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お隣の犬塚さん

お隣の犬塚さんは猫顔だ

作者: 黒崎リク

 気づけば午後六時を回っていた。

 BGM代わりに点けっぱなしのテレビからは、夕方のニュースが流れている。


「もうこんな時間か…」


 引っ越しの搬入作業を終えてから三時間が経過していた。

 家電は所定の場所に配置し、水回りは普通に生活できる状態になったものの、ワンルームの部屋の中にはまだ封を開けていない段ボールが積み重なっている。

 本棚に本を詰める作業をしていたら、思ったよりも時間がかかってしまった。懐かしい漫画を読み耽ったのが原因だ。

 まあ、転職先に出社するまで三日は休みがあるのだし、ぼちぼちやっていけばいいだろう。


 片付けの手を止めたら、きゅうとお腹が切なく鳴った。

 引っ越したばかりの部屋の中にあるのは菓子パンの空袋とペットボトルのお茶くらいで、食材は一切ない。実家から送られてきた米はあるが、今から炊くのは面倒だ。

 家探しのとき、近所にスーパーがあるのは確認している。何時まで開いているかはわからないが、たぶん大丈夫だろう。夜ご飯用に弁当、明日の朝用にパンや卵でも買ってこよう。

 そう決めて、散らかった部屋の中、隅っこに追いやっていた鞄から財布を取り出して玄関に向かった。

 ドアを開こうとしたとき、外から足音が聞こえてきた。

 部屋の前を通り過ぎた足音は、数歩行ったところで立ち止まる。鍵を取り出す音が聞こえ、ガチャガチャとドアの開閉音が続いた。


 どうやら、お隣さんが帰宅したようである。


 引っ越しが平日の昼間だったこともあり、アパートの両隣の部屋は日中留守だった。

 帰ってきたのなら一言ご挨拶をして置かなければと、部屋の中に戻って用意していた洗剤の詰め合わせセットを手にする。

 外に出ればすでに隣のドアは閉ざされていたが、ドアの隣の窓から明かりが零れているのが見えた。

 隣の部屋の前に立って、表札を見やる。綺麗な字で「犬塚いぬづか」と書かれていた。

 一つ息を付いてから、ドアチャイムを押す。ピンポーンと鳴ってしばらくした後、インターホンから声が聞こえてきた。


『…はい』


 低い声。男性だ。

 できれば同性の女性がよかったなと少し緊張しつつ、インターホンに向かって挨拶する。


「あの、私、今日隣に越してきた鳥野とりのと申します。ご挨拶に伺いました」

『ああ…わかりました。少し待って下さい』

 

 低く響く声はかっこよかった。それに若そうな感じがする。

 なんだか緊張が増してきた。

 作業しやすいようにジーパンにTシャツ、カーディガンというラフな格好で外に出たのを後悔するが、少し挨拶するだけだ。外は薄暗くなっているし、廊下の電灯もそんなに明るくないから大丈夫だ。

 それでも落ち着かずに手ぐしでセミロングの髪を梳いていれば、ドアの鍵が開く音がした。

 外開きのドアが開けば、黒い影が視界にさしかかる。

 お隣さんは背が高いようで、平均身長よりも低い私の目線はちょうど胸元に向かう。ジャケットを脱いだワイシャツ姿にどきりとしながら、持っていた洗剤を差し出してぺこりと頭を下げた。


「初めまして、隣の二〇二号室に越してきた鳥野です。よろしくお願いします。これ粗品ですけれどもどうぞっ」


 頭の中でリハーサルしていた台詞を一気に述べれば、大きな手が「どうもありがとうございます」と丁寧に洗剤を受け取る。

 一仕事やり終えてほっと顔を上げる私に、お隣さんも挨拶してきた。


「二〇一号室の犬塚です。こちらこそ、これからよろしくお願いします」


 そう言ったお隣さん――犬塚さんは、黒い毛並みに覆われた顔の中、金色に光る眼をにっこりと細めた。



 ……ん?


 ここでようやく、違和感を覚える。


 白いワイシャツの、ネクタイを締めた襟の上。

 首から上の頭部は、全体を黒い毛で覆われていた。

 頭の上の方には、丸みを帯びた黒い三角の耳がぴくぴくと動いている。

 金色の大きな猫目の中は、黒い瞳孔が丸く広がっていた。

 逆三角の鼻は黒く濡れ、その下には大きな口。さらにそこから覗くピンク色の舌と白い牙。長いひげがふよふよと風に揺れていた。

 さらに下を見れば、スラックスに包まれた長い脚の間、黒いしっぽらしきものが気まぐれにふりふりと動いていた。


 ……猫?



 まじまじと犬塚さんの顔を見上げれば、猫は小首を傾げて口を開いた。


「鳥野さん?どうしました?」


 おお、リアルに顔が動いている。すごいな。

 感心しながら、無意識に尋ねていた。


「ええと……猫、ですか?」

「いいえ、ヒョウです。黒豹クロヒョウ

「ええと、被りものですか?」

「いいえ、本物です」

「はあ…」


 感嘆とも納得ともつかぬ息を吐き、犬塚さんのリアルな猫顔、もとい豹顔を見上げる。


「……犬塚さんなのに、猫顔なんですねぇ」


 麻痺した感覚のまま思ったことを言えば、犬塚さんは金色の目をきょとんと瞬かせ、ついでぶはっと盛大に吹いた。


「ツッコむところはそこですか」


 くくくっ、と大きな口を押さえて笑う犬塚さんを前にして、私はただ呆気に取られるだけだった。


 その後、実はかなり動揺していてスーパーに行くのを忘れてしまったり、翌日になってから我に返って「猫おぉぉ!?」と部屋の中で一人で絶叫したりしたものだ。


 そして実は犬塚さんが私の新しい職場の上司であったり、逆隣りの二〇三号室の『猫山さん』が犬顔(当人は狼だと言い張っている)だったりするのだが――


 それはまた、今度時間があるときにでも話そう。


息抜きに一本、タイトル通りの短編でした。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 息抜きとありましたが、私には楽しく読めました。 『猫山さん』が犬顔、犬塚さんなのに、猫顔というのもしゃれていてセンスを感じます。 >それはまた、今度時間があるときにでも話そう この終わり…
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