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あげは
作:坂田火魯志



第三話


 妻と夜を過ごした後でふと部屋を出た。そして中庭に面した廊下で夜を眺めた。彼の前には大きな池があった。そこに白い満月が浮かんでいた。
「あの時の空と同じじゃな」
 三吉と二人で見た夜の空を思い出していた。あの時は下に提灯の赤い灯りがあったが今はない。だがそれでもそこには月の灯りがあった。それは赤い光ではない。白い穏やかな光であった。だが提灯のかわりには充分なっていた。十郎はそれで満足していた。
「あげはか」
 あの時三吉が言ったことを思い出した。
「夜にあげはがのう」
 だが彼には見えはしない。そもそも夜に蝶が舞うということ自体が有り得ないことである。それこそ夢の話だ。彼は今は夢幻と現実の狭間にある吉原にいるのではない。現実の世界、自分が婿入りした家の屋敷にいるのである。その中庭に面した廊下で夜空を眺めていた。そこは完全に現実の世界であった。夢幻の世界ではない。
 その現実の世界の夜を眺めていた。そこであげはが見られる筈もなかった。
「もし」
 後ろから声をかけてくる者がいた。女の声であった。
「そなたか」
「はい」
 寝巻きを着た美しく若い女であった。彼の妻である。幼い頃からの許婚であり、この度結ばれたのである。見知った同士であるがそれでもこうして夜を共にすると何か妙な気持ちであった。
「空を見ておわれるのですか」
「うむ」
 十郎はその新しい妻に答えた。
「少しな。思うところがあってな」
「思うところ」
「一つ聞きたいが」
 彼は妻に問うた。
「夜に蝶が飛ぶと思うか」
「蝶が」
「そうじゃ。どう思うか」
「蝶は昼に飛ぶものでしょう」
 妻はこう言葉を返した。
「夜に飛ぶのは。蝶ではありません」
「そうじゃな」
 十郎はそれを聞いて頷いた。
「夜に蝶はおらぬな」
「はい。私はそう思います」
「そうじゃ」
 彼は納得したようにまた頷いた。
「あれは昼におるもの。夜にはおらぬ」
 まるで自分自身に納得させる様に。そう言った。
「では今は見ることができぬ」
「違うのでしょうか」
「いや、その通りじゃ」
 彼は言った。
「それで合っておる。昼と夜は違うもの」
 そして現実と夢幻もまた。
「道理とはそういうものじゃ。聞くまでもないのう」
「一体どうなされたのですか?」
「いや、何でもない」
 こう言って誤魔化した。
「何でもないぞ。では寝るか」
「はい」
「明日も朝から稽古をしなくてはならぬからのう」
 武士は朝にまず稽古をするのがよいとされていた。素振り等である。十郎は丸太の様に太い木刀を毎朝何百本も振るのを日課としていた。吉原から帰ってもまずこれをする。そして身体を鍛えていたのである。これは武士としての務めであった。
「ではお休みなさいませ」
「うむ」
 妻に誘われ部屋に戻った。そして枕を並べて眠るのであった。吉原での眠りとは違っていた。静かで穏やかな眠りであった。
 暫くまた忙しくなった。今度は仕事であった。その為吉原へはまた足が遠のくことになった。三吉のことは忘れてはいないがそれでも行くことができずに悶々とすることになってしまった。
 そんな日々が続いたが彼は安心していた。三吉の容態は軽いとのことなので安心していたのだ。だが会えないのはやはり辛かった。それで悶々としていたのである。
 だが忙しいのも何時か終わる。仕事も一段落ついた。十郎は空いた時間を見計らって店に向かった。家の者に身請けの金を持たしたうえである。
「ようやくこの日が来ましたなあ」
「そうだな」
 後ろの車で金を轢く家の者に応えた。流石に呼び出しを身請けするとなればそうそう見られる額の金ではない。だがそれでも彼はそれだけの金を用意したのである。そしてそれを持って吉原に入ったのである。身請けはもう決まったようなものであった。
 だがそれは適わなかった。店で彼を待っていたのは思いも寄らぬ言葉であった。
「それはまことか」
「はい」
 主は沈痛な声で彼に応えた。
「言いにくいことですが」
「病は軽いものではなかったのか」
 彼は主にそう問うた。
「そなたもそう申しておったではないか」
「確かにそうでしたが」
 主の言葉は過去形であった。
「昨日の朝急に具合が悪くなりまして」
「それまではどうだったのじゃ」
「ようございました。そろそろ店に戻ろうかという話をしておりましたし」
「それで。急になだというのか」
「左様で。身体がよくなったからと酒を飲んだのがまずかったのでしょう」
「酒か」
 十郎はそれを聞いて顔を顰めさせた。
「酒の毒で」
「そちら様も御承知の通り三吉は酒が好きでして」
「うむ」
 それは彼もよく知っていた。いつも一緒にいる時は互いに潰れるまで飲んだものであった。







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