乾いた金属音が空を抜いた。
青空を仰げば、捻れた雲の隙間から陽射しが差し込む。
夏本番の陽射しが、一人の少女の顔を容赦なく照らしていた。
少女はグローブで陽射しを遮り、落ちてくる白球に狙いを定めていた。
ぱすっ、という音がグローブに埋まる。
少女はグローブの中を覗き、白球を確認した。
「ねぇ、そろそろ交換してよー」
少女の名前は、沖汐夏海。
肩に掛かる程度の黒髪で、前髪は睫毛より少し上まである。
尾の釣り上がったそれに縁取られた瞳は、どこか勝気な印象を与える。
白い半袖のワイシャツの下に群青色のスカートを穿いていた。
夏休みの最中にも関わらず、態々だだっ広いグランドまで来て、おまけに律儀に学生服まで着るなんて、常識的に考えれば有り得ない事だ。
夏海は別に野球をしに学校に来たわけではない。
夏海は、三十メートルくらい離れた場所にあるホームに向けて、握っていた白球を遠投をした。
白球は二十メートル地点で落下し、マウンドの辺りまで弾んでいった後、ホームに引き寄せられていった。
右側のバッターボックスに立つ少年は金属バットで白球を止めた。
「十球で交代って言ったのはオメーだろ。後五球だ」
少年の名前は、川上恋治。
耳が隠れる程度の薄く黒が残った茶髪で、前髪は睫毛に行き届いており、後ろ髪が外側に跳ねている。
尾が垂れ下がったその瞳は、どこか無関心そうな印象を与える。
白いワイシャツの下に黒のインナーを着ており、下は群青色の長ズボンを穿いていた。
だだっ広いグランドを二人だけで占領しているのも、学生服姿なのも理由がある。
補習だ。
二人は補習に来て、その帰りに野球をしているのだ。
ろくにコンビニすら見かけることのない地方の一端にある、この町には遊べる場所がない。
「あ〜もう、やめだやめだ」
夏海はグローブを外し、疲れきった表情をしながらホームに足を進めていった。
「へいへい」
恋治は面倒くさそうにヘルメットを外し、バットと共に投げ捨てた。
夏海がホームに帰ってきた。グローブを投げ捨てる。
バックネットの右側。足元が叢で隠れた得点板。そこに野球道具一式が投げ捨てられた。
夏海は腰に手を当てながら、呆れた目線を一つ落とし、恋治を覗き込んだ。
「てゆーか、フツーこういう時はキャッチボールが定番でしょ」
恋治は暑苦しそうに目線を背け、土手側に足を進めた。
夏海は雛のように後をついていく。
「しゃあないだろ。グローブが一つしかねぇんだから」
石段を上がっていき、路上のど真ん中に堂々と停めて置いた、銀色の自転車に手を掛けた。
炎天下に放置されていた自転車の座椅子は非常に暑い。熱した鉄板に座るようなものだ。
恋治が自転車に乗る。その後ろから夏海が乗っかってきた。
肩に手を置き、鉄具に足を跨いで直立する。
身長差が殆どない二人だが、この時だけは夏海が態度も身長も大きくなる。
「清晴が来ればよかったんだ」
「無茶言うなよ――」
恋治はペダルを思い切り踏み込んだ。
「アイツは、人一倍勉強しねえと志望校に受からないんだから」
車体が左右交互に傾き続け、走り出す。
恋治は相変わらず無関心そうな目をしていた。
「暇だなー」
夏海が空を仰ぎながら口にした。
「そうだな」
同世代の学生は皆、志望校合格に向けての受験勉強で忙しいことだろう。
去年まで毎日と言っていい程に一緒に遊んでいた、幼馴染みの清晴も少し上の高校を狙っているため、今はいない。
本当は遊びたいのだろう。しかし、清晴の家計は苦しく、兄が通っていた高校に行けば、苦し紛れで制服代が浮くため、仕方なく上を狙っているのだ。
