第8の国 「友情、愛情」
次の日には啓太も何時もの笑顔で話してくれが、しかしやはり気にしているらしく昨日の夜のことは話題に持ち出さなかった。
吾吏須もその話題にはあまり触れられてほしくなかったのでありがたかったのだが。
しかし、何故かその日から少し距離を置かれている気がしてならい。こんなことなら、おどけた返事をした方が良かったと吾吏須は後悔していた。
そして、とうとう桜花祭まであと1日と迫った日、吾吏須と啓太は愛に買い物を頼まれ電車でデパートまで行くことになった。
「まったく、女王様が頼まれたことなのになんで俺達が」
駅で電車を待っている吾吏須が愚痴を零す、それを横で啓太が少し苦笑しながら受け止めた。
「仕方ないよ、だって女王様の方が忙しいから」
「そうだけど……それにしても、電車使わないと店が無いってのも不便だよな」
「たしかに、しかも土日だから満員電車は覚悟しないとな」
すると、駅のアラームが鳴り電車がホームに入ってくる。やはり祝日とあって電車はこれ以上人が入るのかというくらい人が多かった。
その混雑を見ると、次の電車に乗りたいと思ったが、きっとこの次の電車も同じく満員だろう。仕方なく少し無理に電車の中に入る。
「人多いな……」
電車の中は隙間なんて無いほど窮屈だった、しかし吾吏須にとってはそんなもの問題ではない。他にもっと大変な問題があった、それは目の前の啓太との距離。
「近い……ッ!」
吾吏須の今の体制は、二人の身長差のせいで啓太の胸に顔を押し付けるような形だ。それはあの日を思い出すには充分すぎた。
あの日もこうやって啓太の顔が近くにあり、そして身体から温もりを感じていた。また鼓動が高鳴ってしまう、どうか気付かれないように必死に鼓動を沈めようと別のことを考える。
しかし、それでも啓太の存在が気になってしまう。こんな至近距離まで近付いたのは、あの日以来なのだから。
「さすがにキツイな」
「えッ……あぁ! そうだな」
きっと啓太はこの理論的に少し不可能だと思ってしまう満員電車のことを言っているのだろう。しかし吾吏須はこの至近距離の方が辛い。
電車の振動のおかげで鼓動には気付かれないかもしれないが、顔が赤くなりそうだ。実際、今も少し赤くなっている。
すると、背後に居る男が異様に吾吏須の身体にくっ付いてきた。これは満員電車なのだから仕方ないと思ったが、次の瞬間。
――は、なんだよこいつ!
急に吾吏須の下半身に触ってきたのだ。たまたま触れてしまった程度では無い、どう考えてもそれは意図的に触ったようにしか思えない触り方だった。
手の平を尻に当て、そのまま擦るように上下に動かされる。これが噂の痴漢というものだろう。
しかし、今まで痴漢をされるというのは女性にしか縁の無いものだと思っていた吾吏須は、この状況に対応できなかった。
この場から逃げ出したい。しかし、それは満員電車の中では不可能に近かった。だが、此処で痴漢だと叫ぶ勇気など吾吏須には無かった。
そもそも、男で痴漢にあうなど一般的にはありえない。たしかに、女性ならばと信じてもらえるだろう。しかし男の場合はただ当たってしまったで済まされるかもしれない。
すると、吾吏須が何も反抗しないのをいいことに、痴漢はさらにエスカレートしていく。触っていただけの手が除序に激しくなっている。
こすり付けるような力、そして揉み解すように握られる。
「ひッ……!」
口から微かに零れた悲鳴、先ほどから吾吏須の様子がおかしいことに気付いた啓太は心配そうに声をかけた。
「どうした? 何かあったのか」
「な、なんでもない……なんでもないから」
啓太に心配をかけたくない、何より吾吏須のプライドが許さない。男で痴漢に会うなど、そんな恥ずかしいこと啓太には知られたくない。そんな思いから、吾吏須は啓太に嘘をついた。
納得したのか、少し疑問が残っているみたいだが啓太はそうかと小さく呟いた。
あと、少しで目的の駅だ、それまで少し我慢すればいい。そうすればこの満員電車からも、痴漢からも抜け出せる。
そう考えた吾吏須は、たとえ気持ち悪くても少しの間だけだと自分に言い聞かせる。
「君、可愛いね」
息がかかるほどの至近距離で囁かれた。その生暖かい空気が酷く気持ち悪くて悲鳴を上げそうになる。
尻を揉んでいた手は、制服の隙間から中へと新入していく。その感触の気持ち悪さに涙が出てしまい、身体はまるで凍えているかのように震えた。
「泣くほど嬉しいの?」
