第十七話・「浩輔のところ行ってくるね」
その後の経過だけを言えば、日常生活に劇的な変化はなかった。
亜里砂と浩輔が呼び出されることもなく、そのまま数日が過ぎていった。
私はとりあえず安心し、目の前のノートに黒板を写していく。
数学の授業はあくびが出てしまうが、古文はそうではない。数学とは違って、理不尽に納得できないことはないから。
そうだ。
たった一日で変わる劇的な変化など、人生にはそう多くない。
原因から結果にたどり着くまでには、かなり多くの時間を伴った過程が存在する。
雨だれが石をうがつように、事態は徐々に動いていく。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり……とは、かの松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』に書かれている言葉。古典で復習したところによると、訳は、過ぎ行く月日もまた旅人のようなものである、という意味になる。
旅人はゆっくりと自分の足で各地を見て回った。
今日は東北、明日は九州……そんな劇的な変化ではなくて、県境や関所を一歩一歩、確実に踏破していく。
その結果として、東北から九州の道のりが出来上がっていく。
そんな当たり前のことをいかにもな感じで考え込み、授業を過ごしていると、あっと言う間に最後の一時間は過ぎていった。
クラスメイト全員が立ち上がるのを見て、慌てて立ち上がり、一礼。
チャイムが頭の中に入ってこなかったようだ。
「綾はどうするの?」
亜里砂が帰宅態勢を整えて私の元にやってくる。
「私? 帰るよ」
私はのろのろしながら教科書とノートをバッグに詰め込んでいた。
今日も今日とて、バッティングセンターの管理業務がある。田中おじさんに頼ってばかりもいられない。田中おじさんは喜んで引き受けてくれるけれど、その好意に甘え続けていいわけがない。
父が帰ってくるまで私が自分の家を守らなくてはいけないから。
それに、あれからたびたびやってくる悠のこともある。
「ふーん、じゃ……」
一緒に帰ろうと言われるのかと思って、分かった、と発音しそうになる。
「ちょっと、浩輔のところ行ってくるね」
「あ……うん」
浩輔には部活があるけれど……そう口にしたところで亜里砂には関係ない。
亜里砂曰く、名作アニメ『巨人の星』でいうところの、主人公のお姉さん的立場らしい。要するに、邪魔をせずに見守る、と言いたいようだった。
ずいぶん古いアニメを知っているんだね、と口にしたら、名作アニメベストがランキング形式になっている番組を見たそうだ。
「最近ね、野球って面白いんだなって思うようになったの。犠牲フライってあるでしょ? 綾なら知ってるよね」
「うん」
教室の天井を指さす。
亜里砂の思い描くところ、教室に高々と架空のフライが打ち上がったようだ。
やがて重力に引かれて落ちてくる。
「不思議だよね、ボールをキャッチしてからじゃないと、ベースの人は――」
「ベースの人は、ランナー、または走者っていうの」
野球を知る者として、しっかり訂正してあげる。
「そうそう、そのランナーとか言うベースの人は、次のベースに走っちゃいけないんだよ」
亜里砂の左手が教室に打ち上がったボールをキャッチする。私の指摘はどうやら無駄に終わったようだった。
のれんに腕押し、ぬかに釘……なんだか空しい。
まるで、私の名前を覚えてくれない某高校生みたいだ。
「そういうルールとか、浩輔が丁寧に教えてくれるからさ。最近、夜の野球中継見るようになちゃった。お父さんといつもチャンネルの奪い合いするのに、それが無くなって食卓は円満。しかも私が、ロクヨンサンのダブルプレーなんて言ったら、お父さん目を丸くして驚いてたよ」
くすくすと笑いをこぼす亜里砂。
「てことで、今日も亜里砂は野球部の見学に行ってきます!」
「……行ってらっしゃい」
兵士のようにびしっと敬礼する亜里砂が、香水の残滓をのこして教室を出て行った。
私は、上官に叱られそうな力ない敬礼を亜里砂に返すしかなかった。
大きく広がっていく教室に、放課後の生暖かい空気が抜けていく。
