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彼女の名前は

作者:小舘 霞
勢いで書きました。詰めが甘いところがあると思います……。
誤字脱字があったら教えてください!
「………様!」
背後で聞こえた声に、少女は振り返った。
そこには目を丸くした少年が立っていた。その後ろには従者と思われる壮年の男。
「誰、だ?」
それは当然の質問だった。ここに、彼女がいるはずはないのだから。
「この家の娘か?でも、具合が悪いから別邸にいるって……」
少年はまじまじと見つめ、それから顔を赤くした。
「……えっと、戻ってきたのか?」
少年は二、三歳歳上のようだった。少女は頷いた。彼が言っていることとは違う気がしたが、戻ってきたというのは間違いない。
「名前は?」
「え?」
聞き返すと少年はますます赤くなった。
「だ、だから……名前!お前の名前は?」
少女は驚いて彼を見た。名前など―――聞かれたことは一度もなかったのに。
でも、答えることは出来なかったから。
「教えない」
「!?なんでだよ!」
ふふっと少女は笑った。この人は自分に名前を聞いてくれた。だから。
「もう一度会えたら。もし万が一会えたら、教えてあげる」
その時は、きっと。


















その人は、鋭い眼差しで彼女の顔を見た。
ガラス細工の調度品にも、年代物の美酒にも目もくれず。
ただ、彼女だけを見ていた。
『私はお前が嫌いだ』
何の感情も無い冷えた声で。
それでいて、ひどく悲しげに見える双眸で。
『何もかも、好きにしていい。だから私に関わらないでくれ』

当たり前だと思った。
彼がそう言うのは当然。たとえ、盛大な結婚式の初夜であっても。何も知らない故の発言だとしても。
仕方がないのだ、何もかも。
だから話は終わったとばかりに部屋を出てていこうとする彼に。
可哀想なその人に。
「お心のままに」
そう、礼をとった。






リリアン・グラッドストーンと言えば、グラッドストーン家の一人娘にして贅沢で傲慢な伯爵令嬢だ。
社交界でも悪名高く、質のいい宝飾品を多量に身につけ好き放題していた。
身分の低い者を蔑ろにしやりたい放題する。それで言えば今回の結婚はその最たるものだ。一目惚れしたサミュエル・オクリーヴと結婚するために、彼女がしたことは非道だった。権力を使い、位の低い伯爵家の娘とサミュエルの婚約を無理やり破談にした。娘の家を潰れる寸前まて追いやったのだ。そして結婚を申し込み、反対したサミュエルの父を秘密裏に暗殺。誰が犯人かなど、分かりきったことであったが証拠がなかった。怯えたサミュエルの叔父はその話を受けた。その結果がこれだ。
彼女は部屋を与えられ、何でも好きしていいと言われている。サミュエルに関わる以外は。

ならば好きにしようではないか。

家令のバーナードを呼んだ。
「お呼びでしょうか」
バーナードは初老の上品な男性だ。白髪が目立つものの、まだまだ若々しい。穏やかな表情で彼女にも接してくれる。
「お願いがあるのだけど」
「何なりと。奥様」
サミュエルから頼まれているのだろう。なれた様子でそう言った。
だから彼女も安心して言った。

「馬を一頭貸してほしいの」
「は?」

怪訝な表情で聞き返された。
聞こえなかったのか、と彼女は考えた。少し声が小さかったかもしれない。
「馬を一頭貸してほしいの」
もう一度繰り返してもバーナードの顔はいぶかしげなままだ。彼女か首を傾げるとハッとしたように、
「申し訳ありません、すぐご用意します」
と足早に去っていった。






馬が用意されると彼女は簡素な服に着替え、飛び乗った。
「少し出掛けてくるから」
そう言うが早いか制止の声も聞かず走り出す。風に当たると今までの鬱々とした気分が晴れてきた。代わりに感じるのは高揚感。
馬に乗るのは随分久しぶりだ。こっそりと習って乗れるようになるまでかなりかかった。
大通りは目立つので裏道を抜けた。草の香りがする森の中道。ここには誰もいない。彼女は清々しく自由だった。どこまでも無心に駆け抜ける。
鳥と動物と、森自体と一体になったようだ。この森を駆け回り、溶け合えたならどんなに素敵だろうか。
名残惜しげに道を抜けると、目的地までもうすぐだった。






