第八話・「現金な幼馴染み」
私服から上下とも黒のジャージに着替えた私は、ポケットに手を突っ込んだまま、ぶすっとしていた。
その原因は、バッティングセンターの駐車場で必死に私に対して頭を下げる一人の男。私愛用の自転車のバスケットには、硬式ボールとグローブが入っている。
「スマン! 今日親から用事頼まれてたの忘れてたんだ! 綾、付き合うって約束させておいて悪いんだけど――」
携帯電話の時刻をちらちらと気にする浩輔。
どうやらタイムリミットのあるおつかいらしい。
「いいよ、行ってくれば? その代わり」
腕を組んで、頭を下げる浩輔を見おろす。
なんだか、遅刻した生徒をしかる生徒指導の体育教師のような構図に似ている。
「明日からお昼の飲み物よろしく」
「明日から? 引っかかる言い方をする奴だな」
「針千本飲みたくないでしょ? だったら、明日から、ジュース。一週間ぐらいで勘弁してあげる」
明日から、を強調してやると、浩輔は少しだけ顔を青ざめさせて。
「く……現金な幼馴染みをもてて幸せだよ、俺は!」
負け犬の遠吠えよろしく、浩輔は背中を向けて走り去っていった。
いつもは大きなその背中も今はとても小さい。しかも、山際に顔を隠す太陽の効果で、哀愁を背負っているようにも見える。さっきはいいように言われたから、いい気味。
幼馴染みを馬鹿にするとこういう目に遭うのだ、へっへっへ。
……と、似合いもしないふんぞり方をしてみる。
「やめやめ、馬鹿らしい。小学生じゃあるまいし」
我が家に隣接するバッティングセンターに足を踏み入れる。際奥にある管理部屋に入ると、私が学校にいる間、管理をしてくれている田中おじさんの肩をたたく。
「おや、綾ちゃんどうした? 夜は浩輔君の練習に付き合うんじゃなかったのかい?」
競馬新聞をたたんで、私に向き直る。
十年前に会社を定年退職したにしては、まだまだ鮮度のある笑顔。
「ドタキャンされたの」
「まったく浩輔君もなっちゃいないねぇ、綾ちゃんみたいな美人を袖にするなんてさ」
たたんだ競馬新聞を丸めて、悔しそうに自分の太ももを叩いた。
「田中おじさんぐらいだよ、私の魅力に気がついてくれるのは……ぐす」
わざとらしく泣いた振りをしてみせると、それを分かっている田中さんはさらに新聞紙で太ももを叩く。快活に、それでいて楽しそうに笑う。
昔の映画で見た、バナナのたたき売りみたいだ。
結構毛だらけ、猫灰だらけ、おしりの回りは……という感じの。豪快に笑いながら新聞を振り回すその姿に、ふと、競馬場に行ってもそんなことをしているのだろうかと思ってしまった。
第四コーナーを回って自分の賭けた馬が失速したりなんかしたら、馬券を投げ捨てて、スタンドから騎手を怒鳴り散らしそうだ。
「それじゃ、俺はお役ご面かい?」
「うん、そういうことになるかな」
私が済まなそうな顔をすると、田中さんは右手を顔の前でぶんぶんと振ってくれた。
「いいよいいよ、悪いのは浩輔の野郎だ」
豪快に笑うと、サンダルを突っかけて管理室を出て行った。独特の耳に残る歩き方が遠ざかる。
「どうしよ……もう閉めちゃおうかな」
管理室の壁にぶら下がっている時計は、七時を回ったところ。
本来は、八時に閉めることになっているのだが、そこは場末、一時間前に閉めたところで客数に変化はない。
自慢することではないが、自慢してしまうくらいにその通りなのだ。
もう少し早めに帰宅することが出来ていれば、バッティングセンターにやってくる野球少年達を指導してあげることもある。
昔からそうしているせいか、私の町内での知名度は結構高い。草野球チームの助っ人を頼まれたこともあったほど。
今でも声をかけられるけれど、こっちは受験を控えた高校生。
そうそう何度も参加していられない。
「……閉めよ」
鍵を取ると、管理室から出る。
ボール片付け、戸締まり確認、消灯確認、電源確認……管理も色々と大変。なんだかんだ言って、自分の時間となるのは九時頃になってしまう。
そんな自分は、色々と損をしているように思えた。他の人達が遊んでいたり、勉強したりしている間、私はバイト代も出ない仕事をしているのだから。
入り口の鍵を閉めようとすると、すっかり夜に飲み込まれた夜道から、人影が歩いてくるのが見えた。
見覚えがあるような、無いような。
そんな脳内検索をしている間に距離は縮まっていき、答えはすんなりと出てきてしまう。
「あ、アンタは……野村悠」
声を出した後、しまったと思った。声をかけなければ、やり過ごせたかも知れないのに。
……でも、それ以前に変だ。
ここは西高の通学路ではないし、どちらかと言えば遠回りにしかならない。そこを遠路はるばる歩いているということは、もしかしたら野村悠は初めからここを目指していたのかもしれなかった。
私が声をかけても、かけなくても。
そんな選択肢すら選ぶ必要なしに。
「…………今日は、やってないのか?」
切れ長の目が、私の手に持った鍵を一瞥した。
「やってる。まだ……やってる」
煮え切らない言い直し方をしてから、私は気づく。
さっきまで閉めようとしていた意思が、これほどまでに簡単に覆されてしまったことに。
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