第十話・「……綺麗だった」
「……で、何よ?」
バットを突きつけたまま、私は野村をうかがった。
「何のことだ?」
「ふざけないでよ! 呼んだでしょ、私のこと!」
地面にバットを叩き付けたくなる衝動に駆られる。
危ない危ない。私物とはいえ、バッティングセンターの備品なのだ。
「俺が呼んだのは、鈴木だ。お前は違うんだろう?」
「……殺す」
物騒な言葉は、きっと記憶には残らない。
背中を駆け上った怒りは、私の頭を突き抜け、角となって頭から飛び出す。仁王像のごときオーラをまとっていてもおかしくはない。
もともと言葉よりも手の方が早く出る性格。
最近になって落ち着きを取り戻してはいたが、悪い意味で一皮むけてしまえば、中身は昔とはさほど変わっていない。長年スポーツをしてきた運動神経と、その長身もあってか、中学校を卒業するまでは、浩輔とケンカしても負けることはなかった私。
腕っ節の強い女の子として、それはそれはモテたものだ。
……全て同性にだが。
そして、目の前にいる野村悠は、私で遊びすぎた。
仏の顔も三度まで。
もう許せない。というか、許すものか。
バットのグリップを強く握りしめて、大股で野村悠へ近付く。
なにがプロの注目の逸材だ。
人の上に人を造らずとは、かの有名な福沢諭吉の言葉。
だったら、たとえ目の前にいる野村悠がどんなに凄い選手であっても、私にすれば無愛想で、ひねくれ者で、大嫌いな部類に属している男でしかない。
偉いとか偉くないとか、凄いとか凄くないとか関係ない。
人として人と向き合うのに、肩書きなんか関係ないんだ。
私は怒っている。
原因は目の前の男にある。
それで十分。それだけで十分。
怒りのオーラをまとった私が近付いていくのにも、眉毛一つ動かさないその度胸は認める。
平然とした顔、冷静に私を観察する瞳。
夏の夜の熱ささえ忘れさせるような涼しげな態度。
私はその顔に正面切って睨みをきかせる。
顔と顔の距離は三十センチもない。
こういうときにはS顔というのは便利だ。だいたいの男は、ここで自分から折れる。
謝るか、退くか。
私のサディスティックな表情に恐れをなす。
野村悠も例外ではないはず。
プロも注目の逸材という報道を笠に着ているだけで、中身はそこら辺にたむろしている見かけだけの男と代わりがないはず……。
……少なくとも、そのときの私はそう思っていた。
「――俺は、おまえの打つ姿が見たい」
詰め寄ったのは私のはずなのに。
野村悠の黒く、そして深く意思を秘めた瞳に気圧されていた。
気を抜けば、ふいに吸い込まれそうになる。
深海のような……違う、まるで宇宙のような。
深く沈んでいくだけで、圧迫されような息苦しい海の底ではなくて、まだ見ぬ神秘と感動と可能性を感じさせてくれるような、そんな深い空の海。
消えていく。小さくなっていく。
私の怒りなんて、無きに等しい。
宇宙に比べたら、私の抱えていた怒りなんか、塵芥のように小さい。簡単に吸い込まれて、あとはうやむやになってしまう。
焼け石に水とは少し違うけれど、私の怒りなんて本当にそんなものでしかなかった。
そして、そんなものでしかなかったことに、私はひどく驚いてもいた。
「……綺麗だった。俺が今まで見てきた中で……一番」
野村悠は私が持っていたバットを優しく取り上げると、くるりと回してグリップを私に向ける。まるで、ダンスに誘う貴族のように。手の甲にキスをする王子様のように。
私が持っていたバットを改めて私に返してくる。
「見せてくれるか? ……鈴木の代わりに」
はじめて見せてくれた変化。
その小さな、とても小さな野村悠の笑顔に、私は目を離すことが出来なかった。
私の心の奥から、ゆっくりと階段を上ってくる。いくつもの扉を開けて、鍵を開けて、私の一番奥まで向かってくる温もり。
……たかが笑顔一つで、なんて大げさなんだろう。
私はそう突っぱねて、ドアを押し返してもよかった。
でも、その温もりのやってくる方向からはとても温かいものがどっと押し寄せてくる。
触れてみたくなって、そっと手を差しだして、私はドアを押さえるのを忘れてしまう。
ドアの向こうからやってきた温もりは、桃色の桜の花びらだった。
桜花爛漫。桜並木の下をはじめて歩いた入学式を、ふと思い起こさせられる色と匂い。
これから始まる新しい出来事、巡り会う日々、重ね合う時間。
私の行く道の先には、大きな希望と夢が詰まっている。
それを感じさせてくれた、青空と、桜並木と、桜吹雪。
ドアの向こうにはそれが広がっていた。
|