国立図書館は身分に関係なく解放されている。
壁全体に敷き詰められた無数の本。天井まで届くそれは、独特の匂いを発する。
彼女は迷わず目の前の棚に手を伸ばした。何でもいい。ただ、本が読めればいい。
次々に手に取り司書の前に置く。その量は両手に余るほど。手続きが済んだら四苦八苦して馬に積んだ。
それからというもの彼女は毎日、本を読み続けた。国立図書館に通いつめ本を借りる。次の日には全て読み終え、本を返しまた借りる。初めは止めていた使用人達もついに諦めた。サミュエルは元より何も言わない。会うこともなく、考えていることもわからない。ただ、いつもその繰り返し。






「本がお好きなんですね」
本を取ろうと背伸びをしていたら、後ろから声をかけられた。それと共に彼女の頭上を手が通りすぎる。
振り返えると美しい男がいた。貴族だろうか。洗練された身のこなしと、柔らかく甘い表情。サミュエルも端整な顔立ちだがもっと硬質な雰囲気だ。頭を下げてお礼を言うと、彼はふふっと笑った。
「いつもいらっしゃるから、気になって声をかけてしまいました。不躾でしたね。申し訳ありません」
そう言う彼は少しも悪いと思っていないようだった。だが腹は立たない。彼女にとってはどうでもいいことだし、なんとなく何でも許してしまいそうな何かが彼にはあるのだ。
「いいえ」
短く答えると、彼はランドルフと名乗った。ランドルフもここにはよく来ているらしい。
ふと、彼は思いついたように言った。
「貴女は貴族ですよね?供の者は?」
彼女はほんの少し驚いた。貴族にしてはひどく簡素な服を身につけ、分かりにくくしていたのに。
「私が何故貴族だと?」
夜会で顔を見られたのだろうか。だがリリアンの夜会での姿はひたすら派手だ。化粧も、服も、大違い。供すら付けず、本を積むのも誰の手も借りずに。
「簡単ですよ」
彼は微笑んだ。芸術品のようだ、と彼女は思う。
「貴女は高貴だ。神に身を捧げる修道女のように、国を守る女王のように。……いえ、これは“貴族だと思った理由”ではありませんね」
そうランドルフは言葉を切る。言葉を探すと言うよりは迷っているようだった。
「ただ、なんて貴女は必死なのだろうと思ったのですよ。それで何となく……本当に何となく貴族だろうと思い込んでいたのです」
「必死?」
彼女は聞き返す。自分のどこが必死なのだろう。彼は何を見てそう思うのだろう。何も自分はわからないのに、他人にはそう見えるのか。
「ええ、そうです。何かを願っているように見えます。幸せではないような……。実はそれが気になったから、声をかけたのです」
おかしな話だ。自分は今、幸せなはずなのに。彼女が黙ったのを見て慌てたのか、ランドルフは否定するように続ける。
「い、いえ、あくまで私の主観です。差し出がましいことを言ってしまいました」
ランドルフをじっと見つめた。それから そんなことはない、と首を横に振る。彼女は安心させるように微笑んだ。
「気にしないで下さい。それより、貴方も貴族では?貴方と同じ質問をしても?」
するとランドルフは驚いたように彼女を見返した。さっきの自分も同じ顔をしていたのかもしれない。
聞かれる前に、彼女は答えを言った。
「振る舞いが紳士的で上品だったので」
当たり障りの無いことを言うと、彼は予想通り釈然としない表情を浮かべた。
「というのは嘘で、靴が文官様のものだったので」
ふつう文官や騎士は決められた服装をしなければならない。それは位によっても違う。ランドルフは苦笑した。
「ああ、靴を変えるのを忘れていたようです。目が良いのですね。……それにしても、私は紳士的で上品ではありませんでしたか?」
ランドルフは彼女が“嘘”と言ったのを指してからかっているのだ。彼女は微笑んだまま首を傾げる。
「いいえ?そういう意味ではありません。ですが紳士的な方は女性に『幸せそうでない』とは言わないのでは?」
からかわれたお返しにとばかりにそう言うと、彼はあっ…と言うように口を開く。何か言い訳をしようと慌て出した。しかし彼女がくすくす笑っているのに気がついて、参ったなと言う。二人でしばらく笑いあった。
「お話が出来て楽しかったです。……また、声をかけても?」
笑いを収めてランドルフは聞いた。
「ええ、もちろん」
彼女がうなずいたのを見て、ランドルフは嬉しげな顔をした。






