第五の国 「精神的外傷」
倉庫からチョークを持ってきた時、すでに授業開始までギリギリの時間だった。教室に入れば。
「たかがチョークを持ってくるだけで10分もかかるとは、何処で寄り道をしていたんだ?」
と、また嫌味を言われてしまった。その言葉を無視しならが少し乱暴にチョークを押し付け、すぐに席に座った。隣では啓太がお疲れ様と声をかけてくれた。
すると、チャイムが鳴り響いた。すぐに教室のざわめきが消え全員が席につく。
「それでは、これから桜花祭についての相談を始める。神宮寺、司会を頼む」
「はい、先生」
松山がそう言うと、愛が黒板の前へとやってくる。そこに立つと普段は傲慢な愛も何故か凛々しくなるから不思議だ。
「それでは、前回みなさんに桜花祭の出し物で何をやりたいかアンケートを取りました。その結果、今回我クラスで行うのは喫茶店ということになります。それでは、今日はいったいどんな喫茶店にするかを話し合いたいと思います。誰か意見のある人は挙手するように」
しかし、誰も手をあげようとはしなかった。少しの間、微妙な空気が流れる、しばらくして啓太が弱弱しく手を上げる。
「はい、けい……白兎君」
普段の癖でつい啓太と呼んでしまいそうになったが、すぐに名前を呼びなおした。啓太は立ち上がり少し弱気な声で喋り始める。
「あの……有名な童話の『不思議の国のアリス』をテーマにしてみたらどうでしょうか? 店員がキャラになりきって接客するのとか」
「アリスか、たしかにそれなら去年、演劇部が『不思議の国のアリス』を演じたから衣装があるわよね。まだその衣装残ってるかしら猫柳君?」
すると、きっと演劇部の部員だろう人物、猫柳が立ち上がった。
「はい、衣装は全部のこしてありますし。あの劇はけっこう擬人化的なものが多かったので動きやすいと思います。ですけど……」
猫柳は少し戸惑い、愛から少し目を逸らした。
「何? 言ってちょうだい」
「あの劇での主人公は『少年アリス』だったんですけど。大丈夫でしょうか?」
「あら、それならまったく問題ないわ。むしろ好都合よ、もう誰がアリス役をやるかは決まったも同然なんだから」
その言葉に、一瞬吾吏須はまさかと思った。この場合、もしかしたら自分がアリス役をやるのではないのかと思い、吾吏須も手を上げる。
「はい、夢原君」
「その、神宮寺さんが言っているアリス役というのは……もしかして」
「もしかしなくても貴方、夢原君よ!」
ビシッと人差し指を吾吏須に突きつけ、黒く長い髪が中に舞う。その迫力のせいで一瞬怯んでしまったが、此処でこの役柄を否定する理由も無いので黙っていた。
やっぱり、と吾吏須は心の中で呟く、愛ならば同じ名前だということで簡単に自分に役柄を回すだろうと、だいたい吾吏須は予想はできていた。
その時、ひっそりと愛が『私は女装でもよかったんだけど』と呟いたのは聞かなかったことにした。さすがに女装だけはたとえ名前は少女のようであろうと男のプライドが許さない。
「それじゃあ、今回のクラスの出し物が『アリス喫茶』で良い人は挙手してください」
愛の声と同時に、ほとんどの人の手が上がった。どうやら今年は『アリス喫茶』に決定らしい。
その後の話し合いで、啓太が白ウサギとなった、理由はやはり名前らしい。そして愛は女王様、これはもうクラス全員一致、誰一人として不賛成の人間は居なかった。
此処で一番の笑いを集めたのが鬼教師である松山の役柄だった。
「ウサギだって! あの松山がウサギ! しかも本当にウサ耳付けるんだろ!」
放課後、吾吏須は松山の役柄に先ほどから大爆笑していた。理由は、やはり会計の部分は教師である松山がやることになったのだが、もちろんそれなばら何か仮装しなければならない。それで与えられたのが『三月ウサギ』
しかもウサ耳付きということで、普段から松山に恨みのある生徒(特に吾吏須)は大爆笑だった。あの鬼教師が可愛らしいウサ耳を付けるということで、想像するだけでも笑えてしまう。
当の本人である松山は仕方ないといった感じで、渋々その役柄を許可した。
「吾吏須、笑いすぎ」
