第十四話・「あはは」
朝のほのぼのとした登校風景の中に、叫び声にも似た場違いな声が上がる。
「亜里砂……私、そこまで大きなリアクションを返してくれるとは思わなかった」
ムンクの叫びのように頬を両手で押さえ込む亜里砂は、私の方を絶望したように見つめている。
見つめるのはいいけど、みんなに笑われるのは勘弁して欲しい。
私まで、少しおかしいように見られてしまう。
「ま……ま……まさかだよ。まさか綾にこんな一大転機が訪れようとは誰が思っただろう! いや、ない!」
ムンクの叫びを止めて、一瞬で表情を元に戻す。
亜里砂の顔はまさに形状記憶合金だ。
握り拳は、まさに民衆に訴えかける独裁者のそれ。
「古典の勉強でもしたの?」
「うん、反語。あたってるでしょ? 用法」
「間違ってはいない。間違ってはいないんだけど……なんか納得いかない」
「綾……世の中にはね、理解は出来ても納得できないものがあるのよ」
まるで大人が子供を諭すように、私の肩に手を置いてため息をついてくる。
「ほら、この前の数学の授業でもあったじゃない? 綾がy=1/xは、絶対にゼロになる! ……って吠えてたやつとかさ。他にも……他にも……」
指折り数えようとしていた亜里砂が人差し指を折ったところで止める。
「ま、それはこっち置いておくとして――」
……たとえを思いつかなかったな。
箱を持ち上げて、横にずらす仕草。
「悠様はバッティングを教えてくれって言ったんでしょ?」
「うん、そんなこと言ってた」
バットを差し出す悠を思い出す。
「綾は、うんと応えた」
「曲がりなりにも」
「曲がってるのは綾のせいか……」
亜里砂に握り拳を見せつける。
「何でもありません!」
「……分かればよろしい」
両手を万歳して降伏のポーズをする亜里砂に満足し、私は拳を下ろす。
「ふ〜ん、じゃ、これから毎夜毎夜、手取り足取りスキンシップかぁ……案外、綾も隅に置けないのかも」
「変な妄想をしているところ悪いんだけど……そもそも、おかしいと思わないの? 悠がバッティングがへたくそなんて信じられない。なんか馬鹿にされているような気分」
「確かにね。プロも注目、野球の王子様がバッティングがへたくそだなんて、なんかちょっと幻滅……ん? なんか私、重要な言葉を聞き逃したような……あ、綾! 今、悠様を呼び捨てに!」
「アイツがそう呼べっていっただけ。別に私から呼んだんじゃない」
「くぅ……隅に置けないどころか、堂々と真ん中に置いてある……やはり世間の風はツンデレを……」
がっくりと肩を下げる亜里砂。
と思ったのもつかの間、亜里砂は両手をがっちりと組んで、空に何かを思い描き始めた。
「綾、すこしいいかな。ここのバットの握り方が納得いかないんだ」
太い声を出す亜里砂。
「え? 悠、ここってどこのことよ?」
打って変わって、今度は細い声。くるくると立ち位置を変えて、その度に細い声と太い声を入れ替える。どうやら、一人芝居が始まったようだ。
監督、脚本、主演、横峯亜里砂。
全部一人。
配役は……言うまでもない。
「ほら、ここだよ……」
どんどんなまめかしい声になり、男女の距離が接近し始める。
演出が多少大げさすぎる。私が監督ならば、迷わずカットをいれているところだ。
「もうちょっとはっきり言ってくれないと分からないわよ」
男優にすり寄っていく女優。
「ほら、もう一つのバットの握り方が……」
亜里砂の頬が心なしか高揚しているように見えるのは、演技にしてはかなり上手。
亜里砂はのめり込んだら一直線のタイプだったな、と今更ながらに思い出す。
「え……? もう一つ? どこ?」
亜里砂が演じている私は、なぜかものすごくかまととぶっている。知っているのに知らない振り。
汚れているのに、純情なふり……あ、なんか妙に腹立たしくなってきた。
「もう少し下の、俺の固くなっているそこを強く握っ……痛い痛い痛い!」
亜里砂の吐息が変態じみてきたところで、私はついに、表現倫理という正義の旗の元、制裁を実行する。背の高さを生かして亜里砂の背後に回り込み、こめかみを握り拳で圧迫してやる。
両側からのドリル攻撃に身もだえする亜里砂。
「亜里砂、アンタは朝から……!」
「冗談! 冗談に決まってるじゃない! 綾は頭が固いんだから……」
亜里砂、涙目。
「朝から時と場所を考えずにそんなことを話し出す方が悪いの」
私が少し説教でもしてやろうと思ったときには、そこに彼女はいない。
砂煙を残して、見覚えのある背中に駆け出していた。
「あ、浩輔ー! おはよー!」
「人の話聞いてないし……」
浩輔の背中を手のひらで軽く叩く亜里砂に、一人ため息をつく私。
「おう、賑やかな声に他人の振りを決めていた俺に声をかけてくるとは、ありがた迷惑な奴だな、おはよう」
「挨拶までのまえおき長すぎ……」
突っ込みながら、亜里砂と浩輔に並ぶ。
「そうだ、亜里砂、昨日の大丈夫だったのか?」
「昨日?」
昨日と言えば、私は悠とバッティングを教えると約束をした日。亜里砂は合コンで、浩輔は親に頼まれた買い物をしていた日。
私は、接点のなかったはずの三人の行動を比べて疑問符を浮かべた。
「あ、うん。昨日はありがとね、浩輔」
「うんにゃ、別にたいしたことしてねーよ、おやすいご用だ」
「何かあったの、亜里砂?」
置いてけぼりにされている私。
浩輔の問いかけに、亜里砂の空気が少し真剣みを帯びる。
亜里砂は、浩輔に感謝すると同時に、浩輔の横顔をどこか優しい目で見上げていた。
……そこに広がる空気感。
みんなで冗談を言い合いような開けた空気ではなくて、秘密を共有していることを喜ぶ密やかな空気……。
それがなんだか気にかかって、私は二人に聞き返していた。
「あ……うん、昨日、西高の男子と合コンだったんだけどさ、ちょっとつれなくしたら絡まれちゃって……あはは」
「あはは、って……」
私の胸の中で、何かが動き出すのが分かった。
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