ある日、サミュエルが訪ねてきた。
真夜中の空気はねっとりと絡みつく。彼女はその時も寝台の上でいつものように本を読んでいた。
相も変わらず、その瞳には何も写していない。冷えきった双眸。なのになんて愛しいのだろう。
哀しい。嬉しい。自分でもよくわからない。ここに彼が来たということは、それは彼女の破滅を意味するのに。
それでも彼女は微笑んだ。初夜の日、突き放されたあの日のように。
「何を考えている?」
しかし彼から発せられたのは予想外の言葉だった。確かに、彼は自分を追い出すのだと思ったのに。
「一体、今度は何を企んでいるんだ?」
彼女が何も言わないからか。彼は苛立ったように近づいた。彼女は答えられない。何故なら、答えを持っていないから。
「毎日も使わず、夜会にも行かず、本ばかり読んで。何のつもりだ?」
もう一歩、サミュエルは近付いた。座っている彼女を見下ろす位置に彼はいた。
ようやく彼女はサミュエルが来た理由を知った。彼は不気味なのだ。何も問題を起こさない彼女が。今までリリアンがしてきたことを思えば当然だけれど。
「あの日も大人しくしていたな。お前は何を考えているんだ」
あの日とは初夜の日だ。あの日以来彼とは会っていないからすぐわかる。確かに本来なら癇癪でも起こしそうなところだろう。あんなことを言われれば。
罪悪感があるのか、と彼女は少し驚いた。今更その事を言ってくるのがいい証拠だ。何とも彼らしい。優しくて冷たくて自分勝手な彼。
「私は自分のしたいことをしているだけです。……何かお気に召さないことでもありましたでしょうか」
そう聞くとサミュエルは初めて表情を変えた。彼女を強く睨みつける。そのくせ震える声で囁いた。
「……では何の為に私に嫁いだのだ。私の婚約者を退け、父を殺してまで何の為に?」
サミュエルは彼女を見ていた。強く、何も見落とすまいというように。
彼女は微笑んだままだった。何も言わない。本当は何も聞きたくない。けれど彼の声を聞くのは好きだった。
ずっと彼を見てきた。彼の家の門は高くて入れなかったけど、声は聞こえた。楽しげな声、嬉しげな声、悲しげな声、怒った声。声は彼女の救いだった。まだサミュエルはいる。そこにいる。だから私も。
久しぶりに彼の姿を目にしたのは彼の家の、庭裏だった。夏にしては涼しい日、彼は父親と共に婚約者とその父に会っていた。
結婚するのか、と理解したときは悲しかった。それでも彼が幸せになれるのならと思った。でもどうしても辛くて、その日の夜は一人きりで泣いた。目が腫れて枕がびしょ濡れになっても涙は止まらなかった。
それを思えば今はなんて幸せなんだろう。形はどうであれ彼と同じ屋敷で暮らしているのだ。夫婦になったのだ。それは彼女が、夢にまで見たこと。
だから良いのだ。愛情までは望まない。後は、もう。
「…………答えないのか」
ふいにサミュエルの声質が変わった。ぞくりとするような。彼は腰を落とし、彼女の脇に片膝を置いた。
乱暴に彼女の両手を掴んだ。本が手から離れる。膝を滑って床に落ちた。彼は彼女を見つめたまま顔を歪める。
(…………ああ、どうして)

そんな悲しそうな顔をするの?

肩を押されて背中が寝台についた。柔らかい敷布が彼女を受け止める。救いたかった。自分が彼に救われたように。無理だとわかっていても。
「サミュエ……」
「私はお前が嫌いだ」
名を呼ぼうとしたら遮られた。焦点が会わなくなるほどに、顔が近づく。
だからと彼はかすれた声で言う。
すがるように、憎むように。
吐息だけで何かを囁いて。
彼女の唇に彼のそれが重なった。






起き上がると、空には既に日が昇っていた。ぼんやりとしたまま彼女は周りを見る。
誰もいない。彼が昨夜ここにいたことなど、夢だったように。
(……いっそ、夢なら良かったのに)
けれど、身体に残る鈍い痛みと敷布の鮮血がそれを裏切る。こんなはずではなかった。本当は……。
逃げないように、拒まないように。寝台に縫い止めるように強引に抱いたくせに、彼は乱暴ではなかった。やっぱり自分勝手に優しいのだ、彼は。
無理やりに乱暴だったなら諦めもついたのに。
不意に涙が零れた。口を押さえて堪える。そうだ、ランドルフの言った通り。彼女は必死だったのだ。幸せになりたかった。少しくらい彼に愛されたかった。愛情までは望まない、そんなものは嘘だ。誰よりも彼からの愛情を望んでいたのに。それを悟られまいと、ずっと必死だったのだ。
「…………ふっ……く……」
愛してる。だから、お願いだから。

