなに素敵でも、気安く接してもらっても、この二人は別世界の人達なのだ。それを忘れてはいけない。
お忍び町娘姿のエレノア様が今日身に付けているのは、私と同じような形のワンピースだ。でも形が似ているだけで、その色柄といい生地といい縫製といい、恐らく品質は天と地ほども差があることだろう。エレノア様のワンピース1枚で、私のものが何枚買えることやら。
厨房に入るにあたって、エプロンは私の予備を貸しているのだが、はっきり言ってエプロンだけが妙に浮いている。エレノア様は嬉しそうに身に付けてくれたし、私にとってはお気に入りのものではあるけれど、エレノア様の優雅な物腰と質の良い出で立ちに、若干洗いくたびれたエプロンが合っていないのだ。
それはそのまま、私と彼らとの違いだ。
「エレノア様は、大事なお兄様の恋人が、こんな平民でもいいんですか? 自慢じゃないけど、貴族の常識とかマナーとか皆無ですよ?」
私の問いかけに、エレノア様はお行儀悪く頬づえをついた。珍しい。
「そうねぇ。でもそれは、後からでも叩き込めばいいことだし。貴族より逞しいから、きっと鍛えがいがあると思うの」
「えぇー……」
「だって、あの町娘パワーを見てご覧なさい? お兄様がタジタジだわ」
え!?
慌てて振り返れば、ノエル様が少女たちにしがみつかれ、力ずくで振り払うわけにもいかず四苦八苦していた。
「ハイハイ、店員さんに近づきすぎですよー。離れて離れて」
慌てて一番近くに陣取っていたターニャを引き剥がす。ターニャは口を尖らせた。
「リリア! 邪魔しないでよ」
「他のお客様のご迷惑になりますから。だいたいターニャ、毎日何回も買いに来るけど、こんなに買って大丈夫なの? たくさん買ってくれるのはありがたいけど、食べきれなくて無駄にしたら許さないよ?」
よし、勝った。
無事にノエル様を救出して戻ると、エレノア様はクスクス笑う。
「お疲れさま。勝った! っていう顔してるわよ? やっぱりリリアは楽しいわね。リリアがお姉様になるのは大歓迎よ?」
「エレノア様。いい加減にしないと、スイッチが反応したらどうするんですか」
腰に手をあててメッ、と顔をしかめると、エレノア様は目を伏せた。マフィンの型に生地を流し入れる手を止める。柔らかなアルトの声が、心細そうに揺れた。
「どうせスイッチは誰にでも反応するもの。それならリリアだったら……もしも私がどんなに酷いことをしても、許されないようなことをしても。本当は本意じゃないんだって分かってくれるでしょう……?」
ああ、この人もこんなに傷ついてるのか。
私は言わせてしまった罪悪感に苛まれた。
この兄妹は、本当に可哀想すぎる。
私、エレノア様をぎゅうっと抱き締めていいですか? 手がちょっと粉まみれだけど許して欲しい。
「心配しなくても、スイッチが切れたら、一番に会いに行きます。だからエレノア様こそ、追い返したりしないでくださいね?」
わざとイタズラっぽく顔を覗きこむと、エレノア様は何度も頷いた。その瞳が少しだけ潤んでいるのは、見なかったふりをした。
「……さあ、マフィン作りの続きです! チョコマフィン、作るんでしょう?」
二人で大量に作ったマフィンは、売り物だけど3個だけ取っておいて、3人で食べました。とても美味しかったけど、ノエル様に渡すとき、何だか意識してしまって、恥ずかしかったのは秘密だ。
「それにしても、どういう状況でリリアの魔力が目覚めるのか、分からないのは痛いな」
ノエル様が呟いた。
相談した結果、孤児院への差し入れには、必ずノエル様が付き添ってくれることになったのだ。