放課後の喧騒に囲まれながら、私はたった一人。
風は窓から流れ込み、私の心の隙間に入り込んでくる。
すきま風の入り込む余地がなかったはずのそこには、本来あるべきはずだったものがない。共有していた時間がない。下校時のたわいもない話とか、浩輔との夜の練習とか……。
私、浩輔、亜里砂。
三人で共有していた空気感。
空気感……私はよくこの言葉を口にしていた気がする。
感覚で分かり合える絆のように感じていた。それがとても希薄になっているような気がして、私は窓の外を眺めていた。
ふいに息が詰まる。
世界はこんなにもうるさくて、雑多な感情に溢れているのに、私だけたった一人ぼっちになってしまったような。
錯覚だ。錯覚に決まってる。変わらない。三人の空気感は変わらない。変わるはずなんて無いんだ。
私は自分にそう言い聞かせた。
「あ、綾だ! ナイスタイミング!」
「入部のこと考えてくれたか?」
ジャージを着た生徒が二人、私に近付いてくる。
「期間限定でいいんだ。木村も今の時期は忙しいだろうからさ、記録と部活の名誉のために協力してもらえないかな?」
陸上部男子のキャプテンが、額に光る汗を拭う。言葉を継ぐようにして、今度は女子キャプテンが私の肩に手を置く。
説得モードに突入するのか、二人の目は真っ直ぐに私をとらえて放さなかった。
「そそ、綾もきっと悪いようにはならないと思うよ、もしかしたら一芸入試とかにも利用できるかも知れないじゃん」
すきま風が吹く。
なんだろう、まるで一度見たことのある風景のような。
ボールが転がってきて、それを拾って返してあげて。
勧誘を何とか煙に巻いて。
「木村なら、きっと良いところまで行くと思うんだ」
「綾なら大丈夫だよ、私が保証するってば」
良いところまでいける……。
良いところまでいける……?
誰かが私に同じことを言っていた気がする。
その人は、部活勧誘を断った私を校門前で待っていてくれて、いらいらにまかせて愚痴る私をしゃべりすぎだと言って、帰り道に缶コーヒーをおごってくれた。
「入部、考えてもらえないかな?」
「お願い! 綾! このとおり!」
もしかしたら、またあの空気感が取り戻せるのかも知れない。
きっとこれはあのときの繰り返し。
「ごめんね、私やっぱり……」
気もそぞろに二人の隣を通り過ぎ、足早に校門へ。
「うん、またね、綾! 色よい返事を待ってるよ!」
「木村! 高校最後の夏だ、期待してるからな!」
背中を向ける私に透き通るような声が届く。
疑いのない、真っ直ぐな声。
信じることに臆病にならない声。
嫌味でもなんでもないはずなのに、私はそれを皮肉にしか感じ取れなくなっていた。
トンネルの出口を目指すように。
白い光点をただひたすらに目指すように。
希望にすがりつくように。
私は歩幅を早めた。
ひたすら校門へ。
放課後の風に翻弄されそうになりながらも、大股で校門を出た。
そして。
――また、勧誘か? お前も頼られてるよな。
……あの声は聞こえなかった。
風が足下を吹き抜けスカートを揺らす。
空気の感触は、今まで私が感じたことがないほど無味乾燥で、ただ寂しさばかりが溢れていた。
灰色の風。
私を取り巻いて、私の体温を奪っていく。
何を期待していたのだろう。
何がしたかったのだろう。
亜里砂と浩輔が校門前で待っていて、横に三人広がりながら、帰り道を歩く日常。
動かない距離感。
心地よかった空気感。
それが欲しかったのだろうか。
それを取り戻したかったのだろうか。
たった一日で変わる劇的な変化など、人生にはそう多くない。
原因から結果にたどり着くまでには、かなり多くの時間を伴った過程が存在する。
私はただ単にそれを見落としていただけなのだろうか。変わらないと高をくくっていただけなのだろうか。
違う。そうじゃない。変わっていない。まだ何も変わっていない。
明日になれば、今週が終われば、来月になれば、また三人の空気感が戻ってくる。
だからそれまで、私は私のままで待っていよう。何事もなく三人に戻れるように。
強く頭を振り、私は闇雲に歩き出した。
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