私を愛して。

心の声は届かない。どこにも。誰にも。
涙が止まるまで、彼女は口を押さえ続けた。






それから彼女は図書館に通うのをやめた。朝からずっと窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めるだけ。運ばれた食事を食べ、夜になれば侍女に連れられ入浴を済ませる。そしてサミュエルの訪れを待つのだ。彼はあの日以来、毎晩訪れる。そしていつもお前が嫌いだと言うのだ。睦言の代わりに。
何ヵ月がすると彼女は徐々にやつれてきた。食も細い。それを心配した使用人達が様々なものを持ち寄るが、彼女は細くなる一方だった。
「奥様、隣国から取り寄せた果物です。どうか少しでも……」
バーナードが持ってきた果物を彼女は眺めた。艶やかな橙色。彼は果物の説明を始めた。その味は甘美でとろけるような味わいらしい。興味を持って、少しでも食べてもらおうと言うことだろう。
「“太陽の実”と呼ばれるそうですよ」
バーナードはそれからも説明を続けたが、聞いているはずなのに耳をすり抜けていくようだった。気がつくと彼はこちらを心配そうに見ていた。
「あ……ごめんなさい、少しぼんやりしてしまって」
取り繕うように微笑む。それでもバーナードの様子は変わらなかった。
「やはり、医者を読んだ方が」
「いいの。夏だから食欲が無いだけ。大したことないわ」
心配をかけてはいけない。彼らは彼らの仕事があるのだ。気丈に振る舞わなければ。
バーナードは静かに目を伏せた。
「……わかりました。けれど奥様、ご無理はなさいませんよう。旦那様もご心配です。この果物も、旦那様がわざわざご自分で取り寄せたものなのです。家にいる皆が心配しております。ですから」
訴えるような言葉に、彼女は胸を突かれた。そしてサミュエルの話にも。
彼は今、仕事で忙しいらしい。バーナードはそう言っていた。ここ数日会っていない。これからしばらくは会わないのだろう。
今度こそやって来るのだ。運命の時が。
(あの人らしい……)
それが愛情故でなくとも。義務感でも。
「ええ、わかったわ」
嬉しいと感じることが、間違いでも。






彼女はたまに図書館に通うようになった。ただ体力が戻らないので、馬車を使う。ランドルフにも何度か会った。
「ありがとう。あとは一人で大丈夫だから」
渋る従者にそう言い置いて、彼女は中に入る。
しかし、目的の棚に行く前に立ちくらみを起こした。
「……っ………」
目の奥がチカチカする。息を吸うのが難しくなったように、せわしない呼吸を繰返した。気持ち悪い。うずくまりそうになるのを堪えて椅子のある場所に移動しようとした。と、誰かに肩を抱かれる。
「大丈夫ですか!?」
ランドルフだ。彼女を椅子に座らせ背中を撫でる。少し落ち着いてくると、水を持ってきてくれた。
「ごめんなさい……本当にありがとうございます」
そうお礼を言うと彼は微笑んだ。
「いえ。最近具合が悪そうですが、大丈夫ですか?」
「ええ……」
曖昧に微笑みを返すとランドルフは顔をしかめた。珍しい表情に彼女は目を瞬いた。
「貴女の夫は何を考えているのです?妻が病気だと言うのに医者にも見せず」
この間医者には診察されていない、と答えたのを思い出した。あの時も彼は心配してくれていた。本当に良い青年だと思う。
「私がいいと言ったので……それに、私は病気ではありませんし」
「具合が悪いのは充分病気でしょう。本人が断っても、夫なら診察させるべきです。」
きっぱりと言い切ったランドルフに、彼女は戸惑う。サミュエルとは会わないから何ともいえない。会えても心配してくれるとは限らないけれど。使用人達は貴族である彼女に逆らえないから仕方ない。
「夫は今忙しいのです。私のことで迷惑はかけられませんから」
そう言うとランドルフは痛ましげに顔を歪めた。そっと彼女の手を握る。
「貴女は周りに気を使い過ぎです。……私ならそんな思いはさせないのに」
思わず彼女はランドルフを見た。ふと漏れたような言葉はどういう意味なのか。ランドルフは手を添えたまま、彼女を見つめ返す。
「私ならそんなことはさせない。私と共に生きてはくれませんか。貴女は今幸せですか?辛そうな顔をして、なのに……」
ランドルフは言い淀む。言葉に詰まった彼に、彼女は微笑みかけた。
慈愛に満ちた微笑み。覚悟を決めてしまえばなんてことはない。そう思うのも嘘なのかもしれないけれど。
でも強がるぐらい、いいじゃないか。
「お気遣い、ありがとうございます。……そうですね。夫は確かに私を嫌っています。きっと彼が一番嫌いなのは、この私でしょう」
「なら……」
ランドルフの気持ちは嬉しい。そんなふうに言ってくれるとは思わなかった。彼が何の為にここにいるのだとしても、心配してくれるのは嬉しい。でも。
「でも私はあの人を愛しています。だから私は幸せなのです。誰がなんと言おうと」






