第十八話・「心ここにあらずだった」
ピッチングマシーンが吐き出す白球をただ眺めていた。
流星のように私の網膜に白球の軌跡が焼き付き、それは迎え撃つバッターのもとを駆け抜ける。バッターが打ち返せずに転がったボールが転々と跳ねていった。ピッチングマシーンが放つ白球の道筋は、毎回同じ道筋をたどると思いきや、それには微妙に狂いが存在していた。
あとで、マシンを調整しなきゃ……とふいに考えたとき、私の脳天に軽い衝撃が走る。
「よそ見とは感心しないな」
赤ピッチングマシーンの作動を表すいランプは、いつの間にか消えていた。
私の目の前には白いシャツに覆われたたくましい胸板がある。
「見てた、ちゃんと見てましたから」
「分かった、言い方を変えよう。見ていたが、心ここにあらずだった」
「……」
「十五球中五球だ。何か問題は?」
うっすらと汗ばむ二の腕。
悠の長身と比較しては、バットが小さく見える。
「上半身の力だけで打とうとしてる。外国人選手のように上半身にそれ相応の力があればいいけど、日本人は民族的な成長過程もあってそういうわけにはいかないから、もっと全身を使って、たとえばしなる鞭のように力を上手く伝わらせないと、バットに体重が乗っていかない」
悠が困ったように後頭部をかいている。
「あのな……鈴木」
「木村ですから」
相変わらず間違える私の名前を素早く訂正する。
すでに定番になりつつあるこのやりとり。
「心がきちんとこの場にとどまっていたことを証明してやった、どうだ、見たか……そう言いたいことは分かった」
バットを地面について、私を見すえる。
まるで竹刀片手に、道場で弟子を鍛える師範代のよう。
時間を経て分かったのだが、悠は結構おしゃべりだった。初対面の人間に対して、口数が極端に少ないだけで。
おそらく、人見知りが激しい人間なのだろう。
「むしろ、アドバイスに関してもその通りだから、否定はしない。……だが、その台詞を聞くのは、今日だけで三回目だ」
「……三回目?」
「そう、仏の顔も怒りに変わる三度目だ。……さすがに俺も黙っていられなくなった」
全く記憶になかった。
これで、言い訳が出来なくなったわけだ。練習を教えているというのに、心ここにあらずで、それとは全く別のことを考えていた。
……考えていたのは、浩輔と亜里砂のこと。
浩輔が亜里砂を救った件がきっかけで、二人が一緒にいるシーンを多く見かけるようになった。
私と亜里砂、浩輔は同じ教室で勉強するクラスメイト。
首を九十度ひねれば、必ず誰かしら目にはいる。
浩輔か、亜里砂、そのどちらかが。
でも、最近は浩輔が見つかったから亜里砂を探そうとする必要が無くなった。
もちろんその逆も。
まるで通信販売の抱き合わせ商品のように、ワンセットでいることが多くなった。
亜里砂は休み時間になると浩輔の元に寄っていくし、放課後になれば浩輔の後を追って野球部の見学に行く。
私は一人ぽつんと教室に取り残されて、得も言われぬ空気感に身を縮ませるだけ。
他に話しかけられるような親しい友人もない。
花を摘みに行くときも誰かと連れだって……という習慣もない私。心の中では、どうして一人で行けないんだ、と反発すら持っていた私だから、本当の意味で友達といえるのは亜里砂だけだった。
それで良かったと思えたし、それ以上友達と呼べる人間なんていらないと思っていた。
もちろん、話しかけられれば、愛想笑いだって浮かべられる。話だってあわせられる。けれどそれは、あくまでよそ行きの私みたいなもので、一日話し込んだらすぐに剥がれてしまうメッキのような私なのだ。
友達は多ければいいってものじゃない。
本当に友人として数えるべきは、心を割って話せる人の数。