届けにいくのは、どうしてもパン屋を閉めた後の時間帯になってしまうので、往復で何かあったらいけないと警戒してくれているのが理由の半分。もう半分は、なつかれてしまった孤児院の子供たちに会うため、とのこと。
エレノア様は出がけに「お兄様アピールチャンスよ」と握り拳を作っていたが、見なかったことにした。ノエル様が「頑張るよ」と返した気がするが、そちらも聞こえなかったことにした。意識してしまうのでやめてください。
「何かの危機に瀕して、無我夢中で発動する、っていうのが物語のセオリーですけど……」
「今までに、そんな兆候はなかったよな?」
「もちろんです」
ただの町娘が、そんなにホイホイ危険に出会うわけもない。
「エレノア様は何て言っているんですか?」
「リリアが魔力を発現して、王立学園に入学してくるのがそもそもの前提になっているらしくて、それ以上詳しいことは分からない、と」
「困りましたね……」
そんなことを話していると、ターニャがブンブン手を振りながら駆け寄ってきた。
「いつもの孤児院に行くの? ちょっと寄ってかない? 可愛い新作入ったんだ」
一応誘ったのは私だけど、チラチラ目線が向かうのはノエル様。ダシにしているんですね、分かります。
渋る私をグイグイ引っ張って、連れていかれたのは髪飾りの棚。色とりどりのキラキラ光る石の嵌まった、髪留めが並んでいる。値段もお手頃だし、地金部分は透かし彫りになっていて、確かにこれは可愛い。
ほわわーん、と思わず手を伸ばした私を飛び越えて、ターニャのよそ行きの声がした。
「ノエルさんもどうですか? 女性だけじゃなくて、男性にも人気なんですよ! 贈り物にするんですって。自分の髪や瞳の色のものを、恋人さんや好きな方にどうですか? ってオススメしてるんです」
「へえ……。そうだな。貰おうかな」
ノエル様、決断早いですね。
ターニャの熱い視線が向かう中、ノエル様が手に取ったのは、ピンクゴールドの地金にエメラルドグリーンの石が嵌まったものだった。
あれ? その色合いは……。
「ノエルさん、それ、リリア?」
ですよね!
私はピンクブロンドの髪にグリーンの瞳なのである。
「妹が喜びそうな気がしてね」
なるほど、エレノア様へのプレゼントですか。
やっぱり仲がいいなぁ、とニコニコした私をチラリと見て、ノエル様は続いて、もう1つを手に取る。今度はシルバーの地金に紫の石。
そして、それをサラリと私の髪につけた。
「!?」
「似合うよ」
ピンクブロンドの髪をいとおしむように撫でると、頭頂部に軽く口づける。
「ノ、ノ、ノ、ノエル様、な、な、な、何を」
「この2つを貰うよ。シルバーのものはこのまま付けていくから、ピンクゴールドだけ、包んで貰えるかな」
唖然としてしまった私が我に返ったのは、小間物屋を離れてからだった。
「ノエル様! からかわないでください。私、こんなの受け取れません」
ターニャのジトーっとした目付きが怖かったし。これは後で何か言われるな。
「からかってなんかいないよ。俺がリリアにプレゼントしたいんだ。それともエレノアとお揃いは嫌かい?」
あ、そうか、エレノア様と色違いのお揃い……。そうか、つまりこれは妹枠のプレゼントなんですね!
ということは、シルバーの地金も紫の石も、エレノア様の色だからか。なんだ、動揺して損した。
ちょっと残念な気持ちがしたのには蓋をして、私は首を横に振る。
「嫌だなんて! こちらから全力でお願いしたいくらいです! だから、私、自分で買いますね。お金を受け取ってくれますか?」
「ダメだよ。俺が、リリアにプレゼントしたいんだっていっただろう?リリアの、優しくてお人好しなところが好きなんだ。エレノアと仲良くしてくれているお礼でもある」
あれ? 今さらっと好きって言われた?