屋敷に戻るとバーナードがすぐにやって来た。
「旦那様が、今夜大事な話があるとおっしゃっていました」
「わかったわ」
ついに来たのだ。待ち望んだ運命の時が。
バーナードが下がると彼女は化粧台に向かった。まだサミュエルが来るまで時間がある。頬紅を乗せ、口紅を塗ったところで髪を整えた。
それから化粧台の下に手を伸ばす。板を外すと鍵穴が見えた。この化粧台は彼女の嫁入り道具。世界に二つとない代物だ。
首に下げた鍵をはずし、鍵穴に差し込んだ。開いた小さな扉から短剣が出てきた。そっと手に取る。短剣の刃先は透けるほどに鋭かった。
また鍵をかけて板を取り付けた。良くできているな、なんて思いながら。
ゆっくりと短剣を首もとに持ち上げた。切っ先が僅かに喉に当たる。
彼女の桃色の唇が囁いた。
「……ごめん、ね…………」
自分の魂の一番近く。誰よりも近い者へ。
こんなに世界は綺麗なのに。愛してるのに。
初めて彼女は死にたくないと思った。ここにいたい。やるべきことがあるのに。
涙が流れた。それでも微笑んだ。どんな生き方でも、幸せだったから。
そして、彼女は短剣を振り上げようとした。
バン、と扉が開く。首もとの短剣を降ろした。あの人だろうか。
サミュエルではなかった。
目の前の人は彼女を見て、顔をしかめた。
その人は口を開く。
「どうして貴女がここにいるの?」
その人は彼女に詰め寄った。
「いつまでもここにいないで。さっさと帰ったらどうなの?」
彼女は茫然と呟いた。
「……リリアン、様……」
つり上がった唇。傲慢で見下ろすような態度。 金色に輝く髪も、陶器のような白い肌も、長く揃った睫毛も、空色の瞳も。ひどく美しいその人は。
信じられないほど、彼女とそっくりだった。
「身代わりに関してはご苦労だったわ。あとは消えてちょうだい。サミュエル様や私のそばには一生現れないでね」
言いたいことだけ言って寝台に座る。水差しの水をグラスに注ぎ、口に含んだ。
「きちんと病気のふりをしていたのでしょうね?」
「…………はい」
リリアンは彼女が抜け駆けをしていないか聞いているのだ。今更、真実を話す気はない。一生知ることはないだろうから。
リリアン・グラッドストーンはグラッドストーン家の一人娘だ。
両親はリリアンを溺愛しており、どんな手を使っても彼女の望みを叶える。
けれど―――誰が思っただろうか。本当はリリアンは一人娘でなく、他に姉妹がいたなどと。
リリアンが生まれた時、グラッドストーン家ではお祭り騒ぎだった。その影でこっそり別邸へ連れられた娘がいたなんて。

