第十一話・「私、物忘れひどいの」
ぼうっとする私を無表情がのぞいてくる。
「……どうした、鈴木」
現在と過去。
突然の、野村悠の笑顔を起点にして交錯する。
私が小学生だった頃。夏休みの自由課題。朝顔の成長日記。
朝露に濡れた朝顔の成長を、開花を今か今かと待ちわびていた。
早くその顔が見たかった。成長した姿を見せて欲しかった。
そして、ある日突然その感動は訪れる。
眠たい目をこすって、玄関口を飛び出して、木の棒につるを巻き付けた姿を確認する。
微笑ましい朝日の下で、群青色で、雄々しくて、みずみずしい花が咲いていた。
図鑑で見るよりもずっと気高く誇らしい。
はじめて見る花じゃないのに、世界で一番美しい。
水をやって、暴風から守って、成長を見守って、すくすくと育っていくその姿に、頼もしさすら覚えた夏休み。
やっと、見ることが出来た。
感じることが出来た。
生まれる感情は、とても一言では言い表せなかった。
どうしてもと言うのならその言葉が一番近い。
――感動。
「……嘘……」
何が嘘なのかも分からず、両手で自分の口を押さえていた。
……なんだろう、これ。
似てる。朝顔が咲いたあの朝の感動と。
温かい。それでいて、どんどん熱くなる。青いリンゴがどんどん赤く色づいていくような錯覚。町内を全力で一周してきた以上に、心臓が乱れている。
この心臓の音は酸素を循環しようとする欲求ではない。
誕生の喜びを全身で表現するような乱れ。
無表情で、無愛想で、無遠慮な、恋とは対極に位置していそうな奴なのに。
……たった一目見ただけ。
たった一目、笑顔を見ただけなのに離れていかない。
でも、たった一目でも、私は今でも覚えていることがある。
あの朝。朝顔が咲き誇ったあの朝、朝露を輝かせて笑っていた朝顔。
感動は、忘れない。焼き付いて、離れない。
それがたった一回の巡り会いでも。
……心を動かされたことを、私は忘れない。
このときの私には、その感情を理解できなかったけれど。
それが、木村綾の初恋であったということを。
――私は絶対に忘れない。
「……はい!」
どくんどくん、と繰り返す心臓の激しさに戸惑いながら、私は野村に手のひらを突き出していた。
まだバットは受け取らない。受け取ってやらない。
「なんだ? この手は」
野村は私の手のひらを指さす。
「お金! 見物料! こ、こっちだって、慈善事業じゃないんだから」
お小遣いをせがむ子供のように、野村悠の喉元に手のひらを突きつける。
「冗談だ」
財布からお金を取り出し、コインへと変える。常連客がそうするように、千円で六枚コース。じゃらじゃらと落ちてきたコインのうち一枚を私の手のひらにぽとりと落とした。
「冗談に聞こえないんだってば……あんたは」
私はそのコインを強く胸の前で握りしめて、ため息をついた。
野村悠が差し出すバットを少し乱暴に受け取ると、金網を押し入ってバッターボックスに立つ。手足をぶらぶらさせて柔軟体操。
「野村悠」
「へ?」
素振りをして身体の調子を確かめようとする私に声がかかる。口をぽかんと開ける私に向かって、野村悠は腕を組む。
壁により掛かかりながら、深く鋭い眼差しを私に向けてくる。
有無を言わさず……そんな瞳の色だった。
「悠でいい」
「わ、わかったわよ……」
改めて、素振りをする。
うん、今日の私は悪くない。
いつもより力みが感じられるけれど、どうと言うことはない。
準備運動もろくにしていないのに、身体が熱いのは気温のせいだろうか。
「ところでさ、アンタ、有名人なんだってね」
「それがどうかしたか」
コインを投入。赤いランプがともり、ピッチングマシーンが動き出す。
「野球上手いんでしょ?」
「ああ」
謙遜ぐらいしても罰は当たらないと思う。
来たボールを難なく芯でとらえる私を、やはり無感動のままに見つめてくる悠。
三球をネットに突き刺したところで、私は後ろを振り返る。
「じゃ、何で私のバッティングばかり見てるのよ」
「さっきも言ったが……」
「私、物忘れひどいの」
野村悠を困らせてやりたくて、わざと言葉で攻めてみる。
少しぐらい、いらだったり、悔しがったり、感情的になってみなさいよ。
そんな私の思惑だった。
「綺麗だから、それじゃ駄目か?」
また、あの目だ。
真っ直ぐで、純粋で、何事にも動じない強い眼差し。
信じて疑わない。疑うことを知らない瞳。
野球や、夢を語るときの浩輔のような……一直線に夢の彼方へ向かう目だ。
素直に信じても良いと思える、どちらかというと好きな部類に属する目。
「綺麗なものを見るのに、理由が必要なのか?」
困らせてやるはずが、逆に困りそうになった私は、慌ててマシンから投げ込まれたボールを打ち返す。
詰まった打球は、足下でワンバウンドして膝にあたる。
自打球。
……とても痛い。
すねの痛みは飛び上がりそうだったけれど、野村悠の手前それを我慢する。つけ込まれる材料になるのはゴメンだから。関係ないけれど、弁慶はきっと痛がりだと思う。
「見ての通り、私、素人だから」
打ち損じたのをこれ見よがしにアピールしてみる。
野球をかじった者としては、なんだか情けないアピールではあった。
「才能にプロも素人も関係ない」
「……あっそ」
ボールが射出される。自打球の痛みを我慢しながら、私は恐れず踏み込んでいく。
手に感触は残らなかった。
バットの芯を食った証拠。
白い弾丸は、ホームランの看板の直ぐ横に突き刺さった。
やはり野村悠のリアクションはない。
振り向いたら、いつのまにかいなくなっていた。
それぐらいに、存在感無く私を眺めている。
「あ、あのさ……野村」
「……物忘れがひどいって言うのは、冗談ではなかったんだな」
腕組みを解かずに、野村悠は目を光らせた。
「悠!」
頬が一瞬で熱くなるのが分かった。
野村悠を困らせてやるはずが、逆に揚げ足を取られた。
それがとても悔しい。
「悠、悠、悠!」
恥ずかしげもなく、ムキになって連呼した。
肩で大きく息をすると、汗が頬を伝っていった。
これじゃ、まるで私が子供じゃない。
「悠、悠、悠!……はぁ、はぁ……これで満足?」
「ああ」
一瞬、またあの笑顔を見せてくれるんじゃないかって、期待した私がいた。
「…………何でそんなに落ち着いてるのよ……私が馬鹿みたいじゃない……」
何を言おうとしたのか忘れてしまいそうになる。
「物忘れがひどいっていうのは――」
「まだ覚えてますから!」
言おうとしたことは、今の大声で綺麗さっぱり頭から無くなっていた。
なぜか悠の前では物忘れが激しくなりがちだ。
初めて会ったときは、そんなことはなかったのに。
「……まだ? まるで三歩――」
「私をニワトリ呼ばわりしたら、問答無用でたたき出す」
忘れたことを指摘され続けるのが我慢できなくて、私は照れ隠しのようにバットを振り回していた。
|