僕はその日の休日、携帯電話の着信音で目を覚ました。
夢か現実か。まだはっきりしない世界の中、早く携帯を手にしようとする意思で、鉛のように重い体をベッドから持ち上げる。
牢屋のように狭く、それでいて大学生の一人暮らしにはぴったりといえる部屋が寝ぼけ眼の視界に広がった。
携帯電話を伸ばした右手で掴もうとする。
まだ指先の神経は眠ったままなのかもしれない。
何度か携帯は僕の手の中で猫が戯れるかのように逃げ回った。
しかしそれを何とか掴み、返す刀でベッドの左横にある窓のカーテンを開ける。
朝の優しげな光はとうに過ぎ、昼のナイフのように尖った太陽の日差しがまだ布団から半分も出ていない体を服越しに刺した。
この辺りでようやく自分は夢から覚めたのか、と自覚したりする。
別に疲れているわけではないけど、休日は大抵は昼過ぎまで寝るのが僕の日常となっていた。
明け方まで何をするでもなくだらだらと起きていれば当たり前なのかもしれないけど。
ただ今はそんなことはどうでもいい。
僕にとって大事なことは、さっきからでたらめに大きな音を鳴らし続けているこの機械の塊である。
すっかり現実へと引き戻されてしまった僕は携帯電話を開けた。
同時にある人物の名前が鮮明を取り戻した頭に浮かぶ。
それを照合するようにおもむろにディスプレイに目をやった。
〔麻衣子 090-****-****〕
予想していた通りだ。昼間からわざわざ僕に電話をするような物好きはこいつしかいないのだ。
僕の記憶している中では、二週間ほど前にも同じ展開で睡眠を妨げられた気がする。
別に嫌なわけではない。しかし寝起きに何時間も世間話をされると、こっちの方は滅入ってしまう。
向こうからしたら僕は気の合う仲間の一人なのでしょうがないけど。
それに僕も実際にそうだった。そう思っていたのだ、あの時までは。
話を二週間のことに戻すが、その時の話題は確か僕の友人のことについてだ。
僕を口止めしていることをいいことに、麻衣子は友人を言いたい放題だった。
嫌いではないのは分かっている。むしろ好きのカテゴリーに入っているだろう。
その証拠に彼女はそれを嬉しそうに話していた。
麻衣子は僕の友人に桜の花びらくらいの色の恋心を寄せている。
実際に彼女が口にしたわけではないけれど、大体は想像が付く。
さっきも言ったように友人の話になると幾分、麻衣子の声が華やぐのだ。
そして友人もまた、麻衣子にそのような思いを寄せていると、密かに僕は睨んでいる。
そうだとしたらこれは世間一般でいう両思いというやつだ。
僕にとってはそりゃ見ていて面白いものではない。
ただどちらも奥手が原因とあってか、未だに進展は見られていないのが救いだ。
ちなみに僕は奥手ではないと自負している。
状況が状況でなかったらすぐに彼女に思いを伝えているはずだ。
だから二人の進展と僕の気持ちのもどかしさを重ねると、歯がゆくて仕方がなかった。
早く恋人同士になってしまえばいいのだ。一刻でも早く。
心の内側が音を上げた気がする。
決して致命傷とならない鋭利な痛みだった。
それを誤魔化すのも兼ねて、通話ボタンを押し、携帯を耳元に近付けた。
「もしかして寝てた?」
うるさいくらいに明るい声。僕のよく知ってる麻衣子のものだ。
格好もなく、胸が締め付けられたように苦しくなった。
「まぁ、バイトまで暇だからね」
「不健康」
そんなことを悟られまいと、努めてやる気のないような声をだした僕に、麻衣子は軽く憎まれ口を叩いた。
適当に笑う彼女の声がしばらく続く。
「それで何の用よ」
「私が何か用があって電話したことなんてあったっけ」
「僕の記憶の中では一度もないね」
「そういうこと」
要するにたんなる暇潰しってわけだろう。
こっちにしたらたまったものじゃないが、それが嬉しかったりする自分に腹が立つ。
本当にこんなことに幸せを感じている自分が悔しい。
そんなことは知らない麻衣子は、それから他愛もない話をし始めた。
慣れたもので、僕はそれに適当に相槌を打ちながら、ベッドから降りてキッチンにある冷蔵庫へ向かう。
焦げ茶色のフローリングには実家から送られてきた段ボールが散乱していた。
中身はインスタント系の食べ物がやたらと多く入っているはずだ。
狭い部屋の中で明らかに居場所をなくしている段ボールの間を縫って歩く。
片付けようとは思うが、正直面倒臭い。
「ねぇ、ちゃんと私の話聞いてんの」
受話器ごしに怒っている声。
わざとらしく頬を膨らませている麻衣子の姿が、何故か手にとるように分かった。
「ちゃんと聞いてるよ」
「だったら私が何て言ったか言って」
「うざい」
