緑の誘惑
「即興小説トレーニング」様で匿名で執筆したものに修正を加えて掲載しております。
「なんだあれ」
季節は夏の入り口、高校からの帰り道。彼氏の啓介と通りかかった公園で、私は変なものを見つけた。
それは公園のベンチの裏側にあった。綺麗な緑色で、ベンチ裏の茂みに同化しているので注意してみないと気がつかないかもしれない。ただ、同化しているといっても微妙な緑色の違いがあって、私はその違和感に引き付けられたのだ。
「どうした、凛香」
「ね、啓介、あれ何だろう」
少し離れたところからそれをじっくり見る。緑色のそれは、細い棒のようだった。50センチくらいの緑色の棒の先端からこれまた細い弓のように曲がった棒がついている。ちょうどかまきりの鎌を巨大化したような感じだ。
私はそれが妙に気になった。なぜかといわれてもわからない。ただただその棒に興味をひかれたのだ。
隣に並んだ啓介の横を離れ、ベンチに向かって歩き出した。
「お、おい凛香。よせよ、近づくなよ」
「え、だって気になるじゃん。ちょっと見るだけだよ」
じっと見ていると、なんだか酷く魅力的なものに思えてきた。
触ったらどんな感触なんだろう。においは? どんなにおい?
土から生えているように見えるけど、植物だろうか。あの下には深く根を張っているのだろうか。
――――欲しい。あの棒が欲しい。どうしても。
「待てってば、凛香! 怪しいものにむやみに近づくなって!」
「怪しくないよ、私、どうしてもあれが欲しいんだもん。だれかに取られちゃったらどうするのよ」
「何言ってるんだよ。あんなのどうでもいいからアイス食いに行こうぜ」
「あの棒を取ってからね」
「だから! ああもう」
啓介はどうしてこんなに不審がっているんだろう。
風が吹いて棒の先端から伸びる鎌の部分がふらりふらりと揺れる。まるで私に「おいで」と呼びかけているようだ。
「だ・め・だ、凛香! 正気に戻れ!」
啓介が私の腕をきつく掴んで引っ張る。
やめて、止めないで。早く、早くあれを取りに行かなきゃ。
「離してってば!」
「だめだ、あれはこの世界のものじゃない! 触れちゃいけないものだ!」
啓介の言葉はもう私の脳の中で意味を形成しない。耳から聞こえてくるけど、何を言っているのか意味がわからない。
ああ、早くあれに触れたい。あれが欲しい。
私は啓介の手を必死にふりほどこうと――――
そのときだ。
一匹の猫が目の前を通りかかった。
猫はふと例の棒に目をとめ立ち止まり、それからしっぽをピン、と立ててじっと棒に見入っていた。
だがすぐに地面を蹴り、棒に向かって走りはじめた。とびかからんばかりの勢いだ。
「あ、あの猫、棒を」
私は酷く焦った。あの猫に棒を取られてしまう。けれど動物のスピードに敵うわけがない。私が動き始める前に猫は棒のもとへたどり着き、においをかいで、主人に懐くように頭をすりすりと棒にすりつけた。
私の中にはただただ焦りがわき上がる。あれをあの猫に取られてしまう。早く何とかしなきゃ。
でも腕を啓介に押さえつけられていて動けない。必死に暴れた。
「離して! 啓介! 棒が!」
「凛香、見ろ」
猫が頭をこすりつけた直後。
鎌の部分が突如意思を持つようにふり上がり、しゅるりと猫の体に巻き付いた。いつの間にか長く延びて、猫をぐるぐる巻きにしていく。
蜘蛛が獲物を捕らえて糸で拘束するのに似ている――――
次の瞬間、棒が生えていた地面がぽっかりと黒く口を開け、棒ごと猫を引きずり込んでいく。猫が盛大に悲鳴を上げるが後の祭り。あっという間に棒も猫も沈んでいってみえなくなった。
後には穴どころか、棒がそこにあった形跡すら見当たらない。
猫がいた形跡すら――――
それを見ていたら急にがくがくと膝が笑い出した。もうあれを欲しいという荒ぶった感情は私の中にかけらも残っていない。驚くほどきれいさっぱり消えていた。
なんであんなにあの棒を欲しいと思ったんだろう。そういえば、最初はちょっとした興味だけだったはずなのに、むくむくと欲求が膨らんでいった。どう考えても普通じゃない。
「だから言っただろ?」
がたがたと震える私をそっと抱きとめて啓介が囁いた。
「あれはよその世界の捕食者だ。時折こちらの世界に現れる」
「――――啓介?」
「見たものを強烈に魅了して引き寄せて、捕まえる。さっきの猫みたいに」
ぞわっ。
背筋を痛いほどの冷気が駆け下りる。
つまり、一歩間違えれば捕まるのは私だったわけで――――
「大丈夫。俺がそんなことさせないよ。それにそうしょっちゅう出てくるものじゃない。これでもう20年くらいは来ないさ」
「……え?」
「心配するな。凛香は俺のものだからな、あいつらは手を出さないよ。ほら、もう帰ろう」
啓介に背中を押されてかくかくと歩き始める。
たったいま出会った恐怖体験に、足が思ったように動かない。
全くの日常風景に潜んでいた、捕食されたかもしれないという恐怖。
そして、どうして啓介がそんなことを知っていたのかも――――
「ああでも、怖かったよな。とりあえず忘れとけ」
「え? 啓介、ちょっと待っ……」
啓介の右手が私の額を覆うようにあてがわれて――――
「あ~、暑い。夏休みの登校日なんてなんであるんだろ。先生達だって暑いんだからやめちゃえばいいのに」
「はいはい、それ今日3回目だよ凛香」
彼氏の啓介と一緒に夏休みの登校日の帰り道を歩く。アスファルトの公道はひどく暑く、そこのコンビニで買ったアイスがもう溶けてしまいそうだ。
「公園通って帰ろうか、啓介。アスファルトより土の方がましかもしれない」
そういって公園に踏み込もうとしたけれど、なぜだかぎゅっと胸を締め付けられるようないやな感じがして足が止まる。
「凛香? どうした?」
啓介が心配そうに私を覗き込む。私は急にわき上がったいやな感覚を振り払うように首を左右に振った。
「――――いいや、本屋にも寄りたいし、公園寄らないでまっすぐ行こう」
努めて明るくそう言って啓介の手を引いた。
今のいやな感じは何だろう、公園で何かいやな体験をしたことなんてないのに。ああでもそういえば、しばらくこの公園には来てなかったな。前はここを通って帰ってたのに。何でだろう。
けれど隣を歩く啓介の笑顔を見ていたらそんなことはどうでもよくなって、私は啓介と本屋に向かって歩いていった。