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EX03「異国の風」

「おっと」 


 放たれた短剣の切っ先が、体を右に傾けたレブレの喉元の直ぐ横を抜ける。遅れて通り過ぎる風圧に緑の髪が数本舞った。


「取った――」


 対面に居る黒髪の少女の声。耳に入った威勢の良い声に連動し、左手に握られた短剣が右下から飛来する。ブーストエンチャントによる身体能力強化の恩恵は、十四歳の少女の体を一端の戦士を更に越える程の速度を彼女に与えた。だが――、


「残念。取ってないよぉ」


 左手の短剣もまた、余裕綽々の言葉と共に空を切った。地面に向かって背中から倒れるように避けたレブレ。一瞬、勝利を確信したサキの体がそれを理解するよりも先に反射的に後ろに飛んだ。そこへ、レブレの持ち上げた右足が跳ね上がる。


「よっと――」


「ツッ――」


 まるでバク転染みた動きの蹴りだ。少年の体がその勢いを利用して一回転。綺麗に着地すると、間髪居れずに逃げたサキを追うために前傾になる。


「させるもんですかっ!」


「わっ、わっ――」 


 サキへの追撃に入ろうとしたレブレをけん制するかのように真横からリリムがミスリルウィップを振るう。こちらもまた、魔法による身体能力の強化が効いていた。


 しなる鞭の先端が加速する。空気を引き裂くのような異音に、金属同士の掠れる音が後を続く。目にも留まらぬ速さの鞭撃。だが、それもレブレには当たらない。足元を狙って放たれた一撃は軽い跳躍によって躱され、ダンジョンの床を叩いて終る。


「まだまだっ」


 リリムは右腕を引く。それに連動し、まるで鞭がまるで蛇のように虚空をのたうった。その後に待つのは、手首のスナップを利かせた連打だ。鞭を絡ませることもなく、先端の打撃部位をレブレに向けて容赦なく叩きつけるその姿は、確かな技術と熟練を思わせる。


 サキはその鞭捌きに関心しながら、レブレの横に回り込む。それを見たリリムはサキが間合いに入った瞬間に鞭を大胆にも手放し、全身に白い輝きを灯した。外側から肉体を強化するブーストエンチャント。そして内側から肉体を強化する内気魔法が相乗効果を生み出し、彼女の体を二重強化<デュアルブースト>。爆発的に身体能力を底上げする。


「くたばれつまみ食いッ子!」


「殺る気満々!?」


 挟み撃ちにされたレブレが、一瞬で間合いをつめたミニ女王様の気迫に慄いた。その隙を見逃すサキではない。左右の短剣を容赦なく振るい、クリーンヒットを狙う。


「まぁ、でも根本的に間違ってるんだけどねー」


 レブレはサキの一撃をこれまた簡単に避けて見せると、リリムのオーラナックルを同じくオーラを纏った掌で受け止める。


「嘘っ!?」


「だって僕竜だもーん。人化して純粋な身体能力と質量が落ちててもさ、この差は大きいよ。当たったら痛いのは間違いないけど、純粋な腕力だけに限定すると僕はこの姿でさえ魔法卿にも負けないよ? 力比べは論外さ」


「ちょっと話しが違うわよシュレイダー!」


 訓練を見守っていたシュルトに、リリムが毒づく。


「ふむ? 説明したとおり君の身体能力はもはや人外レベルだが……」


 普段ならいざ知らず、戦闘訓練でレブレは余り手を抜かない。今日こそ新技でぎゃふんと言わせてやろうとしていたリリムは、それを聞いてただただ唸る。


「レブレに効かないなら意味が無いじゃない!」


「効かないわけではない。それに今鍛えているのはパワーではなく純粋な近接戦闘技術だ。態々攻撃魔法を抜きにしてるのはそのためだったのだが……言ってなかったか?」


「言ってないわよ。二重強化を覚えたらレブレに拳骨し放題って言ったの!」


「別に間違ってはいまい。動きについていけるようになったはずだから、後は中てられるように技術を研磨すればいいだけだ」


「ところがどっこい。僕はこう見えて自称ドラゴンスレイヤーを何人も返り討ちにしてるからね。そうそう簡単にはなんちゃって聖女戦士にはやられないよ! へっぴり腰の拳骨になんてあたらないもーん」


 参ったかとばかりにレブレが胸を張る。金髪少女はそれを見て地団駄を踏み、すぐにレブレに襲い掛かった。連日のつまみ食いにはいい加減怒り心頭なのである。何度言っても聞かない子竜を躾けるべく、果敢に攻める。


「こらぁ、ちょっとは当たりなさいよ!」


「やだもーん」


 次々と繰り出される攻撃を手足で受け止め、時には軽やかに避ける。まるで挑発するかのような子竜だったが、攻められっぱなしに飽きたようですぐに反撃を開始する。


「力に振り回されてるリリムぐらい、人差し指だけで十分さ。というわけで、てやてややてっ」


「ちょ、ひゃうっ!? 突っつくってどういう攻撃!?」


「僕の爪は魔剣並に硬いから、全力でやると人間には致命傷じゃん。つまり、一回突っつかれるごとにリリムは一回死んでるんだ。ほら、避ける避けるっ」


「だからって、真面目に訓練してるサキと全然扱いが違っ……ひゃわっ!? ちょっ、どこ突っついてんのよ!」


「それそれっ! 弱点の脇腹に集中攻撃だ! お肉の恨みを思い知れっ」


「ひゃわっ! ムキー! サキ、絶対に今日中におしおきするわよ!」


「了解」


「あははは。ならサキも一緒に突っついてやるー」


 遅い掛かる少女たちの猛攻をかいくぐるレブレ。もはや訓練というよりは遊びに近いが、シュルトは真っ赤な顔でキャーキャー叫ぶ少女たちの壮絶な訓練(?)を静かに見守った。その顔にはどういうわけか、僅かな感嘆の表情が垣間見れる。


「なるほど。痛みを与えてやる気を下げるよりは、怒りでモチベーションが続いていいかもしれん。が……嫌われそうだから私にはできんな」


 その蛮行が、今夜の夕食のおかずに響くことをレブレは知らない。







「うぅっ、またお肉抜きだって。ちょっとからかっただけなのに、あんなに根に持つなんて。リリムは絶対に子供だよねっ!」


 夏の残暑がまだ残る、秋空の下である。サキと一緒に山に入っていたレブレが怒り心頭と言った顔で頬を膨らませていた。


「でも、レブレ、つまみぐい、する」


「当然さ! 竜はよく食べてよく眠ってこそ大きくなれるんだもんねっ」


 体躯に比例した食事が必要なのである。燃費は人間に変身しつづけていれば食事の量を減らすことはできるが、レブレは基本的には竜の姿で寝ることにしていた。おかげできちんと食べていないと空腹で目が覚めてしまう。それを防ぐためには、それなりにご飯を食べなければならなかった。レブレは実にオーソドックスな竜であり、当たり前のように肉が好物。お肉を抜かれることがどれだけ悲しいことか、愚痴るように訴えていた。


「んー、今日は何にしようかなぁ。やっぱクマかな? この前みたいにアイビーフが出てきたら最高なんだけどなぁ」


 一つ目牛とも呼ばれる牛型の魔物である。中々食い出もあって美味いが、この山には滅多に出ない。食卓に上るときなどは、料理中に耐え切れずつまみ食いしてリリムに必ず怒られてしまう程だった。


「数、少ない。西、行かない、難しい。行く?」


「んー、待って。何か来るよぉ」


 鼻をすんすんと鳴らしながら、レブレが匂いのする方向を指差す。少しずつ紅葉が色づき始めた山内。サキがその方角に耳を澄ませば、葉を揺らす音が微かに聞こえた。獣道の途中で立ち止まり、鞘に仕舞われたままの短剣に手を伸ばす。果たして、その小さな獲物はすぐに顔を覗かせた。


「ちぇっ。野ウサギかぁ。がおぉぉー!」


 小さすぎてレブレにとっては腹の足しにもならない。威嚇するように軽く吼え、驚いて逃げる姿を見送った。


「好き嫌い、駄目」


「そんなこと言ったってさぁ。アレは小さすぎるよぉ」


 竜と人の食事感の差である。

 嗜めるような少女の声に反論しつつも、鼻を鳴らしながら次の獲物を探すことにする。サキにとっては魔物相手の実践訓練でもあり覚えた魔法を試す機会もある。食べられる獲物なら捕まえるべきだという持論は捨てられない。狩りの獲物で食費を浮かせることは、彼女なりのお返しなのだ。


「そういえば、リリム。血、吸われるため、切る。怖くない?」


「んー、もう慣れてるでしょ。サキは怖いんだ」


「怖い、ちょっと違う。血、流す、切る、痛い」


「そっかぁ。でも嫌なら嫌って言えば?」


「駄目。約束、守る。代価、他、出せない、それしか」


「魔法卿は血には煩いからねぇ。まぁ、偶にでしょ。リリムみたいに毎晩じゃないんだから我慢するしかないんじゃないかな」


「だから、凄い。リリム、痛み、強い。先生、たじたじ」


 稀に、夜に起きだしたときなどに二人を見かければ何やら立場が逆転したかのような場面に遭遇することがあった。終始リリムが強気であり、シュルトは徒順である。おまけに足まで喜んで舐める。いつも腕から吸血されているサキからすれば、大陸人の変態的な行為には脱帽である。


「大陸人、凄い。私、足、舐められる、無理。羞恥、赤面、悶死」


「竜とかだと顔とか舐めあったりするから気にはならないけどねー。ほら、舐めあうっていうのは一応愛情表現の一種だろうし、別にそんな気にすることじゃないと思うよ。動物だってよくやってるじゃん。ペロペローってさ」


「私、リリム、人間」


「あ、そういえばそうだったっけ。でも吸血鬼も人間と煮たようなメンタリティのはずだから、やっぱり変じゃないんじゃないかなぁ。興味があるんなら試してみれば?」


「むぅ……」


 少しだけ想像し、サキは顔を真っ赤にさせて首を横に振るった。


「無理、先生、敬意、ある。失礼、できない」


「魔法卿は気にしないと思うけどなぁ。まぁ、サキがやれば驚くかもしれないけど結局は食事なわけだし、普通に舐めそうだけど――あっ、今度こそ獲物だよ!」


 獣道の先に、丁度大きな猪が目に入ってきた。一メートルはありそうな大物だ。だが、その大物はすぐに獣道を横切り、草むらの方へと逃げて行った。と、その後から今度は二メートルはありそうなクマが後を追って出てきた。


「わーい、獲物が二匹だ!」


「片方、任せる」


「よし、じゃ競争だよサキ――」  


 サキは魔力障壁とブーストエンチャントを行使。オーラを纏ったレブレに一歩遅れて獲物が消えた草むらに飛び込んだ。







「いやぁ、大量大量!」


 最終的に熊二頭と猪一頭を両手に抱えながら夕方の空を竜姿のレブレが飛ぶ。その背に乗っていたサキは機嫌よく飛ぶその背を撫でながら、ふと思い出したかのように北に広がる海を見た。


 西日に照らされるオレンジ色の海。その境界の中、丁度山から北東にある場所に一つの港町がある。その町の名は『ノースリンド』。サキが父親を失った町だ。レンドール公爵領の中心である中央都市『ドルフシュテイン』とは街道で繋がっている。本当であれば、サキはその道を通ってドルフシュテインに向かい、そこで様々なことを学ぶはずだった。


 彼女の故郷である空元に魔物が現れて五年。最大の霊峰『不死山』の樹海から突如として現れた魔物が大名たちの戦国の争いを中断させた。最初期には時の幕府によって不死山に封じられた天帝の怒りだという声も在ったが、その天帝から触れが出たことで状況は変わった。巫女や陰陽師たちが各地の大名と連携して対応しているそうだが、防ぎきれずに樹海から広がり今では随分と広範囲に広がった。


 サキにとっては、魔物とは当時はまだ見ぬ化け物であったが、大陸に来て見たときには大層驚いたものである。もっとも、それよりも聞きしに勝るシュルト・レイセン・ハウダーの魔法の威力の方が恐ろしくはあった。正に鬼だ。恐ろしい魔物よりも尚恐ろしい。だがそんな彼の教えを受けられることは不幸中の幸いだった。


(父上の死は、決して無駄にはしません)


 タダ帰ったなら、父の死が無駄になる。その思いはやはり今も変わらない。サキは商人の家に生まれた次女であった。愛想もよく、気立ての良い長女とは違って、無愛想なせいで父には心配されていた。思い切って大陸への旅に誘われたのも、色々と経験を積ませたかったからに違いない。そのため、サキは半年ほどではあったが剣術の道場――合戦のために武芸全般を教えていた――へと通わされていた。その経験は無駄ではなかった。


