第九話・「鈴木?」
ライトの周りをひらひらと飛んでいく蛾。
夢遊病者のように光りに吸い寄せられていき、やがて光りにぶつかる。鱗粉がまるでダイヤモンドダストのように輝き、漂う。
虫の体当たりとライトのせめぎ合う音だけが、私と野村悠の間を走っていった。
引き絞られるようなその音は、さながら緊張の糸。
綱引きのように互いが互いの方向に引き寄せようとするから、糸の緊張は増し、一触即発の空気が出来上がる。
閉店していない、と伝えたはいいが、そこから先がない。
無表情のまま暗闇にたたずんでいる長身。まるで、背後から忍び寄る暗殺者のよう。それとも、闇社会に生きるセレブ御用達のホストだろうか。
私が犬ならば、今にもしっぽを丸めて逃げ出しそうな鋭い目つきは、闇夜には研ぎ澄まされた刃のように感じられて恐ろしすぎる。
……この男は、もう少し社交性ってものを身につけたらどうだろうか。
そもそも何しにきたのだろう。
敵情視察にしてはあまりにも場当たり的すぎる。
東高は西高と違い、野球の実力は予選三回戦レベル。毎年決勝戦まで勝ち上がる西高とは比べるまでもない。浩輔がスカウトの目に留まる、ある程度優秀なピッチャーであったとしても、野球は浩輔一人でやるものではない。西高のようにチーム力がなければ意味がないから。
よって、浩輔の偵察というのもない。
それ以前に、プロも注目の逸材がわざわざ自分の足で偵察するだろうか。
目の前の愛想なしの男には、まずそこから説明して欲しい。
……もしかして、私目当て? 身体目当て?
私は自分の体を改めて見おろす。
身長は百七十センチを超えている。
胸だって無い訳じゃない。手のひらで包み込めばお釣りがくるぐらいはある。
足は身長のせいもあって長い。亜里砂にはモデルのようだとお世辞ぐらいには言われている。
火のないところに煙は立たないっていうし、煙が立つくらいにはモデルっぽいんじゃないかな、と自分で自分を擁護してみる。
体重は……残念ながら少し多め。
ジャージの上からでは見えないけれど、運動好きもたたって筋肉質なのだ。もう少しで腹筋が割れてしまいそうなのは、乙女のトップシークレット。
脂肪がない代わりに筋肉質。筋肉は脂肪よりも二倍の重さがあるから、背に腹は代えられない。体型を維持するには犠牲も必要なのだ。
それ以前に、体型を維持しようとしたこともないけれど。
とすると、やっぱり、顔?
……ほら、田中おじさんが言うとおり、私って美人だし?
まぁ、田中おじさんのは冗談としても、今は亡きお母さんの血を引いているから、少なからず悪くはないはず。二重まぶたと、それに見合った開いた目、頬からあごのすっきりとしたラインはお母さん譲り。丸っこい鼻と、少し大きめの額は、残念ながらお父さんの血に汚された。
……お父さん、重ね重ねごめんなさい。
そういうわけで、お父さんの血が入っているのは不安材料だけれど、それでも平均点ぐらいはもらえるはずだ、きっと。
――一陣の夏の夜風が、私の思考を連れて行く。
……心の中とはいえ、今の一連の流れは空しかった。
何だろう……泣けてくる……ていうか、なんで私が思考のラビリンスに足を踏みこまなければいけないんだろう。
蟻地獄の方がたとえとしては適切だろうか。
もがけばもがくほど、引きずり込まれていく。蟻地獄は、英語で言うとアントライオン、何だが格好いい……いやいや、そういうことではなくて。
「もうすぐ閉店時間なんだから、さっさとしてよね」
我慢比べにしびれを切らしたのは私だった。
思考の迷宮に迷い込んだけれど、壁を突き破って一直線にゴールに飛び込んだ。くどくど考えるのは私の主義ではない。
野村悠が何しに来ようが関係ない。したいことがあるなら――バッティングセンターですることと言ったら一つしかないが――さっさとすればいい。
でなければ、帰れ。そうだ、早く帰ってしまえ。
管理室に戻ろうとする私は、大股で通路を行く。
「おい、鈴木」
「……」
まだ閉店時間までは三十分以上ある。
結局、いつもの時間まで待たなければいけない。
それから、戸締まりして、片付けして……。
「鈴木」
「……?」
聞き慣れない声がする。振り返るまでもない。低く渋めの声は野村悠の声だ。
意外にも、野球部らしくない低い声。
外国洋画で言うなら、二枚目俳優の吹き替えをしていそうだ。
ブラッド・ピットとか、ジャン=クロード・ヴァンダムとか。
ちなみに、浩輔だったらエディー・マーフィーとか。
……あ、全部同じ声優の人だった。
「聞こえないのか、鈴木」
バッティングセンターには他に誰もいないはずなのに、連呼される名前。
私はいぶかしがって、背後を振り返る。ゆっくりと歩いてくる野村悠に向かって、自分を指さしてみせた。
「鈴木……? も、もしかして、私?」
「……そうだ、鈴木。他に誰がいる?」
世界に亀裂が入る、という不思議な現象が実際に起こりうることを、今まさに私は体験していた。ガラスにヒビが入るが効果音だった。
「もしかしてわざとやってる?」
野村悠に負けず劣らず、低い声が出た。
自分を指さした指が震えていた。蛇足として付け加えるならば、肩も震えていた。
「何のことだ……鈴木?」
「み、耳の穴に何か詰まっているようですけど……?」
反射的に、眉と口角が痙攣していた。引きつったような愛想笑いを、私の最後の砦にする。
直情に流されない私は、きっと社会人としてやっていける。
やっていけるはず……。
「……それは俺の台詞だ。さっきから何度も呼んでる」
バッティングブースの外に置かれた傘立て。そこ刺さっていたバットを、伝説の剣さながらに引き抜いて、びしりと野村悠に突きつける。
「言っておくけど! 私は木村ですから! 木村綾!」
私の魂の叫びが、ネットを揺らす。
野村悠は眉一つ動かさず、平然としていた。
「……すまない、鈴木」
「あ、あのね……!」
うなだれると言うけれど、これはそんなレベルではない。
そう、落胆。絶望のたぐいだ。
半眼になって野村悠を見ると、野村悠はどこか無表情ながらも瞳の中に喜色を宿しているようだった。
もちろん、私の勝手な予想に過ぎないけれど。
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