腹を抱えながら笑う吾吏須を啓太は注意するが、その啓太までもが爆笑していては説得力が無かった。
「って、啓太だって笑ってるだろ! ざまーみろだよ、松山の奴。普段俺に嫌味を言ってきた罰だな」
「まぁ、ウサ耳は同情するけど」
白ウサギである啓太も例外は無く、松山のようにウサ耳を付けることになった。猫柳が借りてきた不思議の国のアリスの衣装はかなり本格的なものばかりで、ネットオークションやらに出せばかなりの値段になるだろう。
なんでも演劇部の部活方針は『演技だけではなく、衣装も完璧に』というものらしく、衣装の方にもかなりの部費をかけているらしい。
「松山、たしか今年で30だろ? いい年した大人がウサ耳か、本当に最高だな!」
普段の恨みも込めておもいっきり笑ってやると、とても気分が晴々する気がした。すると啓太が時計を見るとすでに5時を回っていた、もうすぐ部活に入っていない生徒は帰らなければならない時間だ。
「そうだ、吾吏須たしか先生に残れって言われてるんだろ?」
「あーそうだ、メンドクサイ」
今朝のことを思い出したが、あれはほとんど帽子屋のせいで、それで処罰を受けるのは多少理不尽のような気がしていた。しかし、松山の注意を聞かず走っていってしまった吾吏須にも否があった。
だが、一日中ずっと松山の授業で、しかも放課後まで一緒だなんて、今日は本当についていない日だなと思う。
「どうする、俺は陸上部で文化祭の準備に専念する為に部活は休みなんだけど。待ってた方がいいかな?」
他の演劇部や美術部などは各部の出し物がある為部活があるが、得に陸上部は出し物が無い為この時期は部活が休みだった。
ちなみに吾吏須は帰宅部だ、理由は『部活なんかに入るなら家で思春期の少年の心理学を読んでいた方が時間を有効的に使っている』だろうだ。
「あぁ、先に――」
帰ってもいい、と言おうとしたが止まってしまった。あの時と同じだと感じたからだ、あの啓太が交通事故にあった時の日のこと――
その日も今日と同じとても晴れた日で、そして同じ言葉で別れた。『先に帰ってもいいぜ』
その5分後に救急車のサイレンが聞えた、それもこの学園の近くで。窓から外を見れば人だかりができており。忘れ物を鞄に入れてその場に行ってみれば。
正面が経こんだトラックと、血塗れの啓太が横たわっていたのだから。
「やっぱり、一緒に居てくれないか?」
「へ、あーうん。いいけど」
「悪いな、ほら松山と二人きっりなんて死んでもゴメンだしさ!」
このまま分かれてしまえば、そしたら現実と同じようにまた会えなくなってしまいそうな気がしたからだ。そうしたら今度こそ希望を失い、また同じ痛みを味わうことになってしまう。
あんな痛み、一回だけで充分なのだから。
すると、教室の扉が開いた。そこから黒い学級記録帳を持った松山が現れた。吾吏須を見下すように眺めた後、隣に居る啓太に視線を向ける。
「何故、白兎が此処に居る?」
その声はまさに啓太が邪魔だと言葉にはしていないが雰囲気が語っていた。ギロリと氷点下零度の瞳で啓太を睨むと一瞬啓太はその恐ろしさに怯んだが、すぐに松山を睨み返す。
「啓太が居たら、何か都合の悪いことでもあるんですか?」
「いいや、ただ夢原吾吏須はお友達が居なければ放課後の処罰が恐い臆病者なのかと思ってな」
「すみませんけど、先生……これ以上、吾吏須のことを臆病者と言わないでくれますか?」
めずらしいと思った。普段あまり松山に反論しない啓太が今回ははっきりとした口調で反論した。どうやら松山も驚いているらしく意外そうな顔をしている。
その声には力と、微かな憎しみがこもっているような気がする。普段の啓太からはありえない行動に吾吏須は目を見開いた。
「たしかに、俺が居なきゃいろいろ駄目な部分とかありますけど!」
「おい」
「それでも、俺の大切な友達です。俺が引っ越してきて、あまり回りに馴染めなかった俺に初めて声をかけてくれた。だから吾吏須を臆病者なんて呼ばないでください」
意思のはっきりとした声、そして吾吏須のことを『臆病者』と言った松山に対しての反抗的な視線。
――啓太が、俺の為に怒ってくれた?