 愛想良く商人の子らしく笑うよりは剣術小町にでもなるほうが性に合うようにも感じていたので、シュルトに魔法だけでなく戦闘訓練を受けさせられるのは別に苦でもなかったのだ。むしろ、大陸の文字や言葉を覚える方が彼女には難題であった。だがそれでも彼女は随分と速いペースで話せるようになってきている。やはり、目標が明確であれば習得も早かった。


「そういえば、サキはあんまり町に遊びにいかないよね」


 ぼんやりとノースリンドを見ていることに気づいたのか、レブレが尋ねてくる。


「用事、特に、ない」


「淡白だなぁサキは。別に遊びに行ってもいいと思うけどなぁ。リリムは魔法卿によく買出しついでに連れ出されてるし、なんだったら明日にでも行ってみるかい。あの港町にさ」


「……必要、ない」


「今ならきっと仇も討てるよー」


 何気なく言われた言葉が、無意識にサキの心を動揺させる。


「レブレ、何故?」


「啓示だよ。言葉が通じないからって何度も何度もしてたからね。さすがに分かるよ。視る拍子にね、ありえるかもしれない未来だけじゃなくて、過去も見れちゃうんだ」


「……」


「僕は止めないよ。寧ろ、手伝ってくれって言われたらさ、手伝ってあげてもいいと思ってるぐらいさ」


 それは、とても無邪気な言葉だった。人の命など、竜にとっては軽いと言わんばかりの気軽さである。人の生殺与奪も、レブレにとっては関係ないのだろう。結局、彼は人間を捕食する側の生物なのだ。むやみやたらには食べないにしても、まったく食べないわけでも食べたくないわけでもない。そんな彼にとっては、サキの葛藤は余りにも理解できない価値観でしかなかったのだろう。


「駄目。先生たち、迷惑」


「別に気にしないんじゃない? 寧ろ言えば手伝ってくれそうだよ。君を助けたときみたいにさ」


「……駄目。賞金、解除、されたばかり」


「そう? じゃ、花を供えに行くぐらいはいいんじゃないかな。空元の文化って、そうやって死者を送るんだよね。彼岸……だっけ?」


「季節、違う。でも――」


 それなら迷惑をかけることもないだろう。啓示により、記憶を見てありえるかもしれない未来を見た。そんなレブレにとっては、サキの中にあるしこりが気になってしょうがないのかもしれない。或いは、復讐云々ではなく彼女に気持ちの整理をさせたかったのか。


「――でも、一度、行く。悪くない」


「うん。悪くない悪くない」


 ダンジョンのへと戻る道すがら、サキはレブレの鱗を優しく撫でた。人間の生死の価値観はともかく、この子竜はやっぱり人間が好きなのだと理解して。












 翌日、いつものように朝は訓練をして、昼から二人はダンジョンを出た。リリムもシュルトも、特に反対する理由がない。二人は一度王都へと転移して花束を用意した。 それらは大陸の花だった。それで父の魂が浮かばれるのかどうかはサキにも分からなかったが、その気持ちだけはありがたく受け取っていた。


 もとより、死体さえもどうなったか分からない。後はサキの気持ちなのだ。ノースリンドの町に向かい、最後に父を見た場所に向かったとしても当然のように何も無いだろう。そんなことは彼女にだって分かっていた。ただ、なんとはなしに意味があるような気がするだけなのだ。


 途中で人目のつかない位置に降り立ち、そこからは徒歩で向かう。十四歳の若い少女とも言うべき女と、更に小さい子供の二人連れ。街道に合流してから、すれ違う人々が奇異の視線を向けてくるも居に返さずに歩き続ける。


(北の港町ノースリンド。思えば、初めにたどり着いたイーストリンドから陸路ではなく、迂回を進められた時点でもっと疑うべきだったのでしょうね)


 空元とグリーズ帝国の最短で繋ぐ海路といえば、最東の岬にある港町『イーストリンド』。本来はここから街道を通ってドルフシュテインを目指す予定であった。だが、雇ったガイドが北へ迂回した方が速いと言ったのだ。陸路は山が多く、それなら迂回した方が結局は安全で速いと言って。


 だが、それは半分嘘であった。確かに、船旅は安全であったものの、遠回りであったことは地図を見ても明らかだった。恐らくは、船旅の間に信用させ油断させる意味合いもあったのだろう。イーストリンドで行えば、後のことを考えれば都合が悪い。噂にも出るだろうし、継続的に空元の人間を売り払うにしても噂が届かないようにするほうがいい。手間はかかるだろうが、どうせその間の渡航費は空元人が出す。結局懐が痛まないのであれば、手間で安全を買ったとでも思えばいい。


 そして更に、このシステムにはもう一つ意味があるらしい。直接的にはサキには関係がないことだが、サキはその話しをリリムから聞いていた。レイデンでかつて起こった『教会事件』と呼ばれる奴隷関連の事件だ。


 簡単に言えば資金繰りに困っていた教会が奴隷商人側からの誘いに乗り、経営難の孤児院から子供を預かって孤児を奴隷として売り払っていたというだけの話しなのだが、そうやって資金を集めるだけでなく、それを放置する特定の貴族たちの評判を地に落とし力を削るという意味合いもあったのだろうというのだ。


 サキからすれば知ってどうこうという話しではないが不快なだけだ。無論、国の力を盾に悪評まで押し付けられた東側の貴族たちが行動を起こすのも時間の問題であるという話しを聞いて、少しだけ溜飲を下げたが、当然のように許したわけでもない。全ての元凶にはとっとと倒れて欲しいと思うばかりである。


「んー、歩くの面倒だねぇ。にしても、よく作ったよね、魔物対策のあの外壁。小さな村はともかく、都市部はみーんな囲まれてるみたいだよね」


「ノースリンド、違う。海側、無い」


「あ、そうなんだ」


「海、魔物出る、聞かない」


 だから必要が無いというわけである。そもそも、もし海にも魔物が出るのであれば貿易などもできなかっただろう。陸路を遮断されている帝国にとっては、今の海上のルートこそが貿易の生命線だ。その分、港を有する沿岸部の領地持ちの力は強い。


 何れは海も魔物で溢れかえることになるのではないかと危惧する者も多いが、魔物が大陸に現れてから大よそ百年。未だに現れていないせいで、警戒は緩んでいる。もっとも空を飛べる魔物が飛来することはあるのだが。


「空元は東の海を越えた先だっけね。誰か美味しそうな人いる? リリムみたいなのか、後はお姫様とか」


「殿様、娘、いる。それなりに」


「あ、居るんだ。実は僕、聖女よりもお姫様の方が食べたいんだよねぇ。栄養があるのは間違いなくリリムなんだけどさ、お姫様はなんていうかな。血が騒ぐっていうか……なんなんだろう。僕たち竜は光物が好きだから、ピカピカしてるもの沢山着けてる姫の方が美味しく見えちゃうのかなぁ」


 装飾品で美しく着飾っているからか、竜の感性はそうだった。とはいえ、ならば竜はピカピカに装飾された王様も美味しく感じられるかといえばそうでもない。


「ちなみにサキはまだ脂がのってそうじゃないし、あんまり美味しくなさそうだよ」


「食べたい?」


「ううん」


 食べられる心配が無いことを喜べばいいのか、それとも憤慨するべきなのか。獲物の人間としては困る会話である。


「逆に、竜、食べる、味、どう?」


「んー、硬いけど量も多いから食いではあるよ。味は普通かな。あ、でも頭悪い竜なんかは強い竜を食べれば強くなれるって迷信を信じてるのが多いかな。同じように僕が居た世界『ラーク』の人間もそう思ってる人が居るみたいだったけど……正直、牛の方が絶対に美味しいよ」


「じゃあ、レブレ」


「僕? んー、どうだろ。理性がある仲間内ではもう共食いなんてしないしなぁ。実際のところ、僕が食べたのも下級の能無しばかりだからなぁ……食べてみたい?」


「んん」


 フルフルと首を横に振って否定。


「レブレ、美味しそう、見えない」


「そっか。あっ、でも帝都で竜肉の定食あったし、今度試してみたらいいかもね。何の竜かは知らないけどさ」


「ん」


「おっと。そろそろだね。美味しいものあるかなぁ」


 外壁の門に並ぶ通行人たちの列がある。二人はもの珍しそうな顔で並ぶことにする。身分は旅のフリーランサーとその弟。少しだけ門番に絡まれそうになったが、二人はリリムに言われたとおりに袖の下を繰り出し、潜入することに成功する。


「なんだろうね。潮風に混じって悪の匂いがプンプンするよぉ」


「竜、鼻、凄い」


「嫌に鼻につく匂いだからサキにも分かると思うよ。うわぁ、視る価値ない奴ばっかりだなぁ。間違ってもこの中に英雄はいないね」


 本当か嘘か、よく分からないことを言うレブレの手を引いて、サキは町中に繰り出した。肉を焼いている通りの屋台にお小遣いを持って突撃する子竜に、何度も時間を取られながら。








 ノースリンドは北側に大陸を迂回して貿易をする北側の始点でもある。町の賑わいはレイデンと対して変わらないが、やはり船が着いた時には随分と違うようだった。


 丁度貿易帰りの船が南下してきたのか、積み下ろしと物資の荷揚げによる人々の往来が激しかった。荷馬車も多く、食料品は愚か珍しい交易品などが荷台に載っているのが見える。


 レブレが分けてくれた串焼きを頬張りながら、サキは記憶に残っている情報から大体の辺りをつけて移動していく。船の上から港に到着するまでの間に見えた位置からすると、目指すべきは町の北側に位置するだろうか。


 イーストリンドからノースリンドへの船は少なくは無いが、やはりこの港のメインは大陸の北から帰ってくる貿易船。メインストリートから真っ直ぐに外壁の門へと続く位置ではなく、町の北東に船は停泊した。そして、すぐ近くの宿を取って観光に出た後でやられた。


 今思えば、その宿もきっとグルなのだろう。滞在するに必要なそれなりの金品や、空元特有の物産は物珍しさもあって高く売れる。特に、空元の人間の武器である『刀』はその波紋の美しさから近年では美術品としての価値があると言っていた話をサキは思い出す。


 まず、二人はメインストリートを抜けて真っ直ぐに港を目指した。一層強くなる潮風の匂いをすっかり嗅ぎなれた頃には、埠頭に並んだ大きな船たちに出迎えられる。外洋にも耐えられるほどにしっかりとしたその作りは、空元の船とは一線を駕す。また、港の一角にある造船所では近年の貿易増加に伴い職人たちが賑わっているようで、木材が運ばれて行く様がよく見えた。


「さて、港についたね」


「こっち」


 人込みの中、しっかりと手を繋いで二人は東へと抜けて行く。少しだけ、サキの手に力が入ったことを感じ取ったレブレだったが、特に何も言わずに着いて行く。そうして、二人はその場所にようやくたどり着いた。


 そこは、賑やかな喧騒を避けるような路地裏だった。煩いぐらいのストリートと比べれば閑散としすぎていて、どんよりと薄暗いようにも感じる。その空気の違いは今でこそ明らかであるが、かつてのサキはそんなことにさえ気づけなかった。それが普通かどうかさえ判断する材料が、当時の彼女には無かったのだ。


 また、別段その周囲が飛びぬけて分かりやすいほどにスラムのようにうらぶれているわけでもない。それがより一層危機感を刺激しないのだ。どこか作為的にさ今では感じられるその場所に、今でも空元の人間が被害に会っているかもしれないと思えば、サキは腹立たしさと同時に暗い感情を思い出さずには居られなかった。


「ここ」


「ふぅーん。港からは丁度見えない程度には移動してるね。分かりやすいぐらいに怨念が溜まってる。このまま続けば、碌なことにならないだろうね」


 周囲を竜眼で見ていたレブレが顔を顰めながら言う。サキには彼の視ているモノが何かは分からないが、黙って手に持っていた花束をその場所に置いた。嫌に黒ずんだ染みのある石畳。そこに、ぽつんと置かれた献花が物寂しく路地を彩った。


「……」


 両手を合わせ、サキが黙祷を奉げる。脳裏にこびりついたあの日の情景を振り払うことが、果たしてそれで出来るかなんて彼女にも分からない。遺骨も形見も、何も残っては居ない。記憶の中だけに残された惨劇の跡地を訪問し、ただ参っただけ。その事実が与える影響など、結局は少女の心の中だけで完結する程度の代物でしかない。そもそもに納得できるものでもない。だが、それでもサキは無心に祈った。父の御霊の、安らかなる眠りを。


「終わり?」


「うん」


 少しだけサッパリした表情で、サキが微笑む。いつもは無表情にも見えるその顔に乗る微かな表情に、レブレは満足そうに頷く。


「それじゃ帰ろっか。それとも、どっか見てく?」


「お土産、二人、買う。花、お礼」


「オッケー」


 









 サキはメインストリートを練り歩く。何か珍しいモノでもないかと見回るその姿は、おのぼりさんにも見えるだろう。特に空元の黒髪と顔立ちのせいで目立つ。すれ違う人々の視線を無視しながら、屋台に突撃しようとするレブレの手を引いて行く。しばらくすると、彼女は一軒の露店で足を止めた。