「私、優しくもお人好しでもないですよ!」
「リリアは優しいよ。リリアは、俺達兄妹のことを、何て可哀想なんだろうって思っているだろう?」
私は息を飲んだ。確かに思っている。だって、スイッチなんて訳の分からないものと、小さな頃からずっと戦ってきたんだって思ったら、そう思うのを止められなかった。
でもそれは失礼なことだっただろうか。
「気に障っていたら、ごめんなさい、私……」
「いや。俺達は、そう思って貰って、本当に嬉しかった。この話を人に打ち明けるのは初めてだし、我ながら、正気を疑われるような話をしている自覚はあるからね。でも何の証拠もないのに信じてもらえて、大変だったんですねといたわってもらえて。胸に染みたよ。涙が出そうなほどに」
ノエル様は、少し黄昏た空を背景に、とても柔らかく笑いかけてくれた。
「自分にもスイッチが起こるかもしれないと聞いて、怖くないわけがないのに、それを後回しにして俺達を気遣えるリリアは、本当に優しくてお人好しだと思うよ」
私はどんな顔をしたらいいか分からなくて俯いた。きっと今、耳まで真っ赤だ。
ものすごくカッコいいノエル様に、そんな風に言ってもらえたら、どうしたらいいか分からなくなる。
「あ、えと、じゃあ、……ありがたくいただきます……」
どうしても胸に沸き起こる暖かくてフワフワした気持ちを抱き締めて、私はお礼を言ったのだった。
しかし私たちのほのぼのしたムードは、たどり着いた孤児院で霧散した。
もうすぐ夕暮れ時の街角。門の辺りで、人影が慌ただしく幾つも行き来している。
「院長先生! どうしたんですか?」
「リリア、いつの間にかアンがいないの。迷いこんできた猫を構っていたらしいんだけど、そのまま外に出てしまったようで」
まだ帰ってきていないなら、確かに大問題だ。暗くなってしまうと探しにくくなるし、危険も格段に上がる。
アンの今日の服装を確認すると、私たちも探すのを手伝うことにした。人手は多いほどいい。
ふと気づくと、ノエル様の周囲に男性が二人ほど控えていた。ノエル様が何か言い、男性たちが頭を下げる。そのまま走り去っていく男たちを見送ると、ノエル様は振り返った。
「リリア、俺達も探しにいこう。リリアは念のため、あまり俺から離れないように」
「ノエル様、さっきの人たちは?」
「彼らは俺についていた護衛だ。アンの捜索に回ってもらった」
「ありがとうございます……!」
「アーン! いたら返事をしてー!」
私たちは小走りに大通りを抜ける。
ああ、一体どこまで行ってしまったんだろう。猫を追いかけていたなら、細い路地に入り込んでしまった可能性も高い。人目につかないところで、怪我をしたり具合が悪くなったりして、動けなくなっているのだろうか。それとも、誰か悪い人にでも捕まってしまったのだろうか。
そう考えて、私はゾッとした。今頃、きっと泣いている。早く見つけてあげなくちゃ。
どんどん迫る夕闇。気が急いている私を、その時、細い路地の入り口で手招きした男性がいた。
年の頃は30歳手前。無精髭が生えていて、あまり清潔ではない身なりをしている。普段だったら絶対近づかないタイプの人だ。だが今は、何よりアンの情報が欲しかった。
「女の子を探しているんだろう? どんな格好だい?」
「茶色の髪と青い瞳、薄い水色のワンピースです! どこかで見かけませんでしたか!?」
「そういう感じの子なら、この奥で見たよ。案内しよう、こっちだ」
見た!? 良かった、アンを見つけることができる!