そう考えただけで、吾吏須は今までの松山の嫌味が全て吹き飛ぶような気がした。一番大切な、大好きな人が自分の為だけに怒ってくれた、今の吾吏須にとってこれ以上の幸せなんて無い。
すると、松山は軽くパンパンと拍手をしながら啓太を睨みつけた。
「それはそれは、素敵な友情を見せてくれてありがとう白兎啓太。しかし、処罰の邪魔だ、今すぐこの場から立ち去りなさい」
松山の言葉は、まるで怒りを込めたような冷たい声だった。今までに聞いたことの無いような低く冷たい、松山をここまで怒らせる原因がその時の吾吏須には分からなかった。
どうやら啓太も松山の声の低さが異常だと分かっているのか、その場に呆然と立ち尽くしていた。
「聞えなかったか? 処罰の邪魔だ、出ていきなさい」
これ以上、松山を怒らせてはいけないと直観で感じ取った吾吏須は、すぐさま啓太の方向を向く。
「け、啓太! そんじゃあ教室の前で待っててくれないか?」
「あ……あぁ、分かった。そんじゃあ教室の前で待っているから」
すぐに鞄を持ち扉の方向へと小走りする啓太、ピシャンッと扉が閉まった時。
「ちッ……」
舌打ちが聞えた、どうやらそれは舌打ちとは縁が遠そうな松山のものだった。さっきからあまりにも不自然な行動ばかりとっている松山を吾吏須は驚いたといわんばかりの目で見ていた。
すると、すぐに教師専用の机に座り、無言で吾吏須を舐めるような視線で眺める。気持ち悪いと吾吏須は思った、何故こうもネットリとした視線で見るのだろう。
そして、微かにニヤリと不気味な笑みを浮かべた。その笑みは本当に恐いと思ってしまうほど不気味で、普段あまり松山が見せるような表情ではない。
たまに吾吏須を嘲笑うような顔をするが、それよりももっと不気味で何かを企んでいるかのような。それが恐くて吾吏須は後ろに後退る。
「座りなさい」
それは提案というよりは、むしろ命令のような気がした。この命令に逆らえばいったいどんなことになるのか、それはとても恐ろしいことのような気がして素直にその命令に従う。
「夢原吾吏須、君はいったい何回注意をすれば反省してくれるのかな? 今回、居残りを命じられた切欠は?」
何も言わないということは、どうやら吾吏須本人に答えさせるつもりなのだろう。本当にこの人間はどれほどまでに嫌味な奴なのだ。
「俺が、先生が来ても喋っていたのと。注意も聞かないで出ていってしまったせいです」
できるだけ感情を抑えて、冷静さを保ちながら喋る。しかし手はズボンのを強く握っていた、どうしても松山のことが気に入らないからである。
松山が自分の担任という立場でなければ今すぐこの場から立ち去ってやるのに。
「よろしい、ちゃんと自覚はしているようだな。それでは教科書41ページの古文を自分なりに訳したものをノート5ページ分書いて明日までに提出しなさい」
「明日?!」
「そうだ、成績優秀な夢原ならばこれくらい簡単だろう?」
たしかに、成績ならば学級委員長の愛と一位と二位を争うくらいだ。全国模試でもかなりの上位にランクインしている。
しかし、それと課題を早くできるかというのはまったくの別問題である。だがここで反論しようものならば、さらにもう1ページ追加されるかもしれない。
実際、吾吏須も反論して、教師に向って生意気だという理由で課題を2ページほど追加されたことがある。
そして何より、本日の国語の課題で既に2ページ分の課題を出されている為、合計7ページ分をやらなければならない。今日の夜は徹夜と決まったも同然だった。
「(この……ッ! 陰険根暗オールバック三十路一歩前鬼教師がぁ!)」
心の中だけでそう叫ぶ、日に日に松山への恨みの言葉が増えていっているにも関わらず(単に知らないという理由もあるが)松山は何事もなかったように、『ざまあみろ』といった視線で吾吏須を見ていた。
「それでは、せいぜい頑張りなさい。夢原吾吏須」
「はい、先生」
この名前をフルネームで呼ぶのも何故かムカツク、むしろこの松山が何かを言うこと自体がムカツクかもしれない。
喋り方や、まるで見下すような言い方。もう松山の存在自体が吾吏須の苛つく、かなり酷い言い方かもしれないが今の吾吏須にはこれ以上最適な言葉が見つからなかった。
普通に注意するだけならば、まだそれは自分が悪いのだなと理解できる。しかし、松山の言葉には嫌味も混じっている為、いくら正しいことを言っていても理不尽な気がしてならない。
