第十二話・「意味のない時間なんてない」
「たたき出す……。これでも一応客なんだが」
「一応ね!」
私の八つ当たり先は、マシーンの放つボールだった。
マシンが次のボールを投げる間、悠をちらりと盗み見る。
悠は腹話術の心得でもあるのではないだろうか。静かに一定のペースで語る悠の姿は、どこか一般人のそれとはかけ離れているように思える。
よし、明日からこういう自分で行こう……と決意をしたところで、悠のような生き方は出来ない。そもそもしたくもないのだけれど。
「……ったく、何でこんな無意味な会話を続けなくちゃいけないのよ」
温まってきた身体をもてあますように、私は今日何度目かも分からないため息をつく。
「意味のない時間なんてない」
「はいはい、そうですか」
悠は何が楽しいのか、私の言葉に直ぐ反応を返してくる。
何が楽しいのか、考えるまでもなかった。
……悔しいけれど、私は後手後手に回っている。
悠が腕を組んだまま私を直視し、再びその深遠な瞳で私を捕まえてくる。古代神話のメデューサもかくや、と思わせるその眼力。わたしは分かっていても、その目からは逃れられなかった。
直ぐにでも次のボールが来るというのに、私はボールではなく、悠の言葉を待っていた。
悠の口元がわずかに動き、深く静かな声が紡ぎ出される。
「ここでこうしていること」
私はボールを見逃す。
ワンストライク。
「鈴木を見ていること」
見逃したボールが、転々と私の足下を転がっていく。
「スイング」
ネット越しの会話のはずなのに、耳音でささやかれているような気持ちになる。
距離や、時間など超越して。
「会話」
一つ一つの単語を噛みしめると、悠は少し眺めの呼吸をした。
「全部……意味がある」
次のボールも見逃す。
ツーストライク。
三十秒以上悠と視線を交錯させていた自分に恥ずかしくなる。胸のどきどきはいっこうに収まらない。自分で聞く心臓の音の大きさを忘れようと、慌てて迫り来るボールと対峙する。
バラバラのフォームとタイミングのままで、バットを適当に回転させた。
「そ、私にはないけど……ね!」
見逃しの二球を含め、空振り三振。
「……バッターアウト、だな」
馬鹿にされたような気がした。
「くっ……」
ようやくランプが消え、ピッチングマシーンは動きを止める。
私は肩から緊張を下ろすと、安堵の息を吐く。一回りも、二回りも身体が軽くなった気分。
他でもない悠に見られているせいだろう。
浩輔の場合はこんな緊張はしない。
二人で馬鹿話をしながらバッティングをしたとしても、緊張感無く全球を確実に打ち返せる。
思うに、初めての授業参観のような。
良いところを見せなければいけないという強迫観念が、バッターボックスに漂っている気がした。
「だったら、言わせてもらいますけど……甲子園常連校でエースピッチャー、プロも注目の逸材、野村悠選手がこんなところで何をしているんですか? 意味があるとおっしゃいましたけど、私にはそれよりももっと意味のある過ごし方を知っていますが。自主トレとか、勉強とか、休息とか」
インテリが自分の意見を誇らしげに語るように、私は少し嫌味を込めた。
「――昔々」
悠は私の嫌味はものともせずに、寄りかかっていた壁から離れる。
「……え?」
組んでいた腕を解き放つと、傘立てからバットを引き抜く。
金網を押し開き、私が入っているバッターボックスの隣へ。スピードは私が打ったボールよりも十キロ遅い。
「あるところに、ピッチャーがいた」
桃太郎、かぐや姫、浦島太郎……そんな昔話を語り聞かせるには、あまりにも感情のこもっていない声。カンニングペーパーを棒読みする二流司会者そのもの。
「プロも注目のエースピッチャーだった。打たれることも無く、ボールが前に飛ばされることもなかった。相手チームはスコアボードにゼロを並べていくだけ。そのピッチャーは思った。野球は九人でなくとも出来る、と」
バットの両端を持って、身体を反らす。白いシャツ越しでも、肩幅の広さと強さがはっきり分かる。
浩輔と同じか、それ以上の背中だった。
……ふと、手を伸ばして触りたくなった。