夏海と恋治の二人は、定員割れもしていないような合格率の高い――早い話は頭が悪い連中が集まるような高校を志望しているので、受験勉強はしていない。
加えて言うなら、そこは通常の試験ではなく面接などによる特殊な試験なので、学力はあまり求められないのだ。
「海でも行くか?」
「何でオメーと行かなきゃなんねえんだよ」
「女の誘いを断るのか?」
「どこにいんだ。女なんて」
夏海は恋治の体を思い切り揺らした。車体も揺らぎ、余計に不安定な走行に変わった。
「わーったから、それ止めろ」
車体の走行が安定を取り戻した。
夏海は大きく溜め息をついた。
「お前って鈍感だよな」
歩道に出て、坂道を下っていく。車輪の回る音が加速し、風が髪を揺らしていた。
「オメーが鈍感なんだろ」
ガードレールのその先。走行していく途中で現れる左側の景色。それは客一人いない海だった。
砂浜にはゴミが点々と散らばっている。このせいで客が足を運ばなくなってしまった。
だが、そんな汚れを吹き飛ばすくらい綺麗なものが海には詰まっている。
陽射しを浴びた海は、まるで宝石箱のような輝きを放っているのだ。
透き通るほど青くはない。だが、青が隠れるほど汚染されていないのも事実である。
「“そういうの“って、男から言うもんだろ」
「オメーの中ではだろ」
「お前だって……!」
「――――」
海が流れる音と車輪が回る音が一斉に響き、大事な言葉を掻き消した。
だけど、それは夏海には届いていたようだ。
上下の唇を引っ込め、肩を握る手に力を入れていた。
「……清晴には内緒だ」
「言わなくても気付くだろ。アイツは敏感だからな」
二人だけの秘密。
誰にも教えることのない秘密ができた。
これからも二人は同じような関係でいるだろう。
だけど、そこに香辛料が加えられた関係になるのは確かだ。
ほんのりと甘いそれが。
古家が密集する地の一画。何世代も前から元気に駄菓子屋を経営している老婆がいる。
二人はそこでラムネを購入した。
十センチ前後の瓶に入ったラムネは、どこか懐かしくて美味しい印象を与える。
店前の端にあるベンチに腰を下ろす二人。
夏海は喉をグビグビと唸らせながら、ラムネをイッキ飲みしていた。
対照的に恋治は少しずつ飲んでいる。これではどちらが男なのか分からない。
夏海はラムネを飲み干し、ベンチから立ち上がった。
一周して、恋治の方を振り向く。
夏海は何も言わずに、恋治を見たまま笑っていた。えらく上機嫌なご様子だ。
恋治は呆れた目線を夏海に送っていた。
「そんなんじゃ、内緒にしてたって意味ないな」
「単純な女で悪かったな!」
夏海は恋治に背を向け、空いたラムネの瓶を空に向けた。
幅一センチ前後の飲み口の向こう側を覗き込む。
しかし、ビー玉がそれを邪魔していた。
夏海は瓶を動かし、ビー玉を窪みに落とした。
「……!」
直後、夏海の視界が白く染まった。
そして、黒く染まった。
闇の中に落ちる寸前。恋治の叫び声が聞こえた。
彼女の名を叫ぶ声が。
夢を見ていた。
夢の中にいた。
「どこだ? ここ?」
周囲を歩く人々の中に夏海はいた。が、その姿は他人には見えていないようだ。
横断歩道の向こう側には校門があった。
「あれはアタシが行く……」
そう、そこは夏海が受験する高校だった。
初々しい風貌をした生徒達が次々と校門を潜る。
信号が青に変わる。
車の通りは少ないため、信号を無視して渡る者が目立つ。
「――早く来いよ!」
瞬間、“夏海が夏海を横切った“。
高一の夏海が中三の夏海を横切ったのだ。
紅色の制服姿を着た夏海。
ブレザーが波打つように跳ね上がる。白いブラウスが露となる。
白線の上を上手く跳んで行きながら、横断歩道を渡っていく。