双子。子供が生まれる際、一番疎まれる呪いの子。縁起が悪いと言うだけでなく、その家の滅亡を顕す。

殺してもその呪いは消えないと言う。ただ両親は迷信など信じない人間だ。だが双子か生まれたと知られれば、グラッドストーン家は終わりだ。だから隠した。そして妹を影武者として育て上げた。
両親は妹を居ないものとして扱ったのだ。リリアンも。それこそ“影”のように。
愛するリリアンを、守る道具として。
急に外が騒がしくなってきた。窓を見ると兵士達が向かってくるところだった。
彼女の判断は素早かった。
「リリアン様、隠れてください」
「え?なにが……」
「いいから速く!騎士が周りを取り囲んでいます」
衣裳部屋にリリアンを押し込んだ。戸惑うリリアンに早口で言う。
「私が捕まります。誰もいなくなったら逃げてください」
それと、と目を伏せた。
「……サミュエル様には見つからないように」
服でリリアンを隠し衣裳部屋を閉めた。それから彼女自身は寝台に座った。本を開いて文字を繰る。あの時みたいに。
リリアンの望みを両親は叶えた。しかし命を狙われたのだ。それが両親繋がりなのか、リリアン自身の私怨なのかはわからない。だがこのままではリリアンは殺されてしまうと両親は恐れた。リリアンを別邸へ、彼女を本邸へ。リリアンを守るために。別邸は誰にも知られぬ場所にある。
あの時もそうだった。父の政敵が一人娘を狙ったとき。結局父が証拠をでっち上げて追い落としたけど、身代わりにされたのだ。お陰で彼に会えたけど。
どうしてリリアンを守ろうとするんだろう、と自分でも思う。彼女が虐げられた原因なのに。リリアンがいなければ愛されたのは彼女だったかもしれないのに。
けれど彼女が生きてきた理由もまたリリアンなのだ。リリアンが好きな訳ではない。むしろ人としては好きになれない。それでもリリアンは彼女にとって特別だから。
扉が開いた。
「リリアン・グラッドストーンを殺人共犯の罪で連行する!」
高位の騎士が高らかに宣言する。リリアンは何もしていない。サミュエルの父を殺すよう命じたのは彼女の父だ。だが知ってはいた。それを止めなかったのは充分罪だろう。
縄につくべく前に出る。
その後ろの人を見て、彼女は笑った。
嬉しい。最後に会えた。
それに対してサミュエルは対称的だった。苦しそうに顔を歪めて。泣きそうな顔をして。
(本当にしょうがない人)
やっとの思いで証拠を集め、父の仇を打てるというのに。嫌いな彼女と別れられるのに。
ねえ、サミュエル様。貴方が私をもう一度見つけてくれたなら。……名前を教えても、良かったのだけど。
どうせあの時の少女をリリアンと勘違いしているんだろう。本当に本当に……愚かで可哀想な人。
リリアンのせいで父と未来の幸せを失い、彼女のせいで一生の罪悪感を抱える。
リリアンは逃げられるだろうか。微妙なところだろう。逃げられたとしても、今までの暮らしは望めない。願いを叶えてくれる人もいない。せいぜい苦しめばいい。そんな意地の悪いことを思う。
「参ります」
立ち上がるとまた立ち眩みがした。なんとか姿勢を正す。上品に、貴族らしく。
確かに自分達は、滅亡の呪い子だった。リリアンが望み、彼女が止めずに整えた滅亡への道。
「待て」
不意に彼が声を発した。大好きな声。
「そこに誰かいるのか」
彼女は目を見開いた。サミュエルは衣裳部屋を見ている。彼が近づくのを止めるように前に出た。
「私の部屋です。私の他には、誰も」
サミュエルは彼女を一瞥した。そして彼女を押し退ける。強くはない力で。
「罪人が、余計なことを話すな」
扉を開けた。すぐそこにリリアンはいた。服で隠したのに。様子が気になって覗いていたのだろう。だから気づかれた。
後ろで騎士達が息を呑む音がした。サミュエルの表情はわからない。リリアンは青ざめた。
しかしリリアンの変わり身は早かった。
「サミュエル様!私がリリアンでございます。この女が私のふりをして、サミュエル様の父上を殺すよう命じたのです!婚約者の方を襲そうよう言ったのも……」
ああ、この人は。
早口に捲し立てるリリアンは滑稽だった。いつまでも、自分が世界の中心だと信じて疑わない女の子。リリアンが何も言わなかったところで、彼女がやったということになるのだけれど。
強い目眩がした。気分が悪い。彼女は深く息を吐いた。
リリアンの言い分を黙って聞いていたサミュエルは、静かに頷いた。
「わかった」
表情を明るくするリリアン。だが続いた言葉に愕然とした。
「お前とグラッドストーン伯爵がやったことだと、よくわかった」
これにはリリアンだけでなく彼女も唖然とした。何がどうなっているのだ。
「サ、サミュエル様、何を……」
「私の元婚約者が男達に襲われたと、どうして知っている?令嬢としては不名誉なこと故、箝口令が敷かれていたというのに」
なんてことを。令嬢の件は初めて知った。女性にとって最も酷いやり方で、リリアンは令嬢を退けたのだ。
頭の芯がぼんやりとしてきた。でも、立っていなくてはいけない。
今度こそリリアンは真っ青になった。何か言い募るのが聞こえる。その声がどこか遠かった。
「おい?」
サミュエルが彼女に触れる。その感触を確かめる前に視界が暗転した。