洗い立てのシーツ、ふかふかのカーペットのように魅力的。
触れたらどんな感触がするのだろう。突然の好奇心が私の心を急かす。
もちろん、そんな考えは、すぐに頭を振って追い出してやった。
「……実際、そのピッチャーには出来た。来る日も来る日も、たった一人でマウンドに立ち、相手のスコアボードにゼロを並べていく。誰にも打たれずに……」
バットのグリップを握り、遠心力を利用して身体を大きく回す。
長身を生かしたダイナミックな準備運動。
ただの準備運動なのに、何か凄いことが怒りそうな予感すら漂う。
「だから、そのピッチャーは負けたことがなかった」
語り部となった悠と、悠が作り出す昔話にいつしか私は聞き入っていた。
幼い頃、公園にやってきた紙芝居のおじさんと、醤油せんべい、水飴……そんな懐かしい物語と味がなぜか脳裏によみがえっていた。
「その記録はピッチャーが引退するまで続いた。マウンドにたった一人の野球人生……生涯無敗。……しかし、そのピッチャーが称えられることはなかった。歴史に残ることはなかった」
準備運動が完了したのか、先程交換したコインを機械に投入する。
赤いランプが点灯。ゆったりとしたスタンスでバットを構える。
バットを大きく空中に掲げるスタイルは、往年の落合光博(現中日ドラゴンズ監督)を思い出させる。
知りたくはなかったのだが、私の脳が浩輔の無駄な野球知識を覚えていた。
「死ぬまでそのピッチャーは勝つことは出来なかった」
「え……? なんで?」
すっかり童心にかえってしまった私は、待ちきれなくなって悠にオチを促す。
同時に、悠に向かって放たれるボール。
球速百三十キロ。
プロが注目するほどの人間なら、打ちもらすはずがないボール。
「――ピッチャーはバッティングが苦手だった」
バットの芯でとらえたボールは、快音を残し、鋭い直線を描いてネットに突き刺さった。
……しかし、それは私の錯覚で、バットはボールにかすりもしていない。
ただ素振りをしただけに終わっていた。見事すぎるほどに、見事な空振りだった。
「……俺はバッティングが苦手だ」
口を真一文字に結んで、昔話を締めくくる悠。それが格好悪い自分を我慢しているように思えて、楽しくなってくる。胸の奥からくつくつとおかしさがこみ上げてくる。
「なによそれ……ふふ……」
無表情と格好悪さのギャップがたまらない。忍び笑いも、すぐにお腹を抱えるものに変わってしまった。目尻に涙をためて笑う私を、悠は表情無く、ただ優しい目で見ていた。私にはそう思えた。
「おかしい……久しぶりに変な話聞いたせいか、お腹痛い……」
目尻に溜まった涙を拭って、私はお腹を押さえる。
「……鈴木、教えてくれないか? 俺に」
打って変わって真剣な目に、私はいつまでも笑いの余韻に浸っていられなくなる。
「そ、そんな真剣な目で……見ないでよ」
「……」
駄目、悠のこの目の前では、猫ににらまれたネズミでしか無くなる。
「あ……う」
窮鼠猫を噛むこともなく、動悸がかってに加速をはじめてしまう。
後ずさり。後ずさり。後ずさり。
「お、教えてあげるわよ! 教えてあげれば良いんでしょ! うう……」
ついには軍門にくだる弱い私。
「……ありがとう」
素直に感謝を示す悠に、私の中で悔しさが増す。私はこれでも負けず嫌いなのだ。
「教えてあげる。教えてあげるんだけど、そのまえに……ひとつ大事なこと教えてあげる」
「……なんだ?」
悠の足下には誰にも打ってもらえないボールが溜まっていく。
悠はバットを肩に担いだまま、ボットを教鞭のように扱う私を見おろした。
「私は木村です!」
「わるい……鈴……木村」
教師にだけはなるまいと、私は密かに決意した。
それはなぜか。
出来の悪い生徒ほど可愛いというが、それが嘘だと分かったから。
やっぱり、出来の良い生徒の方が手がかからなくていい。
「せんぱーい、野村せんぱーい!」
就職先から教師を削除する私の耳に、声が飛んでくる。
聞き覚えのない愛らしい声が、悠を呼んでいた。
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