「ここ、武器屋だよ?」


「少し、見たい」


 言うなり、サキはしゃがみこんでそれに手を伸ばす。それは、立派な木の鞘に収まっている短刀であった。少しだけ鞘から抜いて刃を見てみれば、そこには彼女が知っている流麗な波紋がある。空元の刀鍛冶が打つ特有のものだろう。


 大陸と空元では武器に求められているモノが違う。海で文化の流入がほとんどなかったせいで、独自の文化を形成する過程で作られた別種の流れは当然のように武器防具にも違いを生んだ。


 分厚い鋼鉄の防具で身を固めた相手を倒すために研磨されたのが大陸の武器だ。そんな相手を殺すために大陸人はそれ相応の武器を作った。単純な重量で叩き斬る武器、頑丈で衝撃に特化した鈍器、鋭さで鎧を抜く刺突系の武器などである。


 それに比べれば、空元の武器というのは些か迫力に欠ける。元々資源が大陸とは比べ物にならないほどに乏しく、例えば大陸に存在する金属性の全身鎧などは存在しない。その代わりに空元では機動力と技量を重視する傾向にある。特に大陸ではポピュラーな剣に相当する刀は扱いが難しい。しかし、使いこなせる達人は鉄さえもそれで両断する立派な武器だ。


 もっとも、大陸人の多くは使いこなす剣理も術理も習得していない。故にこの武器は鑑賞用止まりである。態々隣国とはいえ、魔法も存在しない後進国の武器に武器としての価値を求めたりはしないのだろう。この短刀はどちらかといえば護身用であり本格的な武器ではないが、サキにとっては祖国の武器だ。懐かしさと同時に去来する望郷の念を感じ取る。


「なんだか綺麗だけど頼りない武器だね。これじゃ、僕は殺れないよ。あ、でも薄っすらキラキラ……んー、んおっ?」


 特にその刃の薄さに疑問があるのだろう。指で子竜が触れる。サキが止める暇は無かった。そっと触れただけだったレブレの指に、血が滲んだ。


「わっ、凄い切れ味だ」


 咄嗟に指を離しながら、レブレが感嘆したような目で切り口を眺める。


「こら、売り物を汚すんじゃねぇ!」


 レブレの手からひったくるように短刀を奪った店主が、刃を布で拭う。


「ごめんさーい。ねぇおじさん、それいくら」


「額なんて聞いたって餓鬼には出せねぇよ。こいつは安物のナイフとは訳が違う。空元からの輸入品なんだよ」


「おー、輸入品! ここのは全部そうなの?」


「そうさ。今朝頃にちょいとしたツテで安く手に入ったんだ」


「凄いねぇ。ねぇ、アレはアレは!」


 一本の刀を指差し、レブレが問う。しっかりとした黒鞘のそれは、他のモノと比べて扱いが一線を駕している。見栄えの良い台座に置かれ、まるで他の武器とは違うとでも言いたげな高級感を出している。サキも気にはなっていたが、手の届かない位置にあるために直接見ることができないものだろうと思っていた。だが、レブレはお構い無しだ。「見たい見たい」と連呼し、強面の店主をナチュラルに困らせている。


「たくっ……そんなにみたいか?」


「うん」


「ちっ、しょうがねぇな。この店一番の掘り出し物だがまぁ、見せてやっても良いぞ。感謝しろよ坊主。俺が以外と子供好きだったことにな!」


「わーい」


 無造作に刀を取ると、男が鞘から刃を抜いてみせる。陽光に煌く刃が煌く。身を乗り出してどこか食い入るようにそれを見るレブレは、また怒られないように触れるようなことはしなかった。


「うわぁぁ、すっごい。これ凄いよおじさん! ドワーフが作ったの?」


「まさか。空元にドワーフはいねぇよ。向こうの人間が鍛ったもんだ」


「これを人間が? その人に会いたいなぁ。絶対に視てみたいよサキ!」


 飛び上がるようにはしゃぐレブレの様子に気を良くしたのか、店主は少しだけ目じりを緩める。今度は「会いたい会いたい」と連呼し始めたレブレが、サキに問う。


「空元のどこに行けば会えるの? 僕絶対に会って視るよ。こんなとてつもなく呪われそうな武器を作るなんてきっと名工だよ!」


「ぶふっ」


「呪い?」


「ちょ、おい餓鬼。言うに事欠いて呪いってなんだ。営業妨害目的かこの野郎!」


「どうして? 今のは最高の褒め言葉だよ」


「どこだが!」


 彼女からしても店主の言い分の方が正しそうな気がする。


「だってさ、武器って要するに殺せば殺すほど殺された者たちの怨念を纏ってくじゃん。普通の武器だとそうなる前に多分壊れちゃうけどさ、これはすぐにでも魔剣になりそうなぐらいにキラキラしてるんだよ」


「わけわかんねぇよ」


 竜眼で視ているレブレである。当たり前のように人間とは見るべき点が違っていた。サキにも当然言っている意味が分からない。だが、魔剣という件から妖刀という言葉を連想した。それは、何人も斬り血を吸っても切れ味が落ちないとかいう胡散臭い刀、あるいは持ち主や周囲に何がしかの不幸を呼ぶものに与えられる迷信にも似た称号だ。生憎とサキには今みている刀がそうであるかどうかなど分からない。ただ、確かに名刀だと言われればそんな気もしてくるような何かを感じないでもなかった。


 一応サキは商人家の次女であった。余り武器には精通しているわけではなかったが、素人よりはマシな程度には目が肥えていたし、道場で実際に刀を振るったこともある。なんとなくだが、業物に見えなくもないのだ。


「でもこれが一番の掘り出し物だっていう目利きはさすがだね」


「そ、そうか? いやぁ、俺もそう思ってよ。こいつだけはなんとか売ってもらったんだ。おかげで、他にも買う羽目になっちまったが……後悔はないね」


「よっ、プロ商人」


「わははは。よせよせ、こんなおっさんを褒めても何もでないぞ坊主」


 謙遜しながら、しかし男は満更でもない様子で笑う。 


「ねぇ、ここにある奴って全部その刀を作った人の武器?」


「知らねーよ。俺は流れてきたものを売るだけだからな」


「そっかぁ。ところでこれは売るとしたらどれぐらいになるの。高そうだよね」


「相当にふっかけるつもりだぜ」


「五百万リズぐらい?」


「いや、一千二百万リズ」


「わぁぁ。僕のお小遣いじゃ全然足りないや」


「がははは。どうせこいつは道楽好きの金持ち専用だ。欲しかったらちゃんと金持ちになってから来いよ」


 刀を鞘に収め、台座に仕舞うと店主は定位置に座り込む。だが、思い出したかのように立ち上がると後ろに積んである木箱の中から在庫の刀をいくつか取り出してくる。


「ほれ坊主。さっきのよりは駄目駄目だが、こっちにはもっと安いのがあるぜ。といっても、どれも百万リズ以上はするがな。見るだけならタダだぞ」


「おおー」


 どうやら本当に店主は子供好きのようだった。一本一本手にとって目を輝かせるレブレを見て楽しんでいる。そうして、子竜は子竜で刀を見比べて序列をつけていく。


「んー、この中だとコレだけかな」


「そいつもキラキラか」


「うん。二歩手前ぐらい。僕なら八百……九百万リズは値をつけるね。他のはどれもちょっとマシ程度だよ」


「よしよし、じゃあそいつはお前さんの言い値で吹っかけてみるか」


 面白がって笑う店主と、少年が盛り上がる。蚊帳の外で手持ち無沙汰にしていたサキではあるが、レブレがより分けた刀の中の一つを見て血相を変えた。


「これ、手に入れた、どこ!?」


 木鞘に仕舞われたその刀は、一応はレブレがそれなりの序列を与えたモノである。滅多にない少女の驚きに首をかしげながら、レブレがそれを手に取って刃を見る。とはいえ、それほど目を引くものではない。他のよりはマシ程度の代物ではあったがそれだけだ。


「どうしたのさ」


「それ、家紋。大名の、売る、ありえない」


「……なんだってんだ?」


「んー、この木の鞘に掘られてる模様が、空元の大名の家紋……えーと、家に伝わる紋章? で、それが売られるのはありえないって言ってるね。サキは空元の生まれなんだよ」


「ほーう。でもまぁ、大名ったって海の向こうだろ。別に攻めてくるわけが……」


「来る。絶対に来る。家紋入り、持つ、大名縁の者だけ。庶民、違う」


「……」


「盗品、だけ、大丈夫、ギリギリ。でも、縁者誘拐なら、来る。絶対」


「いや、でも空元ってアレだぞ。帝国と比べたら小さい田舎なんだろ。国力も違うし、第一魔法が無い国なら対して怖くはないだろ」


 店主が聞きかじった程度の情報ではそうだった。その認識は両方を知るサキのものと変わらない。普通なら早々に攻めるとは思わないだろう。しかし、それはあくまでも大陸の価値観ではの話しに過ぎない。


「力、兵数、関係ない。忠臣、命捨てる、容易く。全員、決死」


「えーと、兵力も国力差も関係ない。忠誠心が凄いから、全員決死の覚悟で来る……だってさ。んー、空元の大名って国軍とはまた違うんだよね。領地持ちの貴族の軍みたいな感じ? 一勢力でしかないけど、そんなのが命捨てる覚悟で報復に来る。んー、まぁ、本当に来たら被害は絶対に出るよね」


「成果、出る、終らない。多分、一族郎党繰り返す」


「うえっ、そこまでやる?」


「絶対、やる。終らせる、彼ら、納得、必要。縁者開放必須。関係者、切腹必須」


「せっぷくって、なんだ?」


「えーと、『ハラキーリ』だっけ。大陸でいうところのアレだよ。首を差し出せって言う感じ。そうだよねサキ」


「ん」


「お、俺に言われたって困るぜ嬢ちゃんよぉ」 


 どこか睨むようなその視線には、店主もさすがにタジタジだ。とはいえ、彼としても余り気持ちの良い話しではない。空元から距離がある。そもそも一番近い港はイーストリンド。このノースリンドまでは遠すぎる。店主はここは安全だとは思う一方で、沿岸部にある港町だという事実を思い出す。空元と海で繋がっているという事実がある以上は、来れないと思うのは早計かもしれないのだ。


「さっきも話したが、こいつは偶々別の店で買ったもんだぜ」


「どこ」


「国営の……ほら、奴隷とか売ってる中央市場でだ」


「ありがとう」


「お、おう!」


 顔に似合わず子供好きな露天商でさえ、思わず仰け反るほどに冷たい目。突き刺さるような少女の瞳か逃げるように店主がレブレを見る。すると、少年は少年で何事かを考えていた。


「ねぇねぇおじさん。これと、あの一番の掘り出し物を買うとしてさ竜燐だと何枚で交換できる?」


「あ、ああ? そうだな。百五十……いや、百四十枚……だな。最低でもそれだけ必要だ」


「そっか。んー、しょうがない。こうなったら人肌脱ごっかな。おじさん、また後で来るから大事にとっておいてよ」


「お、おう?」


「ほら、行こうサキ。お土産を買うんでしょ」


「……ん」


 どこか渋々という風な顔をする少女の手を引きながら、少年は去って行く。店主はまだ後で来るという件を不審に思ったが、嫌な空気から逃れるべく頷いて見送った。











「ただいま! リリムゥゥ、どこにいるのさー。リリムゥゥ――」


 ダンジョンに転移で帰ってくるなり、レブレは家の中に飛び込んだ。サキはお土産に買ってきたノースリンド産の新鮮な魚を持って後に続く。


「ちょっと、何なのよレブレ」


「いいからいいから!」


 忙しなくリリムの手を引っ張って、レブレが外に出て行こうとする。


「リリム、おみやげ」


「魚ね。んー、とりあえず保存しといて」


「了解」


 サキは台所に置いてある、木箱を重ねたような物体に向かい上段を開ける。そこにはひんやりとした冷気をかもし出す氷の塊が鎮座している。原始的だが、賢人の生活魔法と組み合わせて作られたそれは立派な冷蔵庫の役割をする代物である。その近くにおいてある金属製の入れ物の中に氷を生み出す魔法と水を入れてから魚を投下。冷蔵庫の戸を閉めて保存する。


「慌しいな。何かあったのか?」


 そこへ、本を片手にシュルトがやってくる。その手にあるのは教材だ。シュルトがリリムとサキ用に毎回書き加えている教科書のようなものである。久しぶりに書き溜めていたのだろうと辺りをつけながら、少女は彼の問いに対して頭を横に振るった。


「いえ……」


「そうか。何か問題でも発生したのかと思ったが違うのであれば構わん」


「――」


「だがレブレが何をしているのか気にもなるな。サキ、暇なら付き合ってくれるか」


「はい」


 教材を足元の影に投げ捨てると、台所からティーセットを持ち出してくる。その後に続いて外に置いてあるテーブル席へと移動。何やらドラゴン姿に戻ったレブレの背中に飛び乗って何度も悲鳴を上げさせているリリムの姿を二人して眺めつつ、ティータイムに移行する。


