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それでも、彼に
作:水音灯


 眼を閉じて、数をかぞえる。
 心安らぐはずがないことなぞ分かっていて、そうせずにはいられなかった自分の弱さに羞恥の念が湧き上がった。

 たとえば彼ならば、こんなときも従容と決定付けられたものを受け入れるだろう。

 思うそれは、推測ではなく確信だった。
 だからこそ。
 こうして数でもかぞえているより他に、するべきことはなかった。
 すべては、決定付けられてしまったのだ。
 今朝方、船が帰還したそのときに。
 
 

 あの聖なる船が港に還りきたるまで、この市は死刑を延期する。
 その法が、彼を今日まで生かしていた。
 若者を惑わしたかどで30日も前に死刑を宣告され、獄につながれた彼が、生きることを赦されていたのだ。

 30日。

 これまで生きてきた年月を思えば、短いと言えるのかもしれない。
 それとも、この一瞬の果てしない長さを思えば、あまりあるほど長かったのかもしれない。
 今となっては遠く過ぎ去ってしまったその時間は、彼の妻や息子や娘や・・・彼を慕うすべての者にとって、恐ろしい時間だった。

 明日にも、もしや今日にも船が還るのではないか。
 そう怯えながら、牢獄の彼を訪ねつづけた日々だ。

 彼は、いつも穏やかに微笑んでいた。
 その手がどんなに震えていても、けっして顔をうつむけることはなく。
 ゆるぐことのない視線を私に与えた。

 私は、訪ねるたびに彼に言ったものだというのに。


「どうか、お逃げください」


 その手段も財産も、私にはあった。
 彼が生きるなら、この世界のどこかで存在し続けるなら、私の名誉も財産も、それこそ何もかも失って構わなかった。


「それはできないよ」


 そして、懇願するたびに、彼は言うのだ。
 その誘惑を、完膚なきまでに退ける論理で。


「私はこの市で生まれ、この市で育った。
 この市の法に庇護され、その恩恵を受けてきた。
 私にはこの市を後にする自由があった。
 しかし、それを選んだことはない」


 静かに紡がれる言葉が、薄暗い牢獄の中に響きわたる。
 どこまでも限りない、光の標のように。


「今、逃亡すれば、法は私に言うだろう。
 お前は、今まで私の保護下にあり、それに満足していた。
 今、法が正当な理由をもってお前を殺そうとしているとして、お前は逃げるのか?
 逃げた先で厚顔無恥にも学識ある人間と談笑し、議論をするのか、と」


 市場で人々と言葉を交わすのと、何ら変わらない口調で彼は言う。
 その帰着する先を知っていて、私はそれでも彼の言葉を否定することができなかった。
 

「国法は神聖にして、侵すべからざるものだ。
 私は既に一度、法を侵した。
 たかだか私一人のいのちのために、再び侵すことはできない」


 きっぱりと、彼は言った。
 そのいのちが、彼の息子たちにとって、友人である私たちにとって、どれほど希求されているかが分かっていて。
 それでも、彼は言ったのだ。
 その手はもう、震えてはいなかった。
 私を見る眼は、静謐にして、希望に満ちていた。


 たとえば、彼を昏倒させて獄から連れ出すことを、獄吏は妨げもしなかったろう。
 それほどには、つけとどけの額は大きかった。
 その名前だけを、この国に葬って、彼自身はどこか異国で彼の家族と静かに暮らせるように取り計らうことくらいは、私にもできた。
 
 彼が生きているのならば、どれほど蔑まれようと構わない。
 国も、法も、どうだっていいのだ。
 彼が、そこで生きて笑っているのならば。
 幾度、そう思ったことだろう。
 


 そうしなかったのは。

 それが、彼に対する冒涜であったからだ。



 眼を開けて、その眩さに手をかざす。
 エーゲ海は青く、光に満ちていた。
 彼が死んだ今日さえも。


 獄吏がその扉を開けたとき、彼は微笑んで出迎えただろう。
 差し出された毒ニンジンの汁を、笑って飲み干しただろう。

 ただひとつ。
 彼が、少しでも苦しまずに旅立てたのならば、いいと思う。


「しかしもう去るべき時が来た。
 私は死ぬために、諸君は生きるために。
 もっとも我ら両者のうちいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より他に誰も知る者がない」




 法廷で、彼が述べたときに。
 私は、知っていたのかもしれない。
 こうなるだろうことを。
 知っていて、その上で尚。
 願わずにはいられなかったのだ。


はじめまして。もしくは、お久しぶりです。
水音灯と申します。
あなたがそこに居てくださることが嬉しいです。
この物語を読んでくださってありがとうございます。

この作品は、『ソクラテスの弁明 クリトン』からの二次創作です。
ご感想・ご批評などいただけると嬉しいです。













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