昔の夢を見た。
父と母が笑ってる。リリアンも。三人の目には彼女は映っていない。
彼女が近づくと父はあからさまに嫌な顔をした。そんな顔をするなら呼ばなければいいのに。そのくせ父は、リリアンの身代わりをしろと当たり前のように言った。リリアンには少しの間我慢するんだよ、と優しく声をかけた。
リリアンが別邸に移り、彼女が本邸で暮らし始めた。リリアンの身代わりをしているとはいえ、彼女の扱いは変わらなかった。必要がある時以外は無視される。何もそこにないように。
彼女は辛いとすら思わなかった。いつものことだ。でも別邸に帰りたいと思わなかったのは、彼女なりに両親を愛していたから。愛されなくても役に立ちたかった。
客人が来たと聞いて、私も参りましょうかと言った。何も言わず頬を打たれた。お前ごときが出て、リリアンの評判に傷が付いたらどうすると怒鳴られた。
外に出ていろと言われたから庭に座り込んだ。ぼうっとしていたら誰かが来た。少年だ。その従者と思われる男も。大人同士の話に移ったのだろう。客人の息子だろうと当たりをつけた。
―――名前を聞いてくれた、ただそれだけのことだ。それでも彼女は彼に惹かれた。それだけのことが、彼女の壊れかけた心を救った。
それから二人は話をした。両親と客人が探しに来るまで。後から父に酷くぶたれた。身の程を知れと。あの方は誰ですかと聞いたらさらに怒鳴られた。けれどどうしても知りたくて、両親の会話に耳を済ませた。客人はグラッドストーン家より上位の伯爵だった。別邸に戻ってからはたまに抜け出して邸に行った。両親は彼女のことなど気に留めないから、都合が良かった。彼に会いたかった。でも無理だったから。ずっと飽きずに声を辿った。その声に救われ続けた。そんなふうに、彼女は生きてきた。