私は手招きする男性に駆け寄りながら、少し離れたところで同じく通りすがりの人に、アンを見なかったか尋ねているノエル様を振り返った。
「ノエル様! アンを見かけた人がいます! こっちです!」
「!? リリア、待て! 一人で行くな!」
ノエル様の制止と、私が男のところにたどり着くのは同時だった。グイっと強引に腕を引かれ、路地裏に連れ込まれるのも。
男の足は早かった。私が反射的に抗ってもびくともしない。土地勘もあるらしく、一層薄暗い路地裏をどんどん奥へ奥へと入っていく。この流れはまずい。
「離して!」
私は振り払おうとしたが、逆に男の手が、ぎりぎりと私の腕を締め上げた。痛みで涙が出る。踏ん張ろうとしてもダメで、たたらを踏んだところを更に引きずられた。
嫌! 怖い……!
奥から更に男たちが現れたのを見て、私は半分パニックに陥った。
「待て!」
その時、路地裏の入り口から、ノエル様が飛び込んできた。私を引きずる男よりは足が早く、どんどん追い付いてくる。
奥からきた男たちより、辛うじて半瞬早く私を奪い返すと背中に庇った。
間髪いれず殴りかかってくる男の拳。ノエル様はそれを避けた。そのまま相手のお腹に蹴りを入れながら、私に指示を出した。
「リリア! 行け! 路地から出ろ!」
私は咄嗟には動けなかった。ノエル様の言う通りにしなきゃいけない。私は足手まといにしかならないから。
私が後ろにいる限り、ノエル様も逃げられない。男たちの狙いは私だ。恐らく、拐って売り飛ばす気なのだ。だから、まず私が逃げて助けを呼ばないといけないのだ。
ノエル様を一人置いて、逃げなければならないのだ。
私には、奥からきた男たちが、懐からナイフを取り出すのが見えてしまっていた。
男たちは諦めていない。ノエル様を倒して、私を拐うことを。
ノエル様には、きっと武術の心得があるのだろう。身のこなしからそれが分かる。きっと強いのだろうとも思う。
でも丸腰だ。丸腰で、ナイフを持った男3人を相手にするのだ。どれくらい持ちこたえることができるだろうか。
私は泣きそうになった。
どうしよう。さっきアンを探すために、ノエル様が護衛を手放してしまったのを見た。私が路地裏から出ても、すぐに助けは見つかるだろうか。
ノエル様が怪我をする前に、間に合うのだろうか。
「リリア! 早く行け!」
私は弾かれたように背後に向かって駆け出した。
ああ、どうして私はこんなに無力なんだろう。助けを呼ぶために逃げることが、唯一の出来ることだなんて。
お願いします、神様。ノエル様を守ってください。
自分の無力に歯噛みしながら、もつれる足を必死に動かしていた私に。
その時天啓が閃いた。
神様なんかに祈らなくても、いい。ノエル様を助けるための力ならある。他ならぬ私の中に。
強力な光属性の魔力が。
私は震えた。
魔力を発揮したなら、代償は今までの平穏な生活だ。平凡なパン屋の町娘として、家の手伝いをしながら過ごす日々は終わりを告げ、今まで想像もしていなかった世界へ行かなければならなくなる。
ノエル様たちが言う通りになるなら、王立学園で、貴族たちの中で、ただ一人の平民として過ごすのだ。きっと辛いことが山ほどあるだろう。スイッチとも戦わなければならない。
怖い。怖い。怖い。
でも、それでも。
今ノエル様を守ることができるなら、その方が大切なのではないだろうか。
路地裏の出口まで、あと半分のところで、私の足が鈍った。
背後では乱闘音が絶え間なく響いている。今私が知らないふりをしたせいで、ノエル様が大怪我をしたら。私はエレノア様にどんな顔をして会えばいいのだろう。
私は体の中に意識を集中した。魔力はどこ?どうやったら発現できるの?
分からない。分からないなりに神経を研ぎ澄ませるけれど、魔力が使えそうな気配は欠片もない。
ああ、ダメだ。こんなことじゃ、やっぱりノエル様を助けられない。ノエル様とエレノア様に、魔力を使うコツを聞いておけば良かった!
