第六話・「殴りたいなら殴っていいよ」
自動販売機が、夜におびえて早めの光を灯す。
売り切れの警告灯が、不気味に夕焼けの道に浮かび上がっていた。
「プロ契約が取れました。契約金も入りました。たしかに、それって良いところまでいってるよね。すごいと思う。考えただけでもすごい。本当にびっくり。誰にでも出来ることじゃないよ」
浩輔は私が何を言おうとしているのか、計りかねているようだった。
バッグを肩に提げたまま、憮然として頬を固めている。
「でもさ、そのあとはどうなるの? 良いところまでいっても、それ以上行けなかったら終わりじゃない」
バッグの取っ手を強く握りしめていた。
「……終わりじゃねぇよ」
浩輔の口が小さく動いたような気がした。
「アンタが目指してるプロ野球選手だってそうじゃない。いつまでも一軍に上がれなくて、二軍暮らしが続いて、後から入団した選手にどんどん追い抜かれて、焦って努力して、報われなくて怪我して、次のシーズンこそはと思ったら、あっさりクビを宣告されて……。そして、いざ引退となったら、今度はどうするの? いい年した大人が、野球以外で再就職? そんなの無理に決まってる」
「……無理じゃねぇよ」
浩輔の視線を押し返そうとしていたはずが、逆に押し返されていた。
浩輔のようやく絞り出したような声は、ただの絞りかすなどではない。それこそ濃縮された、凝縮された密度の濃い言葉に聞こえた。
つばぜり合いに負けた私は、視線を足下に落とすしかない。
「野球しか知らないで、野球ばっかりやってきた人間が、今度は社会人生活? 他の人はまじめにこつこつやってる。就職活動だって、エントリーシートだって書いて、面接だって何社もうけて……」
まるで倒れ始めたドミノ。
長い時間をかけて築き上げてきたのに、ふいなアクシデントで全て倒壊していってしまう。
望んでいないのに。まだそのときではないのに。
私は倒れだしたドミノを止めることが出来ない。倒れていくドミノの先頭を追いかけるけれど、いつまで経っても追いつけない。倒れていくのをせき止められない。
どんどん、どんどん私の意思に反して気持ちが横倒しになっていく。
全部倒れてしまったら、きっと終わりだ。もう二度と立ち直れない。
本当は……倒れたくないのに。
こんなこと言いたくないのに。
感情が、さらなる激情を呼ぼうとする。
「そうして就職して、汗水垂らして頑張ってるんだよ? 良いところまでしかいけない人間が……中途半端なところまでしかいけない人間が、そんな人と戦えるわけない。だから、いつまでも夢を追いかけていていいはずがないのよ……そんなの悲しいじゃない」
肩を震わせ、息継ぎをする私。
「だから私はスポーツにのめり込みたくないの」
感情は、きっと水。
だから、流れ出すのを止められない。覆水が盆には返らないのは知っている。だから、こぼれた水を慌てて手ですくおうとする。手ですくった水が指の隙間からこぼれていくことに気がつかずに。
「お前さ、言った相手が俺じゃなかったら、間違いなく殴られてるぜ」
「……ごめん、殴りたいなら殴っていいよ」
目をつぶる瞬間、ポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと私に近付いてくる浩輔が見えた。
直ぐ近くで、衣擦れの音がする。
浩輔がポケットから手を抜いた音だろうか。
それとも、手を振り上げる音だろうか。
「アホが。殴るかよ」
振り上げられた手は、私の肩に優しく置かれていた。
幼馴染みの人懐っこい笑顔の付き。
大きな手のひらが、私の肩を包み込む。
無骨な手。短い爪。
手のひらは豆だらけで、皮膚の厚さのせいで黄ばんでいる。頑張り屋の手。努力することをあきらめない手。バットを握りしめ、何千、何万と素振りを続けてきた手。
……浩輔の手。
「言った相手が俺で良かっただろ?」
なんだろう。とっても不思議。
その手を見ていると、その厚さを見ていると、何もかもをつかんでしまいそうに思えた。
刺々しいものでも、鋭利な刃物でも、灼熱でも、永久凍土でも……夢でさえも。
私の不安なんか、簡単に握り潰してくれそうな、そんな気がした。
「言った相手が浩輔で良かった」
私って、本当に単純な人間。
落ち込み始めていた顔が、今度は笑いそうになっている。
「便利だよな、幼馴染み」
軽く笑うと、私の肩から離した手を再びポケットにしまう浩輔。
「便利だね、幼馴染み」
同意する私だった。 |