そんなことあってたまるか、と吾吏須は大声で叫びたかった。しかし、この場で叫べば啓太にバレてしまうだろう。そんなかっこ悪い、痴漢によって穢されている自分など吾吏須は絶対に見せたくなかった。
するとアナウンスが流れ、目的の駅に到着したことが分かった。これでようやく解放されると思ったが、どうやら痴漢はそう優しいわけではないらしい。
痴漢は、尻を触っていた手とは反対の手で吾吏須の腕を掴み強引に外へ連れ出そうとした。
「このまま、何処かのホテルに行こうか」
また耳元で囁かれ、ぐいッと近くまで引き寄せられる。
「はな――ッ!」
離せと叫ぼうとした途端、視界に啓太の姿が映った。その時の啓太の表情は普通ではなかった、怒りと憎しみが丸出しの、感情を抑えるということすら忘れたかのような。
啓太は右手で尻を触っていた腕を握り、左手の拳は震えている。何時から啓太が気付いていたのかは分からないが、その怒りをむき出しにした表情に痴漢も驚いているようだった。
その痴漢の腕を握っている手の力はかなりのものらしく、痴漢は痛みで顔を顰めていた。
「ふざけんなッ!」
まるで雄叫びのような声と共に、啓太は痴漢の顔面を殴ろうとしていた。
「止めろ啓太!」
吾吏須が両手でも止めきれないほど、啓太の腕の力は大きかった。今までこれほどまでに怒っている啓太を見たことがあっただろうか。
少なくとも、5歳からの付き合いである吾吏須もこんなに怒っている啓太は見たことが無かった。
「たのむ吾吏須、たのむから殴らせてくれッ!」
「アホかッ! 俺はこんなところでお前が暴力罪で捕まるなんざゴメンだ!」
「こいつはお前に! だから正当防衛で認められる」
「駄目だって! この場合、顔面を殴ったら過剰防衛になる! てか、顔面じゃなくても!」
必死に啓太を止めようとするも、どうやら啓太は痴漢を殴らないと気が済まないらしい。周囲の視線も集まっているので、できるだけ早く吾吏須はこの状況をなんとかしたかった。
「啓太、本当……止めろってば! マジでこのままじゃ駅員来るし、これ周りから見れば俺等が加害者だからッ!」
「だけど……」
「俺はもう気にしてない、だから。止めないと本当に怒るぞ」
すると、ようやく吾吏須の言葉に従おうと思ったのか、啓太は痴漢の腕を握っていた手を放した。
すぐさま痴漢は逃げようと出口に向う、すると啓太とすれ違う時に微かに聞えた低い声。
「今度やったら、その時は殺す」
それは、啓太のものだったが普段、吾吏須や愛達と話すような声ではなく、とても低く怒りが篭っている声だった。
「その、いろいろ言いたいことあるけど。とりあえずこの場から離れるぞ」
吾吏須がそう言うと、啓太はあたりを見回した。するとようやく周囲の視線が二人に集まっていることに気が付きなるほどと苦笑をもらした。
二人は、近くのデパートの階段の二段目に座っていた。此処は非常階段のようなものなので、めったに人が来ない。
「そんで、どうしてあの時……俺を止めたんだよ?」
啓太は少し苛立っているかのような口調で話し始めた。それほど吾吏須に殴るのを止められたのが嫌だったのだろう。納得がいかないといった表情で吾吏須を少しキツイ視線で見る。
「お前が犯罪者になるのが嫌だった、それに……かっこ悪かったんだよ、男で痴漢にあうなんて」
その吾吏須の声は、本当に痴漢にあってショックだったのだろう。普段の強気な声とは裏腹にとても弱弱しいものだった。啓太も吾吏須が精神的にショックを受けたことを察したのか、申し訳なさそうな顔をした。
「あ……そうか、そうだよな。ゴメンよ、吾吏須のこと考えないで、自分の感情だけでつっぱしって」
ギュと拳を握り、それはきっと自分への怒りだったのか。啓太の表情には後悔の文字が映し出されている。
「いいんだよ、お前は俺を助ける為に殴ろうとしたんだろ。でもそれでお前が犯罪者になるのは嫌なんだ」
たしかに、悪いのは相手だ。痴漢は十分犯罪だし、訴えようと思えば訴えられる。
しかし、啓太に汚名を背負ってほしくない。そんな一心で吾吏須は今回の啓太の行動を止めた。 いくら相手が悪かったとはいえ、それで暴力をふって怪我をさせれば啓太は十分犯罪者だ。
すると、啓太は吾吏須の瞳をジーッと覗き込んだ。そんな風に見つめられては顔が赤くなってしまう、顔の色が段々赤く染まっていくのを隠す為に吾吏須は下を向く。
「な、何だよ!」