悩める人に対して、しっかりと自分の信念や意思のもと、意見を返してくれる友人。ただ同情して、慰めて、教科書のようなアドバイスをして、友人の体裁だけを保とうとする友人ではなくて、きっちりと叱ってくれる友人。
私にとって、それは亜里砂であり、浩輔だった。
だから、亜里砂がいなくなった私に話しかけてくる友人はいない。
じゃあね、と声がかけられるだけ。一緒に帰ろうとする友人はいない。放課後に肩を並べた浩輔と、亜里砂はいない。
代わりに見るようになったのは、亜里砂の話に明るく笑う浩輔の横顔。
じゃれ合うように浩輔にからんでいく亜里砂の幸せそうな顔。
他を寄せ付けない不可視で不可侵の領域を作りあえげる二人の会話の輪に、私は入っていけない。そして、私がいないことを特別不思議がらず、話は進んでいく。私の機嫌が悪くても、勝手気ままに話しかけに来たのに。
誰が欠けても心地よい空気感は作り出せなかったのに。
ただ、浩輔と亜里砂は楽しそうな横顔を見せつけるだけ。机にぽつんと取り残された私なんか、頭にないといった様子で。誰にも話しかけることなく過ごしていく休み時間。
……私はそこにいなくてもいいの?
胸を突くのは問いかける先のない疑問。
「……四回目だぞ」
繰り返される休み時間の風景を吹き飛ばしたのは、悠の声だった。私の目の前には親指だけが折りたたまれた右手が突き出されている。
「気の強そうな顔をしているくせに、そんな顔をするな」
折りたたんでいた親指を広げる。大きく広げられた手のひらが、私の頭の上を優しく包み込む。豆だらけの硬い手のひら。
だというのに、大きくて、温かくて、慈愛に溢れた手のひらだった。
ぐりぐりと撫でるわけでもなく、私の頭の上に置かれたまま。それだけなのに、私はその悠の行為に心のダムが決壊しそうになる。私が純真無垢な少女だったら、きっと泣きじゃくって悠の胸に飛び込んでいくのだろうか。
「世の中には等価交換というのがある」
私の頭に置かれた悠の手のひら。私はそれを振り払うことが出来なかった。振り払いたくなかった……のかもしれない。認めてしまうのが悔しかった。そう思っている私がいることを信じたくなかった。
「鈴木にこうしてバッティングを教わるのには、それなりの価値があると思う。そこで相談なんだが……それに見合う代価を俺はちょうどもっている。鈴木が喜ぶかどうかは分からないが、鈴木さえよければ代価として受け取ってくれ」
……私は心の弱い人間なのだろうか。
友達と友達でいることが出来ないでいるだけで、心が折れてしまいそうになるくらいに。
誰かとつながっていないと、寂しさに心がつぶれてしまうくらいに。
「何よ、その代価って」
「――俺の胸を貸してやらなくもない」
私の頭に伸ばした手の隙間から、悠をうかがう。
悠は首元をぽりぽりとかいて、心持ち頬を赤くして、ピッチングマシーンを見るとはなしに見つめていた。
十秒、二十秒と沈黙が過ぎていく。
無言のプレッシャーと自分の台詞にたえられなくなったのか、悠は自ら進んで口を開く。
「ピッチングマシーンの調子が今ひとつだった。なるべく早めに整備を――」
「少し、借りるから」
悠の返答を待たずに、私は額だけを悠の胸に押しつける。
こつん、そんな音が聞こえるような接触。
シャツの奥にはたくましい胸板。
そして、その胸板の奥には、生きていると声だかに叫ぶ心臓がある。
とくん、とくん。
……声だかに叫ぶ、という表現は訂正。
大の男のくせに可愛らしい声で鳴いている。
「延長料金はいらない、安心しろ」
「そっか……うん、安心した」
私の声が涙声になっていないだろうか……雑多な波に飲み込まれそうになる感情の中で、ふとそんなことが気になった。
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