答える片手間、何も入ってなく機能を果たさせてもらっていない冷蔵庫からスポーツドリンクを一本取り出して、一息で半分ほど喉に通した。
少し冷たく言い過ぎたかなと心配していると、僕が聞いているかどうかなんて二の次のように、また彼女は話を本筋に戻していた。
僕も今度はきちんとそれに耳を傾けながら、またベッドへと向かった。
そしてベッドの右隣に間取りしている机にスポーツドリンクを置く。
すっかり僕の生活拠点はベッドの回りになってしまっていた。
寝食分離なんて皆無だ。
「でね、私の友達ったら同棲始めちゃったの」
結局僕は麻衣子の話を詳しく聞いてはなかったようだ。
何故そんな同棲の話題になっているのか分からない。
「そうなんだ。羨ましいな」
ただこの日僕は、初めての心からの相槌をした気がする。
やはり男たるもの、一人暮らしをしたからには同棲というのは一度は夢見る目標である。
バイトで疲れて部屋に帰ったら愛する人が待っているなんて最高じゃないか。
「僕も同棲なんてしてみたいよ」
「あんたと同棲する人がいるなら可哀相。何されるか分かったもんじゃない」
「どういうこと?何をされるって言うんだ」
「それは…、何だっていいでしょ」
きっと麻衣子は赤くなっているだろう。
彼女には妙にこういうことに照れる傾向がある。
そこをわざと弄るのが楽しくかった。
同時にその時の麻衣子の様子が愛くるしくて、たまらなくそれが好きだった。
「したいならすれば。同棲」
「誰とするんだよ」
「彼女とに決まってるじゃない」
「あぁ、そういうこと」
何て返事をしようか迷いながら、すっかり汗をかいているスポーツドリンクを指で撫でる。
窓からの光を浴びて輝くそれは、ひんやりとした気持ち良さを僕の体の先端に与えてく。
麻衣子の言う通り、僕には付き合っている恋人がいた。
ついこの前まで二度目の冬を迎えたと喜んでいたのだから、交際は一年以上続いていたということになる。
そんなに長い付き合いの割には別れなんてあっさりとしたものだった。
ある日、メールが届いていて見たらそれが別れの言葉。
その前から妙に擦れ違っているなとは感じてはいたけれど。
そのことはわけあって麻衣子には言わないでいた。
ただいずれは分かることである。僕は麻衣子に何ともないようなふりで言った。
「実を言うとさ。別れたんだよね、この前」
「えっ…」
虚を付かれた声を麻衣子があげる。
「ゴメン、知らなかった」
それは当たり前だ。言っていないんだから。
「どうして教えてくれなかったの」
僕は困ってしまい、机の上に転がるタバコを取り出して火を付けた。
フィルターが焼ける音と、息を吐くと同じくしてあがる煙。
しぶとく天井まで舞おうとするが、煙はあと僅かのところで姿を消していく。
それをぼんやり見ながら僕は僕と麻衣子のことを考えていた。
僕ら二人の間には今まで、秘密なんてなかったように思える。
麻衣子も僕に何でも話してくれたし、僕も麻衣子に何でも話した。
だから彼女にしたら僕がこのことを自分に言ってくれなかったのは、少なからずショックだろう。
僕が麻衣子の立場だったら間違いなくショックだ。
でも今回のことは流石に言えないよな…。
苦笑いが浮かぶ。ふとメールの言葉を思い出した。
『あなたのことはたぶんまだ好きなんだと思う。でもあなたは私のことじゃなくて、他の誰かのことを見てるって感じる時があるの。ゴメンね、こんなに独占欲が強かったなんて自分でも知らなかった』
絵文字なんて一つもない簡潔なメール。
これが前の彼女が僕に告げた言葉だ。
でも本当に伝えたい言葉なんてきっとこんな風に他人が見れば素っ気なく感じるものなのだろう。
そして僕は今でも一字一句忘れずに覚えている。
それに反論できなかった自分がいたことも忘れていない。
受け入れる他、なかった。
他の誰か。おそらくそれは麻衣子のことを指していた。
直接は言われてないが、薄々感づける範疇だ。
もしくは僕がそれに後ろめたさを感じてたのだろうか。
あの頃はまだ麻衣子のことは女友達としか思っていなかったはずだ。
でも前の彼女にしてみたら違ったのかもしれない。
いつも傍にいたから、僕自身さえ気付かなかった心の微妙な揺れを感じたんだろうか。
そしてそのことを見つめた僕に残ったのは、麻衣子のことが好きだったのだという紛れもない事実だった。
その時だ、心に決めたのは。このことは絶対に彼女に言ってはいけないと。
きっとそれを知ったら麻衣子は絶対に傷つく。
それなら言わずに僕の胸にしまっておいた方がいい。
これが麻衣子に秘密を作った理由だ。
ほんの少し前の過去にスリップしている間に、すっかり灰を落しかけてるタバコを揉み消して、僕は言った。