1度立ち止まって集中すれば違ったのかもしれない。けれどその時間も惜しかった。1度鈍った足を叱咤して、私は路地から転がり出た。息切れしたまま、できる限りの音量で叫ぶ。
「誰か! 誰か助けて……! お願いします! 助けて!」
それから、ノエル様が無事に路地から出てくるまでの時間は、私にとって限りなく長かった。
「ノエル様……! 怪我は!? 怪我はありませんか!?」
路地裏から出てきたノエル様に、私は駆け寄った。パタパタと忙しなくノエル様の体を確かめる。
「大丈夫だ。かすり傷だよ」
二の腕と太ももから、何ヵ所か血が滲んでいた。服が切れている箇所はもっとある。頬と両拳にも擦過傷。
でも、無事だ。大きな怪我はない。無事だ……!
「よ、良かった……」
力が抜けた。くずおれそうになった私を、ノエル様が抱き留めた。
「リリアが叫んだ時点で、男たちは逃げ出したんだ。ありがとう、助かったよ」
だから泣くな、と困ったように言われる。ノエル様の指が私の頬を拭った。
「すみませんでした、私のせいで……」
「気にするな。リリアは可愛いからな。変な奴も寄ってくるんだ。何事もなくて良かった」
おどけたように言うノエル様に、泣き笑いが零れた。
可愛い、だって。もっとロマンティックに言ってくれたら盛大に照れるのに。慰めるために言ってくれているのが分かるから、乙女モードで受けとめるわけにもいかないや。
それでも離れがたくて、私はそっとノエル様の服を握った。ノエル様は私の背中に手を回して、落ち着かせるようにゆっくりと撫でた。
事態が落ち着いたと見て、周囲にできていた人垣が崩れ始めた。結局、ノエル様は一人で、私と自分の身を守りきったのだ。何て凄い人なんだろう。
今さら巡回の騎士が、騒ぎに気がついて走り寄ってきた。その騎士には、野次馬たちが事情を説明してくれている。有難いのでお任せすることにした。ついでにアンを探すのも手伝ってくれないだろうか。
そうだ、アン!
「ノエル様、アンを探さなきゃ」
「リリアは帰るんだ。もう暗くなる。危険なのは分かっただろう。リリアまで居なくなったら困る」
そう言われると返す言葉もない。
抱擁を解かれて、送るから、と促された。逆らわず、私も「はい」と頷こうとした。頷くはずだった。
その時、カチッ、という音がしなければ。
え?
私は操られるように、ノエル様の後方に視線を向けた。
向こうから、とぼとぼと歩いてくる小さな影がある。肩までの茶色い髪。薄い水色のワンピース。きっと瞳は青。
「アン!!」
私の呼び声に、ノエル様が驚いて振り返った。
「……! リリアお姉ちゃん?!」
アンの顔が上がり、キョロキョロと辺りを見回した。既に涙声だ。私の姿に気づくと、転びそうな勢いで走り出す。周りなんか見る余裕もない全力疾走だ。
私はノエル様の腕から離れ、しゃがみこんだ。アンに腕を差しのべる。おいで、と。アンを抱き留めるように。抱き締めるように。
しかし、私は心の中では絶叫していた。
アン! 来ないで!!
アンの更に後方から砂ぼこりが見えていた。地平線までも続きそうな、白い轍を刻みながら。早足で駆けてくる影が、見えていたのだ。
アン! 来ないで! 飛び出しちゃダメ!!
全力でアンを押し留めたい。もしくは私もアンに走り寄って、抱き留めるのでもいい。それなのに、どうして私の声は出ないの。どうして私の体は動かないの。
アンに警告を。お願い!
ノエル様お願い! アンを止めて!!