そこからは全てが一瞬の出来事に見えた。
大型トラックのクラクションの音が鼓膜に突き刺さり、
急ブレーキ時の制動音が天高く轟き、
腰を抜かした状態でいる夏海の前に、恋治がいて、
地鳴りに似た凄まじい衝撃と共に、そのまま、五メートル後ろまで飛ばされた。
血が放物線上を描く。
夏海の視界に鮮血の幕が生き物のように下りてきた。
「――うわあああ!」
半身起こしたその場所はベッドの上だった。薄暗い部屋の窓際に位置するそのベッド。
それは、夏海の部屋の物だった。
梟の悠長な鳴き声と鈴虫の羽音が重奏し、夜を小さな音楽会へと変えていた。
ちょうどよく、ベッドの横には恋治が背を置いた状態で眠っていた。
ムードは最高だ。こんなに素晴らしい音楽会を二人っきりで堪能できるなんて有り難いことだ。このままキスの一つくらい出来るくらいだ。
そんな良い雰囲気の中で、夏海は泣いていた。
みっともないくらいに顔を崩し、終始涙腺はほどけたままだ。
恐かったのかもしれない。
悲しかったのかもしれない。
仮にこの世に悪魔がいたとしらた、今日の悪夢はそいつの仕業だろう。
幼い頃から好きだった相手と、ようやく付き合えたその日に、彼氏が死ぬ夢を見せられたのだから。
恋治は目を開けていた。だけど、後ろは振り向かなかった。
「前にもこんなことあったな」
夏海は泣いたままだ。
言葉を返す余裕なんてない。
「ビー玉取ろうとして、ぶっ倒れて、そんでオメーん家に送ったのって」
言葉を返す余裕は、ない。
「でも、あん時は泣いてなかった。……何で泣いてんだよ」
「うるさい……!」
本当に出したかった言葉はそんな言葉じゃなかっただろう。
ありがとう、と言うべきなのかもしれない。
持ち前の明るさで笑い飛ばすことだって出来たかもしれない。
だけど、できなかった。
恐かったから。
「……まあ、そんだけ意地張れんなら大丈夫だろ」
恋治はその場から立ち上がり、そして、扉の方に足を進めた。
それは、恐怖心が見せた幻。
夏海はワイシャツの裾を掴んでいた。
自分のではなく、恋治のをだ。
恐かったのだろう。
その一歩踏んだ先で、夢の再現とばかりに事故に遭う姿を見てしまったのだろう。
「……夢を見たの」
「どんな?」
「私をかばって、川上が死ぬ夢……」
夏海の手は震えていた。
「そんで泣いてたわけか」
「……うん」
無言の間が、一つ空いた。
「まあ安心しろよ。実際の俺はオメーを“かばう“なんてことはしねえから」
「なっ……! お前なぁ!」
夏海の懐に、ビー玉が投げ込まれてきた。
夏海はそれを手に取った。
「よーやく、いつもの口うるせえ野郎に戻ってきたな。――まっ、夢は夢だ」
恋治は歩み出す。
「今は今だけ考えてりゃいい。つーわけで、明日は海行くんだから、さっさと風呂入って寝ろ」
扉を開けて、閉めた。
夏海は惜しむようにその姿を目に焼き付けていた。
無関心な目をしたアイツ。
しかし、ソイツは一番自分を心配してくれているのかもしれない。
夏海はそう思い、涙を拭った。
――翌日。
二人は海を訪れていた。
海水浴なんてする客もいないし、ましてサーフィンをする珍客なんていない。
二人は、ただひたすらに海岸沿いを歩き続けていた。
「道具でも借りて釣りすっか?」
一歩、また一歩と足跡を残していく。
「別に――」
夏海は海へ向かって走り出した。
走って走って、手に握っていたそれを遠投した。
ビー玉だ。
「このままでいい!」
ビー玉は波に流され、遠いどこかへと運ばれていった。
遠い遠い、どこかへと。
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