「痛い、痛いよぉ。もっと優しくして剥いてよぉ」


「ふふふ。こういうのはね、一気にイクのが一番なの。中途半端にしたほうが余計に痛むんだからね。大丈夫。私に任せなさい。優しく剥いてあげるから」


「うう、でもやっぱり痛いものは痛いんだもん」


「貴方が望んだことでしょ。ほら、もっといい声で鳴――じゃなかった。我慢して苦悶の声を上げつつ耐える耐える!」


「ああっ! やっぱりつまみ食いの件で根に持ってたなー!」


「あったりまえじゃない。うちのエンゲル係数をとてつもなく肥大させるあんたを躾けられる絶好のチャンスを逃すもんですか!」


「うわぁぁん。リリムがドSモードに入ってる!?」


 痛みに耐えかね、ダンジョンでドラゴンが一匹、涙目でのた打ち回る。その上では、妙にいい顔をしている金髪少女がドラゴンロデオに挑戦していた。振り落とされないように白いオーラを纏いながら。同時に、何かの数を数え始める。


 中々に騒々しいが、そんな光景を無視して吸血鬼はのんびりとお茶を入れた。そうして、サキの前にお茶の入ったティーカップを差し出す。彼女は差し出されたそれを受け取ると、対面の席に座からレブレとリリムのなんだか苛めにも見える行動を見守った。


「リリムはどうやらレブレの鱗を毟っているようだな」


 露天商とレブレの会話からすれば、サキにも理由は推察できる。そのことを告げると、シュルトは一応は納得したように頷く。


「金が必要になった、か。しかし、少しばかり体を張り過ぎだな。そんなに良い武器だったのか? その刀とやらは」


「魔剣、手前、言った。レブレが」


「ほう、ならば竜の血が騒ぐこともあるか。お宝といえばお宝でもあるな。サキはその『刀』とやらは必要ないのか? 一応、選ばせはしたが帝都の店ではなかっただろう」


「ブレイドエンチャント、ある。今の、十分。それに、私、未熟……」


「そうか。では必要になったら言うといい。武器は使い慣れたモノや使いたい物を使うべきだからな」


「はい」


 自ら入れたお茶を飲みながら、シュルトがリリムたちの方を見る。釣られて先もそれを見れば、何やら「三十まーい、三十一まーい」なる呪文が聞こえてくる。どうやらまだまだ時間はかかるようである。


「いっそのこと、二人の防具用にも欲しいな。んー、この場合は竜革ごと欲しいが……さすがにそこまでは望めんか」


「可哀想」


「ふふっ、そうだな」


 しばらく、二人はそのまま戯れる二人を見守った。


「この光景を絵画にしたとして、題をつけるならば『竜と聖女の心温まる一幕』なんてのはどうだ」


「心、温まる……」


 果たして、そんなに和むような光景だろうかとサキは首を傾げる。リリムのお仕置きは既に苛烈を極めている。鱗をしっかりと集めるまでは続くだろう。どうやら終るまでは奇跡で治癒する気も無いようである。レブレから言い出したとはいえ、『竜と聖女の気の毒な光景』にしか彼女には見えない。


「ふっ。竜は普通あんなことは許さん。背中に乗せる相手も選ぶしな。本来はそれほどに気位いが高い生き物なのだ。サキ、何故だと思う」


「思う、強いから」


「そう、強いのだ。人間とは比べ物にならない程に種族としての基本能力が高い。それは他の生物に対してもそうだ。私が、潜在的に人間に強気に出られるのもきっとそうだろう。あまり気分が良い話しではないと思うが、理性ある者はどうしても比べてしまう。いや、無いものでも本能があるものはそうなのだ。生き物は、自分と相手を比べることでようやく生き延びられるのだ。悲しい習性だな」


 比較するということは、明確にするということでもある。そうやって線を引き、正しく理解するためにも利用されてきた。力が強い、金持ちだ、頭が良い、格好が良い、センスがある……。指針は多様にあっても、そうやって比べて格づけることで今度はその差を埋めるべく生き足掻く。あるいは、逃げる指針として利用する。


「これは竜も人も、吸血鬼だって同じだ。差を理解する能力は生きていくために必要で、自らを戒めもするし尊大にもさせる。そういう意味においては、レブレは竜のスタンダードから外れているな。元々人懐っこい気質もあるのだろうが、私の知っている他のどの竜よりも恐ろしく人間に寛容だ」


 だから心温まる、などとシュルトは題をつけたわけである。


「リリムは逆だな。今のあの子では奇跡の力に縋ってもレブレには最終的に勝てないだろう。見下すというよりは見上げる側だが、あの子は対等以上な態度で振舞える。その気になれば一口で自分を食べてしまえる相手に、だ。これはレブレがそんなことをするはずがないと信じきっているからだ。これができるまでに、竜と人の間でいったいどれだけの血が流れて来たか。私はそれを想像すると胸が熱くなるよ」


「先生、の、世界、は……」


「そうだな。私やレブレの居た世界『ラーク』においては、差を覆すために魔法があると言っても過言ではない。ある意味戦乱を更に混沌とさせた泥沼の発生装置が魔法だ」


 通常の生物的能力差が覆る技法、技術。その集大成の一つであるのが魔法だった。リリムたちの住む世界『レグレンシア』とは比べ物にならない程にその魔法は戦争に特化している。振り返ればそこには、忘れてはならない程に積み重ねられた闘争の歴史があった。リリムとレブレのような関係を築くのはそう簡単なことではないのだ。


「人と吸血鬼もそうだ。なまじ見た目は似通っている癖に別の価値観を持っている。そして吸血鬼は基本的には捕食する側だから、こうして人間の君と私がお茶を飲むことさえ憚られる国はラークでもまだまだある。或いは、君とこうして語らう私たちを見た者が、奇跡のような、或いは悪夢のような光景だと言うこともあるのだろう」


「積み重ね、必要、否。思いたい」


「うむ。そうであればいいな」


 だが、悲しいかな戦いはなくならない。世界を超えてさえ皆無ではない。魔物が出る前の世界であってもそうだった記録をシュルトは知っている。そういう意味では、今現在の魔物による闘争の停滞も、この世界にとっては無意味ではないのかもしれないと思えるほどに。


「だから、でもあるのだ。君たちやリングルベルで教えた魔法に欠陥を敢えて作ったり上級程度までしか教えないのは」


「男、理由、使えない。血だけじゃ……ない?」


「今なら賢人がどうしてあんな手を抜いた攻撃魔法しか用意していないか、分かるような気がするよ。必要ないと考えたのだろうな。この世界『レグレンシア』には」


 魔物が居なかった世界において、敵と成りうるのは最終的には人類種だけ。エルフ、獣人、人間、ドワーフ、有翼人。他にも存在する多様な人類種。これまでの戦争の中で争ったことが無い勢力は無い。今でこそ国の垣根ができ、友好的であるとはいえ旧き時代の記録は懲りずに戦いに彩られている。


 理解するために戦いが必要なのか。それとも戦いで痛みを覚え、憎悪に揉まれながらそれに飽きるまで理解などできないのか。


 本能と理性が織り成す、違いを簡単には容認できない生き残るためのシステム。その呪縛のような無限連鎖。きっと、その始まりが低俗な欲望であれ、純粋な生存欲求の発露であれ、ただの憎悪であったとしてもそのシステムには関係が無い。それは正に悲しい習性。


「でも、やっぱり……」


 状況としては必要とされている事実がある。この世界の人間としては、シュルトの作った欠陥については納得できない部分も多々ある。それはサキにだって不満である。だが、言いたいことも分からないでもなかった。


 それこそ未だに遠い可能性の向こうの中での話しだが、魔物が駆逐されたとしたらシュルト・レイセン・ハウダーの魔法が後の戦争の火種として残る可能性があるのだ。だから欠陥のある魔法にしておきたいという彼の意思を理解できない訳も無い。


「確かに私の世界の魔法が必要とされる状況ではあるが、元々私など存在するはずがない異物なのだ。だから、敢えて残した欠陥の中に、致命的な部分を作ってある。リングルベル王国が調子に乗れば私はそれを用いて潰す。そしてサキ、お前が故郷に帰った後に空元に伝え、その結果として碌でもないことになったとしても同じだ。無用の長物にする用意が私にはある。それが最低限の責任であるかとも思っているからだ」


「……はい」


 神妙な顔で頷いて、少女はお茶に手をつける。サキ個人としては、そこまで考えていたわけではない。脳裏に描いていたのは、短絡的に魔物を駆逐する力を提供して、志半ばで殺された父の後を願いを継ぐためだけだ。その後、伝えた魔法で空元がどのように激変するかなんてことは、まったく頭の中にはなかった。


 ただでさえ空元の支配者であるべき天帝が幕府によって封じられ、腐敗が進み、大名たちの戦国の世になったところで魔物の登場である。この魔物という突然乱入してきた意図しない異物が再び存在しない国に戻ったら、戻ってくるのは戦国の世だというのは想像に難くない。その引き金を引くのが自分の伝えたモノで、その先にまったく今までとは違う戦いが繰り広げられることになった場合に生じる変化の責任など、サキには取れそうもない。


 そもそも、そうなった場合にはもはやサキには止める力もない。一個人の力は所詮は一個人の代物であり、サキは突き抜けた者ではないからである。それに加えて条件が対等になれば、そこに待つのは結局は数の暴力に他ならない。


 シュルトが強いのは厳密な意味において人間と対等ではないからだし、話しの断片から察するに元々人間との戦いに慣れているからでもあるのだろうと少女は理解する。そしてその上で、自らの目的の先に初めて目を向ける。


 儲けるために商売するのは商人の基本だが、同時に義理を欠くような真似はできない。その先に待つのは手痛いしっぺ返しであり、その反動。恨み辛みを量産するのではなく、商売の結果として未来を明るいものにするのが理想である。では、魔物を駆逐するための破邪の力でありながら、更なる戦乱を新しく生むかもしれない劇薬のような商品を提供する場合はどうするべきか。


「はは、そんな深刻な顔をするな。今のは例えばの話しだ。それに、どういう風に魔法を使うかなんてのは使う者の責任だ。教導する側に全ての責任を押し付けるのは本来は筋違いだ。第一、私の魔法で世界が激変するなんてのは、ただの誇大妄想で、恥ずかしい思い込みになるかもしれんのだ。サキはサキのやりたいようにやってみればいいさ」


「はい」


 その過程において、今までよりも少しだけ目的が変わるかもしれない。少女の中に去来するのは、近視眼的な結果だけではもうない。余計に考えることが増えたことは間違いないが、シュルトが教えた魔法について、もっともっと考えることになるだろう。悩み過ぎることはよくないが、悩むという工程は必要なのだ。吸血鬼は素直な少女の様子に満足し、そうして用件を切り出した。


「さて、ここまで随分と本命の話しから脱線してしまったわけだが話題を変えよう。何か相談したいことはないか? もしかしたら君には無理でも、私にならできることがあるかもしれんぞ。無論、行動を求めるならば対価は貰うが、相談するだけならばタダだ。無論、何も無ければそれでいいが……な」


(まったく、敵いませんね。先生には)


 どこか諦めたような顔で、しかしサキは細い右腕をテーブルの上に突き出した。それは、空元人が持っている潔しを尊ぶ精神の発露であった。


「先払い、お願いします」


 少女は何かを懐かしむ顔で、シュルトに厄介ごとを頼み込む。木瓜の家紋入りの、あの見覚えのある刀の持ち主を送り返すために。













「――抜かったか」


 牢獄の中、黒髪の若い男が吐き捨てた。大陸人からすれば下手をすれば幼いとも思える顔立ち。しかして、それを補って余るほどに黒瞳には隠し切れぬ覇気が宿っている。


 紺色の着流しを纏ったまま、首に付けられた鉄製の首輪に繋がった鎖を両手でジャラジャラと弄ぶその様は、誰がどう見ても酷く苛立っているように見えるだろう。ひんやりと冷たい石床の上で、彼はそうして頬杖をつく。


「人生五十年。にもかかわらず、まだ半分も生きておらんぞ俺は。くそっ、それもこれもあいつが音沙汰無いのがいかんのだ。死んだなら死んだで、枕元に立てというのだ」


 ブツブツと呟く彼は、「是非も無い」などと呟いて床に寝転がる。石床の固さが煩わしいが、それさえも彼の中に湧き上がってくる怒りを助長するだけに過ぎない。結局、申し訳程度に備え付けられている毛布にさえ手を出すことなく少年はそのまま意識を手放そうとした。


――コツ……コツ……。


 ふと、石畳を叩く音が聞こえる。その音は、ある一定のリズムで音を紡ぐ。少年はそれを聞き終えると、鬱陶しげに石畳に足の裏を叩きつける。バチンッとそれで音が鳴れば、石畳を叩く音は途切れた。