「では、早く帰りなさい。……少し惜しいが」
最後に呟いた、今にも消えてしまいそうな声を吾吏須はたしかに聞いた。いったい何が惜しいとでも言うのだろう、まさかまだ苛めたりないのか。
「それじゃあ、失礼いたします」
この場に居ては危険だと思い、すぐさま鞄を持って教室の扉を開ける。すると廊下で待っていた啓太が近付いてきた。
「ゴメンよ啓太、待たせたな」
「べつに大丈夫だよ、それよりどうだった?」
「あーなんかノート5ページ分らしい、ったく……今日散々課題出したくせに」
「合計で7ページって、多いな……大丈夫か?」
「まぁ、徹夜は覚悟してるけどな」
こうやって心配をしてくれる啓太の存在が吾吏須の中では大きいのは言うまでも無い。今まではその感謝を忘れていたが、啓太を無くして松山に嫌味を言われた時、隣には慰めてくれる人間が居ないこと、そしてそれがとても辛いということを思い知らされた。
こうやって『あたりまえ』の中にある幸せというのがどれほどまで大きいのか、どれほどまで自分を支えてくれていたのか、それはきっと失って初めて分かることなのだろう。
「あのさ、ありがとうな。そうやって俺のこと心配してくれて」
吾吏須がそう言うと、啓太は以外だといった表情をした。たしかに普段あまりこういったお礼の言葉を言うことは無い、だがこうやって『あたりまえ』の中にある幸せに気付いた時、人はとても素直になれるのではないのだろうか。
今回、吾吏須が素直にお礼を言ったのはその幸せに気付いたからだ。『ありがとう』というたった5文字の言葉の中には今までの感謝が詰まっていた。
「へ? ど、どうしたんだよ……普段あんまりそんなこと言わないのに」
「別になんだっていいだろ。ただ、この『あたりまえ』ってすごく幸せなんだなーって思っただけ」
「それって、もしかしてお前の見た夢のおかげか?」
夢、というのはもしかしたら吾吏須にとっての現実のことなのだろうか。どうやら啓太は今朝、吾吏須が言ったことを夢だと思っているらしい。
たしかに、自分は交通事故にあっていないのに『交通事故にあった』と言われれば夢だと思うだろう。
「どんな、どんな夢だったんだ?」
「え、それは……俺は忘れ物をして、そんで通学路で待ってるはずのお前にトラックが突っ込んだって、それで病院で……病院で」
そこから先を言うのが恐かった、あの恐怖を思い出してしまうから。まだ温かい体温、けれど啓太の意識は今此処には無い。一番大切なものを失ってしまった逸脱間、それはあまりにも大きすぎて辛かった。
「恐かった、お前にもう会えないって聞かされた時……本当に恐かった」
いつの間にか声は震え、目には雫が溜まっている。泣いてしまった吾吏須を心配して啓太は安心させる為に肩に手を乗せた。
そこから微かに伝わる体温が、啓太は今此処に居るということを教えてくれた。それは確かなもので、一番吾吏須を安心させてくれるものだった。
「そうか、ゴメンな……」
「いや、大丈夫」
――そうだ、今はすぐ隣に啓太が居るんだ。
その幸福がずっと続けばいい、そう願わずにはいられない。
以外だった、こんなにも白兎啓太という幼馴染に支えられていたことが、案外吾吏須は脆い人間なのかもしれない。
普段、強気でいられるのも全て、啓太という精神の支えがあったから。だから普段の夢原吾吏須が存在していた。
「でも良かったじゃないか、夢で」
違う、本当はこちらの世界が『夢』なのだ。制限時間が一週間という儚すぎる夢、目覚めれば確実に悪夢となってしまう、とても居心地のいい『幸せ』な夢。
だがそれを知っているのは吾吏須一人だけ、否、帽子屋を含めなければの話だが。
「そうだな、本当……夢だったよかったのに」
その声はとても小さくて、すぐ隣に居る啓太にすら聞えないほど、すぐに消えてしまうほど小さな呟きのような。
もしも、吾吏須の居た『啓太が交通事故にあった』世界が夢で、こちらの『啓太が生存している』世界が現実ならばどれほどまで幸せなことなのだろう。
だが、帽子屋の言葉がそれを真っ向から否定していた。啓太と理想の関係にならなければこの世界から、夢から目覚めてしまう。
けれども、まだ希望が残っている。今はそれに賭けるしかないのだから。
空は、また漆黒に包まれようとしていた。
|