「あのさ、吾吏須。俺は頭悪いから過剰防衛がどれだけ重い罪なのかは知らない。だけど――俺は、吾吏須の為ならあの時、犯罪者になっても良かった」
啓太が言ったその言葉は、とても意思のある言葉だった。顔を上げ、啓太の表情を確認する。
その啓太はふざけてなどいなかった、真剣そうな表情で吾吏須を見ている。 その真剣な表情はたまにしか見せない表情で、吾吏須はどうにかなってしまいそうだった。しかし、すぐに啓太の言ったことを理解し大声で叫ぶ。
「お前、何! 馬鹿なこと言ってんだよ!」
自分のせいで啓太が犯罪者になってしまうなど言語道断、そんなこと吾吏須が許すはずが無い。
「馬鹿なことじゃ無い。俺は電車が止まった時にようやく吾吏須が痴漢に会ってるって知った。それまでずっと俺、気付けなくて」
すぐに『馬鹿なことだよ』と言い返したかったが、啓太の真剣な声に言い返せなかった。
それに、今回のことで啓太が気付かないのも無理は無いだろう、何故ならば吾吏須が必死に気付かれないように努力していたのだから。
「それは俺がお前にあんなかっこ悪いとこ知られたくなかったから! 気持ち悪いだろ、男で痴漢に会うなんてさ。そんなのお前にだけは知られたくなかった!」
段々自分の言い方が自虐的になってきているのを吾吏須は感じていた。
恐かったのだ、痴漢に会った吾吏須を啓太が軽蔑するのではないのか、少し避けたくなるのではないのかと。 穢れてしまった自分のことを嫌いになるのではないのかと。
すると、啓太は吾吏須の腕を握り自分の方向に引き寄せた。その腕の力はとても強いものだった、まるで何かを吾吏須に訴えようとしているかのような。
「吾吏須、俺はたとえ吾吏須が痴漢にあっても侮辱されても、どんなことがあっても親友だから。その、だからもう心配しなくたっていんだよ」
はっきりとした口調、とても意思の固い声、そしてなにより啓太の声は『本気』だった。
その言葉はっきと親友の吾吏須へ向けられた言葉なのだろう。しかし、前のようにそれが辛いとは感じなかった。
もう、この言葉が友情だったとしても、もうどうでも良かった。そんなことよりも啓太の想いが嬉しくて、嬉しくて仕方なかった。
大切な人が自分のことを思ってくれる、それ以上の幸福があるだろうか。少なくとも今の吾吏須にはそれ以上の幸せなど無い。
優しい啓太の声に吾吏須は今にも泣きそうだった。否、もしかしたらもう泣いているのかもしれない。乾いた唇を開き、啓太へお礼の言葉を述べる。
「ありがとう」
その声は震えており、ちゃんと発音できていたか分からない。微かに目からは涙が流れ出していた、それは痴漢にあった時の気持ち悪さや恐怖の時の涙ではなく、啓太にそう言ってもらった喜びの涙だった。
「あ、吾吏須! 大丈夫か?」
いきなり泣き始めた吾吏須を見て啓太が、もしかして自分が泣かせてしまったのかと不安になったらしくあたふたしていた。どうにかして慰めようと思考を巡らせているに違いない。そのあまりにも慌てていた啓太をの声を聞いて吾吏須は涙交じりの笑い声で喋った。
「大丈夫だよ馬鹿、ただ……嬉しかったんだよ」
だから心配するなと。すると、啓太も安心したかのか微かに笑みを見せる。
「そうか、俺……てっきり吾吏須にウザイとか干渉しすぎだって言われると思ってたから」
「お前の中の俺ってどんな存在なんだよ」
「うーん、一生逆らえない人で、勉強のできる憧れの人で、それで最高の親友かな」
なんだよそれ、と笑いながら啓太を肘でツンと突く。その吾吏須の表情には先ほどの悲しみは無く、喜びが広がっていた。吾吏須がようやく笑ったことに啓太も安堵のため息をついた。
「なぁ、吾吏須にとっての俺って何?」
「え……、えっと、弄られキャラで、憎いくらいに運動神経抜群で……」
――世界で一番好きな人
そう答えたかったが、吾吏須は息を飲んだ。
「一番の親友かな」
何故、そう言ったのか吾吏須は分からなかった。もしかしたらまだ、そういった感情を啓太が認めてくれるのか心配だったのかもしれない。
「吾吏須に親友って言われると嬉しい。それより早く買って帰らないと、きっと女王様がカンカンだ」
親友と言われて嬉しいのは吾吏須も一緒だった、同時に少し悲しくもあったが、今回は素直に喜べる。照れ隠しに少し俯いた。
「俺このデパートよく知らないから案内してくれよ親友」
啓太はあぁと呟き、吾吏須の腕を引っ張った。
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