「ふん」


 途端に静寂が周囲を染める。申し訳程度に焚かれた松明の明りの中、薄めを開けた彼は相変わらず薄暗い牢獄の天井を見た。


「いかんな。このままでは万爺ばんじいが三日も持たずに死ぬ。いや、静かだからもう死んだか」


「……長信殿。さすがに勝手に殺すのは関心しませんな」


 対面の牢屋の中から、老人が声を出す。首だけを鉄格子に向けた少年は胡散臭そうな目で老人に言う。


「何を言うか。若い俺ならまだしも、老い先短い爺なぞこの国でなんの役に立つ」


「これは手厳しいですな」


「そもそも、お前があの妙な連中を雇ったのが全ての始まりではないか」


「それを言われると辛う御座いますが……段取りを壊した長信殿にも責任はあるでしょう」


「知らん」


 間髪居れずに言うと、多織田たおだ 長信ながのぶは耳を指先で穿りながら尻をかく。が、そんな姿など無視して万爺は言葉を続ける。


らん殿がただの町娘ではなく『くのいち』だと仰っていてくれれば、同士討ちなどしなかったのですがね。しかもご丁寧に雇った護衛の喉元を手裏剣で一撃。全員潰してしまわれました」


「はっ。蘭にやられるような護衛など、弱すぎて頼りにもならんわ。相手は魔法とかいう珍妙な技を使う連中ぞ」


「かもしれませんが、戦いには『せおりい』というものが御座います。アレは一瞬で使えるものではございませんから、すぐに距離を詰めて対処すればよかったのです」


「だったら、尚更蘭の手裏剣を消費させたお前の護衛が悪い」


「いや、ですから――」


 昨日から繰り返される話しは、妥協点を見出せずに平行線を辿っている。お互いに罪を擦り付け合って罵りながら、しかし情報交換は忘れない。


「で、後何日あれば出られる」


「さぁ、それは相手次第ですな。ですが、それは結局は一時だけでしょう」


「なるほど。ここでは都合が悪いか」


「他の空元人に『おおくしょん』でバレる可能性がございます」


「ふん。この町に連れて来られた時点で終っておるだろうに」


「用意周到という奴ですな」


「種田島の連中、そこまで分かっていてこれだからな」


「いえいえ、これは捕まって初めて分かったことですよ」


 空元の商人が大陸から余りにも帰ってこないことを調査するために、万爺こと万里休ばんのりきゅうは動いていたという。そうと少年が知ったのは、牢獄の中である。少年は少年で将棋仲間の商人親父の次女から手紙の一つも送られてこないことに業を煮やし、見聞を広めるための旅と称して帝国へとやってきていた。


「そっちは動けるか」


「無理でしょうな。『いいすとりんどう』ならばともかく、『のおすりんどう』までは手が届いていませんでしたから。音信不通になって初めて気づくでしょうが、我々は結局行方不明で片付きますな。それ以後の方々は助かりましょうが」 


「ちっ、役に立たん!」


「そういう長信殿は噂どおりでございますな」


「はっ、うつけ扱いはもう慣れたわ! 偶にはもっと別の名で呼べい!」


「では、お言葉に甘えて『うっかりうつけどたんきのくちほどにもないえもん』と呼ばせて頂きましょう」


「ワハハハ。なんだその無駄に長ったらしい名は! 気に入ったぞ万爺。だからもう一度早口で俺の名を呼んでみろ!」


「結構で御座います。空元一のおおうつけと名高い、多織田家の次男坊殿の耳に入ると可哀想ですからな」


「貴様ぁぁ! 生きて帰ったら絶対に切腹させてやる!」


「はっはっは。商人組合『堺』の重鎮である私にそんなことを強要すれば、多織田家はそこで終わりですぞ」


「ええい、なんとなれば『徳永屋』とだけ商売してくれるわ!」


「それも長信様が空元に帰還し、更には家督を継がれればの話しですがね」


 口の回る商人と、少年の攻防が続く。定期的に続くそのやり取りは、看守も辟易としているが、もはや諦めていた。そもそも鉄の扉さえ閉めてしまえばそれで済む。それに第一言葉が通じない。通訳ができる者は少ないのだ。おかげで看守は一日で扉の向こう側に消えていた。


「しかし、蘭殿でも抜けられないのは本当にお手上げですな。やはり、大陸人に足元を見られているようで」


「当然であろう。態々他国に最新の技術を提供するような奴は俺よりもうつけよ。それに何の道具もなければどんな忍者でもお手上げだ」


「錠前、魔法、対魔物戦術。いやはや、どれをとっても空元は遅れてますなぁ。それもこれも、どこぞの野蛮な連中が飽きもせずに争いばかりを繰り返すせいですかな」


「それを言うならどこぞの薄汚い商人風情が長引かせようと調整していたせいであろうよ。俺が空元の頂点に立った暁には、中立を謳いながら裏でこそこそ小金をやりとりしているあこぎな商人の権利なぞ根こそぎ無くしてくれるわっ! ついでに関所での鬱陶しい税勘定も廃止だ!」


「はっはっは。正に夢物語。天下に最も近い川今殿に聞かせてやりたいですな」


「おうとも。存分に聞かせてやれ。きっと俺の言葉に賛同してくれるだろうよ」


「ふう。しかし、残念でなりませんな。長信殿とは、将棋を一指しして白黒付けたかった」


「……やはり明日か」


「それ以外、考えられませぬよ。そろそろ移送準備も終ったでしょう。これでも遅いぐらいだと思います」


「となれば、行き先は『どるふしゅていん』だな」


「いえ、恐らくはそれ以外でしょう。ここの領主殿はそういう類のモノを嫌っているといっておりました故に。恐らくは帝都方面でしょう」


「なんと、領主殿と話したことがあるのか」


「一度だけではありますが。屈強そうな若者でございましたよ。今では腹が大層でているそうですがね。できれば、もう一度だけお会いしとう御座いました」


「だとしたらこの国は歪よな。お前がそこまで言う奴が居る癖に、こんな不条理が罷り通っているとは……」


「空元も大して変わりませぬよ。天帝様の名を使い、幕府が開かれて幾星霜。本来のお上を差し置いて武士が将軍として幅を利かせる。これが歪でなくてなんでありましょうや」


「天帝か。俺は見たことはないが……代替わりするまで不老の上、妙な力を使うらしいな。巫女も陰陽師も妙だが、それよりも更に奇妙奇天烈だと伝え聞くぞ」


「暖簾越しで会話したことがございますが、恥ずかしながら私は顔を上げる余裕さえありませんでした。空元の血に響くのでしょうなぁ。本物の支配者であらせられる真なる存在であると直感してしまいました。アレを体験してしまうと、諸国の大名のプレッシャーなど屁みたいなものです」


「つまりだ。大層な力を持っておる癖に幕府など開かれおった大うつけか。ワハハハ。俺と気が合いそうな気がするな! 酒でも酌み交わして空元の未来について語ってみたいものよ。さすがに樹海は行脚できなかったでなぁ」


「これから安値で売り叩かれる長信様には関係のない話しでございましょうが」


「ええい、定期的に毒を混ぜねば喋れんようだな糞爺!」


「こう見えて私、老獪な狸でございますから。行儀の悪い若者には口から毒を吐いて制することにしておりますれば」 


「はっ、狸というには腹太鼓が貧相ではないか。どちらかといえば貴様は狐であろう。小賢しいことよ」


 少年と老人は絶体絶命でありながら、それでも馬鹿話を止めなかった。まるで、これが最後といわんばかりにやり取りを続ける。実際問題として二人は同時に直感していた。今夜がきっと最後だろうと。やがて、数時間そのまま話しを続けた後で長信は寝た。












(やれやれ、ようやくですかな。相も変わらず煩いいびきですなぁ)


 老骨には夜更かしが堪える、とつぶやきながらゆっくりと牢獄の中から立ち上がった。そうやって腰を摩る動作をしながら、万里休はおもむろに鉄格子の扉に手をやり、錠前を指で掴んで呆気ないほど簡単に外してみせる。そして、それに続いて首輪のそれもはずして見せた。なんてことはない。どちらの錠前にも初めから鍵などかけられてはいなかったのだ。


 キィィと、金属が擦れる音だけを残して老人は牢獄を後にする。万里休は一度だけ長信を見る。さすがに本格的に寝るには石床は辛いのか、毛布を下に敷いている。勿論、大の字だ。呆れるほどにふてぶてしいその様は、なるほどうつけと呼ばれても堪えない少年らしさに溢れている。ある意味潔いともいえるだろう。


「さて、これでお別れですな」


 音も無く足袋で覆われた足を忍ばせ、老人は牢獄の出口へと向かっていく。松明の明りに照らされるその顔は、あくまでも商人らしい笑顔が張り付いている。少し前まで長信と語り合っていた好々爺染みた顔のまま、目じりだけを狐のように細めたような笑みのまま鉄の扉をノックする。三・五・四のリズム。その少し後に、鍵が外される音がしたかと思えば鉄の扉が開け放たれる。


「ご苦労様だ」


 看守の男はそう大陸語で言うと、彼に木の杖と頭巾を手渡す。


「いえいえ、これも仕事の内ですので」


 万里休は流暢な大陸語でそう返すと、そのまま後ろを確認もせずに軽やかに出て行く。まるで勝手知ったる他人の家と言った風情だ。看守の男はなんとはなしにその後姿を見送り、鉄の扉を施錠しようとして舌打ちした。


「ちっ、立て付けが悪いんだよこのドア」


 閉めるのにちょっとコツがいるようなドアである。いい加減老朽化しているようなドアだが、それでも十分に扉の役目は果たしてきた。今度こそしっかりと閉めるべく、ドアノブを捻った瞬間、何やらペタペタという軽快な音が聞こえてきたかと思えば、ドアがいきなり凄まじい勢いで開いた。


「ぐお!?」


 その衝撃は凄まじく、重厚なドア本体が男の体を弾き飛ばす。


「つ、ててて。なんだって……」


 起き上がろうとしたその男は、ふとドアの両脇に備え付けられている松明の明りが陰ったことに気づいた。そんな現象は何者かが明りを遮らない限りはありえない。ハッと気づいて見上げた瞬間、男の眼前には何者かの素足が広がっていた。








「ふん。やはり種田島の商人なんざ信頼できねーな。ほら、蘭。さっさとこいつの服を着ちまえっての」


 くのいちということがバレたせいか、黒髪の少女蘭は局部を申し訳程度に隠す程度しか面積がない布切れに着替えさせられていた。そのせいか余計にいつもより扇情的に見える。十七歳の長信にしてみれば、相手が一つ年下であったとしてもそれはいささか以上に刺激が強い。普段は着物を着ているせいで気づかなかったこともあってか、無駄に意識させられる。


 くのいちとは女を武器にする技術を持った忍者である。空元においては男の大名を暗殺するプロといっても過言ではない。また、諜報活動などにも秀でており鍵開けなどの技術は泥棒顔負けの技術を持っている。確かに捕まった一日目は首輪を外すのに苦労したようだったが、今朝方には既に外すことに成功し、長信に石床を叩いて連絡していた。鉄格子の方は首輪でコツを掴んだこともあってすぐに解除に成功。昼には抜け出す準備は整っていた。問題があるとすれば、牢獄の最後にある鉄の扉。何せ内側には鍵穴が無い。外から開けるしかなかった。が、これは万利休が開けさせた隙をつくことで脱出が可能になった。


 それに耳が遠くなったと言っていたことも本当のようだ。大きめの声で喧しく会話していたのもそのせいではあったが、見張りを倒すときの物音にも気づかなかった。どうやら完全に逃げ出すなどという考えは彼の頭の中から消えたのだろう。


「服なら若が着た方がよいのでは? 私は若の着流しで十分ですから」


「いいからさっさとその無駄にでかい乳と尻を隠せ。時間が無いわい!」


「は、はい! で、ですが私は引っ込むところはちゃんと引っ込んでますからね! 勘違いしないでくださいよ若!」


 真っ赤な顔でそっぽを向いた長信にそれだけは言いながら、蘭は気絶して動かない男の服を脱がせて身に纏う。当たり前のように大柄な大陸人の服は丈が長いが、両手両足の袖を捲り上げてなんとか対応。一応は外を出歩ける格好をしてみせる。


「若様、これを」


「ん? ああ、大陸の剣か。ちっ、刀より随分と重いな」


 鞘から安物の長剣を抜き放ち、少しばかり物珍しそうな顔をする少年。だが、すぐに素振りをして感触を確かめる。


「ふむ……定石が違うようだな。こうか、いや、こうだな?」


 長信は求められる剣理を想像し、聞きかじった大陸の武具から想定できる範囲での戦い方を素振りに反映させる。


 武器と防具は基本的に切っても切れない関係にある。防具越しに殺すために武器があり、武器から身を守るために防具がある。ならば、全身鎧などという贅沢な使い方を防具にさせるような文明が対抗するために作り出した武器というのは、その防具の力を突破する方法論が備わっているはずだった。少年はその最適解を素振りの感触から引き出していく。


