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りん、と風鈴が鳴った。
貴子はマッチで蚊取り線香に火を灯した。シュッという音がして燐の臭いが鼻孔を掠めた。
夏の夕暮れを縁側で眺めながら、貴子はゆっくりと団扇で祖父の友人に風を送った。胡座をかいて祖父の蔵書を読んでいるこの客人は、貴子の恩人というべき人でもある。
来栖は読んでいた本から目を離し、座卓の上の冷えた茶を啜った。
「すまなかったな鈴木君。君をこんなことに付き合わせてしまって…」
貴子は微笑んで、静かにかぶりを振った。
「いいえ、来栖さんにはいつかの事件でお世話になったし、いずれちゃんとお礼をしなきゃいけないって思ってましたから…。それに帰りは東京までわざわざ送ってもらえるんですもの。却って申し訳ないくらいです」
浴衣姿の貴子はそう言って目を細めた。貴子は自分の足首に巻かれた包帯にちらりと目を向けてから来栖に尋ねた。
「それにしても松田さんのあれ…一体何だったんですか? 私を見た時のあの人の表情、本当に普通じゃなかった…」
そう。
大木の陰から姿を見せた人影も、童謡のテープの音声を裏で流していたのも実は貴子の仕業だった。
「怖くて仕方がなかったんだろう。どうにもならない状態だったとはいえ、哀れなものだな…」
松田恭一…本名三井恭一は昨晩、おっとり刀で駆けつけた麓の警官によって緊急逮捕された。
麓を降りる際に駆けつけた村人達は、一様にその白髪頭の若者が、十三年前にこの村から転出していった子供だったとは思わなかったようだ。
チンジュサマの森からは白骨化した女性の遺体と思しき骸と腐敗した女性の手首が搬送された。
十五年前の神隠し騒ぎと麓の神社で起こった殺人及び死体遺棄事件はここに至り、ようやくの全面解決を見たのだった。
探偵がここにいるのは本人が恭一に言った通り、もちろん偶然ではない。貴子の怪我という嘘まで含め、全てはこの男が仕掛けた罠だった。
探偵の依頼人は三井京子…十三年前に自殺した松田清蔵と離婚し、息子と共に稲見沢を出奔した恭一の母親である。
離婚を契機に彼女は松田姓を捨てていた。
彼女は息子が近々紹介すると言っていた結婚相手が急に失踪した事を疑問に思い、探偵に秘密裏に調査を依頼してきたのだという。婚約者とは別れたとしか聞かされなかった母親は、息子の塞ぎ込んだ様子を見て兼ねてから不審がったようだった。
金井玲奈というその婚約者の名前と、彼女が妊娠していたという事実を彼女は息子が殺人者として逮捕された事でようやく知りえたのだ。
15年前に失踪した娘、頼子の失踪事件があった時から、彼女は薄々自分の連れ合いが事件に関わっているのではないかと疑ってはいたらしい。
だが、まさか息子の恭一が実の姉を手にかけていたなどとは、思いもしなかったようだ。
母親は深く、己の罪深さを嘆き悲しんだ。何もかもが手遅れだった。
彼は自分の記憶ごと、森に己の罪悪の全てを封じ込め、過去に蓋をして生きていたのだ…。
「こう言っては何ですけど、ああなる前に警察に通報した方がよかったんじゃないですか?」
「気に入らなかったのさ」
探偵は懐から白いタバコの箱を取り出すと一本抜き出してくわえた。ピンという軽い金属音。そしてボッと炎の灯る微かな音。
不確かな紫煙の流体が辺りに漂った。
相変わらずだな、と思いながら貴子は探偵のその所作を黙って眺めていた。シャボン玉のような不思議な色合いをした綺麗なライターだった。
紫煙を深く吸い込んで、探偵は語り出した。
「人は神仏に救いを託すことをするだろう? 同じように誰かを呪う為に禍事を悪神や邪神に託したりもする。
悪しき物事は速やかに彼岸に送り、祓うために人は神の加護を信じるし、罪を許されたいからこそ仏様の慈悲にすがるんだよ。人には悪事を戒める為に、妖怪や人ならぬものが必要とされる時が必ずあるんだと思う」
探偵は器用に紫煙をドーナツ状の輪っかにして吐き出した。
「そう考えると物事の吉凶は人にとって表裏一体なものなんだと思わないか? 佳いことが起こって神仏のお蔭だと思うのはいい。悪しきことを収めて神仏のお蔭と思うのもいい」
だが、と言って探偵は目を細めた。
「人を殺しておいて神仏や妖怪、果ては神隠しの仕業とするのは…」
「気に入らなかった…っていうんですね…」
貴子には少しだけ解る気がしたが、それ以上は何も言えなかった。
恭一が森へと再び分け入ったのは、本当に墓参りではあったのだろう。父と己が殺めた姉と婚約者とその子供の…。
探偵は夢幻の中を漂っていた男を此岸へと引き戻した事になる。世界を閉ざし、生と死と己の境界を失って、彼岸に片足を突っ込んでいた殺人者を…。
ひらひらと蝶が飛んでいる。なぜかハイビスカスの鉢植えが植わった祖父の家の庭は、色とりどりの花でいっぱいだった。大輪の黄色い菊の花から、ポトリと溜まった雨の雫が零れ落ちた。
「バリ島では火葬にされていない死者の霊魂は、人間に災いを及ぼすといわれているんだ。永遠に地上をさまよい、悪霊となって人間を惑わすらしい…」
探偵はそう言った。
恭一がなぜあの瞬間、髪まで白く染まってしまったのかは貴子にも解らない。極限の恐怖の故か、張り詰めていたものが全て切れたせいなのか、はたまた本当に人ならぬチンジュサマとやらの怒りに触れたせいなのか。
その謎は解けない方がいいような気もした。
白髪になることで、鬼はようやく人の姿に戻れたのかもしれない…。
難しく考える必要なんかないさ、と探偵は貴子の方へ振り返った。
「真実はいつだって君と共にある。どうでもいいものなんだよ。人なんて…」
妖怪以上に解らないものなんだ、と言って立ち上がり、探偵は暮れなずむ夏の空を見上げた。
遠く山の向こうから聞こえる祭り囃子の音。涼しい夕暮れの風と共に…。
りん、と風鈴が鳴った。
了
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