2頭だての馬車だった。こんな時なのに、馬車の上に広がる薄藍と茜色の混ざる星空は、心に染みるほど美しかった。
血相を変えるノエル様。馬車を止めようと駆け出す騎士。恐怖に染まる馭者。野次馬から漏れる甲高い悲鳴。その全てが薄暮の中に沈んで。
私の眼前で、アンの体が宙に舞った。
私はフラフラと立ち上がった。
地面に叩きつけられたアンの側には、すでに血溜まりができ始めていた。膝をつく。アンの足が、通常ではあり得ない方向へ曲がっていた。額から頬にかけて走った傷口からは、鮮血が吹き出していた。
アンに向けて差しのべた私の手を、ノエル様が取った。
「リリア。動かしてはダメだ。誰か医者を! 早く!」
私は視線も向けないまま、ノエル様の手を振り払った。ノエル様が訝しげに私を見る。再び私の手を取る。振り払う。手を取る。振り払う。
「リリア?」
ノエル様が私の両肩を掴み、無理矢理私を自分の方へ向き直らせた。それでも合わない視線に、ノエル様は愕然となった。
ごめんなさい、ノエル様。
私、スイッチを避けることが出来なかった。
アンに向けて差しのべた私の手が、淡く光り始めていた。先ほど全く手も足も出なかったのが嘘のように、魔力が発動しようとしている。
私は、この効果を知っている。これは癒しの光だ。アンを癒すためのものだ。
次第に強くなる光に、野次馬が、息を飲んだのが分かった。周囲の全てから食い入るような視線が注がれるなか、私はアンを撫でる。
アン。今治してあげるからね。
視界の端に映ったノエル様は、その秀麗な顔を痛ましげに歪めていた。
ノエル様。そんな顔をしないでください。
確かに私は今、何一つ思い通りに動かせない体の中で、黙って世界を見ているしかできないけれど。
私、さっき、自分の意思で、1度は光の魔力を発動する覚悟を決めたんです。
だから、それが今になっただけ。
むしろ、スイッチが発動して良かった。今度は失敗せずに、きちんとアンを助けることができるもの。
私の手から閃光が溢れた。目を開けていられない程の強さ。
その中で、アンの体がみるみる修復されていくのを感じる。これで、もう大丈夫。そう思ったところで、私の意識も薄れていく。
世界が真っ暗になる直前に、また、カチッという音が、私の中でやけに大きく響いた。
王立学園の入学式の日は、抜けるような晴天だった。
私に光の魔力があると判明した後は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎになった。家族は仰天して腰を抜かし、何人もの役人が、私の魔力をテストするために訪れた。
色々と紆余曲折もあったけれど、最終的には私は今、真新しい制服を身につけて、王立学園の正門前に立っている。
そうそう、嬉しいことに、アンは元気だ。バタバタしていて、差し入れに行く頻度は減ってしまったけれど、顔を合わせる度に、変わらないピカピカ笑顔を向けてくれる。ノエル様とはどうなってるのー? なんて、おしゃまな質問をしてくるのも、困るけど可愛い。本当に、アンを助けることができて良かった。
ちなみにアンを癒した時以降、1度もスイッチは起こっていない。
エレノア様は、私のスイッチは王立学園に入学してからが多いのだと言った。何と私は、黙ってスイッチに従っていると、高位貴族の誰かと恋人同士になるらしいのだ。しかもその候補者は複数。
それを聞いた時は唖然とした。何故そんなことになるのか。もっとも未だに顔も知らない誰かと、勝手に自分の体がイチャイチャしても困るので、スイッチについては今後全力で回避していく所存である。
それでなくても、学園で唯一の平民として、悪目立ちするのは確実なのだ。当たらず触らず、隅っこで細々と平穏に過ごしたい。
心強いのは、この学園にはノエル様とエレノア様もいることだ。
ノエル様は2学年上、エレノア様は同学年。エレノア様とは同じクラスになれたら嬉しいんだけどなぁ、どうだろう。
二人とは、スイッチ回避で協力しあう仲間として、これからも共闘していくのだし、それでなくても私は二人のことが大好きだ。是非これからも仲良くしていきたいと思う。
さて、行くか。
私は気合いを入れて、いざ王立学園に足を踏み入れた。
カチッ
!?