「やはり力任せがしっくり来るな。これが正解か。切り裂くのではなく叩き斬る。斬馬刀だとでも思えばいいか。問題は……」


「あの、若。急ぎませんと……」


「ん。ではいくか」


「ちなみに、外に出てからはどうしましょう」


「どうもこうもないわ。今は夜なのだろう? 闇夜に乗じて奴らを皆殺しにする以外にどうしようもあるまい」


「逃げに徹するのではないんですか!?」


「たわけ。逃げるにも地の理がない。おまけに外に出ても金もないし言葉も通じん。奴らを倒して金目の物を奪い取る。逃げるのはその後だ。金さえあれば、なんとか旅もできよう。逆に言えば、金が無ければ旅などできん。空元だろうと大陸だろうとその理は変わらん。ワハハ、これこそ全国行脚で見つけた真理よ!」


「……おかげで、私は義賊の真似事までさせられましたが」


「気にするな。訴えられたら俺はちゃんとお前を見捨ててやる」


「ひどい! 私の忠誠心を弄んでそんなに楽しいですか!」


「お前は俺のものだ。どう扱おうが俺の勝手よ」


「うう、悔しい。でもこれこそが、主君がどれだけ馬鹿でも裏切れない忍びの掟。契約派遣忍者なんて時代遅れの制度、消えてしまえばいいのに――」


「煩いからいい加減黙れ」


「ひぎゃっ。痛いです、若様」


 ポカリと長信から拳骨が飛んだ。それを額に受けた蘭は長信を涙目で見る。くのいちらしい女を最大限に利用したその武器を、しかし長信は鼻を鳴らして無視。のしのしと歩いていく。


 蘭は背中を向けてさっさと先に進もうとする長信を慌てて追い抜くと、先行を開始する。音も無いその歩みのままに、偵察して長信を先へ先へと誘っていく。真面目に仕事をしていれば忍者っぽい少女である。うっかり照れ隠しで玉の輿狙いと言い、長信に勘違いされたままでさえなければ。


「――」


 カツンと、音がした。蘭は直ぐに長信に合図を送って止めると、連れて来られた際に記憶した経路を脳裏に浮かべる。この先にあるのは、上に上がる階段である。警備にそれほどの力を割いているようなことは無かったはずだが、それはそれまでに捕らえられた人間が居なかったからかもしれない。


(気配はないような気がしますが……)


 そう考えながら、そっと薄暗い曲がり角から様子を伺う。特に誰も居るようには見えない。階段が見えるだけだ。しかし、階段の手前にある部屋は通路よりも広い死角が存在する。誰もいないかどうかなど、実際に見てみなければ確定はしない。


「……」


 長考はできない。看守の交代があるかもしれないし、巡回が手配されているかもしれない。求められるは迅速で最適の決断。蘭は長信を一度見て、手招きする。


「どうした」


「どうにも嫌な予感がするので」


「罠か」


「可能性はありましょう。万利休がギリギリまでここに居たのは、私を警戒していたからでしょう?」


 同じ空元人同士であれば、警戒も緩む。脱出のついでに声を掛けて共に離脱しようとする仲間意識が働けば裏切ってそれを潰すこともできる。空元の忍者を知る万利休は、ただそれだけのために居た可能性もある。もっとも、長信は彼を面白がっていたが結局は信頼などしなかった。現状はそれが偶々美味い具合に嵌っただけ。自分の直感を信じた長信の勝ちである。ただし、それはここまでの話し。相手はここから容易く巻き返すことができる。判断ミスはもうできない。


「あいつは根っからの商売人だ。とっととお前を殺せばよかったものを、『くのいち』の商品価値に目をつけて放置した。命惜しさに大人しく売られれば良し。そうでなければ、罠に嵌めるまで泳がせて見極めてから殺す。一度捕まえているからな。俺を制すればお前が大人しいとでも思ったのだろう」


「まぁ、契約派遣忍者ですからね私」


 契約が絶対の忍び社会において、裏切りはもっとも重い制裁が与えられる。二人の契約内容が身辺警護である以上は、蘭にとっては主君を人質に取られるというのはある意味命を握られている状態にも等しい。


「任務失敗……その中でも特級の護衛任務での失敗は自害って、舐めてますよね忍者の労働環境。だから若い奴らが欝になって抜け忍になるってなもんです。若、是非ともそんな暗黒の職場から抜けるために私を嫁に貰ってくださいよぉ。この際妾でいいですからぁ」


「阿呆。正妻もおらんのに妾など作れるか」


「えー、この際私が正妻でいいですよ。大名家縁の嫁。食っちゃ寝できるし忍者から足を洗えるし最高じゃないですかー。主に私が」


「俺以上のうつけがいるとしたら絶対にお前だな。この俺がそんな勿体ないことをさせるものか。高い金を出しているのだ。お前は絶対に使い潰すぞ」


「ううぅ、かくも忍びの愛は届かない世の無情! あ、誰か来ますよ若」


「むっ」


 軽快な足音が階段の方から響いてくる。長信の耳にも届くその足音は徐々に強くなっていく。曲がり角に顔を引っ込めた二人は、様子を探ることもせずに視線を合わせて頷きあう。


 長信は緊張で流れてきた汗を舌で舐め上げると、抜き放っていた長剣を上段に構える。その後ろには、邪魔にならないように下がった蘭が素手のままいつでも援護できるように控えた。少年が狙うのは先。後手に回ることなく一刀の元に致命傷を負わせるつもりだった。


 その際、仲間を呼ばせないようにしなければならない。すなわち声を上げる暇さえ与えずに殺すしかないということである。これは脱出に必要な最初にして強大な難関だ。


 柄を握る手が汗ばみ、心臓が血流を加速させる。ミスが許されないという緊張感の中、しかしそれでも長信の口元は楽しげだった。蘭がその後姿を見て、ただただ腹を括る。その手が、長信の肩を叩く。少しだけ振り返った長信が、彼の女の刺した人差し指の数に更に笑みを深めた。


――カツコツカツ。


 足音から推察される敵の数は一人。ほとんど一定のリズムで刻まれる足音は歩いているというには速い。また、話し声も聞こえないことから一人は確定。どちらかといえば小走りで走っているという程度の速度だろうか。しかもその足音が妙に軽い。そんな動きをするだろう人物は、蘭が気絶した振りをしてつれてこられる間に見た中には存在しない。


 食事当番は全員男。当然全員が武装していた。獲物は短剣か長剣。長物の類は無かったが、その代わりに金属製の軽装鎧をつけていたものがほとんどだった。必然、その歩みにはそれ相応の重量が加わるはずだが、それが無い。であれば、魔物の硬革や皮などを利用した防具の可能性がある。蘭はそこから軽装の仲間と推定。同時に歩幅から身長が低い相手であると更に読む。


「軽めの装備で低身長。若、間合いに気をつけてください」


「ならば攻撃の合図に肩を叩け。お前の合図で斬りかかる」


「お任せを。私も不測の事態に備えて続きます」


「おう」


 長信は蘭を信頼し、構えを上段から下段へと変更。更に相手が素早く動けることも加味して得意の居合いに近い構えを取る。


――カツン。


 階段を降りたらしい相手が、一瞬動きを止める。だが、すぐに動きを再開。タイミングのズレを蘭は修正して距離を図る。


――カツコツカ――。


(――今!)


 足音から予測されるタイミングにあわせて少年の肩を蘭が叩く。瞬間、素足で石床を踏みしめて曲がり角から長信が躊躇なく飛び出した。


「ッ――」


 眼前に見えた、薄っすらと輝く人影に向かって躍り出た長信。彼は左下から、右上になぎ払うような斬撃を放つ。長剣が弧を描く。刃が反射する松明の薄い煌きが闇の中を駆け抜けた。それは、必殺を確信した一撃だった。


「ちぃっ――」


 だが、長信の右手には人を斬った感触は返って来ない。それどころか、咄嗟にその影を見失った。驚愕を感じるよりも先に、危機感が少年の口を動かす。


「蘭、踏め!」


「御意!」


 追撃に入ろうと動いていた蘭は、長信の背を蹴りその反動で背後に跳躍。忍者特有の鮮やかな身のこなしを披露する。無論、それだけでは終らない。反転し、長信の上を抜けた者へとほとんど横回転しながら軽やかに飛ぶ。


 その先には外套を目深に被った小柄な影がある。先に着地したそれに向かって、回転の勢いもそのままに、蘭は踵を躊躇なく叩き込む。素足ではあっても、遠心力をたっぷりと加えた一撃だ。それに加えてほとんど着地する瞬間に合わせたのだ。これを避けられるわけが無い。


「ちょっ――」


 けれど、それさえも紙一重で空を切った。


(まさか正体は天狗ってことはないですよね。さすがに勝てないっすよそりゃ)


 人影が後退の最中に残した残光が、彼女の視界を薄っすらと焼く。危機感を内心で感じながら、蘭は反撃を警戒して瞬時に後退する。


 素手である以上は相手が武器を抜けば不利になる。手に棒のようなものを持っているのが見えていたので、彼女は必要以上に警戒した。


 それも当然だろう。蘭には敵が見せた反応速度と身のこなしが人外であるとしか思えなかった。何より、長信の奇襲を避けたことだとて賞賛に値する。これが大陸人の戦闘能力かと、嫌な汗が彼女の背を伝う。そこへ、嫌に不機嫌そうな顔で歩いてきた長信が、持っていた長剣を構え――ようとして躊躇無く床に投げ捨てた。それは、相手が外套のフードを跳ね上げて素顔を晒したからである。


「ワハハハ! 驚いたぞ。まさかお前がそちらから顔を出すとはな。探す手間が省けたぞ。なぁ――咲よ!」


「私も、長信様が大陸に居ることには驚きましたよ。相変わらずでたらめな行動力ですね」


 軽くサキが会釈する。そうして、手に持っていた家紋入りの刀を長信に差し出した。レブレが体を張って手にいれた刀である。蘭が見た棒のようなものはそれだったのだ。


「げぇっ、徳永とくなが さき!? あんた死んだんじゃ――」


 ポカリ。


「あ痛たー!」


 横からの拳骨に悶絶しながら、くのいち少女が床を転がる。切なさと殺意がちょっぴり混じった複雑な顔で。


「……蘭姉さん、相変わらず反応が大仰で面白いですね」


「であろう? こいつの馬鹿っぽさは忍び一に違いないわ」


「ひどい! 空元一の忠義者であるこの私に対してなんて言い草!」


 ガバッと起き出し主君に抱きついて抗議するも、長信は取り合わない。掌を顔に押し付けて引き剥がす。そしてすぐに握り締めた刀の鞘を着流しの帯に刺し、腰ダメに構えて右手を添えた。


「のう咲。お前、先ほどの俺の一撃、よう躱したのう。獲物が違うとはいえ、まるで天狗にでも会ったかと思うたほどの身のこなしだったぞ」


「面白い先生に出会いまして、享受してもらいました。ちなみに、先生は天狗ではなく鬼の類いですが」


「なんと鬼か! その身に纏っている光がその証拠だとして……ワハハハ! これは愉快じゃ。ここに来て俄然面白くなってきたぞ!」


 鯉口を切り、すり足で間合いを詰めながら長信が薄く笑う。そこに、確かな剣気が乗ったと思った瞬間には銀光が真一文字に闇を薙いだ。バックステップでかろじて避けたサキは、いつもの仏頂面に確かな諦めを混ぜて抗議する。


「あの、長信様。今日は練習用の薙刀を持ってきてないので勘弁して欲しいのですが。しかもそれ、真剣です」


「関係あるか。お前と俺がここに居る。それだけで十分ではないか! おうおう、もっと見せてみろ。俺は楽しみでしょうがない。今回は前と違ってお遊びではなく全力だった。だのにこうも簡単に避けられてしまいおった。これでどうして俺が引けようか!」


「はぁ。蘭姉さん、止めてください。時間があまり無いので」


「えー、そのまま長信様に切られちゃってよ。そしたら正妻の座は私が貰うからさぁ」


「そういうのはどうでもいいのですが、早く逃げないと生き埋めになりますよ」


「なに? おおっ――」


 納刀し、二撃目の居合いを繰り出そうとしていた長信が眉を潜めた次の瞬間、いきなり大地が揺れ動く。


「なんだ、地震か?」


「いえ、食いしん坊な竜の到着です」


「「はぁ?」」


 無愛想な顔のままそう述べるサキに、主従二人は当たり前のように首を傾げた。 











「がおおおおお!」


 咆哮というよりは、妙に可愛らしい声の持ち主がノースリンドの一角に飛来した。ただし、迫力だけは無駄にあった。何せ、全長が十二メートルを優に超える竜の襲撃である。半鐘がけたたましく鳴り響き、人々が右往左往し始める。