うっすらと目を開けると光りが差し込んでいた。そして、誰より愛しい人。
「サミュエル、様……?」
喉が痛い。ずっと寝ていたからか。ここはどこだろうと考えた。自分はどうして部屋で寝ているのだろう。
父は捕らえられ、リリアンも連行され。自分にも疑いはかかるはずだ。リリアンとそっくりな自分にも。いくらリリアンが決定的なことを言っても変わらない。証拠が有るにしろ、それは父の関与がわかるだけだ。リリアンは知っていただけで彼女がやったことだと言ってしまえば、どちらがやったかわからない。少なくとも二人一緒に連行され取り調べを受けるはずだ。そして父は彼女がやったことだと証言する。彼女は頷く。それで終わりのはずなのに。
「リリアン・グラッドストーンは自白した。グラッドストーン伯爵は処刑、彼女は一生牢暮らしだな」
彼女の考えを読み取ったようにサミュエルが言った。彼女は起き上がろうとした。しかし彼に阻まれる。
「……どうして」
「少しばかり脅したからな。自白すれば命だけは助けてやると言ったら簡単に吐いた」
娘の自白に、父もさすがに諦めたらしい。
身体中から力が抜けた。もう彼女の役目は終わったのだ。守りきることは出来ず、それでも死なせることはなく。
「ランドルフ様は……」
「図書館の、あの男か?……あいつが殺し屋だと知っていたのか」
ランドルフは殺し屋だった。わかっていた。初めて会ったときに調べた。彼はグラッドストーン伯爵によって没落した子爵家の息子だったのだ。一緒に来ないかと言ったのもその為だ。……だが気遣ってくれた。だから殺されてもいいと、思ったのだけど。
「お前には護衛を付けてある。優秀な護衛だ。あんな優男ごときには出し抜かれん」
それから、とサミュエルは言った。
「一度捕らえたが、何もしていないからな。お前が身代わりと知って謝っていた。田舎に行くらしい。その上で一緒に来ないかと言っていたぞ。断ったが」
きっと冗談だろう。よく冗談を言って彼女をからかっていたから。
そっと、サミュエルは彼女の手を握った。
「……死のうとしたのか」
そう聞かれて、顔を上げた。怒ったように睨んでいた。あの短剣を見たのだろう。
「どうして言わなかった。リリアン嬢のことも……子供のことも」
彼女は自然と微笑んでいた。リリアンのことを言わなかったのは、自分の為だ。彼がグラッドストーン家を追い詰めようとしていたのは知っていた。それがここしばらく、出払っていた訳だ。彼にはそれだけの理由がある。だがリリアンを守ることは彼女の存在理由だった。間違っていようが彼女に原因があろうが。自分からそれを捨てられなかった。でもそれは彼には伝わらないだろう。彼女にしかわからないことだから。
彼女は手を腹部に置いた。
「この子は私の子です。私と生き、私と死ぬ。それが残酷なことだとわかっています。それでも」
どうせ死ぬ運命。なら自決した方がましだった。自分の手で。リリアンが戻ってくるのが思ったより早くて、予定が狂ったけど。
それに、子供のことを知ったらサミュエルの罪悪感は増すだろう。 助けようとするかもしれない。それでは駄目だ。ここで彼女は死ななければ。だからこの子も一緒に。
産んであげられなくてごめんなさい。
世界を見せてあげられなくてごめんなさい。
そう懺悔して死のうとした。
「お願いだから」
サミュエルは顔を彼女の肩に押し付けた。くぐもった声が泣いているように聞こえるのは……気のせいではないのだろう。
「私を一人にしないでくれ。生きてくれ。お願いだから……」
「サ……」
「愛してる」
突然の言葉に、瞠目した。
欲していた言葉のはずなのに現実味がなかった。夢の続きを見ているみたいに。
「ずっと好きだった。初めて会ったときから。でも変わってしまったんだと思った」
グラッドストーン家の令嬢がやったこと。それは誰から見ても間違いではなかった。そこまでして嫁いできた少女は、彼に無関心で。ただ静かに本を読んでいた。
「勝手に思い込んで、酷いことをした。それでも私はっ……」
彼の手を握り返した。驚いたように、顔を上げて彼女を見る。
我が儘で自分勝手で臆病な人だ。何度も何度もそう思う。馬鹿みたいに迷って、悩んできたんだろう。それでも。
優しい人。
「好き」
貴方が好き。誰より愛してる。
「約束、覚えていますか?」
もしかしたら彼女の名前を父から聞いているかもしれない。でも約束だから。
サミュエルは頷いた。
「名前を、教えてくれ。お前の名前は?」
幼いあの日をなぞるように。やっとここに戻ってきたのだ。そんな気がした。
「……リリーです。リリー・グラッドストーン。それが私の、名前です」
両親からすら呼ばれたことはない。教えられて、ずっと覚えていただけ。
「リリー」
愛しい人にそう呼ばれて、リリーは本当に嬉しそうに笑った。














オクリーヴ家と言えば、誰もが知っているだろう。
国が大国に呑み込まれるその時まで、王家に仕えた忠義の家。大国の皇帝もさすがは忠臣オクリーヴ家と、称えたという。
その時の当主は後に大国に仕え、国民が大国民と同等に扱われるよう尽力した。
とはいえ、オクリーヴ家が忠義者として有名なのはそれが理由ではない。
サミュエル・オクリーヴは長年宰相として国に仕え、多くの功績を残した。その長女は王妃として宮殿に上がった。しかし夫である国王は三年で崩御。王子が成人するまでの十三年間、摂政となり、弟の大将軍と共に良政を行った。
史実では主にこの三人のことについて多く載っているが、民間で有名なのはリリー・オクリーヴだろう。
不遇な幼少期を過ごし、姉の身代わりとしてサミュエルに嫁いだ。家はしばらくして没落。しかし夫サミュエルは一生涯彼女一人を愛し、リリーも夫を支えた。亡くなった夫の代わりに子供たちに助言をし、控えめながら二人を助けた。良妻賢母として、また理想の女性として語られている。
後年、彼女の娘は「聡明で心優しい人だった」と語る。さらに「母がいなければ王妃、王太后としての自分はなかった」とも。
誰にも呼ばれることのなかったその名は、今現在でも親しみを込めて呼ばれている。



リリー。リリー・オクリーヴと。

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