「僕にだって言いたくない秘密の一つや二つあるよ」
「何か寂しいね、そんなこと言われると」
麻衣子に明るさが消え失せて、センチメンタルな雰囲気がした。
後悔の波が僕の心に押し寄せる。
いつも言っている何気ない憎まれ口のつもりだった。
それなのに今、僕は確実に麻衣子を傷つけている。
あれほど傷つけまいと思っていたのに。
激しい動揺を心で隠せない中、それでも何処か彼女の言葉に酔い痴れている自分を覚えた。
そしてそれは衝動にも似ているような気持ちだった。
心に渡っては川があるのなら、向こう岸の僕は明らかにそこに飛び込んで渡ろうとしている。
麻衣子を傷つけたのかもしれない。
確実にその要因一つで、僕の中の何かは欠損し始めていた。
「ゴメン、謝るよ。それとお詫びにもう一つ秘密を教えようか」
自分が自分でなくなる感覚とはこのことをいうのだろう。
体という核はあるのにパーツを上手く制御出来ない。
近い未来に僕が悔やむのは目に見えていた。
だけどもう僕の中にそれを止めれるものなど何もない。
「何、教えて…?」
麻衣子の大人びたような口調が今思えば、僕の言おうとしていたことにに気付いていた証拠のような気がした。
何を持ってしても潤せないであろう喉を震わせて声、いや音に近い言葉を出す。
「おれさ…、きっと麻衣子のことが前から好きだったんだと思う」
少しの沈黙の後、受話器から掠れたような声が聞こえた。
「そっか…」
イエスでもノーでもない言葉だった。
普通ならばどちらなのか早く知りたいと思うだろう。
でも僕はその時、答えを拒んでいた。
自分で招いた状況から逃げ出したい衝動に駆られ、どうしようもないまま、次の麻衣子の言葉を待つ。
やがて永遠に止まるかのように感じた時間を、彼女は口を開いて動かし始める。
「私も言ってない秘密が一つあるの」
それはまたしてもイエスでもノーでもない、思いもかけなかったものだった。
「実は昨日、私の家に尚人君が来たんだ」
尚人とは僕の友人のことで、すなわち麻衣子が好意を寄せていると思われる人物を意味する。
身の毛が弥立つのを感じた。それと一緒に一つの予感が生まれる。
見当違いの憤りが行き場をなくして、僕の体を殴り付けた。
そんなことを知ってか知らずか、麻衣子は話を続ける。
ここまで来たら最後まで言わないといけない。
おそらく彼女自身にそんな決意が芽生えていたのだろう。
「それでね、色々話してる間に終電がなくなって。そのまま尚人君、私の家に泊まった…」
何故、悪い予感というのはこうも当たるのか。
大方想像していたとはいえ、頭から爪先までショックが駆け抜けた。
僕らはもう子供ではない。だからそこで何が起きたのかくらいは察しが付く。
僕はいつだって万人と同じように早く大人になりたいと願っていた。
でも今日ほど大人になってしまったことを悔やんだことはない。
「そうだったんだ」
「今更言うのもおかしいけど、私もあなたのこと嫌いじゃない。嫌いじゃないけど…」
最後まで言うことなく、言葉は不規則な啜り泣く音に変わった。
どのくらいそれを聞いていただろう。彼女の涙を止める術を僕は知らない。
二人が結ばれることは考えてみれば当たり前だった。
何かのキッカケさえあれば、遅かれ早かれ付き合うことになると思っていた。
僕が入り込む隙間など一ミリとしてなかったのだ。
始めから分かっていたことなのに、何で忘れてしまっていたのだろう。
未だに麻衣子の涙は流れているままだった。
ただその音と、時に静寂が受話器を行き交う。
もう負けだ。チェックメイトなのだ。
「ゴメン、用事があるから」
そう言い残して僕は電話を切った。
もちろん用事なんて何一つない。
そんなのは麻衣子だって知っているだろう。
切る寸前に何か彼女は言っていたけれど、あえてそれは気付かないふりをした。
そうでもしなければ僕は電話を切ることが出来なかった。
自分の負けを認めたくないままだったと思う。
ふと見た、机の上のスポーツドリンクは大袈裟に汗ばみ続ける。
僕はベッドから降りていつもの日常に目を向けた。
その世界はやけに潤って見えた。
そうか、僕は泣いているのか。
このままこの部屋を出たら、僕はまた何も変わらない一日が待っててくれていると、この悲しみから逃げられると思っていた。
でも違うらしい。
僕の心には今、逃げることの出来ないただの空虚感が横たわっていた。
それは目を背くことが出来ない事実である。
そして僕は知ったのだ。
二つの秘密が交わるところにあるのは、涙だということを。
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