 その巨体が一度動き出せば、当たり前だが人間などひとたまりも無い。普通の人々は恐慌にきたして我先にと逃げ出していった。勇敢にも戦おうと魔法や矢をぶつけるものもいたが、まったく相手にされていない。


「これは何事ですかな」


「バ、バンか。竜だ。竜が来たんだよ!」


「……竜?」


 急いで金目の物をかき集め始めた奴隷商人の男は、部屋から起きだしてきた万利休の方を見ずに答える。その顔は焦っているようであり、余裕というものが感じられない。


 万利休も竜という存在を知らないわけではない。空元においては神そのものにも祭り上げられるような存在だ。もっとも、そんな迷信深さなど彼には無かったので、魔物の竜であると認識する。だが、それでも彼には分からなかった。竜の素材が希少ではあっても存在しているグリーズ帝国においては、竜も所詮は狩られるための存在だと軽く考えていたからである。


「何やってんだバン! とっとと逃げる準備をしろ!」


「街の兵士たちで倒せないのですか?」


「馬鹿言ってんじゃねー! 竜ってのは普通は軍隊やら名うての冒険者たちが集団で相手してやっと勝てるか勝てないかって相手だ! 最前線の連中ならともかく、こんな東の、それも魔物の襲撃なんて滅多にない港町にあんな大物相手にする力なんざあるか! 疑うなら窓から外を見てろ!」


 血相変えて言うその男の言うとおり、万利休はカーテンを開け、ついで三階の窓を開けた。瞬間、吹き込んでくる夜風が喧騒も同時に運んでくる。見下ろせば、逃げ惑う人々で通りが埋め尽くされている光景がある。無論、群集の逃げる反対の方向に目をやれば、原因とも言うべき巨体を彼は見つけた。


「な、なんと――」


 輝ける魔力障壁に包まれた、その荘厳な姿に老人は思わず声を失った。それは、まごうことなき竜であった。万利休はまだ、竜を見たことはなかった。思わず、空元最大最強の支配者である天帝のプレッシャーと比べて、その質の違いに愕然とした。


 それは、天帝の有無を言わさぬ無形の圧力とはまったく違っていた。人種も種族も関係ない。ただただ生物的本能が湧き起こす明確な格の差がそこにはあったのだ。ただ目の前に存在するというだけで無理やりにも冷や汗を搾り出されるその威容には、感嘆を通り越して畏怖さえ感じた。


 当たり前のように万利休は悟った。勝てないと、勝てるわけがないと。商人然とした思考が崩壊し、哀れな生贄だけが感じるだろう感情を呼び覚ます。それの名は恐怖。誰しもが逃れられない、原初の感情である。


「がおおおお! がおがおがおおおん!」


 想像よりも気の抜けるような咆哮だったが、そんな相手が立った一歩歩いただけで大地が揺れた。ゆっくりと、ゆっくりと、緑色の巨体が近づいてくる。狙いなど、万利休は分からない。ただ、知っていることといえば魔物は人間を殺すという話しのみ。


「あ、嗚呼……」


 ふと、万利休はそれと目が合ったような気がした。蜥蜴にも似たギョロリとした巨大な瞳は、ただただ遠めに彼を見下ろしている。もう、ダメだった。


 長信と蘭を回収に来た奴隷商人の男や、グルの現地人たちと共に、金目の物をかき集めて部屋の外へと飛び出し一階へと降りる階段へとひた走った。しかしそこで思わぬ光景を目にしてしまう。


「どういうことだ!? 何故、下の連中が軒並み倒れて――」


 奴隷商人の男がその惨劇の後に驚き、足を止める。万利休や護衛たちもそうだった。すると、丁度そこへ地下から上がってきた彼らが広めのロビーに姿を現す。


「おっ、万爺ではないか」


「長信殿!? それに……徳永の娘? そんな馬鹿な――」


「万利休殿……何故ここに」


「ワハハハ。決まっておろう咲。空元の商人の失踪事件は、『堺』の連中と大陸の奴隷商人がグルだったからよ! 徳永屋を初め、組合を通さない大陸との商業ルートを確立しようとした商人は皆失踪したようだからのう!」


「そんな……だって――」


 今まで全て帝国の人間だけの罪だと思ってきたサキにとっては、正に予想だにしない事実であった。愕然とした表情のまま、呆然と立ち尽くす。同時に、サキは思い出す。そういえば、父が最初に辿り着いたイーストリンドの港町で、万利休と情報交換をしていたことを。


「組合の利益を減らしかねない邪魔な奴らを殺し、元でとして用意しただろう金目の物を奪って人まで売る。何処までも業突く張りよな万爺! だがまさかそのせいで咲が俺を見つけ、こうして破綻することになろうとはな! ワハハハ! 天下に悪は栄えんとは正にこのこと!」


 腰に刺した刀に手を沿え、鯉口を切る。その少年の体が、微かに震える。大質量の物体の生み出す振動だ。居合いの構えのままで、心底楽しそうに長信は笑う。ただし、口元は笑っても目は笑ってはいない。


「そういえば、全国行脚の途中で京の島に寄ったが面白い話しを聞いたぞ。なんでも魔物にてんてこまいな諸大名をこの機会に出し抜くため、死に損ないの幕府と種田島の商人共が手を組んだとな。胡散臭い話しであったが、どうやら本当かもしれんな。なぁ、万爺――茶の湯にかこつけて小金でも送られたか? それとも、黄金色の菓子でも振舞われてお歯黒共にもてなされたか?」


「……言うとお思いですかな」


 万利休は、空元の言葉が分からない奴隷商人の前に立つと、持っていた風呂敷を捨て杖を腰ダメに構える。その姿は長信の居合いの形に酷似しすぎていた。


「仕込み杖のようですね。若、お気をつけ下さい」


「なぁに、老いぼれに負けるようでは大名の息子などやっとれんわ。だが、おい咲! いいのか俺がやって。今なら徳永の将棋親父の仇、お前自身で取れるぞ。俺は今気分がいい。お前の顔に免じて譲ってやってもいいぞ」


「気遣いありがたく頂戴します。ですが、ならば万利休以外を私に。何人か、見覚えがありますので」


「直接下手人をやりたいか。ならば爺以外は任せるぞ」


「……あのう、長信様私は? 私には何かないんですか!? 常日頃から影となって支えている私を差し置いてあの女にだけ命令されるなんて酷い! そんなに若い子の方が良いのですか!」


「ええい、お前は煩いから適当にしていろ!」


「適当って若ぁ。何なんですかこの咲との扱いの差は」


「煩いのう。ならば出入り口を塞いでおけ」


「御意であります!」


 命令を受け取るや否や、軽やかに走り去り万利休たちの退路を塞ぎにかかる。素手ではあるが、一応は忍者の端くれ。玄関の近くに居るならず者に接近し、不用意に突かれたナイフの切っ先を容易く避けて懐にもぐりこむと、男の股間を容赦なく蹴り上げる。その余りの衝撃に、白目を剥いて倒れる男から素早くナイフを抜き取ると、喉元を掻っ捌いてそのまま玄関先に仁王立つ。


「しゃー、潰されたい奴からかかってこーい!」


「長信様、御武運を――」


「お前もな咲っ――」


 同じ道場の門下生二人が、それを合図に飛び出した。









「がおおおお!」


 近づいてくる激震と、気の抜けるような咆哮を聞きながらサキが燐光を纏いながら駆け抜ける。ブーストエンチャントが人間の規格から彼女の存在を格上げし、人外の身体能力を彼女に与えた。その目にも留まらぬ速度に、横をすれ違った彼女を万利休は見過ごした。見過ごさざるを得なかった。


「ワハハハ。咲が気になるか? 気になるだろうなぁ万爺。だが俺は教えてやらん。お前には冥土の土産さえ惜しいからな」


 素足のまま、間合いを詰めてくる少年が居る。体の線に隠されたせいで、刀の間合いは互いに不明。読み間違えれば神速の抜き打ちが体を襲う。


 もとより、抜刀術とは先に鞘から刃を抜かれた不利な状況を覆すために編み出された抜きの剣理。実際には上段からの振り下ろしが威力も速度も普通は勝るとはいえ、本物の達人が繰り出す一刀は場合によってはそれさえも凌ぐことがある。中には、鞘を抜く前に既に勝負が決まっているとさえ言う流派もある。互いに探りあるようにジリジリと距離を測る。


 それぞれ剣術に求めた理が違う以上は、追求した技術にも違いはある。そして、長信が得意とするのは居合い抜き。無論、ただ抜くだけでは当然ない。如何に効率的に相手を殺すかを研鑽された殺人剣である以上は、最後に勝敗を分かつのはその瞬間の剣理の優劣と身体能力、そして運の強さに他ならない。


「こ、小娘一人に何を梃子摺っている!」


「くそ、なんてすばしっこい餓鬼だ!」


 大陸人たちの怒声に混じって、利休の耳に悲鳴が次々と聞こえてくる。長信から目を逸らすことができない万利休にとっては、それは余りにも予定外の出来事だった。


「いいぞ、俺はこういう奴らが気に食わん。この俺が許す! 存分にやれい!」


 チンピラ風情とはいえ、数は十人を越えている。だというのに、まったく喧騒は鳴り止まない。中には冒険者上がりの猛者だとて居たはずだ。それなのにこの体たらく。たかだか商人の娘一人が、体格にも恵まれた大陸の男を背後で一方的に倒しているなどと老人にはとても信じられない。屋内での魔法行使、それも乱戦の中ならば躊躇することも理由の一つだったかもしれない。だが、小娘一人に梃子摺る現実には目を疑うものであった。だが、それは事実なのだ。現に長信と対峙する間に仲間が助けに入ることはまったくない。


(そもそも何故、売られたはずの小娘がここに居るのでしょうな)


 老人は知らない。サキは売られてなどいないことを。確かに、そうなる予定ではあったとはいえ、如何なる強運かその寸前で逃げ出して保護された。そうして彼女は異世界の魔法の力を手に入れた。ただの商家の次女が、大陸のならずものたちを圧倒できるレベルの力を。


 身体能力強化魔法<ブーストエンチャント>による能力の劇的向上は、大人と幼子程の差をサキに与えた。その結果彼女は純粋に力が強い。それだけでこの理不尽は成っている。同じ土俵に立たれればサキにもさすがにどうしようもなかったが、大陸人は例外を除けばまだその術を手にしてはいないのだ。故にこの理不尽は、今現在においては正当なる理不尽であった。


「ひ、ひぃぃ!」


 一抹の望みをかけて、奴隷商人の男が護衛と共に玄関へと走り込む。その背後から、能面のように冷たい表情を貼り付けた少女が、外套をはためかせて飛び掛るのを利休は見た。


 次の瞬間、すれ違うように間を抜けた少女の後ろで新たな絶叫と血飛沫が飛んだ。そして、なんとか部下を犠牲にした商人の男は立ちふさがっている蘭を越えることができず、木の床に体ごと投げら叩きつけられていた。そこへ、くのいちは容赦なくナイフで止めを刺す。喉を突かれた商人が救いを求めるように利休に向かって手を伸ばす。だが、その手は当たり前のように届かない。


「蘭姉さん、容赦ないですね」


「そういう貴女も人のことは言えないでしょうが」


 淡く光る短剣の刃には血が滴っている。ポタリと落ちる紅い雫が、その被害者の末路を物語る。点々と続く床の汚れの先を目で追った蘭は、当たり前に存在する屍に目をやって肩を竦めた。


「まっ、いいけどね。後三人、がんばって頂戴な」


「勿論です」


 サキが残りの男たちへと向かって駆け出す。玄関からではなく窓から逃げようとしていた者たちが、それを見て断念。苦し紛れに炎の魔法を放った。だが、サキは止まらない。そのまま魔法障壁を頼りに炎の壁を突き抜けて見せる。こうなると、もはや男たちは完全に戦意を喪失して逃げ惑った。追撃してくるサキに背を向けて逃亡を図る。


 その常軌を逸する光景をはっきりと見たことで、万利休はつい先ほどに見た竜の輝きを思い出す。魔力障壁。魔物が持つ、強固な鎧を。


「なんとまぁ理不尽ですなぁ」


「こんなものはただの応報よ。お前らがもたらしてきた理不尽と比べれば可愛いかろう」


「ふふふ。徳永の娘が化けて出た今ならそう思うのも吝かではありませんな。仮にアレが魔物の力と同種のものであれば、常識の埒外であってもしょうがない。怨霊か生霊かは知りませぬが、中々どうしてこの世は広い。ですが、この情報は高く売れますな。人間が魔物と同じ力を行使できる技法の存在。是非とも調べ上げて空元に持ち帰る必要があるようで。貴方様を人質に取ることが出来ればまだ形勢逆転の目処はありますし、ここは一つ手加減をしてもらいたいものですな」