私は心中ガックリと項垂れた。
今!? さっそく今なの!? スイッチの発動早すぎませんか。こんなの、どうやって避けるんだ。
ううう、ノエル様、エレノア様。スイッチの回避って、本当に大変なんですね……。
私の体はそんな心中も知らず、軽やかに校舎に向けて歩き出す。
ピンクゴールドの髪を靡かせる、爽やかな春の風。
校舎までは、桜の並木道。他にも、パンジー、チューリップ、ガーベラ、ヴィオラ。色とりどりの花々の咲き乱れた花壇が、等間隔に整備されている。
そして、その中でも一際立派な桜の木の下に、ノエル様が立っていた。
ノエル様も制服姿だ。王立学園は基本的に貴族が通う学校だから、その制服も貴族が身に付けることが前提の、上質できらびやかなもの。それは簡素なお忍び服より、断然ノエル様に似合っている。
もたれていた木から体を起こし、ノエル様はこちらを見た。しかし、確かに私が視界に入ったはずなのに、その表情には何の変化もない。もしかしたらノエル様も、スイッチ中なのだろうか。
真っ直ぐ校舎へ歩む私が、ちょうどノエル様地点を通過する、まさにその時。
私は盛大につまづいた。
えええ。足元には何もないぞ。なぜこんな平らなところでつまづくんだ。
心中で突っ込んだ私をよそに、慌てた風のノエル様が、転びそうになった私を支えてくれる。綺麗な紫水晶の瞳をみはって。
「大丈夫?」
「は、はい。すみません、ありがとうございます」
「新入生だね。俺はノエル=ランカード。君は?」
「リリアです。宜しくお願いします」
宜しく、と笑むノエル様は、やはりスイッチ中のようだ。初対面の挨拶とかしてるし。どうなってるのこれ。
ノエル様は私の頭に手を伸ばす。
「桜の花びら、ついてるよ」
つまんでフワッと風に放すその動作は、見とれるくらいカッコ良かった。スイッチ中の私が、ぽーっと見惚れたのが分かった。
「じゃあ、気をつけて」
「はい! ありがとうございました」
お辞儀をしてから歩き出した私。ノエル様に見送られて、1歩、2歩、3歩、4歩、5歩。そこでカチッとスイッチが切れる。
私は速やかに180度方向転換して、ノエル様へ駆け戻った。
「ノエル様!」
「リリア。おはよう」
どうやらノエル様のスイッチも切れているようだ。
「おはようございます。今のスイッチですよね?いきなりでビックリしました」
「わざとなんだ。初めてスイッチを自分から発動させたよ」
「え?」
スイッチ回避で共闘するはずの仲間から、まさかの裏切り発言が出ました。
しかも、どういうこと?
だって私のスイッチは、恋人ゲットにつながるものばかりだって、エレノア様が……。
……まさか。
ノエル様は、イタズラが成功した子供のような笑顔で言った。
「俺とリリアが恋人同士になるスイッチもあることは、エレノアから聞いたかい?」
……やっぱりか!!
私は衝撃で大混乱に陥った。自分の顔が一瞬で真っ赤になって、次の一瞬で真っ青になったのが分かった。
じゃあ、何ですか。さっきのが、その最初の1歩だったと、そういうことですか?
私はじりっと後ずさった。少しずつ、少しずつ、ノエル様から遠ざかる。
スイッチを全力で回避しようと決意した端からこの仕打ち。
お願い、ちょっと待って。タイム! タイムを要求します!
「えと。私、そろそろ行きますね……」
私が逃げようとしているのは分かっただろうが、ノエル様は逆らわなかった。優雅に笑って、またね、と返す。
それには返事をせずに、私は脱兎のごとく、その場から逃げ出した。心の中で、この言葉を叫びながら。
今のはなかったことにしてください!!
しかしもちろん、スイッチには、やり直しは存在しないのである。
お読みいただき、ありがとうございました^^