第二十話・「ううん……間違ってない」
「絶対に何か勘違いしてる……絶対に何か勘違いしてる……」
ぶつぶつと念仏を唱える私の隣には悠。
「絶対に何か勘違いしてる……田中さん、絶対に何か勘違いしてる」
「……ここは私に任せて、若い二人はしっぽりしてきたらいい……と言っていたな」
蝉時雨が響き渡る河川敷を私は悠と歩いていた。
照りつける太陽の下、ブーツカットのデニムが蒸れを促進する。下着の上にティーシャツを一枚、という最小限のラフさをもってしても夏の暑さには太刀打ちできない。
バッティングセンターはなんだかんだ言っても屋根の下だし、管理室にはクーラーもある。運動する施設とはいえ、かなり快適だったのだ。
そこから田中さんに半ば強引に追い出され、行く当てもなくとことこ河川敷を歩いている。
「おい、鈴木……」
「……何よ?」
時折頬を撫でていく爽やかな微風に、一時の至福を感じる。
それだけが、かろうじて命を繋ぎ止めていた。
「しっぽり……するのか?」
「しないわよ!」
冗談と分かっていても、大声を出さずにはいられなかった。
自転車ですれ違ったおじさんが、私の声に驚いてバランスを崩していた。
悠は相変わらずの冷静な表情で、私を観察している。
「そもそも、悠が勘違いさせるくらい頻繁に来るからでしょ!? ……って、駄目……熱さが倍加する」
舌を出した犬のように今にも地面に這いつくばってしまいそう。
「帽子をかぶらないからだ」
「ちょっ……何!?」
急に目の前が真っ暗になる。
私は視界を隠したものを素早くはぎ取って、目の前にさらした。
「これ……帽子……」
「ああ、帽子だ」
炎天下の中、河川敷の袂に広がる運動場からは、試合を行っている少年達の歓声がそよ風に運ばれてきた。
ひときわ大きな歓声とともに、ボールは外野に転がっていく。
ランナーは腕をぶんぶん振ってベースを回って、やがて三塁でとまる。
応援に来ていた母親らしい女性が、麦わら帽子を落とすほどに飛び上がって喜んでいた。
スコアボードにはチョークで書かれた数字が並んでいる。
見たところ、試合はクライマックス。
同点で迎えた最終回。最後の攻撃。
ワンアウト、三塁。
一打出れば、サヨナラ勝ちの場面。
「こんな汗まみれの帽子……私にかぶれって言うの?」
「嫌なら別にいい」
帽子のトップは真っ白で、トップからつばに書けて青いラインが放射状に入っている。西を示すWというアルファベット一文字がブロック体で描かれていて、つばはラインと同じ深い青色。
はっきり言って、おしゃれ度は低い。
そもそも、この帽子はおしゃれをするための帽子ではない。
「さっきまではかぶってなかったよね?」
「かぶるために持ってきたわけじゃない」
私は受け取った帽子を裏返す。
帽子の裏はひどく汚れて……いや、これは汚れではない。
これはれっきとした文字。
大小様々で、個性的な文字が、丁寧に、あるいは乱雑に油性ペンで書き込まれている。
私はその汚れに目を通して、音読してみる。
「一球入魂……一戦必勝……根気……平常心……俺たちは強い……お前を信じる俺を信じろ、俺を信じるお前を信じろ……心は一つ……全力投球……炎」
汗と涙が染みこんで、泥をかぶり、洗濯し……そのせいか文字が少しかすれている。
チームメイトが書き込んだのだろう、帽子のつばには所狭しと想いが並ぶ。
真っ黒。帽子の裏はもう真っ黒だ。
「……綾、お前も書き込んでくれ」
河川敷下の運動場から再び大きな歓声が上がる。
ふらふらと外野にあがったフライをレフトの選手がキャッチ。
その瞬間、三塁ベースにいた選手は犠牲フライの態勢から、ベースを蹴ってロケットのようにホームベースに突貫する。
レフトがバックホーム。
白い白球がレーザービームのようにホームを守るキャッチャーの元へ。
ランナーがホームベースを踏むのが早いか。
ボールを受け取ったキャッチャーの方が早いか。
瞬き一つ許されない、一瞬を争うせめぎ合い。
「悠……今、私のこと綾って……」
「何か間違っているか?」
「ううん……間違ってない。間違ってないけど……」
ホームベース上でランナーとキャッチャーが交錯。
激しい音と共に、土煙が舞い上がる。
審判がホームベース上を確認。
ランナーの手はホームベースに触れている。
しかし、キャッチャーもタッチしたというアピール。
それは生と死の攻防にも匹敵する。
アウトか、セーフか。
試合の明暗を分ける瞬間の訪れ。
「そこに書き込んでくれないか?」
真剣な悠の眼差しに、蝉の鳴き声が遠ざかっていくような気がした。
「俺は……お前に書き込んで欲しい」
河川敷の下では、息をのむ観客と監督、そして、選手達がいる。
ごくりと唾液を飲み込む音が、こちらにも聞こえてきそうだった。
わずかな静寂の後、審判の身体が動く。
勝利の女神が微笑む先は。
下される判定は。
私が口を開くと同時に、河川敷の下から審判の声が聞こえてきた。
「……仕方がないから、書いてあげる」
――セーフ。
審判の両腕が地面と水平に広げられる。
それは得点が入ったことを意味する。
運動場ででは喜びが爆発していた。
ホームに帰ってきたランナーをもみくちゃにする選手達。
ヘルメットをばしばしと叩いて、手荒い歓迎。犠牲フライを打ち上げたバッターもその輪に飛び込んでいく。
少年達の親は、息子達の活躍に満面の笑み。
我が子に送る黄色い声援が、グラウンド狭しと飛んでいく。
「……よかった」
勝利に沸く少年達と全く同じ、無邪気な笑みを浮かべる悠がいた。
小さな息をそっと口からこぼして安堵している。
断られると思って緊張していたのだろう。強ばっていた頬の筋肉がゆるんでいる。
……とすると、いつも通りの無表情はただ緊張していただけなのだろうか。
だとしたら、なんだか少し可愛いと思えた。
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