「この期に及んでまだ皮算用か。確かに、お前は狐ではなく狸よなっ――」


 先に動いたのは少年だった。長信が間合いを探りあうのを止めて前に出る。瞬間、反射的に万利休の握る杖に仕込まれた刃が鞘走る。


 ほとんど真横に奔る利休の刀身。真一文字に抜かれた鋭利な刃を前にして、疾走状態の長信もまた刀を抜いていた。


 出鼻を挫くような利休の一撃。対するは勢いをつけた長信の疾走居合い。二人は交差し、当たり前のように触れ合った互いの刃で火花を散らす。


「ッ――」


 金属同士の擦れる耳障りな音が、竜が近づく振動音に飲み込まれる。突撃の勢いを加えた長信の刃は、万利休の刃を強引に押しのけその脇を抜けることを彼に許した。背中合わせに抜けた両者はすぐさま反転。長信は迷う事無く鞘を握っていた左手を柄に回し、間髪居れずに袈裟斬りを繰り出す。それは奇しくも、利休と同じ選択であった。


 斬線が交差するように重なり、刃同士が再び衝突。互いの運動エネルギーを相殺して静止する。そのまま小刻みにギチギチと刃金が鳴らしながら鍔迫り合いに移行した両者は、柄を握る指先から伝わってくる相手の微細な感触を読み、駆け引きに移行する。押し負けぬように力を込めたかと思えば、まるで相手の引きに追従するかのように前にあわせ、崩しに入る。


「ぐぬぬ。万爺め、商人などよりも武士になるべきであったな」


「嫌で御座います。年がら年中斬った張ったの世界など御免です」


「そう言うな。金と口で戦うか、武で争うかぐらいの違いしかないわ」


 ほとんど密着した状態で、口だけは相変わらず楽しげに長信が言い募る。そのまま押し合う二人は、何度も互いに位置を入れ替えながら冷静に周囲の状況さえも読み取っていく。


「そういえば、維新の連中も別に動いてるようだな。魔物に大名に幕府。三つ巴の空元だ。実に好都合だろうなぁ商人共は。もっとも、俺が戻ったらお前の首を手土産にして吹聴し、叩き潰してやるがのう」


「できもしないことを言わない方が良いでしょう。うつけ者の上に大法螺吹きだと言われるのがオチですぞ」


「馬鹿め。何のために態々蘭を連れて来たと思っている。派遣忍者共に情報を流すためぞ」


「地獄の沙汰も金次第。しかるべき手順を踏めば、それさえも阻めましょう。恐れるに足らずですな」


「その前にお前はここで死ぬがな!」


 鋭い呼気と共に、力づくで押しのけた長信。その力に逆らわずに素早く利休は間合いを開ける。そこへ、容赦なく飛び込む少年の姿がある。刀身が何度も閃き、その度に利休のそれにぶつかって阻まれた。だが、長信はそんな事実に構わずに一心不乱に攻め立てた。彼は直感していたのだ。一度でも守勢に回れば危ないと。


 若さで体力は上回っている確信こそあっても、積み重ねてきた年齢による経験の差には大きく開きがある。長信17歳と、利休51歳。潜った修羅場の数でいえば当たり前のように利休が上だ。其れを誤魔化すには、経験の外にあるもの、或いは失った物でしか対応できなかった。


(ちっ、糞爺め存外に粘りおるわ――)


 利休の反撃の刃が、少しずつ長信の着流しを掠める。その後に十合も打ち合う頃にはついに体を掠め始めた。頬を、腕を、足を、薄っすらと刺すような刺激が襲う。浅く斬られた部位からは薄っすらと血が滲み、汗に混じって肌を滑る。対して、利休は掠らせることもなく捌いている。既に均衡は崩れたと言ってもいい。だが、それでも長信は笑みを崩さない。


「がおがおがおー!」


 嫌に近い竜の遠吠え。集中力をかき乱すような迫力の無い大音量に、激震が続く。地震の多い空元人にとっては、何時襲い来るやもしれぬ大地の揺れは、天の怒りに相違ない。しかし、現在のそれは魔物によって生み出された原因のあるものである。


「ぬぅ――」


 利休の口からうめき声が漏れる。その視線が、玄関へと一瞬向いた。瞬間、当たり前のように彼の注意が自分から反れたことを確信した長信は、右足を大きく踏み込んで強引にも鍔迫り合いへと持ち込み、半円を描くようにして利休の立ち位置を誘導した。


「ええい、なんだか知らんが煩いのう万爺!」


 鬱陶しげに言った長信がそ知らぬ顔で玄関を後ろに背負う位置に立つ。すると、役々利休の視線が泳いだ。サキから竜のことを聞いていた長信と、何も知らない利休。この差が勝負の明暗を分けた。


 長信は竜がサキの脱出を確認しなければ今居る建物を壊さないことを聞いている。けれど利休は違う。魔物が人間を襲う存在だと言う認識を持ち、当然のようにここに近づいてきていることを知っていた。


 魔物は人間を襲う。それは当然利休も例外ではない。ならば、早く逃げなければ建物越しに押しつぶされる可能性がある。その不安が、玄関先から見えた竜の体躯を見て彼を無意味に焦らせた。その瞬間こそ、長信が待ち望んでいた好機である。


「うつけめっ!」


「がっ!?」


 密着した状態で視線のズレと同時に刀を押していた力を引いた長信の額が、反射的に前に出てきた利休の鼻頭を痛打する。途端に痛みに怯んだ利休が、仰け反って下がった瞬間、長信は追い討ちのような面を打ち込む。迷いの無い切っ先は、反応が遅れた利休の脳天を頭巾越しに叩き斬った。


「はっ、勝負の最中に余所見をする馬鹿がおるか!」


 利休の視界を二分する銀閃は止まらない。斬撃の軌跡に遅れて飛ぶ血飛沫など諸共せずに、長信は赤を纏いながら刃を右上段に構え、そのまま刀身を全力で振り下ろす。情け容赦ない殺人剣が、首筋から一直線に腹を抜ける。灼熱の如き痛みでのたうつ余裕など、もはや老人にはない。


「お……見事――」


 利休が悔しげな顔で仕込が杖を取り落とす。ドッと音を立てて背中から床に倒れこむその姿を前にして、長信は刃を下に振るって滴る血を飛ばす。床に広がる血が素足に不快な感触を与える中、掠めた頬を流れる血を軽く拭って収刀。その屍に背を向ける。


「あれ、若。利休の首は要らないんですか」


「こんな爺の首などどうでも良いわ。空元に持って帰ったところでその頃には腐っておるだろうしのう」


「そうですか。あ、でもその仕込み杖は貰っちゃいますよー。私武器取り上げられちゃってますからね」


「好きにせい。それで、咲の奴は……」


「ああ、若のことなんて気にもせずに商人たちの荷物を漁ってますよ」


「なにぃ、この俺の勇姿を拝むことなくかっ!」


 ぐぬぬ、と歯軋りする長信である。


「どうせ若が勝つと思われたのでは? 若、一応は武士ですし」


「一応は余計だ。しかし、まぁ、俺が勝つと踏んだのであれば良し!」


 ワハハ! と豪快に笑う長信は、そうして思い出したかのように玄関に目をやった。そこには、何やら巨大な足が足踏みしている姿が見えた。何やら急かしているような動きに見えなくも無い。「がおがお」言う声も、更に迫力がなくなっていた。


「おい咲。何をしておる。逃げるのであろう」


「少しお待ちを――在った」


 持ち出そうとしていた金や宝石に紛れて、巻物や羊皮紙を見つけたサキはすぐにそれらに目を通す。その中に、利休と大陸の奴隷商人たちの癒着の証拠になるような物が無いか彼女は探していたのだ。


「長信様、これを」


「なんじゃ」


「うまく使えば『堺』を攻める口実になるものです」


 どうやら利休が持っていたものらしい。堺の幹部としての実印入りだ。受け取った巻物の中を見た長信は、口元を楽しそうに歪める。


「ほう――よし、貰ってやるわ。くくっ、これでまた空元が揺れるのう」


「楽しそうですね」


「若には空元統一の野心がありますからねぇ」


 そのための全国行脚。うつけ者だと言われるような醜聞をあえて盛大に広めながら、同時に警戒感を削ぎつつ全国を下見してきたわけである。


「男に生まれたからには大きなことをやりたいと思うて何が悪い! 女子には分からんわい」


「はい。さっぱり分かりません」


「長信様の野望は大きすぎますからね。小人には理解できないものです」


 きっぱりと告げるサキと、持ち上げる蘭。対照的な二人に挟まれながら、長信は巻物を懐に仕舞いつつ気になっていたことをサキに尋ねた。


「ところで、いい加減あの竜に暴れる機会をくれてやった方がいいのではないか?」


「がお、がお、がおぉぉぉ」


「あっ――」


 まるでその通りだと言わんばかりに聞こえてくる竜の咆哮は、どこか虚しく夜闇に溶けた。当然、その後の八つ当たりは凄まじい物となった。そうして、奴隷商人のアジトは妙にピンポイントに暴れた竜によって完全に粉砕された。











「到着!」


「ぬぉぉ! なんと面妖な!?」


 レブレの転移魔法によってダンジョンまで跳んだ長信は、初めての転移に声を上げて驚いた。だが、サキには目を輝かせている様が容易く見て取れる。言うまでもなく戦に繋げて考えているのだろう。転移魔法さえあれば、面倒な移動もすぐに終る。軍単位で移動することができるようになれば、移動に掛かる時間も金も下げることができるし、うまく使えば城攻めにも有効だ。


「しかし、こんな童が竜とはのう」


 レブレの頭に無造作に手を載せ、ぐりぐりと掌で撫でる長信。無遠慮ではあったが、レブレは気にせずに目を細めていた。


「よし、気に入ったぞお前。どうだこの俺の家来にならんか」


「えー、嫌だよぉ。僕は何者にも媚びない竜だもんね」


「ワハハ。ちんまい癖に口は一丁前だなこやつめ」


「あわわわ。竜神様を前にしてなんたる粗野な振るまい! 我が主君ながら若様は本当に怖いもの知らずで恐ろしい!」


 震え上がる蘭は、当たり前のように頭を抱えた。別にレブレは竜神でもなんでもないが、ある意味神とさえ崇められる竜の、それも転移などいう力を見せられた後とあっては意外に信心深いくのいちにとっては気が気ではない。


「ここでしばらく厄介になるのだな」


「家主の方たちには了解は取っています。それと、空元へ安全に送る手段も確保しました」


「で、あるか。咲も世話になっているようだし、相手は鬼じゃ。気を引き締めてかかるとしようか」


「じゃ、僕はちょっとナガノブとランの魔力情報を登録をしてから寝ちゃうね」


「お願いします」


 言うなり、警備用のゴーレムとガーゴイルの元へレブレは走っていった。


「しかし、あの竜は凄いな。空元の言葉を喋っておったぞ。さすが神ともなれば博識か」


「ですねー」


「いえ、勘違いしているようですがレブレは神様ではないですよ」


「なに? 火を吹きよるし、変身もする。神通力だろう転移とやらも使ったぞ」


「竜としての格は高い方らしいですが、それだけだそうですよ」


「ふーむ。世の中は広いのう。では鬼殿の方もか」


「はい」


「なんじゃ、ならば必要以上にかしこまる必要はないな」


「気にはしないと思いますが、一つ忠告を。一緒に住んでいる私ぐらいの金色の髪の女人には決して手を出さないようにお願いします」


「ふむ?」


「先生が……鬼の方が跪いて足を舐めるほどに寵愛してますので。まぁ、鬼を従えた巫女のようなものだと考えていただければいいかと」


「ほう、ならば敬意を払うのはそちらか。しかし、何故鬼に足など舐めさせるのだ?」


「大陸人の不可思議です」


 サキに聞かれても分からない。直接聞いたことはないからである。しかし、くのいちは爛々と目を輝かせた。


「長信様、それはきっとアレです。伝説の儀式と名高い『房中術』では!」


「なにぃ!? まさかあの不老を得るための奇跡の御業か!?」


「咲、その方はもしかして若い姿を保っているのではないですか!」


「え、ええまぁ……しかしそれは……」


 若いというか、相手はサキよりも一つ下である。年齢を考えれば若いのは当たり前であるが知らない二人には関係なかった。興奮した面持ちを隠そうともせずに盛り上がっていく。


「やっぱり! 聞きましたか若。上手く取り入ることができたらとんでもないことになりますよこれは!」


「うむ。天帝も行っているとまことしやかに言われている禁断の秘術だ。なにやら男女のまぐあいにも似ていると聞いているが、よもやこんなところでな。これは是非とも享受してもらうべく拝み倒さねばなるまい! ついてこいっ!」


「はは!」


「いえ、ですから――」


 そんな秘術などあるわけも無い。アレは短なる調教という名の餌付けである。当然、いきなり現れた空元人に土下座までされたミニ女王様は、サキに説明されて大層驚いた。


「『房中術』って……なぬ?」


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